第2話GENERATION 青と竜(ドラゴン)

【ACT〇】予期せぬ発端


 「今度という今度こそ許さん!」若き青年貴族エンヴェルは相手の胸倉を掴んで怒鳴った。「ウトガルド島に行くことは禁じられておるだろう! なのにお主はまたそこへ行き、おまけに今度は有り金全てを無くして――」

胸倉を掴まれた、青年セルゲイはため息を吐きながら、

「ごめんよ。 でもポーカーの相手が悪かったんだ、レ……何とかとかいう優男だったんだけど――すげえ相手で」

「ええい、許さん! 叔父上に今度こそ言ってやる!」

その発言を聞いた途端、セルゲイの顔色が変わった。

「え、ちょ、それは待った! 悪かったから許してくれ!」

「二度と行かぬと約束するか?」

「……」

五分ほど、たっぷり黙ってからセルゲイは言った。

「……分かったよ、約束する。 もう二度と行かないから、親父にチクるのだけは止めてくれ」

ねちねちねちねちと何日もしつこく嫌味を言われるのは、嫌であった。

「よし、信じるぞ!」

無邪気にエンヴェルは笑って――ふと表情を変えた。

「どうしたんだ?」

「呼んでおる……」

彼の眼は、既にセルゲイを見てはいない。どこか遠くを見つめていた。

海の上、ぽつんと浮かぶ小型船を発進させる。セルゲイは、その航路先にイルカの群れを見つけた。

「おい、あれ!」

「あれだ。 余を呼んでおったのは」

船は速度を緩めて、群れに近付いた。

――その中央には、若い男が浮かんでいた。


【ACT一】出会いの不可思議


 誰かに、遠くから呼ばれている。

「もし、もし――」

何だ。うるさい。放っておいてくれ。

「貴方はもう十分に眠りました。 そろそろ、起きる頃ですよ」

嫌だ。俺は眠りたい。

「そうおっしゃらずに。 ――さあ、お目覚めなさい」

 ――声の通りに、目が覚めた。広いが簡素な一室。彼は奥の寝台に寝かされていた。

枕元には、車椅子の少女が一人――実は少女どころか彼より遥かに年上の男だったのだが――座っていて、彼はじっと覗き込まれていた。

「こんにちは、オットー・フォン・ホーエンフルトさん」

車椅子の男はそう言って、にっこりと笑った。

「き、貴様は誰だ――!?」

「僕はJDジェラルディーン。 『帝国セントラル』のしがない一貴族ですよ。 貴方が漂流していた所を、僕の義理の息子が拾ったのです」

「ここは、どこだ」

「商都ジュナイナ・ガルダイア。 帝国の、異国との貿易を一手に司る煌びやかな街ですよ」

「――」彼は起きあがろうとして激痛にうめいた。ばっさりと斬られた傷跡が疼く。思い出した、彼は盟友を殺した政敵との戦いに敗れて――船から転落したのだった。「俺は、何日寝ていた」

「かれこれ一週間ほど。 そろそろだろうな、と思いまして、今日起こしたのですよ」

「礼を言う。 だが――何故助けた? どうせすぐに追い出すつもりだろうが」

彼の名を知っていると言うことは、つまり彼が万魔殿の幹部である事をも知っていると言うことであり――普段の帝国であったら、関わり合いになるのを嫌がって彼を放棄するはずだ。

「怪我人を、追い出すような真似はしませんよ」おっとりとした声でJDは言った。「それに――個人的に興味がありまして」

「俺の何に興味がある」

万魔殿パンテオンの『高貴なる血ブルーブラッド』の方と、もう一度お会いしたいと思っていたのですよ」

「もう一度?」

「僕は貴方の御父君とお会いしたことがありまして――それ以来、気になっていたのです」

「――俺の親父を知っているのか!」

「ええ、ほんの少し」

JDは少し笑って、オットーの手を取った。小さな、温かい手だった。

「ですので、しばらく御逗留下さいな」

 JDはそれから毎日のように終日オットーの部屋に押しかけた。そして、彼と雑談をしていくのだった。JDはとても話題が豊富だった。政治、経済、娯楽――帝国外の知識にも意外に長けていた。何日かして、オットーは疑惑を抱く。

