二話 闘技場の吸血鬼 その二十九 再失職

 宿に戻ると、鼻を怪我していたことを、そこが俄に痛みだしたことで思い出した。化物への復讐に因われるあまり、自身の怪我すらコロッと忘れてしまっていた。宿の自室で張り詰めていた心が緩み、痛みがぶり返してきた。


 自室の窓の外はもう宵闇が立ち込めている。こんな時間にやっている医者はいない。平常の診療時間はとっくに終わっている。となれば、自分でなんとかしなければならない。我慢できないほど酷い痛みというわけでもないが、何もやらないよりかは何かやったほうがましだろう。


 リィンは、部屋に備え置かれた薄く小さなタオルを手にとって部屋を出た。階段を降り、宿の井戸へ向かった。井戸端に積み上げられた桶の一つを手に取った。井戸から一杯の水を汲み、桶に水を移す。そしてタオルを水に浸した。井戸水は今朝より多少温く感じられた。もう少し時間が経ち、夜が深くなればもっと冷たくなるだろうが、鼻の痛みのためだけに夜更かしをするつもりは毛頭ない。身体は少しでも早く休息を求めている。


 井戸水に浸されたタオルを鼻に当てた。ズキッと痛みが走り、思わずタオルから鼻からタオルを離した。そっと当てたつもりだったが、今の彼女の鼻にはそれでも当たりが強すぎた。リィンは手に持っていたタオルを再び桶の水の中に沈めた。タオルより先に、水だけで患部を冷やすことにした。桶の水を手ですくい、顔にかけた。これもつい洗顔の要領で行ってしまったため、鼻がジンジンと痛んだ。それを反省し、今度はそっと、両掌で作った小さな水たまりの中に、掌を鼻に近づけるのではなく、鼻の方をそっと近づけ、沈めた。これは効果的だった。痛みはあるが、それが徐々に癒やされてゆく感覚があった。腫れ、熱を持った鼻に井戸水は冷たい。手の温もりと患部の熱で、すぐに水が温くなる。温くなった水は井戸端に捨て、新たな水を手ですくって鼻をつけた。それを何度か繰り返した後、水につけたタオルを鼻に当てた。痛みは随分マシになった。


 リィンは満足し、鼻に濡れタオルを当てたまま、部屋へ戻った。疲れていたのでしばらく休もうと、鼻にタオルを当てたままベッドに横になった。目をつぶると、疲れのせいだろう、強烈な眠気に襲われ、夕食も取らず、身体も清めないまま眠ってしまった。濡れタオルを顔に乗せたまま眠るのは危険かもしれなかったが、リィンは全く意に介さなかった。というより、そんな発想の生まれる余裕すら無く眠りに落ちた。そのままぐっすりと眠り、夜が明けた。閉め忘れたカーテンから容赦なく朝日が顔に注がれ、眩しさで目を覚ました。鼻に当ててあったはずのタオルはすっかり乾き、リィンの傍らに投げ出されていた。


 起き抜けにリィンの腹がクゥと鳴った。リィンは昨日の朝食以来何も食べていないことを思い出した。腹が減っては戦はできないし、化物に復讐することもできないだろう。


 しかしその前に、まずは身を清めなければならない。昨日の火事跡での探索で煤と埃に汚れ、化物との戦いのおかげで汗と砂に汚れている。貴族として最低限の身だしなみは整え、清潔な身なりを維持しておきたい。


 リィンは乾いたタオルと、カランに買い与えられた、今着ているものと見た目がほとんど変わらない替えの服と下着を手に井戸端の浴場へ行った。そこで朝の冷たい井戸水をたくさん浴び、タオルで垢を擦り落とした。全裸のまま昨日一日着用していた服と下着を手で揉み、水洗いを終え、ここに来る途中にフロントで借りたタオルで身体を拭き、持ってきた替えの下着と服を身に着け、部屋に戻り、洗いたての服と下着を干すと、必要なものだけ持って、朝食を摂るため宿を出た。


 宿の周辺は食事処に事欠かない。この辺り一体は大小多くの宿が群立してあり、その宿客目当てなのだろう、宿付近の一番大きな通りは多種多様な店が並んでいる。リィンの好みは麺だが、リィンは滅多に朝から麺を食べない。朝はパンとスープと昔から決めていた。リィンにとって麺はおやつ感覚で、決して主食ではないのだ。主食はパンとスープで、それこそが肉体の活力を生み出す源と信じている。スープに何らかの肉が入っていればなお良し。


