二話 闘技場の吸血鬼 その三 インテグロンの大通り
カランは人波に揉まれていた。彼は不快を眉根に表し、口の中で歯を食いしばって苦難を耐えつつ、人波を縫うようにして先を急いだ。
インテグロンの大通りは人に満ちていた。前後左右どこを向いても人、人、人。それらに一切の統制もなく、各々好き勝手に動いている。前から来る者、後ろから来る者、横切る者、突然立ち止まる者、そんな無秩序状態だから、必然、何をするにも明確な意志とそれに伴う強引な行動力が必要となる。
無秩序状態に加えて、皆が皆強引にもなれば喧嘩が起こるは必定だった。
雑多な喧騒の中に、一際大きな怒声が起こった。辺りの人間がさらに騒然となる。怒声に近い人間はそれが喧嘩であると察知する。さらに近い人間は喧嘩に巻き込まれないようにといち早くその場から遠ざかろうとする。喧嘩から遠ざかろうと、さらに強引さを増して周りの人間を押しのけようとするから、さらに無秩序は加速してゆく。喧嘩はさらなる喧嘩を呼ぶ。
いたるところで喧嘩が起こる。
「また喧嘩だよ……」
軽く嘆息するような声が、どこかからカランの耳に入る。
『闘技祭』の時期、インテグロンの街中では喧嘩が頻発する。祭りに高揚した群衆の心理は何に対しても熱しやすい。
混雑した往来に喧嘩が加わり、もはや混沌のるつぼと化したこの場に、カランはもう一秒たりとも居たくはなかった。田舎産まれの彼は元々人混みが苦手だ。ただでさえ苦手な人混みに喧嘩の混乱まで加わっては、とても我慢ならない。
カランは人をかき分けかき分け、まだ見ぬ安寧の地に向かってひたすら突き進んだ。人と人の隙間を見つけては手を滑り込ませ、足を潜りこませ、肩を差し込み、腰を打ち込み、あらゆる手管を使い、僅かな隙間をこじ開け進む。
この時ばかりは、カランもここにいる他の人間並みに強引だった。普段は自己中心的行動を嫌い、自らもそれを律している彼だったが、もはや自律している場合ではないほど、彼の精神は疲れきっていた。一瞬でも早くここを出たい。その思いが、彼を突き動かしていた。もはや誰かに遠慮している状態ではなかった。
初めのうちは、多少の遠慮が見られた人をかき分ける行動も、回を重ねればエスカレートしてゆく。五分も経てば、最初に見られた遠慮は皆無になり、傍若無人になる。傍若無人は、トラブルの元だ。思いやりがなくなったところに、厄介は振りかかる。
カランは前方に人間と人間の僅かな隙間を見つけ、そこに肩を差し込んだ。瞬間、隙間の右側の男が突如方向転換し、カランへと正対した。男の身体はカランへと向いているが、その頭は明後日を見、何やら誰かに話しかけている様子だ。男の意識内にカランは存在していない。
方向転換し、進む方をろくに見ないまま、男は勢い良く足を踏み出した。そこに滑り込ませたカランの肩があった。カランは突如こちらに向けて歩き出した男の身体から逃れようと、咄嗟に身をよじった。しかしこの混雑に逃れられるスペースも不十分、その上、男の方は全く回避する努力も見せなかった。結果、二人の身体はぶつかった。
ドン!
「痛ッてーなー!」
男は大げさに声を上げた。ちょっとばかり肩がぶつかっただけなのに。
「すまん」
カランは簡潔に詫び、そのままその場を立ち去ろうとした。このような場合、取りあえず詫びるのが、トラブルを防ぐ最善策。と、彼は経験上から学んでいた。
無論、万能ではないし、物事には例外がある。この場合がそうだった。
ガソリンに火の粉が落ちたように、男の怒りは瞬間的に燃え上がった。噴気に顔が真っ赤に染まり、カランを睨みつけた。
「おいッ、糞ガキ! それだけで行っちまうんじゃあないだろうなぁ!? 落とし前つけてもらおうかッ!」
言って、男は腰の得物に手をかける。幅の広い剣だ。それを見た周りの人間はこぞってその場を離れようとする。女子供は悲鳴を上げ、男はそれらを連れてその場から遠ざかろうとする。
背中に怒声を浴びせられたカランは、ゆっくりと男の方へ向き直った。眉間にしわをよせ、鋭い目つきで男を睨んだ。彼もまた怒っていた。人混みのストレスと、チンピラに絡まれた不運に彼はキレていた。
「落とし前ってのはどうやってつけるんだ? お前をぶちのめせばいいのか?」
カランは言った。機嫌の悪いカランにとっても、もはやこれを穏便に収めるつもりはなくなっていた。
「く、糞ガキが! 舐めた口きいてると二度と足腰立たなくてしてやるぞ!」
男の額に青筋がくっきりと浮かぶ。
カランは冷笑する。
「何がおかしいッ!」
「おかしいさ、剣に手をかけていつまでも抜かないなんてさ。ビビってる証拠だ。僕より年食ってて図体がでかいだけで、剣を抜く度胸もないなんてお笑い種だろ」
「こ、こ、この糞ガキがッ……!」
男はようやく剣を抜いた。切っ先をカランへと向ける。向けられた切っ先は怒りにプルプルと震えている。
「もう謝ってもゆるさねーぞ!」
「泣きわめき詫びを入れ許しを乞うのはお前の方だ」
「殺すッ!」
男は剣を大きく振りかぶった。その瞬間、カランは一気に男へと距離を詰めた。男の目が驚愕に見開かれる。気づいた時には既に遅い。カランは悠々と男の懐へと入った。剣には近すぎる、拳の距離。カランはもう半歩踏み込み、男の顎めがけて掌底を放った。男は掌底を目で追った。目で追うことはできても、身体は一ミリたりとも反応できない。男は覚悟せざるを得ない。
バシン!
カランの掌底が男の顎を綺麗に打ちぬいた。腰の入った完璧な一撃に男は為す術もない。顎を打たれた男の目がトぶ。男の意識は闇へと一気に落ちてゆく。全身から力が失われ、剣を取り落とし、膝は崩れ、白目を向いて地面へと倒れこんだ。とても呆気ない。
「これじゃ詫びさせることもできないな」
カランは倒れこんだ男に一瞥をくれ、その背に一言残すと、周囲の群衆に紛れ込みその場を去った。警察沙汰は困るし、何より一秒でも早く、この混雑から抜け出したかった。男をノしたことで少しばかり気分は晴れたが、まだストレスが完全に解消されたわけではなかった。この混雑の渦中にいるうちは、ストレスが解消されることはありえない。
なんにせよ、カランはすぐにでもこの場を離れる必要があった。
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