二話 闘技場の吸血鬼 その六 下手人
目の前の人影が『下手人』と見て間違いなさそうだ。
となれば、この場で打つ手は一つしかありえない。逃げの一手だ。
白昼堂々、火付盗賊のような真似事をするイカレた奴とは何が何でも関わりたくはない。善良な市民なら誰でもそう考えるだろう。カランのような浮浪の旅人の場合は、その傾向がより顕著だ。多くの町や村などはよそ者に厳しい。よそ者が事件に関わっていたと警察に知られれば、たとえ無実であったとしても厳しい追求に晒されるのは明白だった。
よその土地では極力空気のように生きる。それが旅人の心得だ。
カランは旅人の心得に忠実だった。
カランはサッと身を翻し、下手人に背を向け、一番近くの窓へ向かって走りだした。火の中を突き進み、十分に勢いをつけると、跳躍、窓へと飛び込んだ。衝突の瞬間、カランは左肩を窓へ向かって突き出した。窓はガラスも木枠もカランのタックルによって粉砕され、カランは表へと躍り出た。
火の中を走り、窓を強行突破したおかげで身体の数カ所に軽い火傷と小さな切り傷をカランは負っていたが、今それは些事にすぎない。窓を突き破ったけたたましい音は隣近所に聞こえているはずだ。事件に関わりを持つべきでない旅人は一秒でも早くこの場を離れなければならない。
カランは振り返ることなく、全力で遁走した。一切の悪事も働いていないのに、逃走しなければならないところが、旅人の悲しいところだ。それだけこの世の旅人とは罪な存在だった。
カランは足が動かなくなるまで走り続けた。どこをどう走ったのかわからない。しかし、走った結果、カランは町のより外周部、本屋のあったところよりもさらに貧民の住まう地区へときていた。
道端に腰を下ろし、息を整えつつ、辺りを見やった。どこもかしこも廃材を組み合わせたあばら屋ばかりだった。あばら屋ならまだ良い方だった。犬小屋と見間違うほどの、人一人が横になることができる程度の小さな家からは禿げ上がった頭半分がのぞいていた。継ぎ接ぎの、色とりどりパッチワークのようなテントも多数ある。それらが無秩序に群れをなして、この辺りは入り組んだ路地が形成されている。
禿げ頭がのぞいている以外に、辺りに人影はなく、人の気配もなかった。閑静極まりなかった。この町の貧民街の日中はどこもこんなに静かなのだろうか。
随分と遠くまで来てしまった。と、カランは思った。だが、逃げるのに十分な距離を稼いだとは思わなかった。もし、燃え盛る本屋から飛びだし、去ってゆくところを誰かに見られて通報でもされていれば、この町から脱出しないかぎりは安心安全とはいえない。逃走に必要な距離の算出方式はまだ確立されていない。
もし誰にも見られていないのなら、一先ずは安心できる。事を知るのは下手人とカランだけということになる。
下手人が自分を追ってくる、とは、カランはあまり考えなかった。先日この町に来たばかりの自分を狙う人間がこの町にいるとは考えにくい。つい先刻、ちょっとした恨みを買ったばかりではあるが、それが本屋にいるのは出来過ぎていたし、本屋に火をつけるというやり方も婉曲的だ。そもそも火事は魔力の痕跡を示していたが、下手人とは違って、あの男に魔力素養を一切感じなかった。もし魔力があるなら、カランと立ち会ったときにその片鱗を見せてもおかしくない。
あの火事は、そのまま本屋を狙ったものと見たほうが自然だ。その場にカランは、不運にも居合わせてしまったということだろう。
息がある程度落ち着くと、カランは小さな箱を取り出した。平べったく片掌に収まるサイズ。赤色の漆に似た塗料が塗られていて、陽光を強く反射している。
はめこみ式の蓋を外すと、箱の中には乳白色の、石鹸のような固体が詰まっていた。指先で乳白色の固体を引っ掻き削り取り、削りとった欠片をペロリと舐めた。舐めると、固体は溶け出しクリーム状になった。本来は水で溶かすものなのだが、水がない場合は唾液で代用する。クリーム状になったそれを患部へと塗りこむ。
それはカランの家に先祖代々伝わる膏薬だった。
