一話 王都事変 その二十二 近衛騎士

 闇を残らず追い払うように、篝火が煌々とたかれている。昼間と見紛うほどの強い灯りに満ちている。


 そこが戦場だ。


 厳密にいえば、未だ戦場ではない。未だ戦闘は起きていない。しかし時間の問題だ。


 一本の辻を境に対峙する両陣営は篝火の灯を面に受けて、その目は敵を睨みつけている。


 反乱軍と討伐軍だ。


 反乱軍は少数。街の一角を改造し、即席の要塞として立て籠もっている。一週間以上、一度も干戈を交えない焦れったい籠城戦。だが、士気は決して低くはない。彼らの大多数を占めるのは近衛騎士団だ。近衛騎士団は戦闘のエキスパートだ。彼らにとって一週間の籠城はさほど問題ではない。古の大戦の経験則は、数十年の時を経て、代を経ても遜色ない。かつての大戦の長きに渡る戦陣に比べれば、これぐらいのことは何のこともない。


 もう一方、討伐軍の方は疲れと倦みを見せ始めていた。討伐軍は数で勝る。反乱軍の立て籠もる一町を鼠一匹通す隙間もなく、ぐるりと包囲している。状況は完全に優勢。戦力差は十対一、いや、それ以上だ。包囲した敵拠点は城塞ではなく、ただの街だ。万が一にも敗ける恐れはない。それなのに、士気は低い。この軍は近衛騎士団とは違い、かつての経験則が活かされていない。というのも、近衛騎士団とは違い、彼らは騎士でもなければ貴族でもないからだ。高級指揮官を除いて軍の兵士のほとんどは平民で構成されていた。軍は食い詰めた平民たちの受け皿としての側面を持っていた。彼らには学がない。戦場において守るべき誇りもない。学も誇りもなければ歴史もない。やる気もない。誇りを持ち、勇ましく戦うが華とする貴族や騎士に比べれば、いささか見劣りするのは否めない。中には戦場で活躍し、立身出世を夢見る者もいないではないが、恃みとするには無理があるほど些少だ。平民の多くは食い扶持のために戦っているに過ぎない。戦場で命を懸ける意気込みなど、あるはずがない。


 故に、討伐軍の士気は低い。一週間の対峙は彼らにとって思いも寄らない重労働だった。昼夜を交代制で戦陣につくが、たとえ休憩中でも、心安らかに休むことができた人間はほとんどいない。休める人間はよほど無神経か、もしくは想像を絶する大器かどちらかだろう。大多数の兵士が初陣で、そしていきなりの緊張感溢れる長期に渡る睨みあいのせいで、倦み疲れていた。


 一本の辻を隔てて見る討伐軍の疲弊は、反乱軍の側からでもよく分かった。隊列が乱れている。槍を取り落す者がいる。居眠りをしている者がいる。遠くに見える指揮官格でさえ、欠伸をする始末。勇将の下に弱卒無し。という格言があるが、逆もまたしかりである。


 反乱軍の拠点に二人の男がいた。中年と老年の狭間にいるだろう男と、壮年の男だ。二人は即席の櫓に立っている。狭間の男は遠眼鏡を用いて篝火盛んな敵陣を覗いている。狭間の男は真っ白な総髪だ。顔は彫りが深く、鼻も口も目も石細工の硬さを思わせる。至る所皺が寄っている。口元の皺は一際濃い。壮年の男はその傍らに侍している。短い黒髪と凛々しい眼つきが爽やかだ。二人とも近衛騎士団の純白の正装を身に纏っている。


「ふん……」


 総髪の男が鼻を鳴らした。多分に馬鹿にする調子があったが、そこには隠れた嘆きがあった。本心は嘆きにあった。


「これでは我々の死んだ後、すぐにでもこの国は滅ぼされるぞ」


 遠眼鏡を下ろし、深いため息交じりに言った。


「仰る通りです」


 壮年の男が言った。


「それも私の力不足か」


 総髪の男は、壮年の男に遠眼鏡を渡しつつ言った。壮年の男は受け取り、木箱にそれをしまった。


「何を仰られますか、貴方様はこの国に、ひいては王に、多大なる貢献と忠節を捧げてきたのは広く人臣の知るところ。志を知る者は皆、貴方様に今も付き従っております。憚りながら私めもその一人です。事の問題は貴方様一人の力不足に非ず、姦賊ヘレルボーの神をも畏れぬ姦計によるものです」

