二話 闘技場の吸血鬼 その十九 焼け落ちた古書店

 たっぷり一時間近く馬車は走り続け、ようやく馬車は停車した。馬車から降りる時は女性優先というわけにはいかない。馬車は狭く、無理に女性を先に降ろそうとして、男性の膝を超えてゆくのは優雅とは程遠い。男性が先に降り、女性が降りるまで馬車のドアを支え、もし女性が降りるのに難儀するようなら男性が手を借したほうが、よっぽど優雅だし、見た目にも美しい。


 リィンは手を借りずに降りた。難儀するようなドレス姿でも老体でもなく、その上騎士だ。


 ウィルは御者に現金ではなく馬車のチケットを渡した。

 馬車が走り出すのとリィンとウィルの二人が歩き出すのはほとんど同時だった。


「ここが近道なんだ」


 言って、ウィルは狭い路地裏へと入り込む。


 路地裏は暗い。いくつものアパートが密接し、酷く入り組んでいる上、地面は舗装されておらず凹凸が激しく、小石も散らばっている。お世辞にも歩きたいとは思えない路地だ。


 路地裏から路地裏へ、二人は進む。


 アパートの裏口に面している路地裏では、裏口の小さな階段に腰掛けている人間が二人に粘りつくような湿っぽい目線を送ってくる。


 大体そういう目をしているのは大人だった。いい歳をした大人が朝っぱらから働きもせず路地裏でくすぶっている。くすぶっているのは子供も同じだった。子供はまだスレた目をしていない。しかし、それは時間の問題だ。


 ここは貧民街。旅行経験の乏しいリィンにもそれはすぐにわかった。彼女の故郷にも同じものがあったからだ。


 貧民街は犯罪多発地域。リィンはそう認識している。一般的な認識もほとんど同じだ。彼女の場合は、それに警察騎士団としての経験が加わる。


 清貧という言葉もあるため、一概に貧しさが犯罪に結びつくと考えるのは難しい。しかしながら、リィンの警察騎士団の職務経験上、貧民街での犯罪は非常に多い。また、そこでの犯罪は暴力に彩られている。


 貧民街は油断ならない。リィンは気を引き締めた。かつての警察騎士団時代、同僚と二人組で貧民街を巡回していたとき、通り魔に出くわしたことがある。犯人はすぐに叩き伏せられ、同僚ともども無傷。実害は被らなかったが、真に恐ろしいのは犯人は二人を警察騎士と知っていて襲いかかったという点だ。貧民街の犯罪者は警察騎士を恐れない。警察だから、騎士だからといって絶対に気を抜いてはいけない。それが貧民街だ。


 リィンは五感を研ぎ澄ませ歩く。目は細く光り、左右を素早く往復する。口は真一文字に結ばれ、左手は得物の鞘を左腰の得物の鞘を掴む。


 ウィルに比べるといささか気負いすぎている感がある。


 ウィルは大通りを行くときと全く変わりない歩き姿だ。所々に座り込む男たちがウィルに刺すような視線を送っても、全く意に介さないようだ。


 馬車を降りてから約十五分後、二人は火事の現場に到着していた。リィンの警戒の甲斐もあってか、貧民街では何事も起こらなかった。


 かつて古書店があったそこは無残なものだった。完全に燃え尽きたわけでないのが余計に痛々しい。全体的に黒く焼け焦げ、壁の多くは焼け落ち、炭化した柱がいくつも折れ、屋根は一部を残して大穴が空いている。


 隣り合った家屋も多少の被害を受け、壁が黒く煤けてしまっていたりするが、居住には問題なさそうだ。古書店が酷く焼け落ちているのに比べると、隣りにあってその程度で済んだのは不幸中の幸いといえる。


 古書店での火事だけに、紙の燃え殻が広範囲に広がっている。隣家どころか、小さな通りを挟んで向かいの家、その斜向かいと燃え殻にまみれている。


 現場には六人の兵士が立っていた。騎士の役を持たない下級士卒だ。彼らは現場保存という役目を負い、泥棒やらが現場に侵入しないようにグルリと取り囲んでいる。どの兵士も立って長時間経つのか、槍の穂先を外した警棒を手持ち無沙汰にいじったり、警棒で地面に何やら描いたりして暇を持て余している。


