一話 王都事変 その二十一 リィン邸に二人

 貴族街と平民街を隔てる城壁には、町全体を覆う外郭に配置された人員に比べ、多くの人員が投入されていた。あくまでも外郭に比べて多いというだけで、必要十分な数が配置されているわけではない。彼らに与えられた主任務は外郭のそれと同じく、通行の規制と、警備。彼らもまた、主戦場から遠くに配置され、戦働きもできず、武勲を上げられない無聊を不貞腐れつつ慰めるほかなかった。故に、やはり士気は低く、仕事もおざなりだ。


 そんな有様だから、いくらでも抜け穴はあった。

 リィンとカランの二人は難なく貴族街へと乗り込むことができた。

 慎重を期するべきはここからだ。


 さすがに、貴族街ともなれば警戒は厳重だ。まず二人が目指すリィン邸は貴族街の外縁部にあり、貴族街と平民街を隔てる壁からさほどの距離もない。平時なら二十数分歩けば辿り着くところだが、非常時にあって警らの兵士が道の辻々に立ち、槍を手に四方へ目を光らせている。


 二人は警らの目を逃れるために、その都度、アドリブを利かせて立ち回るしかなかった。そんな調子だから真っ直ぐにリィン邸へと向かえない。右に折れるべきを左に折れ、真っ直ぐ行くべきを右往左往、結果的にかなりの遠回りになる。それでも何とか二人は通常の三倍ほどの時間をかけて、ようやく目的のリィン邸を闇夜に朧げに捉えた。もう目と鼻の先だ。


 二人はリィン邸の庭に面する塀へと取り付いた。取り付くや否や、二人はサッと塀を乗り越え、庭へと降り立った。


 庭へ降り立った二人を出迎えたのは、変わり果てた邸の姿だった。窓は割れ、壁は傷つき、至る所の戸は開け放たれたままだ。庭に衣類や家具や小物やらが乱雑に放置され、軽い物は時折吹く微風にはためいたり、飛び回ったりする。


 リィンは絶句し、変わり果てた我が家を呆然と眺めた。まるで廃墟だ。彼女は思った。まるでではなく、まさに廃墟そのものだ。


 その様子を、カランは気の毒に思った。あまりの気の毒さに声をかけることもできなかった。こういう場合はそっとするほかに方法はない。彼は思い、そっとリィンの傍を離れた。


 二人とも、こういう事態を全く予期していなかったわけではない。警察や憲兵が余罪や謀略を追求するために、逆賊の宅を捜査することは十分に考えられた。しかし二人ともそれは言明しなかった。あまりに分かり切っていたことだからわざわざ口に出すことでもない、とリィンは思っていたし、カランも、彼女が言わないのなら、自分があえて触れることもないと決めていた。


 予期してはいたが、いざそれが現実となって目の前に現れると、リィンは心臓を鷲掴みされるような切ない胸の痛みを感じずにはいられなかった。王と自分との間に間違いがあったとはいえ、生まれてからずっと過ごし、思い出ある我が家を踏み荒らされるのは、大きなショックだった。


 リィンは俯いた。しかし、すぐにハッとなって顔を上げ、邸内へと駆け込んだ。

 一呼吸おいて、カランも続く。


 リィンの脳裏に邸の連中の顔がよぎった。彼らは大丈夫なのだろうか? そう思うと、居ても立っても居られなくなった。無事でいるのだろうか? まだ邸にいるのだろうか? 長きに渡ってアットレイル家に仕えてくれた彼らのことを思うと、気が気でない。アットレイルの主従の絆は鉄より固く、海より深い。


 リィンは邸内を駆けまわった。どこもかしこも荒らされている。無事な部屋は一つもない。トイレ風呂場でさえも、何やら探した形跡がある。どこもかしこもあるのは何らかの形跡だけで、人っ子一人いない。従者の本拠地ともいえる離れの方を探しても、やはり誰もいない。離れすら荒らされている。離れも屋敷も、かなりの家具や調度品が押収され、荒れ果て、殺伐としている。


 結局、従者はどこにもいない。影も形もない。行く先は杳として知れない。生死すら定かでない。血痕や壁や残された家具に刀傷の類はなく、争った形跡はないといえるから、少なくともここで死んだとは考えられにくい。リィンは消えた従者たちの生きていることを願った。