「何故そんなに知っている? ――帝国は自ら外に出ようとはしないはずだ」

魔族が人を治める万魔殿と、人が魔族を治める聖教機構ヴァルハルラの争いを、無視しているのだと思っていた。同じ魔族が治める組織同士なのに、万魔殿の援助もせず、ただ自分が肥え太っていくだけなのだと――。万魔殿では、帝国の支配層である魔族――貴族のことを、肥え太ったブタと呼ぶ者すらいた。

「僕は昔から虚弱で引きこもりがちで、本を読むのが癖だったんです。 外のことを知りたいあまりに、帝国外のことも知りました。 ――娯楽は、悪友から教わったんですよ。 と言っても話だけですが」

「……どうして帝国は戦おうとしない? 帝国が本気で動けば、聖教機構など木っ端微塵に出来るだろう?」

オットーも聞いたことがあるのだ。過去に何度か、帝国は聖教機構を追いつめたと言う話を。

「我らが主、女帝陛下は、争いを望まれていないのです」

そう言って、JDは窓の外を見た。ところどころに緑の点在する白亜の街並みが、青い海に映えている。

「だから――陛下の臣民たる僕らも、余程の事がない限り、戦うことは出来ないのです」

「それで内側でぶくぶくと肥え太っていくと言う訳か」

オットーは皮肉を言った。JDは首を横に振り、

「もしよろしければ、これから街に出かけませんか?」と言った。

「別に構わないが――」

既に、起きあがって歩くくらいのことはできる。

「では、行きましょう」

 怪我人と電動車椅子なので、歩みは非常にゆっくりしたものだった。

彼らは白い街の間を通りすぎていく。国際貿易港の大都市と言うだけあって、様々な人種の人々でごった返していた。

「あれは何だ?」

オットーは見なれぬ建物を見て、JDに訊ねた。消毒アルコールの臭いが漂う、医療施設のような建物だった。だが、別に怪我人や病人が出入りしている風もない。JDは、ああ、と合点がいった顔をして、

「ああ、あれは採体局ですよ。 我々貴族、すなわち魔族は、人間を食べずには生きてはいけない。 しかし人間である平民を直に食べるなどけしからん。 そこで報酬と引き換えに体の一部を提供してもらっているのです。 採った人体は加工して、我々の口に入っているのです。 合成肉が出来る以前からの慣習でして、今も続いているのです」

「おぞましいな」オットーは吐き捨てた。

「何の。 採ると言っても日常生活には差し支えない部分ですし――提供するか否かは平民の自由意志にまかせてあるのです」

「――万魔殿の、永遠に『飢え』を封じる術をお前達は知りたくないのか?」

それを、オットーは知っていた。

「僕は知っておりますが――知らなくても十分にやっていけますので」

JDはにっこりと笑った。オットーは黙った。

やがて、彼らは白亜の巨大な館に辿りついた。大勢の人々が働いていて、警護の人間も数多くいたが、誰もがJDの顔を見るとそのまま通した。JDは絢爛豪華な館を奥に進み、ある扉の前で止まった。

「少々、覚悟して下さいね」ため息を吐きながら、彼は言った。

「?」オットーは不思議そうな顔をする。

「この館の主がここにはいます、ですが――かなりの偏屈者でして。 性格破綻者寸前なのですよ。 少なくとも、人格者ではありません」

「面白そうじゃないか」

JDは、首を振って、

「いえ――おそらく貴方の予想を上回るでしょう」

とん、とん、とん――と扉を叩く。

「どうぞ」

扉が自動で開かれた。

部屋に一歩入った途端、オットーは目を瞬かせた。目がくらんだのだ。豪奢。瀟洒。そういう単語が頭をちらつく。そういう一室だった。世界中の珍品や贅沢品が結集しているようだった。天井から床一面まで、部屋の主の好物が置かれているかのようだった。