カランいわく、効果の程は眉唾物で信頼に足る程の物ではないそうだが、『無いよりはマシ』ということだろうか、度々用いている。金が無くなれば山に入ったり荒っぽいことをして稼がなければならない、生傷の絶えない浮浪の旅人なだけに、手軽に自家製造可能な膏薬は便利だった。
「はぁ……」
全身の傷に膏薬を塗り終えると、カランは深いため息をついた。酷く疲れていた。人混み、喧嘩、火事、全力疾走、いくら山育ちで野生動物のような体力を持つ若い男といえども、この疲労感は拭えない。
眠気に襲われ、カランは目を閉じ項垂れた。さすがに道端で眠るわけにもいかない。しかし、抗いがたい眠気に対処するには目を閉じ、リラックスし、心と身体を落ち着かせる必要があった。カランの意識は眠るか眠らないか、その狭間をたゆたっていた。
そこに隙が生まれた。今まさに隙が生まれるその瞬間を待ち望んでいた『モノ』がいた。
それは影のようにカランの背に迫り、その頭上から襲いかかった。
ふと、カランは今まで日向にいた自分が日陰に入ったことに気付いた。自分は動いていない。なのに今は日陰にいる。日が暮れるには早い。ということは、誰かが背後に立ち日を遮断している。つまり、陰ではなく、影。
カランの鋭敏な感覚は危険を叫び、微睡みつつあった意識は一瞬にして点火された。
カランは危険を回避しようと、転がるようにして前方へと跳んだ。が、僅かに遅い。カランは背に、焼けるような痛みを感じた。
倒れこむカラン。しかし彼はすぐに立ち上がり、突然の襲撃者へと正対した。
そこには筋骨隆々、身長は二メートルほどもありそうな大男が立っていた。それは燃え盛る本屋の中で見た、あの人影に酷似している。右手に折れた角材を持っている。おそらくは折れた柱だろう。折れただろう先はへしゃげ、ギザギザにささくれ立っている。折れているとはいえ、その長さは一メートルをゆうに超え、直径は二十センチはありそうだ。それを片手で軽々と手にしているのだから、その膂力は計り知れない。
しかし、火事の下手人だろう大男の何よりも異彩を放つのがその風貌だった。中々上等そうに見える衣服の端々から除く皮膚の色が、まるで死体のように青ざめている。顔は全くの無表情。感情を押し殺しているというよりは、感情そのものが欠落しているかのように見える。意思の欠片さえ見当たらない。その上から化粧を施されているせいで、手足ほど青白くはないが、やはり健康体とは思えない白さだ。
まともでないことは火を見るより明らかだ。
「お前、何なんだ……?」
カランは問うてみた。返事はあまり期待していなかった。そして、やっぱり返事はなかった。
下手人が自分を追いかけてくるにしても、まさかこれほど早く追いかけてくるとは、想像していなかった。険しい自然の中で育ったカランは身のこなし、体力にかけては誰にも負けないという自負があった。それを傷つけられ、カランは少しばかりショックを受けた。不意打ちを食らわされたのも大きい。
しかし、今はショックに打ちひしがれている場合ではなかった。相手に殺意があるのは明白だ。ならば、それなりの態度で応じるのが男としての礼儀だろう。
カランは短剣を抜いた。左手と右手にそれぞれ一本ずつ持ち、構えた。逃げきれないのであれば倒す。かかる火の粉は全力で振り払う。それがカランの流儀だ。
抜剣がゴングとなった。
下手人が突進する。その速度が尋常ではない。火事場から全力で逃走するカランに追いつくだけの脚力は、この場においてもいかんなく発揮された。大木のような巨体が、まるで猫科の猛獣の如く猛進する。
カランは退かない。その目は猛禽の鋭さでじっくりと巨体を観察している。脚の運び、重心の流れ、呼吸、果ては脈拍まで読み取ろうとしている。
二人の距離は一瞬にして縮まった。
下手人が角材を振りかぶった。まるで竹光でも扱うかのように軽々と、恐ろしいほどの速度で。
そこは下手人の間合いだ。
カランの間合いにはまだ遠い。
得物の違いが間合いの差となった。
角材がカランの頭上へ、空気を切り裂く轟音を響かせながら振り下ろされた。
バキッッッ!!!