 願いつつ、フラつく足は自然と自室へと向かっていた。心がひどく傷ついたとき、自室にこもるのが、リィンの習性だった。緊急事態にあっても、自邸のせいか、無意識に習性が現れた。自室に辿り着いた彼女は、愛用の椅子にガックリと腰を落とし、愛用の机に上体を預けた。


 リィンの部屋は、それほど荒らされていなかった。机の抽斗は全て開け放たれ、紙という紙が全て抜き取られていた。家具の類は位置こそ大きく変わっていたが、押収されたものはなかった。自室の家具がどれも資産価値の薄い、古びた物だけで構成されていたおかげだろう。他人の目に触れる、応接間の家具にはそれなりに気を遣っていたせいで、全て持ちされてしまっていたが、元来質実剛健、質素倹約を奨励する彼女だから、自室の家具には無頓着だった。


「気の毒なところ悪いんだが……」


 意気消沈しているリィンの背に、カランが声をかけた。彼は少しばかり言いにくかったらしく、そこで一旦言葉を切った。


「約束のアレ、貰えないか?」


 アレ、とは報酬のことだ。


 リィンはナマケモノのような緩慢な動作で、机に預けていた上体をゆっくり起こした。人がショックを受けているのに、全くなんて奴なの! デリカシーの欠片もないわ。リィンは思った。ゆっくりと椅子から立ち上がり、背後のカランへと振り向いた。不機嫌そうな顔の、非難を投げかける目線が、カランへと注がれた。


「相手を間違えてる。僕がやったわけじゃない」


 カランはリィンの視線をかわしつつ、荒れた部屋を見回した。


「分かってるわ」


 リィンは目を瞑り、ため息をついた。


「私としても報酬を上げたいけれど、この有様よ」


 今度はカランがため息をつく番だった。


「やっぱりかぁ。隠し金庫とかないの?」

「あったとしても、これじゃあね」

「たしかに。あーあ、結局ただ働きになったか」


 カランは目を瞑り、天を仰ぎ、壁にもたれかかった。


「支払いは遅れるけど、ただ働きにはさせないわ。私が反乱軍の首魁を討ち、見事返り咲いた暁にはきっちり割り増しして払うわ」

「それには期待してないよ」

「なっ……! 失礼ね! 私が失敗すると思っているの!?」

「今朝も言ったけど、あんたの言ったプラン、僕にはどう転んでも成功するとは思えないな。考え直した方がいいんじゃないか? あんたの反逆の汚名は、近衛騎士団長の首一つで払拭できるものなのか?」


 一瞬、リィンの中に逡巡が生まれる。カランの言ったことは、重大な懸念材料だ。それでも、リィンはそれから目を逸らした。リィンの中の『騎士としての自分』がそれを拒否した。騎士の誇りは、あくまで正々堂々の名誉挽回を望んでいる。


「できる! 私はそう信じている!」


 言葉が、口をついて飛び出した。


「『信じたい』の間違いじゃないか?」

「……ッ!」


 リィンはカランを睨みつけた。必要以上に強い眼差しの裏に、図星を上手く覆い隠した。


 カランは微塵も物怖じしない。竦むどころか、リィンの方へ向かって歩き出し、彼女のすぐ目の前に立ち、正面から視線を返した。


「はっきり言おう。行かない方がいい。あんた死ぬぞ」

「ご忠告どうもありがとう。でも、誰が何と言おうと私は行くわ。行って、逆賊を討ち果たし、見事名誉を挽回して見せるわ」

「無駄だと思うよ」

「やってみなければわからないわ」

「やるまでもない」

「もういいわ」


 言って、リィンはくるりと踵を返した。


「もう決めたの」


 リィンは愛用の机へと近づき、抽斗をあさった。暗闇の中、手触り頼りの捜索は難航するかと思われたが、程なくしてそれは見つかった。彼女はそれの感触を確かめるように強く握り締めた後、力を抜き、再び踵を返してカランの元へと近づいた。


「前金代わりよ」


 そう言って、リィンは先ほど抽斗から探し出したそれをカランへと差し出した。

 カランは受け取った。それは剣をそのまま手のひらサイズに縮小したようなものだった。リィン愛用の銀のペーパーナイフだ。彼はペーパーナイフのどこに値打ちがあるのかと、マジマジと見つめたが分からなかった。暗いせいで、銀だということに気付かない。


