二話 闘技場の吸血鬼 その二十七 見舞いの道中

 リィンは治安維持部隊本部の大きな扉を手で押し開けようとした。すると、リィンの手が扉に触れるか触れないかというところで、ひとりでに扉が開いた。扉の向こう側の誰かが扉を引いたのだ。リィンはちょっとした偶然にちょっぴり驚きつつ、押そうとした手を引いた。扉が開かれると、そこにはシンカが立っていた。偶然に偶然が重なった。思いがけない遭遇にリィンは目を丸くした。シンカの方も目を丸くしていた。リィンは治安維持部隊の本部内を駆けずり回ってシンカを探さなければいけないことを覚悟していたし、シンカが外に出ていることも考慮していたから、捜索には一苦労あると思っていただけに、これは僥倖ぎょうこうだった。


「シンカ! ちょうど今あなたを探していたところだった!」


 リィンが言った。


「リィン、あなたは無事……、というわけでもないわね。その鼻、医者には見せた?」

「鼻……?」


 リィンは自分の鼻を触ってみた。指が鼻に触れた瞬間、激痛が走った。痛みでリィンは思い出した。そうだ、不覚にも顔面にキツイ一発を貰ってしまったんだ。まさに腫れ物に触るように、リィンはそっと指を鼻の付近に這わせた。鼻の下に乾いた粉のようなものがこびりついていた。指でこすり取って見てみると、それは乾ききった血だった。殴られた際に鼻の内部を切ったのだろう。しかし大した怪我ではなさそうだ。今の今まで痛みを忘れていたし、鼻血が出ていたことに、乾いたあとで他人の指摘があってようやく気付くくらいなのだから。


「この程度、なんともないわ」

「それでも一応見せた方がいいわ。黴菌ばいきんが入ったりしたら大変だわ。ついてきなさい」


 早足に歩きだすシンカ。追いかけるリィン。


「私のことはどうでもいい。そんなことよりウィルが……」

「今からそのウィルに会いに行くわ」

「えっ……」

「彼は病院に担ぎ込まれたわ。知らなかったの?」

「私は、倒れて動けなくなったウィルといたところを、下手人扱いされ拘束されていたから……」

「それは最悪ね……。ところで、一体彼に何があったの? 下手人に間違われたということは、あなたはその場にいたということよね?」

「ずっと彼と行動していたわ」


 言いつつ、リィンの頭のなかでは化物との戦闘が蘇っていた。戦闘の興奮、恐怖、悔しさに胸の鼓動が早くなる。噛み締めた奥歯に力が入る。


「『吸血鬼』の件とは別件で私たちは昨日の火事で消失した古書店を訪れたの。そこには地下室があって、地下室はほとんど無傷。そこにあった本は見たこともない文字で書かれてあって、それがこの火事と何らかの関係性があると彼は考え、その中の一冊を持って本部に戻ろうとしたところを化物に襲われたの」

「化物?」


 シンカは怪訝な顔でリィンを見た。


「そう、化物」


 リィンは真剣な眼差しでシンカを見返した。


 話しながら歩くうちに、二人は門を出て、本部最寄りの馬車停に差し掛かった。シンカは馬車停で足を止めた。彼女に並んでリィンも足を止めた。馬車停には二人以外に誰もいなかった。


「化物ってどんなの?」

「背はかなりの長身。体格はがっしりとしている。全身黒ずくめの衣服の隙間から見える肌の色が妙に青ざめてる。多分男」

「不気味ね。けど、化物というには……」

「シンカ、あなた、胸を剣で貫かれて生きていられる?」


 突拍子もなく、常識外れなことを言い出すリィンをシンカは怪訝な顔で見た。それだけリィンの言っていることは到底信じられないことだ。だが、リィンの目にも表情にも、ふざけているような節はなく、また嘘をついているようにも見えないどころか、恐怖の色さえ見て取れた。シンカは絶句し、しばらく二人の間に寒々しい空気が流れた。


「信じられないわ、そんな奴が……」

「いたのよ。その化物に、私もウィルもやられてしまった。吸血鬼、本当にいるのかも」

「その化物が伝説上の吸血鬼なら、真っ昼間に出てくるのはおかしいんじゃない? 吸血鬼は日光に弱いというのが一般的な通説よ。そもそも吸血鬼なんてあくまで伝説。実際にいるとは思えないわ。それにあなたもウィルも別に血を吸われたわけじゃないでしょう? それともその鼻血は吸血鬼に鼻頭からかぶりつかれたせいなの? それにその化物がキ号事件と関わりがあるかすらわからないじゃない」