角材が爆ぜた。打たれた角材は折れ、粉々に砕け、木くずを煙のように飛散させた。
しかし、そこにカランはもういない。
空気を切り裂いた角材は、まさに空を切り、地面へと叩きつけられていた。
攻撃の瞬間、それは最大の隙が生まれる瞬間。カランはそれを逃さなかった。
下手人の目に、一瞬カランが消えたように見えた。攻撃の瞬間というのは目がブレ易い、その瞬間を狙って、カランは雷のように鋭く、蛇のような低さで相手の懐へと飛び込んだのだ。
下手人がその目の端に、カランの負った背中を見つけた時には、既にカランの右手の短剣は仕事を終えていた。下手人の踏み込んだ右足の腱をバッサリと切り裂いていた。
下手人の右足に、パッと赤い花が咲いて、散った。
力を失った下手人の右足は踏み込んだ勢いを殺すことができず、己の巨体を支えることさえ叶わず、転げ倒れた。
カランは倒れこそしなかったものの、その場に膝をついた。
相打ちになったわけではない。不意打ちで負った背中の傷が思ったより深く、素早い動きの負荷のために、激しく痛んだせいだ。
「ぐぅッ……」
低く、カランはうめいた。
勝負に勝ち、自尊心を取り戻し、少しばかり溜飲を下げたカランだったが、自らも手傷を負っているため、爽やかな気分というわけにはいかなかった。
背中の痛みをおしてゆっくりと立ち上がると、両手の短剣を鞘に収めた。そして、一秒でも早くこの場を離れようと歩き出した。
これ以上の面倒は御免だ。カランはそう思いつつ、宿所へ戻るため、来た道を引き返そうとした。
その時、背後で何やら物音がした。
カランの本能は危険を訴えた。理性は危険を信じられなかった。腱を切られた人間が立ち上がれるはずがない。理性はそう言っていた。しかし、カランは本能に従って素早く振り返った。
目に飛び込んできたのは折れた角材だった。それは的確に顔を狙って飛来していた。
咄嗟に、カランは屈んでそれをかわした。
瞬間、酷く背中が痛んだ。
「うッ……!」
痛みに動きが鈍った。その瞬間を狙われた。
飛来物は一つだけではなかった。折れ残ったこぶし大ほどの大きさの角材が、カランめがけて投げつけられていた。
カランがそれに気づいたのと、脇腹に痛みを感じたのはほぼ同時だった。
こぶし大ほどの飛来物は、カランの脇腹に命中した。
「くぅッ!」
脇腹への衝撃が、背中の痛みを呼び起こす。
二重の痛みと衝撃に、カランはのけぞり膝をついた。
いつの間にか、あの巨体が目の前に立っていた。右足から大量出血をしながらも、顔は相変わらず無表情なまま、膝つくカランを見下している。
カランは自分の目が信じられなかった。腱は確実に断ち切ったはずだった。自分の腕は疑っていない。確かな手応えがあったからだ。並の人間なら立っているどころか、顔も歪むほどの激痛が走っているはずだ。それなのに、これは一体……。
カランは再び短剣を抜いた。そして立ち上がろうとして、激痛が走った。脇腹と背の傷が、立ち上がることを許さなかった。短剣を抜いたはいいが、両手にも力が入らない。
下手人の二つの大きな手がカランの首へと伸びてきた。
カランは、力の入らない両手に出来る限りの力を振り絞って短剣を振り上げ、下手人の腕を刺した。なけなしの一撃は浅すぎた。腕を刺されても下手人は一切表情を浮かべない。血が流れ出すのさえ意に介さない。
下手人の大きな腕がカランの首を掴むと、喉笛を締め上げると同時に身体を高々と持ち上げた。持ち上げる勢いでカランの愛剣は二本ともカランの手を離れ地に落ちた。
「ッ……!」
もはや声さえ出ない。助けを呼ぶことさえままならない。今のカランは身動き一つ取れない。唯一自由なその両目だけが、必死に下手人を睨みつけている。あまりにも些細で健気で虚しい抵抗だった。
『死』という言葉がカランの脳裏をよぎった。もはや逃れざる死の宿命は間近に迫りつつあった。
もう、駄目か……。
カランの目から鋭さと光が徐々に失われてゆく。もはやこれまで、と諦めかけた、その時、
「キャアアアアアアァァァーーーーーーーーッッッ!!!」
辺りに少女の悲鳴が響き渡った。その高周波超音波的叫び声に、思わずカランは薄れゆく意識のなか、耳を覆いたくなった。
突然、下手人はカランの首から手を離した。宙ぶらりんだったカランは地面へと落ちた。
足を引きずり駆け去ってゆく下手人の背を、カランは地面に倒れ伏しつつ見送った。
それが、この日カランの見た最後の風景だった。カランは眠るように気を失った。
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