「しかし私はその姦計を破れなかった」

「今は姦賊のまやかしが人の目を狂わせているのです。正が邪に、邪が正に見えているのです。しかし邪道はあくまでも、どこまで行っても邪道。邪道は神がお許しになるはずありません。いずれ貴方様の正道が、邪道の霧を払いましょう」

「ふふっ。頼もしく思うぞヴェルター。しかしな、ヘレルボー殿は中々の逸物だよ。一体如何様にして王や重臣の関心を集めたのか気にならんか?」

「あのような者に『殿』をつけることはありますまい!」

「まぁそう言うな。私はある意味では彼に尊敬の念すらある。近衛騎士団長を追い落とすどころか、近衛騎士団そのものを破滅に向かわせる政治的手段は、中々のものではないか」

「……我々は、未だ敗けておりません」

「未だな。だが、いずれ敗ける」


 少しの沈黙があった。逃れられぬ破滅の運命はこの二人の頭上にあり、未だ動かない。しかし、いずれそれが流星群のように降り注ぎ、二人の身を亡ぼすのは、彼ら自身の目から見ても明らかだった。彼らはその運命を従容として受け止めていた。しかしいざその現実を口にすると。口惜しさに言葉を失う。


「問題はな、ヴェルター。敗け方だよ。我々の死をいかに活かすかが問題だ。ただ死んではならん。死に方が、この国の明日を左右するのだ」


 そう言って、総髪の男は笑った。


 ヴェルターの目に思わず涙が溢れた。危うく落涙しかけ、慌てて目を閉じた。最近涙脆くなった。ヴェルターは思った。人前での涙は騎士の不徳だ。分かっていても、涙は溢れてくる。齢のせいか、それとも差し迫った死の運命のせいか、それは彼自身にも分からない。


「して、如何して我々の死を活かしますか?」

「よく戦うことだ。王の騎士として、一人の人間として、その全てを賭けてよく戦うのだ。果敢に戦い、後世に名を残すべし。さすれば、後世の人々は、我々の戦いぶりから何かを感じ取ってくれるかもしれん。いや、感じ取ってくれるはずだ。私は人間を信じている」


 もうだめだった。ヴェルターの目から一粒の涙が流れ落ちた。口惜しかった。正義は必ず勝つと信じてきた謹厳実直な騎士であるヴェルターには、この状況は信じ難く、耐え難い。


「泣いていいぞヴェルター。私とて泣きたい気持ちだ」


 思いがけない言葉に、ヴェルターは驚いた。そして、直後号泣した。堰き止めていたものが決壊した。一生分の涙だった。声だけは何とか押し殺した。彼は唇を噛みしめ、純白のズボンの端を握りしめ涙を流した。


「たまにはよかろう」

「しかし、貴方様は泣きませんね」

「私は泣いてはいけないのだ。彼女のことを思うとな」


 言って、総髪の男は北へと目を向けた。視線は虚空の闇へと吸い込まれている。闇の先にあるのは、カールーの町、砦、ガラキ山。闇の先のそれらを見つめていることがヴェルターにもすぐに分かった。何故なら彼もまた、総髪の男と同じ心のしこりを、その方角に残していたからだ。


「リィン・アットレイルですか」


 涙を拭いて、ヴェルターが言った。


「彼女には悪いことをした……」


 総髪の男は俯いた。


「しかし、彼女が上手く事を運んでいれば……」

「彼女を責めてはならん。あれは私の落ち度だ。情報が漏れていたのだろう。敵の方が一枚上手だった。全ては私の責任だ。私のせいで、死ななくていい若者を一人死なせてしまった」


 総髪の男は薄い唇を噛みしめた。


「そう、ご自分を責めないで下さい。あの時はああするしかありませんでした。私とて貴方様の御立場なら、同じことをしたでしょう。そうすることでしか、かの男の専横を止めることはできません」

「いいや、今にして思えばやり方は他にもあった。だが、あの時の私は正当な手段に拘り過ぎていた。騎士としての高潔さに捉われ、騎士としての本分を見失っていた。騎士としての本分とはなんだ?」

「主への絶対的な忠節です」

「そうだ。そのためなら己を返り血で汚すことを恐れてはならん。ヘレルボー殿を止める一番簡単かつ直接的なやり方は、己が剣を振るうことだった」

「し、しかしそれでは……!」

「重臣を証拠もなく逆賊と決めつけ暗殺すれば、私もまた罪に問われるだろう。しかしな、ヴェルター。主を思うならば、自らが泥を被ることを避けては通れぬ時がある。それこそが騎士の本分だ。私はそれを避けてしまっていた。そのせいで、若者の命を無駄に奪ってしまった」