「おや、誰かと思えばJDではありませんか」

部屋の中央。けばけばしいくらいの華美そのものの執務卓に、組んだ細い足を乗せながら、女のような顔をした青年が言った。光り輝くブロンドの髪が、腰の辺りまでうねりながら伝わっている。

XXクセルクセス、貴方も行儀が悪い。 客人の前ですよ、少しは整えたらいかがです」JDがとがめるように言った。

「自然体で歓迎するのが私の慣わしでしてな」

「要はきっちり・かっちり・ばっちりしたくないだけでしょう」

「ふん」青年は鼻で笑うと、「ところでそちらの若造は誰です」

若造呼ばわりされて、オットーはかっとなった。素早くJDが彼の手を掴んでいなければ、青年の胸倉を掴んでいただろう。JDがため息をついて、

「オットー・フォン・ホーエンフルトさんですよ」

青年はもう一度鼻で彼を笑って、

「あああの。 万魔殿のケツの青い青二才。 聞いたことがあります」

ますます彼は激昂した。JDの手が、固く握りしめてさえいなかったら、己の怪我の状態も無視して殴り飛ばしていただろう。

「それを言うなら、貴方なぞ、老いぼれ爺の古狸でしょう」

「うるさい。 このクセルクセス・イレナエウス、心はいつまでも二五歳のままです」

その名はオットーも聞いたことがあった。帝国きっての名財相で、政治家で、軍人だと。ジュナイナ・ガルダイアの太守で海軍提督だった時に、かつて空前の繁栄を誇ったクリスタニア王国との二度のハルトリャス海戦を戦い、見事勝利に導いた。故に、通称『ハルトリャスの魔王』。

「! ――お前が、あのクセルクセスか!」

本者だとしたら、既に三〇〇歳に近いはずだ。

「気付くのが遅い。 これだから若造は嫌いです」

JDがたしなめるように言った。「XX、貴方だって昔は若造だったでしょう。 全く女ったらしの癖に言うことが大言じみている」

「女の神秘を極めて何が悪いのです。 ――それに、私は生憎やもめだ」と、ぎろりと睨まれて、何故だか分からず、オットーは戸惑った。憎悪が混じった、凄まじい視線だった。幾度も死線をくぐり抜けてきた彼が怯んだほどだった。

「……どうして俺を睨む?」

「――『フォン・ホーエンフルト』がゆえですよ」

さっぱりオットーには意味が分からないでいた所に、JDが口を入れた。

「彼をここジュナイナ・ガルダイアにもうしばらく滞在させたいのですが、構いませんね?」

「構いません」ふっと視線をそらして、クセルクセスは言った。

「良かった。 ――では、これで」

 「とんでもない男だったでしょう」

部屋を出ると、JDはため息を吐きながら言った。

「傲慢で我が侭でナルシスト。 才能と裁量はあるのですが、性格と女癖が全て邪魔をしている。 実力はあるのに枢密司主席になれなかったのは、主にその所為なんですよ」

「どうして俺が睨まれたんだ?」

「あの男は万魔殿が大嫌いなので――その所為かと。 全く、万魔殿の中にだって貴方のように話せる人がいると言うのに――」

「それは貴様達の買いかぶりだ。 俺は、絶対に、貴様達と分かりあえるとは思っていない」

「どうしてですか?」

「どうしてと言われても――」

異なる組織。異なる境遇。永遠に交わらないものだと思っていた。

「僕は人と話したいのです。 必ず、分かり合える時が来ると信じていますから」

「――それは単なる自己満足に過ぎない。 俺達は決して分かり合えない」

同じ魔族だが、隔てる溝はあまりにも深すぎる。

「――でも。 それでも。 僕は信じているのです」

JDは、まだオットーの手を握りしめながら言った。

 その夜のことだった。オットーは寝ていたが、どこかで苦しげなうめき声が聞こえたために飛び起きた。部屋を出て、人気のない館を彷徨う。ある一室から、その声は聞こえた。

こっそりと忍び入ると、天蓋付きの寝台の上で、JDが苦悶していた。胸を押さえて、喘いでいる。

「――大丈夫か!?」

近付くと、いきなりしがみつかれた。彼の腕の中で、JDはぜいぜいと呼吸もままならぬほど喘いでいたが――いきなり、糸が切れた人形のように静かになった。オットーはぎょっとして確かめると、彼はちゃんと息をしていた。眠っていた。

