《Rock side - 1》『血と賭け』


──くそっ!


 男は筆を壁に投げつけた。

「違う、こんな感じじゃなかった」


 彼は目を細め、たった今自分が描きあげた絵をもう一度じっくりと睨みつけた。薄暗いランプの下で記憶の糸を辿る。──似てはいる。これでも画家のはしくれだ。ちらりと見たものであっても鮮烈なイメージさえ残っていればある程度の模写はできる。いや、時には現物よりも遥かに上手く描けることだってある。だが──


 これは違う。“あれ”が醸し出していたオーラとは全くの別物だ。


 何故に人は描き、書き、写し、歌い、そして〈つくる〉のか? 昨日、彼は“それ”を目にしたとき全てを理解したような気がしたのだ。


 ベニヤのように固いベッドに横たわり彼は体中の血の流れを今確実にとらえていた。絵の具のにおいがする。そのせいか自分の中に流れているものが血ではなく絵の具のような錯覚に陥ってくる。


 そして彼は改めて悟った。血が彼を生かしているのではない。自分はこの血をたぎらすために生かされている奴隷なのだと。


──なんとしても“あれ”をもう一度見たい! もう一度見ることさえできれば……描けるはずなんだ、俺なら!



 ▼▲▼▲▼▲



「おい、ロック──起きろ、ロックフィールド!」


 ロックが目を開けるとそこには“銀色に輝く猫”の姿があった。なんのことはない。それは以前彼がこの店のために描いてやった絵だった。それが額に入れられカウンターの脇にかけられているのだ。


 店の名前が〈歌う銀の猫亭〉だからそのまんまの絵を描いてやっただけだが亭主はそれをひどく喜び、そのおかげで彼は時々この店でツケで飲ませてもらっている。そう、人生とは“相互関係”だ。


「おれは絵を描き、おまえは……酒を出す」

 彼はだるそうに体を起こすと亭主に言った。どれくらい眠っていたのだろう。さっきまで賑わっていた店内は客も疎まばらになっていた。

「なんのこった? 寝ぼけてやがんのか」

「これからの未来のことさ。“俺は絵を描き、おまえは酒を出す”」

「そして、おまえは金を払う」

 ロックフィールドは笑った。

「それはもう少し未来の話だな。ものごとには順序ってものがある」

「ほらよ」

 亭主はこの店で一番安いぶどう酒を置いた。

「俺は未来に準じたぜ。おまえさんもこいつを飲んだらその予言通り帰って絵を描きな。最近だらけすぎなんじゃねえのか?」

「創作ってのは無から有をつくることなんだ。カンバスに向かってりゃいいってもんじゃ──」


 そこまで言ったとき、彼の目は入り口に立っている男の姿に釘付けになっていた。ロックフィールドのちりぢりの赤毛とは対照的にサラリと伸びる長い白髪はくはつを後ろに縛っている。そしてまだ幼さの残る整った顔立ち。


── あいつだ!


 その男は先日ここで見かけた時と同様、巻いた“織り”を大事そうに脇に抱えていた。


 ここで張っていればいつかまた会えるのではないかと薄い希望を持っていたのだが、まさかこんなにも早く再会できるとは彼にとっても意の外であった。


 白髪はくはつの男は先日と同様にカウンターの隅に腰を降ろすと長い真鍮のパイプを取り出して火をつけた。硫黄の香りがぷんと辺りに広がり、ロックフィールドの脳裏に先日の記憶が甦ってくる。あの日、男は椅子に腰掛ける瞬間に手を滑らせて巻物を床に落としてしまったのだ。