 祖父から譲り受けた宝物を差し出すのは、それなりの葛藤があった。しかし彼女は涙を呑んだ。それもやはり騎士の誇りがそうさせる。万が一にも事を仕損じ、名誉回復に失敗した場合、恐らく命はないだろう。そうなった場合、カランにはただ働きをさせたことになる。貴族として、騎士として、そのような悪徳が死後に残るのは耐え難い。例え細小でも、金品を渡しておかなければならない。彼女の手元にある金品といえば、銀のペーパーナイフ以外にない。


「それはね、銀でできているの」

「へぇー。だけど、いくら純銀とはいえ、この大きさじゃ大した値段にはならないね」

「前金代わりだって言ったでしょ。今てもとにあるの金目のものといえばそれしかないんだから仕方ないじゃない。事が成れば、ちゃんと報酬を支払うわ」


 カランは返事をせず、ペーパーナイフを懐へとしまった。


「それじゃ、そろそろ行くわ」

「今から行くのか?」

「ええ、暗殺するには夜が一番よ。夜が明けるまでに勝負を決めないと、朝が来れば、本格的な戦闘が始まるかもしれない。始まったら、折角の機会を失うかもしれない」

「どうしても行くのか?」

「しつこいわね……、ひょっとして、心配してくれているのかしら?」


 クスリと、リィンは笑った。

 カランは頬に熱さを感じ、サッとリィンから顔を逸らした。


「そんなんじゃないよ。死ぬと分かっている奴を、引き留めずにみすみす死なせたら、寝覚めが悪いだろ」

「そっちの心配をしてたのね。でも安心していいわ。私は死なない。私は『神速剣』の遣い手なんだから」

「しんそくけん?」

「そう、私の剣は誰の目にも留まらない、まさに神の如き速さの剣よ」

「剣か。で、その剣はどこに?」

「神速剣は剣の名前じゃないわ、いわば技術の名称ね」

「いや、そうじゃなくって、剣っていうくらいだから、剣を遣うものなんじゃないかと思って。神速剣は剣がなくても遣えるのか?」

「一種の剣術だから、剣がないと遣え……、あ」


 リィンは自分が剣を持っていないことを思い出した。愛刀はカールー砦に押収されたままだ。彼女は名誉を挽回することばかりで頭がいっぱいになるあまり、逆賊討伐に必要な武器にまで頭が回っていなかった。ドジ、ここに極まれり。


 リィンは邸を飛び出した。物置小屋へと疾走した。

 物置小屋は先ほど、従者、家僕を捜索する際に一度見回っている。

 その際に開けっ放しになっている物置小屋の中へリィンは転がり込んだ。


 ここも邸と同じく荒らされている。箒やら木桶やら、家事に必要な道具類が床にぶちまけられ、ぶちまけられた衝撃のせいか、いくつかの道具は無残にも壊れてしまっている。家宅捜査の乱暴さを現場が如実に物語っている。


 必死に金目の物を探し回った痕なのだろう。しかし、元よりここに目を見張るような金目の物など置かれていなかった。それが、捜査の連中をさらに躍起にさせたに違いない。どこぞに金目の物はないかと、取るに足らない小さな壺でさえ割って中身を確かめたらしい。無残な破片が散らばっている。


 リィンの記憶では、ここには確か普段は使わない武器の類が保管されていたはずだ。刀槍や弓や弩などがあるはずだった。

 リィンは暗闇と床に大量に散乱した道具やら破片やらのせいで足元のおぼつかない中、慎重な足取りで物置小屋の中を捜索した。


 しかし中々見つからない。それもそのはず、取るに足らないものばかりを納めた物置小屋の中でも、武器は微々たるものではあるが、金にならないこともない。家宅捜査にかこつけ、金に飢えた不届き物たちには例え端金であっても格好の獲物だ。


「武器もないんじゃ、話しにならないな。やっぱりやめた方がいいんじゃないか?」


 声に、リィンは咄嗟に背後を振り返った。いつの間にか、物置小屋の戸口にカランが立っていた。弱々しい月明かりを受け、淡い背景に影となった彼の姿が浮かんでいる。


「たとえ素手でもやり遂げるわ」


 言って、リィンは彼に背を向けると、武器の捜索を再開した。


「無茶苦茶だな。そんなの成功するはずない」

「やってみなければわからないわ」

「……あんた、信じられない馬鹿だな」

「あなたにはわからないわ。これには騎士としての誇りが懸かっているの」

「そんな馬鹿げたことが騎士の誇りなのか?」


 言葉がリィンの耳に入った瞬間、彼女の頭と胸がカッと熱くなった。カランの言葉はリィンの逆鱗に触れた。


「騎士の誇りを馬鹿げたこととは……! 断じて許さんッ!」


 言うなり、リィンはカランに向かって突撃した。怒りに任せた突撃は速い。しかし、速過ぎるということはない。その上、あまりにも芸がない。猪のように向かってくるリィンを、カランは哀れに思う余裕すら持っていた。


 二人の影が重なる瞬間、リィンの視界が上下反転した。殴りかかろうとした拳はものの見事に空を切り、足は地に着いていなかった。まるで重力から解放されたかのような感覚を味わった。


 トスン!