オットーは彼を寝かせると、そっとその部屋を後にした。

 翌日、JDは何も言わなかった。それでオットーも何も言わなかった。

 その日は、さ迷い出たくなるくらい良い夜だった。無性に外を歩きたい衝動にかられて、オットーはJDに告げずに置き手紙だけ残して、館を抜け出した。

しばらく歩いていると、前方からふらふらと歩いてくる大きな男を見つけた。身なりこそ良いものの、有り様はまるで廃人のようで、目の焦点がどこにも合っていない。オットーに敵意や害意は抱いていないようだが……。

「済まぬが――エリシャを存ぜぬか?」

その男は、やや古式な物言いで、オットーにそう訊ねた。

「いや、知らないが――」

「おかしいのう、さっきまで傍におったのに――いきなり消えてしもうたのじゃ」

そう言うと、またふらふらと歩いていく。

オットーはそれを見送って、一体何だろうと首を傾げた。

しばらく歩いていくと、今度は墓地の前でクセルクセスと遭遇した。覆面をしていたが、長いブロンドの髪ですぐそれと知れた。

「あ、若造」向こうから、声を掛けてきた。

「何だ、古狸」若造呼ばわりされた不快感も露わに、オットーは言い返す。

「かような夜更けに何の用です」

「あまりに良い夜だから――出たくなって出てきた。 貴様は?」

「クセルクセス」唐突にそう言った。

「は?」

「貴様、ではない。 私には名前があるのです。 私はただ今花盗人をやっています」

つまり、女の所に出かけると言うのだ。墓場の前でよく言ったものだとオットーは呆れた。

「お気楽なものだな」

「ふん。 これでも命がけなのですよ」

これ以上の言い争いは不毛だとオットーは思い、訊ねてみた。

「さっき、身なりの良い大きな男がエリシャを知らないかと訊ねてきたが――心当たりは無いか?」

クセルクセスが、黙った。黙ってから、言った。

「――それは私の義理兄です。 姉を――妻を亡くしてから、少々おかしくなってしまったのですよ。 詳しい事情はJDに聞きなさい。 私は話したくない。 そう言えば、JDは元気でしたか?」

「夜、苦しがっていたが――一体どうしたんだ?」

「彼はもうじき死にます。 精々生きて後数ヶ月でしょう」

「! ――何故だ!?」

「彼は生まれついての体質的にのですよ。 魔族は人体を食べねば生きていけないのに、今まで生きてこられたのが奇跡のようなものです。 それなのに彼は一〇年前の『凶竜の禍』の際に帝国を背負った。 自らの寿命を削って。 その報いが今来ていると言う訳です」

凶竜の禍。これも聞いたことがあった、帝国の帝都シャングリラが巨大なドラゴンに襲われて壊滅寸前までに陥った事件だと。だが、それよりも気になる発言があった。

「帝国を、背負った?」

「ああ、彼はやはり話していなかったですね。 謙遜もあそこまで行くと病的だ」クセルクセスは納得したかのように頷くと、言った。「臨時とは言え。 つまり女帝陛下の次に偉かった男なのですよ、彼は」


 翌日、オットーはJDを問い詰めた。

「お前は、何故話さなかった? 自分が帝国の頂点に立った男だと――」

「あ、その言い方は違います。 あくまでも帝国の頂点は女帝陛下、僕はその臣下に過ぎません。 話さなかったのは――貴方との距離を生みたくなかったからです。 貴方と友達になりたかった」