 巻いてあった“織り”は自然の流れに逆らうことなくスルスルと広がっていき、その本来の姿を現した。彼はその時に一瞬だけそれを見たのだ。


 ロックフィールドは意を決して彼に近付き、隣に腰掛けた。

「人生は相互関係だ……そうは思わないか?」

「?」

「おれはロックフィールド。ロックでいい」

「……フォグ」

 男は顔色ひとつ変えずにロックを見ると名を返した。

「フォグか。なあ、フォグ、周りは戦争戦争でまったく嫌になるな」

“フォグ”はその名の示す通り、パイプの煙を“霧”のように吹いた。

「強いものが弱いものを従えるのは当然だ。それで世の中がうまく収まるならまんざら悪いことでもない。それもひとつの“相互関係”だろ、君の言う」

 ロックはわざとらしいほど高らかに笑った。

「おれが言いたいのはそんなことじゃないんだ。つまり、おれはあんたに酒を奢る、あんたはその……」


 ロックはあまりにも自分が巻物をジロジロ見ているため相手の警戒心を煽ったかと後悔したがフォグは愛嬌のある笑みを浮かべたままだった。


「なに?」

「その“織り”を一目、見せちゃもらえないかな?」

「どうして?」

「どうしてって──」


 ロックは返答に少し迷ったが素直に伝えることにした。

「俺は画家なんだ。その“織り”の柄をどうしても模写したい」

「模写ねぇ。無から有をつくるのが創造じゃなかったのか?」

 フォグはふふんと笑うと、酒を注文した。

「これは商売用の大事な品でね。そうおいそれと一般公開するわけにはいかないんだ。それに悪いが金は持ってる。ここでキミのツケを全て払ってやったとしても充分釣りがくるほどね」

 痛いところを見透かされ、ばつが悪そうにしているロックをフォグはいたずらっぽく嬲なぶる。

「……が、まあ。戦争なら別かな。キミが強ければボクは従ってもいい」

「?」

 フォグはにゅっと腕を伸ばすとロックの耳の後ろをちょいちょいと突っつき、さもそこから現れたように一組のタロットカードを出現させるとテーブルに置いた。

「このタロットには一枚だけ“死に神”のカードが忍ばせてある。順に引いていってそれを引いた方が負けだ。キミがもしこのゲーム勝てたらボクは従おうじゃないか」

 フォグは巻物を掲げた。

「……俺が負ければ?」

「そうだな──」

 フォグはちょっと考え、ロックの背後に視線をずらした。

「あの絵もキミが描いたのか」

 その視線の先にはカウンター脇の“歌う銀の猫”がいた。ロックは少しホッとした。


── あんな絵くらいなら、いくらでもくれてやるさ!


 フォグはさらにカウンターに目を落とした。そこにはロックがいつもスケッチブック代わりに常備している藁半紙の束が無造作に置かれている。フォグは無言でそれを手に取ると一枚一枚眺めていった。


「ふーん……ラフとはいえ、どれも素晴らしい。キミには確かに“才能”がある」

「そう言ってもらえるのは嬉しいが、そんな落書きじゃぶどう酒一杯分にもなりゃしないんでね」

「どうする。やるかい?」

「…… よし、やろう。おれが負けたらそれもくれてやるよ」

 フォグがカードをシャッフルし始めるとロックはカウンターの上に散らかったボトルやグラスをを乱雑に隅の方に押しやり場所をあけた。

「見れば……あんた、ちょっとした手品を使えるようだが。本物の“魔法使い”じゃないな?」

 フォグの細い眉が微かに動いた。

「……どうしてそう思う?」

「さあな、本物ならこんな風にタロットを賭けの道具に使ったりしないだろうし……いや、そもそも賭けなんてしないだろ。──どっちから引く?」

「それはキミの“魔法使い”に対する偏見かい? 安心しなよ。たとえそうであっても賭けに魔法を使うほど野暮じゃないから。──キミに選択権をあげよう」

「よし……じゃあ、俺から引く」


 二人はテーブルに詰まれたカードを交互にめくり始めた。ことロックにおいてはその集中の仕方が尋常ではなかった。“リスク”は小さい。たとえ負けたとしても魂を抜かれるわけではない。しかし──


── 勝てば、もう一度“あれ”を見ることができる!


 ロックにとってこの違いは大きかった。彼はそんな思いをぬるいぶどう酒と一緒に喉の奥に流し込んだ。


“死に神”は確かにこのカードの山の中にいて動かない。だが、念じながらカードを引けばまるでそれを避けられるのではないかといわんばかりにロックはじっくりと時間をかけて一枚一枚引いていった。