 総髪の男は数秒間瞑目した。短い時間の中で、彼は己が一生の晩節に迎えた失態を悔いた。彼が再び目を開けた時、彼の胸裏から悔恨は過ぎ去った。引いては満ちる潮のようだった。一時、彼は強い意志でそれを忘れることができる。悔やんでいる場合ではないと自分に言い聞かせることができる。しかし、あくまで一時だけだ。またしばらくすると、いつの間にか満ちている。人が業から逃れ、または忘却するには、長い時間が必要だ。だが、彼に残された時間はそう多くはない。彼もまた、自分自身が数日内に死ぬことを確信している。敵は多勢、隙間なく自らを包囲している。


 ヴェルターの目から見ても、総髪の男の悔恨は尋常ではなかった。平素は、この緊急時に至っても落ち着き払い、威厳も風格も失わないのだが、時折見せる仕草に、ふと、彼の苦悩が浮かび上がる。目が虚ろに遠くを見る。ため息が増える。数秒間に渡り瞑目する。等々の仕草は、長らく副官を務めるヴェルターの心を激しく揺さぶった。ヴェルターには総髪の男の苦しみが痛いほどよく分かった。だが、それを癒す術を知らない。そんなものは誰も知らない。時だけが知っている。


「どうやらお疲れの御様子。今夜はもうお休みになられた方が良いでしょう。後のことは私にお任せ下さい」


 ヴェルターが言った。彼にできる最大限の配慮だった。

 総髪の男は、何やら一瞬物憂げに視線を落とした。


「そうしよう」

「では居館まで」


 二人は櫓を降りた。


 櫓を降りれば、そこはずっと暗い。前線の篝火は櫓の頭先をほのかにかすめるのみで、その足元にまでは及ばない。即席の拠点は、皆不慣れだから道を間違えないようにと所々に小さな灯がたかれているが、それは目印程度なもので、照明の用をなさない。


 即席の拠点は、総髪の男の居館を中心として形成されている。故に、彼にとってはこの辺りは近所だから、目を瞑っても歩けるほどに熟知している。ヴェルターの居館はまた別の通りにあったが、彼もまたこの辺りには詳しかった。副官として、総髪の男の居館を訪ねることが多々あったからだ。


 二人は微かな灯りに彩られた闇夜を歩いた。


 櫓を離れれば、そこらの道に人はいない。衆寡の反乱軍兵士のほとんどは最前線にあって防備を固めている。後備えはいない。余力はない。必然、最前線と防衛拠点である総髪の男の居館の間には人間の空白地帯が生まれる。


 二人は歩きながら、寂しさを味わった。前線の音は遠い。二人の間をすり抜ける風は冷たい。周囲には闇がある。二人の足音だけが身近だ。


 平時ならば、この通りはそこまで暗くない。この辺りは高級住宅街であり、放蕩貴族の多く住むところであった。彼らは夜を徹して楽しむ。火を使い、火の光の揺らめく中に喧騒と影が躍るのを二人は幾度となく見た。平時には迷惑に思えたそれも、今となっては懐かしいものだった。今は静寂でただ暗い。まるで二人の未来を暗示しているように。


 と、その時だった。

 二人の距離が開いた。


 総髪の男の足が止まっていた。ヴェルターは気付かず先へ行く。


 総髪の男は目を見開いた。彼の五感が明敏に働きはじめる。五感が危険を察知した。彼は本能的な鋭さで、腰へと手を伸ばした。伸ばした先には得物がある。純白の鞘に金の装飾のあしらわれた、気品溢れる剣。


「ヴェルター!」


 総髪の男は叫んだ。名前だけの短い叫びには副官への警報の意味があった。警報するにそれ以上の言葉を紡ぐのは不可能だった。危険は身近に迫っていた。右後方だ。総髪の男は抜刀しつつ、振り向いた。振り向きつつ、差し迫った危険が、最初に感じた時よりも、遥かに凄まじい速度をもっているのに気づいた。彼は振り向くと同時に、得体の知れない危険に向かって抜き打ちをかけた。


 カァァン!