「友達……?」

「そう、友達です」

「別に貴様なんかと――」

「では、書き置きを残してくれたのは何故ですか? 別に無断で出かけても、良かったものを」

「そ、それは――」

答えられなかった。ふふ、とJDは笑って、

「ようやくなれましたね」

と言った。その笑顔には、もうすぐ死ぬと言うのに何のかげりも無かった。

「――友達、か」

オットーには、戦友なら大勢いた。だが、誰もが聖教機構との戦争で傷つき、死んでいった。盟友もいた。だが、彼らも似たような末路を辿り――オットーは支持者こそいたものの、基本的に一人だった。それを寂しいと思うこともなかった。彼には、かけがえのない家族がいたからだ。

「悪くはないでしょう?」

JDは言う。オットーは少し黙ってから、

「お前は死ぬことが怖くないのか」

「ああ、XXが言ったのですね。 本当にお喋りが好きな男だ」JDはまた、穏やかに笑って、「――実は怖いです。 僕の病は人間を食べる魔族である限り不治の病だ。 死にかけたことも何度もあります。 でも、六〇年も何だかんだで生きていれば諦めも根性も付くものです。 それに――死んで女帝陛下のお膝元に行けるのなら、怖くありません」

「女帝陛下……」

それは、帝国の民が崇める、唯一の現人神だとオットーは聞いていた。

「我らが太母メム・アレフにしてこの国の絶対君主。 我々貴族や平民は、死ぬと女帝陛下の治める別の国に行くのだそうです。 この世ではない国に。 そこには、四苦八苦もなく永久に平和が続く国だそうで――どうです、貴方も行ってみませんか?」

「俺は、いい。 俺はこの世で戦い抜いてやる」

戦って戦って、その果てに何があるのかも分からないまま、戦ってやると決めたのだ。

「御父君が殺されたからですか」JDは悲しそうな声で言った。

「――」オットーは答えない。


【ACT二】愛は全てを救う


 グスターヴは恋をしていた。身の程知らずの恋だった。彼は雑草のように平凡な貴族で、恋した相手は超の付く名門貴族イレナエウス家の一輪の薔薇、エリシャ・イレナエウスだった。彼女は、おまけに彼の親友ニコライと婚約していた。これでニコライが極悪非道で屑のような男であれば、彼は何のためらいもなく恋を選んで驀進しただろうが、ニコライは誠実極まりない、男から見ても男前の男であった。彼は散々苦しんだ挙げ句、友情を選んで、彼女への恋を握りつぶした。ぼたぼたと涙と血が滴った。

 だが、そのニコライが、共に往った戦場で、亡くなってしまったのである。

「彼女のことを、どうか――」

何故か吹っ切れたような表情をして、ニコライは最後の息で言った。

自分の恋を知っていたのか。グスターヴは初めてそれを知って驚いたが、待ってくれと叫ぶ前にニコライは死んでしまった。

 彼はすごすごと帰還し、彼の今際の際のことをエリシャに話した。エリシャは立派だった。最愛の人の死を知っても泣き叫びはせず、そうですか、と一言言い、頷いたきりだった。だが彼女の悲しみと絶望は絶頂に達していた。彼との会見が終わった直後に、卒倒してしまったのである。

慌てて医者が呼ばれて――そこで初めて彼女は自分が妊娠していた事を知った。弱った彼女を二重の衝撃が襲った。彼女は、大事な人を二人も失ったのだった。

 彼女は引きこもりがちになり――そして、誰とも会おうとしなくなった。人々の憐れみが疎ましさへと変貌するには時間がかからなかった。一度、彼女の父親が彼女を強引に外へと引きずり出したが、彼女は狂乱するだけであった。

 厳格なことで知られていた彼女の父親は、容赦なく彼女を一族から勘当した。彼女の相手をする人間はいなくなった。グスターヴだけが、相も変わらず、定期的に彼女を訪問し、玄関口で何時間も待たされた挙げ句、梨のつぶてで帰っていった。