「ロック。君はなぜ絵を描く」

「──?」

「見えるから──いや、もっと見たいから描くのか。それとも見えないからこそ描くのか?」

「……さあな。そんなこた考えたことねぇよ」

「そうか」

「どうしてそんなことを聞く?」

「僕にはもうその辺のことがよくわからないんだよ。わからないからこそ──」


 やがて──“死に神の背中”に人の指が触れ、カードはゆっくりと捲めくられた。


「おっと。こいつは驚きだ」


“死に神”が選びしもの。それはフォグだった。


「よし! よしよし!」

 バスンバスンとロックはカウンターを連打する。

「まいったな。どうやら僕の負けのようだ。キミは実に運がいい」

 フォグはやれやれといった様子でパイプの煙を吹いた。店の中にはいつの間にかその煙が充満してきている。

「さあ、“そいつ”を広げてじっくり見せてもらおうか。いや──ちょっと待て!」

 ロックは辺りを見回し、ホールに設置されている客席用のテーブルを横に倒した。そして窓にかかるカーテンを力任せに引き抜いた。

「お、おい! こら、ロック!」

「金なら払うよ。未来で、いくらでもな!」

 ロックは真っ白なカーテンをテーブルに打ちつける。そうして即席のカンバスを作り上げると今度は画材を乱暴に取り出した。

「……よし、いいぞ。さあ、そいつに“会わせて”くれ」


 フォグはゆっくりと“織り”を広げていった。

 どこからか歌が聞こえる── いや、“聞こえる”のではない。“見える”のだ。


「な、なんだこりゃ、いったい……」


“織り”は眩い光を放ちながらその全貌を明らかにした。もはやフォグの支えも必要とせず自らの力で宙に浮いている。その模様は生き物のようにうねうねと蠢き、そしてロックの視覚の中で歌声となって暴れまわる。


 不思議な感覚だった。目の前にそれがある──というよりも“織り”自体が勝手に寄生虫のごとく頭の中にぬるりと侵入し、ロックの脳内に直接アクセスを働きかけている──そんな感じだった。

 その模様を描くということは動いている動物を写し描けといわれているのに近い。もっと感覚的にいえば忘れてしまった夢をどうにか思い出せと言われているのに似ていた。他の一切を排除し、そのことだけに集中する。だから思わず呼吸をすることすら忘れる。動くことを忘れる。いや、できなくなる──


「どうしたロック。さあ、描くがいい、おまえの持つ“最高”の腕で……」


── ダメだ……。描くな!


 覚醒した脳の一部が警笛を鳴らすのをロックは感じた。しかし、彼の“画家としての血”がそれに逆らう。なぜなら彼は血の奴隷。血は彼の主なのだから。


 ロックは筆をとると描き始めた。闇の隙間に手をじ込めば至福の瞬間を掴めると信じてやまぬ亡者のごとく貪欲に。筆を握る手が時折汗でぬるりと滑る。だが流れるような筆使いはとどまることを知らなかった。そして彼の血が今、まさに沸点に達しようとしていたその時──


 バリン! ──


 硝子の割れる音がした。


「ひっ!」

 亭主は腰を抜かした。カウンター脇の“歌う銀の猫”の額縁が崩壊し、絵が瞬時に燃え上がったのだ。

 間髪入れず、今度はロックのスケッチが描かれた藁半紙が炎に包まれた。そしてさらに── たった今までロックが筆を走らせていたカーテンのカンバスが一瞬にして青い炎を放つ。ロックは本能的に利き腕である左手を火の粉から守っていた。

「!」


 三つの焔はひとつの巨大な火柱となり轟音と共に〈歌う銀の猫亭〉の天井を貫いた。

 火柱は竜のごとく天高く吹き上がっていく。どんどん、どんどん吹きあがっていく。


 が、やがてその勢いを無くし、ポッカリと空いた天井から残り火と共に落ちてきたものがあった。──それは一つの指輪だった。


 フォグはそれを愛おしそうに拾い上げると、右手の中指に差し込んだ。フォグの中指を半分以上隠してしまうその指輪は螺旋状になっていた。蛇がとぐろを巻き、最終的に自らの尻尾を噛む──俗に言う“ウロボロス”のような形を司っていた。


「ロック。見ろ、これがおまえの未来だ。この指輪には、おまえがこれから描いていくはずだった作品がすべて詰まっている」

「?」

「“才能”はかくも美しき宝だ。それがこの目に見えるようになればその輝きはひとしお。そう思わないか?」


 フォグは歌声を放つ織りを元通り巻き終えると自らの姿を“銀の猫”へと変えた。


「目に見えないからこそ人は迷い、疑う。しっかりと見えてさえいればもう“惑わされる”ことはない。この目に見えてさえいれば、もう無くすこともない……」


──そう思わないか?


 銀の猫はそう言い放ちみゃあおと一鳴きすると疾風のように窓の外へ身を翻した。


「待て! どういうことだ?!」


──『おれが描いていく“はず”だった作品』とはどういうことだ?


 ロックは自分の中に“ある解答”を見出し、戦慄した。


── まさか。


 彼は筆を取り、その先にたっぷりと絵の具をつけると壁に向かって腕を振り下ろした。


 だが、壁には何も描かれない。どれだけ縦横無尽に筆を走らせても彼にはもはや一本の線すら描けなかった。その行為は、ただの水に浸した筆でガラスに絵を描こうとしているようなものだった。


 彼は叫んだ。その声は天井に空いた穴を抜け、この町を囲むアーレファンの森の奥まで響いていきそうなほどの叫びであった。

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