 何かが総髪の男の剣の樋を打った。凄まじい一撃だった。刀身が振動し、衝撃が走り、衝撃は彼の腕を襲い、痺れさせた。衝撃は腕に留まらず、彼の体勢を崩した。彼はよろめきつつ、後ずさりつつ、第二波に備えるため、剣先を敵へと向けた。


「ザッケン様!」


 総髪の男のよろめく姿を見て、ヴェルターは絶叫した。ヴェルターは愛刀を抜きはらいつつ、正体不明の刺客へと向かった。闇夜に見える刺客の輪郭は小柄だ。しかし、小柄だとはいえ侮ってはならない。不意打ちとはいえ、あのザッケンをよろめかせたのだ。


 ヴェルターは両手に剣を構え、鋭い切っ先を敵影の真ん中へと向けた。突きの姿勢だ。敵は悠然と待ち構えている。ヴェルターは二つの影の間に飛び込んだ。飛び込みつつ、敵影に向かって剣を突き入れた。いや、突きは途中で変形した。手首がクルリと返され、薙ぎ払いの形になった。意表を衝く恐るべき剣筋。熟達の遣い手にしか為しえない自在の剣。


 瞬間、ヴェルターの両手に鋭い痛みが走った。ほとんど同時に、彼の胸に鋭さをもった影の迫るのを見た。ヴェルターには何が起こったのかわからなかった。あまりの痛みとダメージに、両手は剣を放している。もはや防御も相打ち覚悟の反撃もままならない。


 ドンッ!


 胸部を打つ痛みに、ヴェルターの意識が遠のく。しかし、彼は必死に意識を繋ぎ止めた。意識を繋ぎ止めることで精一杯で、他のことはおざなりだった。彼は大きくのけぞり、吹っ飛ぶようにして地面へと落ちた。


 ヴェルターは敗れた。しかし、そのおかげで総髪の男、ザッケンは十分に体勢を整えることができた。彼は悠然と構え、敵影に向かって剣を向けた。


「何者だ!」


 ザッケンが影に問うた。


「貴殿を近衛騎士団団長、ザッケン・ローンゴー殿とお見受けした。相違ないか?」


 それは女の声だった。若い女だ。そして、影は答えず、逆に質問を返した。


「いかにも私がザッケン・ローンゴーだ。お前は女か。女の暗殺者をあてがわれるとは、近衛騎士団団長も墜ちたものだな。ヘレルボー殿に舐められるようではいかんな」


 ザッケンは自嘲気味に言った。


「女と思って甘く見ない方がいい。私は並ではないぞ」

「いかにもそのようだ。私の副官をたった二撃でのしたのは並大抵の腕ではない」

「ほう、私の剣が見えたか」

「腐っても近衛騎士団団長さ。見えないはずがない」

「なるほど、では、これならばどうだ?」


 直後、影が揺らいだ。そうとしか見えないほどの超高速度だった。それはヴェルターを倒したあの一撃よりもさらに速い。だが、ザッケンはそれに反応した。敵の攻撃に合わせるように剣を出し、払った。得物と得物がぶつかり合うかという瞬間に、影の方が得物を引っ込めたために、打ち合うことはなかった。


「見えていると言っただろう」


 ふーっと一息吐いて、ザッケンが言った。


「それよりも君、こちらが名乗ったのだから君も名乗り給え」

「反逆者に訊かせる名などない!」

「ふむ。確かに、今でこそ私ははからざるに身を反逆者へとやつしてしまってはいるが、騎士としての流儀を失ったわけではない。一対一の戦いならば、互いに名を名乗るが正道。それに……」


 ザッケンは言葉を切った。わざと勿体ぶり、深く溜めた。


「それに、君の墓を名無しにしたくはない」


 ザッケンは微笑んだ。挑発だ。青白い激昂の下に、彼の笑みはひどく皮肉に見えた。

 女の、得物を握る手に力が入る。見え透いた挑発に、女は過剰に反応する。


「心配には及ばない。それは天が落ちるにも似たいらざる心配。私は貴殿如きには負けない!」


 女は強く言った。


「反逆者如きが騎士の流儀を語るなど片腹痛くもあるが、まぁいい。冥土の土産に訊かせてやろう。我が名はリィン・アットレイル。あの世に逝っても忘れぬよう、とくと噛み含めておくがいい!」


 名乗り口上と同時に、月に掛かった薄雲が晴れた。月光がリィンの顔は照らした。青白く照らされた顔に鋭い眼つきがザッケンを射抜く。


 ザッケンは目を見開いた。


「リィン・アットレイル……、生きていたのか……」


 ザッケンは静かにため息をついた。安堵のため息だった。胸の中のしこりが、少しずつ晴れてゆくのを感じた。

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