 ある日彼は狂喜した。彼女の館に入れてもらえたのである。

そこで彼を待っていたのは、

!」

あれほど美しかったのに、みすぼらしく変わり果てた彼女の、罵声の嵐だった。彼は一瞬固まった。だが、全くもってその通りだと素直に思ってしまった。

自分がニコライの代わりに死んでいれば、全てが丸く収まったのだ。ニコライと彼女は結婚し、今とは対照的に、幸せの頂点に立っていたであろう。死んでさえいれば、自分は今ごろ亡くなった無二の友人として、ニコライの記憶の中で燦然と輝いていたであろう。

その方が、どれだけ良かったことか。

全く彼は言い返せなかった。彼は愚直だったのである。

 それから、彼はほぼ毎日、彼女の罵声を浴びに彼女の館へと通った。他に事態を打開する方法が一切思いつかなかったためであった。彼女は罵詈雑言が尽き果てると、部屋中の物を彼めがけて投げつけた。彼は生傷と痣まみれになった。彼の親や友人は泣いて彼を止めた。何もあんな狂女にお前がそこまでつき合う必要は無いのだと、懇々と説いた。しかし彼は黙っているきりだった。彼は見る目も当てられないような有り様になっていった。その癖、通うのを頑として止めようとしなかった。

 ある日、彼はいつものように聴くに耐えない罵詈雑言の嵐と暴力に耐えた。彼女は、その日は力尽きたように物を投げるのを止めて、言った。

「どうして、いつも何も言わないの」

ここで素直に、貴方を愛していますから、と答えれば良かったのだが、彼ときたら、とことん愚直だったのである。

「……ニコライとの約束ですから」

「お前がその名を口にするな!」

彼女は彼に襲いかかった。彼の服を切り裂き、彼を切り裂き、血まみれとぼろ切れまみれにした。おまけに首を絞めたのである。

可哀想に、その気は無いのに、男の生理として彼のナニは立ちあがってしまった。それに気付いた彼女は、ふんと嘲るように笑い、

「貴方、そういう趣味があったのね」

彼は彼女に犯された。それは紛れもない強姦だった。彼女はニコライの名を呼び、彼を求めて、グスターヴをその代用品として扱った。引き裂けそうな心を抱えて、それでも彼はうんともすんとも言わなかった。彼は犯されながらも彼女のことが愛しくてたまらなかった。紛れもなく、彼は彼女を愛していた。もう、その時には、どこまで自分は愚直なのか、彼にも分からなくなっていた。

 それからも、似たような日々が続いた。包帯まみれの彼は、もはや誰からも相手にされなくなっていたが、別に大してそれを気にしてもいなかった。だが、ある日、彼は中に入れてもらえなかった。妙だな、と彼は思った。次の瞬間むくむくと不安が彼を襲ってきて、彼は門を乗り越え、窓を破って館へと侵入した。そこで、彼は、床一面に飛び散った血と、小さな小瓶を握って倒れているエリシャを見つけたのである。

彼女は毒を呑んで、吐血して、気を失っていた。すぐさま医者が呼ばれて、懸命の手当てで気が付いた彼女には、また残酷な事実が知らされたのである。

 彼女は妊娠していたが、毒を呑んだがために流産する可能性が非常に高いこと。

彼女は、恥も外聞もなく、泣いた。後悔と絶望の涙だった。

 そこにグスターヴはやって来て、エリシャが早速どうして自分を助けたのだと罵ろうとした時に、初めて自分から口を利いた。彼は真っ赤な薔薇の花束を持っていた。

「結婚して下さい」

彼を馬鹿者だと罵るのは、少し待ってもらいたい。彼は本当に決死の覚悟で言ったのである。死んだニコライの冥助を請いたいくらいであった。こんなに勇気を振り絞ったのは、彼の人生初のことであった。断崖絶壁から飛び降りるよりも、振りしぼった。

あまりにも唐突な発言に、彼女は目を丸くした。

「お願いします、結婚して下さい」

押しつけられた花束に、彼女は唖然としてから、

「私、また流産するかも知れないのに――」

「知っています。 でも、貴女はちゃんと産めます」

そこで初めて彼に心の底から愛されていることを知った。この数ヶ月、彼女の凶行にただ一人つき合ってくれた理由を知った。すると涙が溢れてきて、止まらなくなった。泣きじゃくる彼女は抱きしめられて――。