 リィンは適当な定食屋に入った。パンと鶏肉入りのスープがセットであったのでそれを頼んだ。注文の品はそれほど待たされずにサービスの水と一緒に運ばれてきた。味は可もなく不可もなく、及第点。それをぺろりと平らげ、勘定を置いてさっさと出、宿に戻った。宿に入ったところで、フロントにいた宿のオーナーの中年男性に呼び止められた。リィンは彼に近づいた。


「さっき手紙が届きましたよ」


 目尻の極端に下がった優しげな笑みを浮かべて、オーナーはリィンに一通の手紙を差し出した。手紙の差し出し名はシンカだった。


「ありがとう」


 リィンは礼を述べると足早に部屋に戻った。シンカからの手紙ということは、きっと化物に関する重要なことに違いない。封と一緒に中の手紙を切らないように、指で慎重に封を切った。カランに上げた銀のペーパーナイフがちょっぴり恋しくなった。


 封の中には、たった一枚の紙が半分に折られていた。リィンはそれを封から取り出し、広げた。


 『至急、闘技場前に来られたし。』


 手紙にはこの一文とシンカのサインしかなかった。『至急』の文字と、手紙の簡潔さが、緊急性を如実に語っていた。


 リィンはすぐに支度をすると、宿の部屋を飛び出し、馬車停へ向かった。幸い馬車停は空いていて、順番待ちすることなく馬車を捕まえることができた。馬車に飛び乗りつつ、御者に行き先を告げた。鞭打つ音とともに、馬車は走り出した。


 しばらくして馬車は闘技場前に到着した。リィンは急いで馬車から降りた。リィンが御者に料金を支払っていると、そこに歩み寄る人物がいた。


 「リィン」


 シンカだった。シンカがリィンに声をかけた。彼女の顔はどこか浮かない色があった。シンカの目はリィンの目を真っ直ぐ捉えきらないようだった。


 「私が払うわ」


 そう言うと、リィンに有無を言わさず、御者に金を握らせた。御者は誰からだろうと料金を貰えればそれで良いらしく、何も言わずに受け取ると、サッと馬車に乗った。馬車を少し進めたところで停車した。そこで客を待つつもりなのだ。


 「シンカ、何かあったの?」


 リィンはシンカに聞いた。手紙のこともあったが、何よりシンカの顔色が気になった。何か良くないことがあったらしいことは、リィンにもすぐにわかった。


 「来て、何か飲みながら話しましょう」


 シンカはゆっくり歩き出した。至急、と手紙にあった割には、ゆったりとした足取りだ。リィンは何も言わず、彼女に付いていった。闘技場や、治安維持部隊本部から遠ざかるように歩くシンカを、リィンは少し訝った。闘技場前と手紙に書いてあったから、てっきりその周囲で、もしくは治安維持部隊本部で何かしらあるのだろうとリィンは思っていたのだが、どうやら違うらしい。


 十五分ほどたっぷり歩いて、二人はカフェに入った。カフェといっても実際は軽食屋に近く、メニューの半分が食事だった。


 闘技場や本部からはかなり遠ざかっていた。本部近くで頻繁に目にすることができる、治安維持部隊の制服を着た人間は、この辺りではほとんどいなかった。


 二人は適当に注文を済ませた。店員がテーブルを去ると、シンカは重々しく口を開いた。


 「リィン、ごめんなさい……」


 突然、シンカはがっくりと頭を下げ、リィンに謝罪した。

 リィンは突然のことに驚きを隠せない。


 「一体何があったの……?」

 「『吸血鬼』の捜査は打ち切りになってしまったの。上からの命令よ。ウィルが重傷を負ったことで、我々が『吸血鬼』追っていたことが上にバレてしまった。私も謹慎を命じられていて、もし、次に無断捜査が上に知られると、騎士の称号が剥奪されてしまう。もはやどうしようもないの……」


