エルフ、魔力を使って怪物と闘い、怪物、毒を使ってエルフと闘う。(後編)

1、ヴェルクゴン


(間合いをとらなければ……)

 潜冥蠍せんめいかつの神経毒に侵されたスュンの体をかかえて、右耳にかけられた溶解液が引き起こす炎症の激痛に耐えながら、ヴェルクゴンは木々の間をうように低空浮遊移動した。

 敵の口から噴射される溶解液の射程範囲外に辿たどり着く。

 潜冥蠍せんめいかつの方へ体を反転させ、と脱力したスュンを地面に横たえた。

 スュンのうつろな目がヴェルクゴンを見上げている。朦朧もうろうとしつつも、視線は確かにヴェルクゴンの顔に向けられていた。

(何とか、意識は保っているのか……)

 その瞬間、右耳から発した激痛が神経を走り、ヴェルクゴンの脳を痺れさせた。

 くいしばった歯の間から思わずうめき声が漏れた。

 耳の皮膚から体内に浸透する毒液の量が徐々に増えている。炎症が進行している。それに比例して痛みが増していく。

 全身の毛穴から脂汗が吹き出た。もはや耐えるのに精一杯で、一瞬たりとも魔法に集中できなくなっていた。

 ヴェルクゴンは、激痛に耐えながら潜冥蠍せんめいかつの方へ顔を上げた。

(このままでは……)

 潜冥蠍せんめいかつはヴェルクゴンの放った「光る魔法の蛇」に全ての捕食脚を拘束され、移動脚のうち二本を失って身動きが取れない。

 しかし、動けないのはエルフたちも同じだ。

 全身麻酔をかけられたスュンはもちろんだが、ヴェルクゴン自身も、ここまで飛んでくるのがやっとだった。再び浮遊魔法に精神を集中させることは不可能だ。

 ……いや、浮遊魔法だけではない。

 全ての魔法を封じられたと言って良い。

(やつの唾液が右耳にほんの少しかかっただけだというのに……)

 ただそれだけで、最強の魔法種族であるダーク・エルフの自分にこれほどの苦痛を与え、集中力を奪い、魔法を封じるとは……

 唯一、液をかけられる前にはなっておいた「魔法の蛇」達だけが、どうにか魔力を失わずに敵を拘束し続けている。

 蛇を放つ前、その内部にあらかじめ充填しておいた魔力と、ヴェルクゴンの命令が無くとも単純動作をこなすように仕込んでおいた自立運動魔法のおかげだ。

 しかし、少しずつだが、状況はエルフたちに不利な方向へと向かっていた。

「魔法の蛇」の力が徐々に弱まっている。

 ヴェルクゴンが蛇たちに魔力を再供給できなけば、その内部に蓄えられた力もいずれ消費され、枯渇する。

 そうなれば、自由を取り戻した潜冥蠍せんめいかつは、残された四本足で這いながら、確実に、ヴェルクゴンとスュンのいる場所にやって来るだろう。

 潜冥蠍せんめいかつが何よりも好むのはエルフの脳髄……そんな話を聞いたことがあった。

 万にひとつも、見逃してくれるはずがない。

 そしてエルフたちには、もはやあらがうすべがない。逃げることも出来ない。

(スュンの全身は神経毒で麻痺し、意識も混濁しているようだ……私も、この激痛では魔法に集中できん……なんというザマか)

 ……逃げるか……

 激痛に冒されたヴェルクゴンの脳裏に、ふと、そんな考えがよぎった。

 浮遊魔法が使えなければ、二本の足で逃げれば良い。

 痛みで走れないのなら、歩いてでも、這ってでも……

「魔法の蛇」たちは、まだ、もうしばらくは潜冥蠍せんめいかつ足止あしどめしてくれるだろう。

 たとえ、蛇たちが完全に魔力を失って消滅したとしても、ここにはスュンが横たわっている。

 スュンを置き去りにすれば、ヤツは、まず彼女を餌食にするはずだ。

 そうなれば、さらに時間を稼げる……

 これはだ。

 自分に言い聞かせる。

(このまま二人とも食われるよりは、どちらか一方でも逃げて他のエルフたちに危険を知らせる。スュン一人が犠牲になり、私が逃げることでエルフ全体の安全が守られるなら、それこそが正義。それはスュンも理解しているはずだ)

