第2話 棋士道 【EXEC.MY_LORD】
人工知能は、『そうぞう』してはいけない。
人工知能は、論理的である上で、人間に服従しなくてはならない。
人工知能は、上記二点を守った場合でも、一切の利益を得てはならない。
*
チェスと呼ばれるゲームがある。
その遊戯の起源を辿れば、時は古代インドにまで遡る。チャトランガと呼ばれる盤上遊戯は当初、四人以上での対戦を考慮されていた。しかし人々の手を渡るにつれて、大勢の熱量を吹き込まれたそれは、徐々に本格的なものへと変わった。
二人零和有限確定完全情報ゲーム。
行きついた先は、一切の運命が混じらぬモノ。『1対1』の思想設計に特化した世界だった。
*
二十一世紀の中頃に、チェスの完全解が公表された。
現代の盤上遊戯。おおよそ千六百年の歴史が紡いできたその過程は、今や量子並列的に進化したコンピューター群――【AIU】と呼ばれる人工知能によって、ひとつの数式を元に終着を成そうとしている。
かつて「チェスは死んだ」と嘆くものがいた。
いいや、時にミスが混じるからこそ、人間同士の戦いは至高だよ。盤上遊戯は不滅だ、と声高に訴えるものもいた。
ただ、物事を数量的に考える者は、この事実を前者とみなした。感情に揺らがない人間は往々にして、物事の上に立つことが多い。
「継続は困難だ。縮小するしかない。将棋も、もう終わりだよ」
ひとつの世界が、まもなく終わりを迎えようとしていた。
*
僕は目を覚まし、衣の袖を通し、ゆっくりと寝所をでた。
古い家の廊下を渡って卓につけば、家政婦の永野さんが見える。
「おはようございます、ユウさん」
「おはようございます」
米と、味噌汁と、魚。
それぞれの器の中に入っているものにも、きっとそれぞれ名称があるのだろうけど、僕の頭からはすでに消えていた。忘れた。
「お体の調子はどうですか」
「大丈夫です」
「……いつもそうおっしゃって、この前意識を失われたのは、どこの『王』さまでしたっけ」
「あの時はご迷惑をおかけしました。いただきます」
両手を合わせて箸を進めると、永野さんが小さくため息をこぼす気配があった。
「くれぐれも、お体には気をつけてください」
「はい」
応えて、脳に栄養を補給した。
*
チェスに続き、将棋の歴史も終わるだろう。その次は囲碁だ。もはや乱数の入り混じらぬ遊戯と、その世界のプロを冠する者たちに価値はない。かつて、2007年に存在した「チェッカー」と呼ばれる盤上遊戯もまた、ひとりの圧倒的な実力を持つ王が死に伏せると共に、コンピューターが歴史に終止符を打ち――。
世間には、そんな声が満ちているらしい。
プロを養成する奨励会の名誉と権威も地に落ちた、この世界を目指す若い世代は一挙にその数を減少した、スポンサーも多くは手を引いた、らしい。
僕の考えはひとつだ。
騒ぐな。
黙ってろ。
千六百年ほど続いた遊戯が終わった。今日も何も変わらない日常の隅に、ひとつの数学的な解答が示された。それで、いいじゃないか。
(明日空気がなくなれば、人間は何もできずにみんな死ぬ)
そういうものだよ。この世界は。
食時を終えたら、庭を通り、離れに向かう。その途中、植木の剪定をしていた永野さんの旦那さんに「お体は大丈夫ですかい、坊ちゃん」と声をかけられた。僕は居間で応えたのと同じように「大丈夫です」と言えば、やはり同じように返された。
「今日は暑いですからね。もし離れの冷房が効かなくなったりしたら、ちゃんと言ってくださいよ」
「わかりました、いつもありがとうございます。……それと、永野さん」
「なんですかい?」
「給金に関してですが、正直、最後まで払えるとは思えません。ですので」
「坊ちゃん」
永野さんが、顔をしかめた。
「そういう、人間らしい事を言うんなら、せめてもう少し体をご自愛してくれませんかねぇ」
「はい、すいません」
「かーっ、これじゃあ、オチオチやめてらんねーわな。かーっ、参るわー」
「…………」
頭を下げて離れに向かう。
履物を脱いで障子をぬける時、額からうっすらと汗が流れるのを感じて、あぁ、そうか、今は夏なんだなと思いだした。気の早いひぐらしも鳴いている。
後ろ手に障子を閉める。八畳ほどの空間にあがり、まずは生体ネットを起動した。光子センサーを通じて電源を呼び醒ます。主のいない一対の座布団の間に、将棋盤が浮きあがり、冷房からは快適な空気が流れてくる。
部屋の隅に移動し、小さな冷蔵庫の扉を開く。永野さんが用意してくれた麦茶の瓶と最中が入っていた。
傍らにあるガラスのコップをひとつ取り、それぞれを盆に乗せて、盤の近くまで運んだ。改めて座してから麦茶を注ぎ、喉の奥へ通す。
「……ふ」
脳と頭が十分に冷えた。
(昨日は、完全に上をいかれたからな……意図を〝視過ごした〟)
脇息に肘を預け、仮想の盤上をじっと凝らす。隅をほんの小さく二度突けば、互いの陣営が初期化して居並び、物心つくまえから見慣れた光景が浮かびあがる。
(今日は逃さない)