 吸血鬼という伝説上の存在を信じようとしているリィンの妄執を拭い去ろうと、シンカは殊更ことさら強い口調で、嘲りを交えながら吸血鬼の存在を否定した。


 シンカに言われて、リィンは吸血鬼の存在に囚われようとしていた己を恥じ、自嘲した。吸血鬼というのは、あくまでウィルとシンカの追っていた事件の性質からきた犯人の符牒ふちょうにすぎないというのに、符牒からくるイメージをリィンはさきほど対峙した化物に短絡的に結びつけてしまっていた。シンカの指摘したとおり、キ号事件の犯人と今回の化物に関連する要素は今のところ一ミリたりともない。どうやら自分は少し冷静さを欠いていたようだ、とリィンは反省し、大きなため息を一つついた。自嘲が終わると、今度は己に自信を失くしそうになった。かつてはエタイトで一端の警察騎士だっただけに、それなりの矜持きょうじと自信を持って今回の事件に協力していたというのに、化物じみた強敵と戦い、敗北を喫しただけでここまで無様に冷静さを欠くとは我ながら情けない。リィンは肩を落とした。


 馬車がきた。馬車は二人の前で停車すると、御者が降りようとした。多分客車のドアを開けようとしたのだろうが、シンカがそれを手で制止した。


「降りなくていい。ヴィスカンス病院へ向かってくれ。急ぎで頼む」


 シンカは御者に言い、ドアを開け、まだ肩を落としているリィンに乗り込むように促し、リィンが乗り込むと、自らも素早く乗り込み、ドアを閉めた。御者はそれを確認すると馬に軽く鞭を打った。かっぽりかっぽりと軽やかな蹄鉄ていてつの音を響かせ発車した。


「ウィルの……、ウィルはどんな様子なの……?」


 シンカが、さっきとは打って変わって重々しく口を開いた。シンカの表情にも口調にも、ウィルが重傷を負ったであろうことを察していることが表れている。『拘束された』というリィンの弁から、自ずとウィルの怪我がただごとではないことが察せられる。もし怪我をしてもウィルの口が利けたなら、リィンが拘束されるはずがないのだから。


「最後に見た彼は、もう意識がなかった……」

「そう……。化物め、絶対に許さない……!」


 シンカは目を閉じ、静かにではあるが、強い語気で言った。右の拳を固く結び、左手は拳を握り締めている。こめかみに青筋が薄っすら走り、束ねられた髪先が怒りに震え、微かに揺れている。


 シンカの怒りは飛び火し、リィンに燃え移った。リィンにも激しい怒りが巻き起こった。直接対峙し、敗れているだけに、怒りの炎の熱さ、激しさ、共にシンカの比ではない。


「リィン、吸血鬼の件とは別に、今回の化物の件に関しても手伝ってくれないかしら? もちろん報酬ははずむわ」

「むしろこちらからお願いしたい。騎士たるもの、負けたままでは引き下がれない。騎士の誇りにかけて奴を絶対に打ち倒して見せる!」

「ありがとうリィン。あなたがいてくれれば心強いわ。早速、化物について教えてちょうだい。戦ってみてどうだった?」

「そうね……」


 リィンは瞑目し、化物との戦いを回想した。頭の中で化物の姿形をリアルに書き出し、その動作の一つ一つを再生し、息遣い、匂い、剣で貫いたときの感触、化物に顔面を打たれたときの痛みを克明に思い出した。背中に嫌な汗がじわりと広がった。敗北がトラウマになっているというよりは、化物から人間味を感じられない違和感からくるものだった。この世のものでないものを相手にしているような不気味さがあった。思い出せば思い出すほど、恐怖に囚われかねなかった。リィンは回想をほどほどに切り上げた。どうせたった一度の邂逅かいこう。短すぎる戦いの中で敵を完全に分析できるはずもない。伝えるべきことは主観の混じらない最低限の事実のみが適切、主観や推測はかえって邪魔になる、とリィンは考えた。


「奴は得物を持たなかった。巨体だけに力が強く、巨体に似合わず動きが素早い」

「素手だったってこと……?」

「武器になるようなものは何一つ持っていなかった。だからといって剣の扱いが苦手というわけでもないらしい。私から奪った剣を使ったときには、正確さこそ欠いてはいたけれど、素人のそれとはまた違っていた。人を殺せるだけの腕前と威力を持っていた」

「剣を扱えるにも関わらず、携帯しない理由は……、相手を油断させるためか、警官の目をひかないためか……」

「もしくは素手で十分と思えるほど、腕に自信があるか」


 シンカの推察にリィンが付け加えた。


「武装した騎士二人を相手して一人を病院送りにするくらいだものね。よっぽど腕に自信がなければ無理だわ……。全く、本当に恐ろしい化物ね。俄然がぜん興味が湧いてきたわ。リィン、化物と戦ったときのこと、最初から最後まで詳細に教えてちょうだい」


 言って、シンカは懐から手帳と鉛筆を取り出した。まるで聞き込み調査だ。リィンは思った。かつての自分は聞き込みをする側だっただけに、立場の逆転はなんとも新鮮味があった。

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