 リィンは背中から地面に落ちた。何が起こったのかわからない。視界が回転したかと思うと、いつの間にか地面に倒れ、カランを見上げている。リィンは目をパチクリさせ、小さく息を吐いた。


 一瞬で、あまりにもあっけなく勝敗が決してしまったせいか、先ほど爆発させていたリィンの怒りは、瞬間的に雲散霧消していた。しかし、すぐにまた怒りはぶり返した。先ほどの爆発的な怒りとは違い、炭火のようなトロトロとした怒りが燻りだした。


 手加減されたことを理解したせいだ。リィンは投げられたものの、その身に一片の痛みも感じなかった。背にある違和感は痛みではない。背と地面の間に柔らかい何かがあるせいだ。カランの足の甲だ。カランはリィンが怪我をしないようにソフトに投げ、さらに、地面との間に己の足を差しはさみ、緩衝材としていた。これがリィンには全くもって面白くない。殴りかかった相手に気を遣ってもらうなど、彼女のプライドが許さない。


「これでわかっただろう? 素手じゃ無理だ」


 リィンの顔が真っ赤になった。正に弄ばれた乙女といった感じだ。


 リィンはゆっくりと立ち上がると、踵を返し、そそくさと武器捜索へと戻った。誇りはいたく傷ついたが、もはやどうしようもない。情けをかけられた相手に、もう一度殴りかかるような情けない真似はできない。


 無視され、カランはやれやれとフードの上から後頭部を掻いた。再び戸口にもたれかかり、武器を探すリィンの背を呆れ顔で見守っている。

 しばしの間、二人は無言だった。夜は深まる。静寂の中に物置小屋をかき回す音だけがある。


 それから約十分の間、リィンは必死になって物置小屋を探した。だが見つからない。下級貴族の邸の物置小屋の広さなど高が知れている。十分もの間探せば、それはもう隅から隅まで探し尽くしたも同然だ。


 さすがのリィンも、ここにきてようやく『諦め』の二文字が頭をよぎりはじめた。武器がないのでは如何ともし難い。リィンは悔しさに、壁に拳を打ち付けた。


 ドン!


 ガタがきていたのだろうか、物置小屋はリィンの想定していた以上に軋み、揺れた。自分でやっておきながら、リィンはかなり動揺した。脱出しようと戸口に目を向けると、カランが普段以上に目を見開き、リィンの方を見ていた。彼も驚いたらしい。


 揺れは拳を打ち付けた一瞬だけで、すぐに治まった。


 物置小屋の片隅で、何かの崩れる音がした。リィンはそこに目を向けた。そこには藁のような植物で編まれた、底の深い袋が横たわっていた。さっきまでそこにそんなものはなかったはずだ。リィンは首を傾げた。傾げつつ、袋へ歩み寄ると、それを手に取った。袋の深さは一メートル以上もある。触った感触からするに、中には棒状の何かが数本入っているらしい。だが、彼女の期待している剣ではなさそうだ。剣にしては軽い。袋の上部には持ち手なのだろうか、紐がついている。


「あっ」


 リィンはそれを知っていた。それが何なのか、手に取ってようやく思い出せた。彼女は視線を上に向けた。そこには一本の釘が打たれていた。錆びきっていて、歪み、全体として下方向に急角度で斜めになっている。そこに袋は吊るされていたのだろう。それが、リィンの八つ当たりの一撃のおかげで、落ちたのだろう。


 リィンは袋に視線を戻すと、袋の口を開けた。中には三つの木製の棒が入っていた。彼女はその中の一本を取り出し、袋を床に置いてから、両手でギュッと握りしめた。


 それは木剣ぼっけんだった。木でできた模造の剣。リィンにとって懐かしい、思い出深い剣。久方ぶりの感触に、彼女は短く、過去に思いを馳せた。祖父や父、そして従者や家僕たちと鍛錬に明け暮れたあの日の思い出が胸に甦った。