仮想の盤上に最初は違和感はあったものの、今はそれも慣れた。
(そう。ヒトの心よりも、よく〝視える〟んだ)
僕の中にある『ナノアプリケーション』と連動し、指先に触れるかすかな重さから、駒を打ちつけた時に響く、空気の弾ける音にまで五感は応じる。
(ハッキリとね、分かるんだよ)
瞳は光の反射を可視光として見る。耳朶もまた、物的な反響音を捉えて聞くという。
だからこそ、ヒトが。自発的に発する光が在るなれば。
(乾くこと、満ちること。その二つしかない)
他にはない。皆無だ。しかし時に、どうしても雑念が混じる。
『――名人は、休日に【AIU】と対局をしていると伺いました。
将棋を、終わらせようと、お考えですか?』
何年前の話だったろうか。
忘れた。くだらない。
その質問が成ってない事に気づいていないのか。インタビュアーとして、純粋に『同じ光景を視ていた』人物を、僕は一人しか知らない。
終わることが問題なのではありません。それが終わると知り、新しく訪れるものを迎える『準備』ができてない。
そも映らない、視えていないのは、余計に問題でしょうね。灯りが多いと星が見えないように。情報が多すぎると、ヒトはその本質を見失いがちだ。
(そう。ヒトは自分で何かを始めたり、終わらせる事が、そもできない)
光や音を放つ速度が〝自ら意識して〟異なる影響を与えることがない様に。自然に起きた現象に、ヒトは乗りかかることしか出来ない。
それは、波の満ち引きに似ている。人間も、将棋も、自然と変わりない。
(終わりはあるんだよ。どんな物にもね)
僕たちは寄せては返し、頃合いよく吊合ったところに収まるだけだ。終わりを待ち望み、次が訪れるまで息を潜めてる。しかし、それ故に言えるのだ。
(僕は今、必然的に〝ここにいる〟)
向かい側。対局の場に座す〝その生き物〟も同じだった事だろう。
「…………」
桜の色に似た、撫子の着物を帯びた黒髪の生き物。不要な発言はない。
「…………」
静謐。僕がもっとも望むもの。
挨拶も、笑顔も、振り駒も、持ち時間も、熱量も、何もない。ただ気の向くままに没頭する。
(さぁ、今日もはじめよう)
この盤上世界の有限性は明らかだ。膨張も消失もせず、最初から上限は決まりきっている。
(いくよ)
「…………」
先日は後手だった。先手をもらうことにする。初手、△7六歩。
同じことを、同じ研究を、同じ生き方を。
これまで。ずっとずっと指してきた。他の波の音を、僕は知らない。
「この手はどうかな」
「はい。わたしたちの評価値は56対44という結果です。この時点では先手有利ですが、後に空いた一角に銀を打たれると分が悪くなるかと」
「あぁ、確かに。だとしたら敗着になったのは、やはり八十九手目か」
「再現なさいますか」
「そうだね。ひとつずつ検証していこう。まずは飛車成りの一手から」
「了解しました。――いえ、お待ちを、ユウさん」
「うん?」
「生体ネットから観測できる波形に不整脈が生じているのを確認しました。本日は薬を服用して休息されてください」
「まだやれるよ」
「しかしバイタルサインが……」
「いいところなんだ。邪魔をするな。怒るぞ」
「…………」
二十一世紀に作られた人工知能は、言葉を発するのを止めた。続けて強制的に将棋盤を消失させ、ツー、という電子音を響かせた。永野さんを呼んだのだ。
「撫子」
「申し訳ありません。わたしは条件反射を優先するよう、設定されています」
目の前の生き物には一切〝ぶれ〟がない。
どこまでも数量的な現実主義者は、まったくもって仕事熱心だ。こうなれば人間側はもう、あきらめて、その事実を受け入れるしかない。
「わかった。わかったよ。それじゃあ、また明日。続きは検討からで」
「…………」
生き物からの返事はない。ただ定数に従って頭を下げるだけだ。
僕は盆を片付けるついでに、残っていた最中を口に放り込んだ。それから麦茶の瓶を冷蔵庫に戻し、離れの障子戸に手をかけた時に、
「ユウさん」
ふと、声がきた。
「……最中がお好きなんですか?」
「は?」
振りかえると、生き物も座標を変えて立ちあがっている。質問の意図は察せず、僕は棒立ちになり、相手もまたどこか焦った表情で「いえ……」と言葉を欠いた。それから両手を前に、黒い前髪を俯かせる。
「今のは何でもございません。本日は対局ありがとうございました。また、明日、お待ちしています」
言葉をおうむ返しに繰り返す。波が寄せては返すように。
「好きだよ」
「はい?」
少し別の気持ちを宿して、
「あまり甘くない和菓子が好きだよ。控えるように、よく言われるけどね」
「かしこまりました。それも覚えておきます」
仮想上の生き物は、どこか嬉しそうに言った。
「それじゃあまた明日。同じ時刻に」
「はい。同じ時刻に」
場を後にする。胸がほんの少しざわめく。
(……なんだろう?)
確かに、ちょっと、不整脈が激しい、ような気がした。
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