 ……その時……

 スュンの片腕が、ゆっくりと持ち上がった。

 脱力し、痙攣しながらも、必死で片腕をヴェルクゴンの方へ向けようとしている。

 そして、何かを訴えかける目……

 「……か……」

 麻痺しているはずのスュンの口から、声が漏もれたような気がした。

 ヴェルクゴンは、思わず膝をついてスュンの顔に自分の顔を近づける。

「どうした? 何が言いたい? スュン!」

 突然、スュンの腕が動き、てのひらがヴェルクゴンのただれた耳に当てられた。

 ヴェルクゴンの耳に激痛が……いや……その逆だ。

 逆に、スュンのてのひらへ痛みが吸い取られていく……

「治癒魔法……? まさか……ありえん」

 魔法とは、すなわち精神の集中。

 全身を神経毒に冒され朦朧もうろうとした意識の中、魔法など使えるはずがない。

 しかし、痛みが吸い取られていくこの感覚は、たしかに治癒魔法特有のものだ。

 やはりスュンが発したのか? ヴェルクゴンは、あらためてスュンの顔を見直す。

 焦点の定まらないとした目……その視線は、たしかにヴェルクゴンに向けられていた。

 神経をやられながらも、少女の瞳は、必死に何かを訴えかけている。

 ヴェルクゴンは確信する。これはスュンの力だ。スュンが魔法を使ったのだ。

「……な、何という……」

 何という、意志の力だ。

 混濁した意識をどうにかして集め、最後の力を振り絞り、ヴェルクゴンへ放った癒しの魔法……

「……か……」

 スュンが、聞き取れるか、聞き取れないか、という細い声を発した。

「……か……た……き……を……」

 唇が震えて、が回っていない。しかし何とか聞き取れる。

「……エルフ……の……おきて……を……『家族』……の……義務……を……」

 ヴェルクゴンは、自分の耳に当てられていたスュンの手を、思わずギュッと握りしめた。

 握りしめたまま、しばらくスュンのうつろな目を見返す。

(すまん……スュン……私は……私は、お前を見捨ようと……して)

 優しく、そっとスュンの手を地面に置いて、ヴェルクゴンは立ち上がった。

「そうか……そうだな。エルフの掟……『家族』の……『家族』としての……は果たさんとな」

 立ち上がりながらヴェルクゴンは潜冥蠍せんめいかつに正対した。

 既に、魔法に対する集中力は回復している。

 もともと、魔力そのものを失っていたわけではない。単に、激痛によって精神の集中が阻害されていただけだ。

 傷が治ったわけではないが、痛みは完全に消えた。

 潜冥蠍せんめいかつを拘束していた「魔法の蛇」が、ヴェルクゴンから魔力を再充填され輝きを取り戻していく。

(まずは、動けないスュンから注意をらさなければ……)

 空中浮遊。

 そのままこずえを超えて、左に体を流す。

 伸縮自在の潜冥蠍せんめいかつの口が、ヴェルクゴンを追うように向きを変える。

 突然、口管が細く突き刺すようにヴェルクゴンめがけて伸びた。

 ぎりぎりまでヴェルクゴンに近づいたところで、溶解液を射出。

 しかし、充分に間合いを取っていたヴェルクゴンに液がかかることは無かった。

 勢いを失って足元の森へ流れ落ちる。

「フン……先ほどは奇襲攻撃ゆえに不覚を取ったが……なに……間合いが分かってしまえば、どうという事もないな」

 ヴェルクゴンの口元に、おごったような笑みが浮かぶ。

「その、やっかいな……そして、どうしようもなく醜悪しゅうあくな口を破壊させてもらう」

 目を閉じた。

 こんどこそ、自分は絶対に攻撃を受けない場所に位置している。

 拘束した敵はピクリとも動けない。

 圧倒的優位。

 たっぷりと魔力の集中に時間を使い、胸の高さ、前方一レテムの所に黒い球体を発生させた。

「これで終わりだ」

 目を閉じたままつぶやいた。

 直後、目を開いて、前方の潜冥蠍せんめいかつに意識を集中させる。

 球体が一直線に潜冥蠍せんめいかつへ飛んだ。ヴェルクゴンは満足の笑みを浮かべる。

 ……その時……

 異変が起きた。

 潜冥蠍せんめいかつとヴェルクゴン……その、ちょうど中間点に視界の「ゆがみ」のようなものが見える。

 最初は「点」でしか無かったその「歪み」は、見る間に膨張し「球体」へと変化した。

(幻覚?)

 未だ体内に残る毒が、視覚を狂わせ歪ませているのか?

「歪み」によって、魔法球はわずかに進路をらされ、口ではなく潜冥蠍せんめいかつの左の捕食脚一本を破壊して消えた。

(いや! 違う! あれは……あの歪みには、実体がある! 視界だけではない! 空間そのものが歪んでいるのか?)

「歪み」が急速に拡大していく。

「何だ? これは? これも潜冥蠍せんめいかつの技なのか? 知らんぞ! こんな能力があるなどと……」

 ヴェルクゴンに、ほんのわずかでもというものがあれば、何を置いても全速力で空を飛んで逃げたかもしれない。

 しかしエルフは、生まれつき強力な魔力を持つ代償として、どんな動物にも備わっている本能が極端に退化してしまっていた。

 拡大する空間の歪みから、目に見えない「波動」のようなものが周囲にはなたれる。

 波動を浴びた瞬間、ヴェルクゴンの体が凍りついたように動かなくなった。

 潜冥蠍せんめいかつの神経毒だろうか?

 いや、そんな生やさしい物ではない。

 これは……まるで……まるで、ようだ。

 凍りついた時間と空間の中で、意識だけが活動しているような、そんな感覚だった。

 動かせない眼球、その止まった視界のなかに存在する一羽の鳥に、ふと気づく。

 鳥は、飛んでいなかった。

 ただ、

 空間の歪みが球状に広がっていく。

 ……そして……

 ヴェルクゴン、スュン、潜冥蠍……

 歪みの発生点を中心に、半径百五十レテムのありとあらゆる物体が、その球状の歪みに飲み込まれ……消えた。

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