 ふと、リィンは思った。木剣でも、剣は剣。人を殺すことはできる、と。


 斬れない剣といえども、その打撃力は馬鹿にできない。斬れなくとも、骨を砕き折ることくらい訳はない。戦場での武器としては頼りないかもしれないが、たった一人を相手にするに不足はない。特にリィンは優れた剣士であり、神速剣の遣い手だ。剣であるならば神速剣は十分に機能する。それがたとえ木でできていようとも。


「見つけたわ」


 リィンはポツリと呟いた。声に、どこか自信が窺える。

 呟き、振り返ったリィンを見て、カランはまたため息をついた。今度はさらに大きなため息だった。


「見つけたって、それ……?」

「ええ、これよ」


 自信満々に木剣の先をカランへと向ける。弱い月明かりに薄らぼんやりとした姿を見せる木剣は、カランの目にいかにも頼りなく見える。


「武器ならなんでもいいってもんじゃないだろう」

「なら、試してみる?」

「冗談だろう?」

「本気よ。構えなさい」


 どうやら本気らしい。カランはリィンの目からそれを感じ取った。


「わかったよ」


 カランは気が進まなかった。だが、もう一度へこましてやれば、頭の固い騎士さんの多少は物分かりが良くなるだろうと思い、一応構えを取った。


「腰の得物を抜きなさい」

「抜くまでもないよ」

「そう。でも、負けた時の言い訳は聞かないわ」

「そんなもの必要ないさ。負けるのはあんただ」

「どうかしら? それじゃあ、いくわよ」


 リィンは構えを取った。


 瞬間、空気が変わった。正体不明の圧力が、リィンの全身を通して発せられるのを、カランはヒシヒシと感じた。カランは息を呑んだ。『何かがヤバイ』、彼はそう感じた。両手が反射的に腰の短剣に伸びていた。


 風を切る音がした。同時に、リィンの姿が消えた。カランの目にはそう見えた。カランの両手は腰のそれぞれの短剣を掴んだ。掴みはしたものの抜かなかった。いや、抜くことができなかった。彼は首筋にひんやりと冷たい感触をまざまざと味わわせられていた。木剣の刀身が、彼の首筋にピタリと当てられていた。


 勝負は一呼吸の内に決していた。カランは短剣を抜くことすらできずに、敗北していた。


 目の前でリィンが得意げな微笑を浮かべる。


 これが『神速剣』か。カランは目を瞑り、胸裏で呟いた。その圧倒的な力に、彼はただ嘆息するしかなかった。掴んでいた短剣から手を離し、両手を顔の横に上げた。降参のジェスチャーだ。


「これが神速剣よ」


 リィンは自信満々に笑って言った。カランの首筋に当てた剣先を、その鋭さを示すためにわざと首筋を舐めるように手元へと引いた。真剣なら頸動脈が切断されているだろう。


「おみそれした」


 カランはふーっとため息をついた。


「分かればいいのよ。どう? これなら逆賊の一人や二人、討ち取ることも無理ではないでしょう?」


 カランは答えなかった。別に否定するつもりはなかった。確かに、読んで字の如くの『神速剣』ならば、例え木剣であったとしても不足はないに違いない。しかし、かといって肯定もしない。土台無茶な話なのだ。一人で敵の本陣に侵入し、挙げようなどとは。


「分かったら、あなたはどこかで吉報を待っていなさい」


 リィンは颯爽とカランに背を向けると、歩み出した。敵陣へと行くのだろう。


「本当に行くのか?」


 カランはその背に声をかけた。


「ええ」


 リィンは立ち止まることも振り返ることもせずに言った。

 二人の距離は開いてゆき、やがてリィンの背は闇夜に紛れて見えなくなった。


 カランは見えなくなってからも、ジッとその先を見つめていた。死地へ赴こうとする騎士の背を見送って、カランははっきり知覚できる特別な感情を抱くこともなかった。今生の別れの予感なども感じない。ただ胸中にモヤがかっていた。それが何らかの予感なのか、未知の感情なのか、カランには自分でもよく分からなかった。ただ、何となくそわそわするような、ムズ痒いような、居心地の悪い感触。


「ふぅーっ」


 カランは大きく息を吐いた。胸の淀みを吐き出すように。淀みは消えない。濁りとなって胸に留まる。空を見上げた。月に雲がかかっていた。

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