 シンカは悔しさに顔を歪ませた。


 「そんな、称号の剥奪なんて……、それはあまりにも……!」


 リィンは絶句した。


 騎士の称号の剥奪。それは騎士としての死を意味する。騎士にとって、騎士称号の剥奪ほど不名誉なことはない。騎士にとって、騎士以外の己は存在しないのだ。騎士が称号を剥奪されかねない時、騎士は奪われる前に、己の命を断ったり、人里を離れ隠遁者として生きることになるだろう。


 称号の剥奪は騎士にとってあまりにも重い。それ故に、剥奪の権限を持つ者も、称号剥奪の文言を簡単にチラつかせたりはしない。剥奪の可能性が、現実性を帯びていない限りは。


 「実はウィルの家は、この街では誰もが知る名家なの。彼は三男で、跡継ぎとしての序列が低く、名家の割には自由奔放にやってこれた。ウィルの家柄なら、もっと楽で給料もいいところへ勤められるのだけれど、ウィルはそうしなかった。ウィルは名家の男子にしては珍しく、騎士となって街の平和を守ることに生き甲斐を見出したの。しかし、そんなウィルの考えとは裏腹に家は、ウィルが治安維持部隊勤めすることを快く思わなかった。三男とはいえ名家の男子。たとえ治安維持部隊に籍を置いていたとしても、危ない仕事はさせたくないというのが本音。しかし、いくら名家の男子だからといって特別扱いするわけにはいかない。自ら志願したのだから余計にね。ところが、前の件でウィルは重傷を負ってしまった。家は当然激怒する。その上、それが禁止されていた捜査上で起こったことだから、家は治安維持部隊に圧力を掛けやすかった」


 「なるほど、禁止された捜査を行う不良騎士を謹慎させた。というのであれば、隊規を厳に守らせるための圧力。という体裁を得られるわけだ。たとえ、それが我が子可愛さゆえのものであったとしても」

 「そういうこと。もはや私達にできることはないわ。悔しいけどこれまでよ」


 シンカはふぅ、と長く重々しいため息をついた。よほど悔しいのだろう。文字通り命をかけ、街の治安を脅かす殺人鬼を追いかけてきたのだ。それが圧力によって中止を余儀なくされれば、誰だってため息の一つくらいつきたくなるだろう。


 「これは今までの報酬よ」


 シンカは懐から小袋を取り出した。袋がチャラチャラと音を立てる。それをリィンへ差し出した。リィンはそれを受け取る。ズシリとした重さがリィンの手に乗る。


 「ごめんなさい。私、そろそろ急がなくちゃ。あくまでも謹慎中だからね。それじゃあリィン、今までありがとう。状況が変わったら、また連絡するわ」


 シンカは立ち上がり、足早にカフェを出ていった。その背中はやはり憂鬱げで力なく、辛そうだった。


 リィンはその背を、ただ見送った。一見、気丈そうでも、肉体的にも精神的にも疲れているのだろう。と、リィンは思った。彼女に深く同情した。


 シンカが去った後で、二人の頼んだ飲み物を店員が持ってきた。せっかく頼んだのだから飲まなければ勿体無い、そう思ってリィンはシンカの分も飲んだ。二杯も飲んでお腹が一杯になったところで、彼女は大事なことにようやく気が付いた。


 そう、リィンは再び無職になったのだ。


 他人を哀れんでいる場合じゃなかった。明日も知れないのはシンカではなく、むしろリィンの方だった。


 『無職』という絶対的な絶望感に襲われながら、リィンは会計を済ませてカフェを出た。ショックで頭が働かず、受け取った今日までの報酬の額を確認することすら忘れ、職を探して街を彷徨った。


 が、見つからない。騎士に相応しい仕事など、街中にそう転がっているはずない。騎士に相応しからぬ仕事なら山ほどあった。女中、売り子、ウェイター、エトセトラ……。しかしそれらの仕事はリィンの眼中にハナからなかった。


 昼まで彷徨った挙句、闘技場に戻ってきてしまっていた。闘技場には、いつぞや見たビラが貼ってある。リィンはそれをまじまじ眺めた。もはや剣闘士となって稼ぐしかないのか。リィンは半ばあきらめつつ思った。女中やらなんやらよりかはマシか。何にせよ稼がなければ、明日の食事さえ覚束ない。カランへの借りも返さなければならない。騎士たるもの、長々と金を借りたままではいられない。そう自分を慰めつつ、ふらふらと闘技場の受付に向かった。


 そこで、リィンは見知った姿を見つけた。

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