「ご苦労!」


 ウィルは彼らの一人に歩み寄りつつ、大きな声をかけた。


 暇を持て余していた兵士たちは、ウィルの大きな声に驚き顔を上げ、さらにその姿を認めて驚きを増し、弛緩していた総身に緊張を走らせウィルとリィンに敬礼した。


 ウィルは彼らの敬礼に返礼もしなければ、何一つ反応を示さなかった。彼らのうちの一人、焼け落ちた玄関先にいる兵士の横を素通りした。リィンも彼に続いた。


 二人は玄関から現場へと入った。戸は焼け焦げ、玄関から完全に切り離されて二人の足元に横たわっていた。それを踏みつけ、二人は奥へと進む。


「私の後ろを付いてきてくれ」


 ウィルがリィンに言った。

 リィンはこくりと頷いた。


 古書店の中は外と変わらない明るさだ。天井、壁、窓、いたるところに空いた穴から陽の光がさんさんと降り注いでいる。二人が歩を進めるたびに燃え殻が舞い上がり、陽光にチラつく。


 一歩進むたびにウィルは足を止め、周囲を見回し、屈んではまた周囲を見回す。足元にも気を配る。時折何かを拾ってはそれをじっくり眺める。重要な遺物でも探しているのだろう。しかし、気に召す物はないらしく、手に取った物は全てそっと床に置かれている。


 置かれたそれをリィンも手にとって見る。そのほとんどが燃えカスの木くずだった。リィンもそれに何を見出すこともなく、そっと床に置く。


 それがしばらく続いた。


 三十分も経つと、リィンはもう退屈を感じ始めていた。ウィルの置いた燃えカスを拾うのにも飽きていた。暇だ。やることと言えば、赤ん坊のはいはいにも劣る速度でウィルの背を追うことだけだ。それは言うまでもなく、ひどくつまらない。


「つまらないだろうが、辛抱してくれ」


 まるでリィンの心を読んだように、ウィルが言った。彼は振り向きもしなかった。背中越しに彼女に言った。つまり、顔色を覗ったわけでもない。


 リィンは恥ずかしい心の内を見透かされた思いがして、ピクッと肩を揺らして驚いた。


「え、えぇ、大丈夫」


 どぎまぎしつつ、リィンは言った。声は変に上ずっていた。


 もしかして、ウィルは人の心を読む何かしらの超能力的なものを持っているんじゃないだろうか? リィンは一瞬そう訝った。

 が、ウィルにそんな力はない。ウィルが読んだのはリィンの心ではなくその場の空気だった。リィンは自分でも気づかない内に、前にいるウィルの背中にプレッシャーをかけていた。プレッシャーはリィンの所作にうんと溢れていた。まともな人の感性なら、リィンの退屈が嫌というほど感じられるほどに。


 それからさらに三十分かけて古書店内を一周りした。古書店には二階があったが、それはもう過去の話だ。二階は一階との境界のほとんどが焼け落ち、吹き抜けになってしまっていた。二階への階段ももう存在しない。


 この一時間で慎重を期するものはもう見てしまったのか、ウィルの歩速は平常と変わらなくなっていた。歩くたびにさっきよりも灰が立つ。


 ウィルは古書店のカウンター前に立った。ここも例外ではなく焼け焦げていた。カウンターの天板こそ黒く焼け焦げてはいるが原型を保っているものの、その脚はボロボロに崩れ落ちている。


「火は床で起こったのか、それとも単に脚のほうが火に弱かったのか……、リィンはどう思う?」


 ウィルはカウンターを指差して言った。


 リィンにこの手の知識は全くない。ウィルの方も、この質問に関しては大きな期待をかけてはいない。これはウィルがリィンのために暇つぶしをしているだけだ。


「わからないわ」


 リィンはカウンターの残骸を覗き込みながら言った。


「ふむ」


 ウィルは頷いた。


「カウンターの反対側、つまり、私たちの向かい側が店主の座る位置だ。あれは椅子の残骸だ」


 ウィルが指差す。確かにそこには残骸がある。しかし、リィンの目にそれが椅子かどうかは判然としなかった。原型が残っていなかった。


「私が思うに、出火の一つはここで起こっている」

「出火の一つ……、出火場所は一つじゃないの?」

「ああ、ここと奥、最低でも二箇所」

「何故そんなことがわかるの?」

「絶対に正しいとは言えないがね。半々ぐらいだよ。そこの椅子の残骸、黒々と炭化している。これぐらい激しく炭化している場所が二点あった。ここと奥、そこそこ距離がある。直線で結んだ間にこの二点と同じくらい焼け焦げているのはないんだ」

「なるほどね」

「椅子とカウンターの間、隙間があるだろう? その間に店主が倒れていたそうだ。よほど強い火に包まれたのだろう、亡骸は人の形をしていなかったそうだ。恐らくこれは放火だ。通常の火災で焼死体が原型を留めないなんてありえないからね」


 リィンは頷いた。


「さて、とりあえずここでやることはやった。次は哀れに焼けただれた店主を見に行こうか。リィンは焼死体を見たことは?」

「ないわ」

「そうか、無理に見る必要はないよ。私の仕事だからね」


 リィンはムッとした。『無理に見る必要はない』というウィルの言葉は優しさから出たものだったが、リィンは侮られたと感じた。


「お気遣いなく。私は騎士よ。その程度のことで腰が引けたりなんかしないわ」

「それはそうだ。よし、とにかくここを出よう」


 ウィルは火事場に似合わない爽やかな笑みを見せ、クルリと踵を返して玄関へと向かった。リィンもその後ろをついて行く……、とその瞬間、リィンの右脚がズッポリと地面深々と落ち込んだ。


「なッ……!?」


 突然のことにリィンはよろめいた。右膝上までもが一気に地面に食われた。左脚で踏ん張るが、下にススが積もっていたのか、左脚がツルリと滑った。受け身を取ろうと両手をつく、が、これも左手が不安定な瓦礫の上に乗ってしまい、瓦礫は派手な音を立てて崩れた。リィンも派手に仰向けにひっくり返ってしまった。


 突然の騒音に驚き振り返るウィル。


 視線の先にはススだらけになって仰向けのリィン。驚きのあまり目をむくリィンと目が合った。右脚だけがまるで最初から存在しなかったように見える。だが、すぐに地面へとめり込んでいることに気がついた。


「大丈夫か?」


 ウィルは心配そうな口調とは裏腹に、すぐには彼女に近寄らずその場に屈み、両手を床へとついた。瓦礫の中を触ったり押したりしている。そうしつつ、ゆっくりとリィンに近づいてゆく。そして、リィンの目の前にやってきた。


「立てるか?」

「平気」


 リィンは立ち上がった。立ち上がったリィンの姿は全身ススまみれだった。特に右脚は酷いことになっている。しかし怪我はない。


 ウィルは、無事立ち上がったリィンには目もくれず、彼女の右脚がハマっていた場所に熱心に見つめていた。


「これ、どう思う?」


 ウィルが彼女のハマっていた場所を指差す。


「にくたらしい穴」

「もっとよく見てくれ」


 言いつつ、ウィルは穴の付近の瓦礫を手でどける。するとそこには……。


「あっ……!」


 そこには成人男性がすっぽりと入るほどの大きな穴が空いていた。それも綺麗な正方形。さらに穴の奥には金属のパイプのようなものがあった。


 さらにリィンは深く覗き込む。パイプに見えたそれは梯子だった。梯子の先には空間が広がっているらしい。しかしそこからでは空間の概要は掴めない。


 二人は顔を見合わせた。そして頷き合う。


「私が先に降りよう」


 ウィルは言うなり足を穴へと滑り込ませた。

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