二人は、結婚した。

数ヶ月後、彼女はグスターヴの予言通り、無事に女の赤ん坊を産み落とした。それがきっかけで、彼女は徐々に立ち直っていく。

元から優秀だった彼女は、枢密司補佐まで上り詰め(最終的には主席にまでなった)、父親からの勘当も解かれた。

 二人はようやく幸せになって――死が二人を分かつまでの間、それは続いた。


 ある日の朝、グスターヴは死んでいるのを発見された。

安らかな、眠りながら死んだことを証明するかのような顔で。


【ACT三】遠い世界へ


 ここまで豪快に泣けるとはある意味羨ましい、とセルゲイは思った。

だあだあと滝のように涙を流しながら人目もはばからずに遺体にすがりつき、大声で、

「父上ー! うおーんうおーん……」

である。

「ま、まあ何だ、その――伯父さんはようやく伯母さんの所に行けたんだ、と思えばいいんじゃないか?」

彼の部下であるセルゲイは、かなり頑張って慰めた。彼は身分こそ平民だったが、ちょっとした理由で貴族と同格に扱われていた。

「そ、そうか」

涙で濡れた目で見上げられて、セルゲイはやむなく何度も頷いた。

「死んだ伯母さんを捜して徘徊することもしょっちゅうあったし……ようやく会えたんだよ、きっと」

「そう、か。 そうか……うおーんうおーん」

ダメだこりゃ。セルゲイは慰めるのを諦めた。放っておいて、いずれ泣き止むのを待つしか無い。

死因は老衰で、医者でなくとも誰もが天寿を全うしたのだと見なす、安らかな死に方だった。今朝、発見されたのだ。もうしばらくすれば、連絡を受けた親族達がこぞって帝都や各地から駆けつけてくる。セルゲイの伯父は帝国最高齢の貴族だったし、子供や親族も大勢いるので、悲しむよりもこの眠るような死に方に祝賀会のような葬儀になるだろう。彼は人生を全うして女帝陛下の御許へと向かったのだ。

そこに、クセルクセスが駆けつけてきた。

「――義理兄殿が亡くなったとの知らせは本当ですか!?」

ご自慢のブロンドの髪が乱れている。起きてすぐに駆けつけたのだろう。

「本当だよ。 今朝、起きてこないんで起こしに行ったら死んでた。 安らかなもんさ。 だよ」

セルゲイが言うと、クセルクセスは、遺体の枕元に立って、しげしげと顔を見つめた。彼の義理の兄は顔色が悪いだけで、寝ているかのようだった。

「そうですか――ようやく姉上と出会えたのでしょうね」

「だろうな」セルゲイが言った。

――と、ぱしん、と泣きじゃくっているエンヴェルの頭をクセルクセスは引っぱたいた。

「こらエンヴェル、泣いている暇はありませんよ、葬儀の段取りをせねばなりません。 そもそも貴族、それもジュナイナ・ガルダイア太守たるものが泣いてはいけません」

「叔父上ぇ――」エンヴェルは泣き声を上げる。

彼を庇って、セルゲイは怒鳴った。

「何も叩くことはねえじゃねえか! このクソ親父!」

「馬鹿息子に言われたくはありません。 ――ほらエンヴェル、行きますよ」

無理やり引きずっていくその後ろ姿めがけて、セルゲイは憎々しげに言った。

「母さんの葬儀の時は、何もしなかった癖に――」


 クセルクセスが手伝わなくとも、主が馬鹿でも優秀な部下が揃っていたのがあって、葬儀の段取りは昼前には付いていた。後は喪主のユナを待って、微調整をするだけである。

その頃にはエンヴェルも泣き止んでいて、赤く腫らした目をしょぼしょぼと瞬かせていた。

「遅参して申し訳ない、グスターヴ殿が亡くなられたと言うのは本当ですか」

そこに、血相を変えたJDがやって来る。義理の息子の実の父親が亡くなったのだ。彼とて他人ではない。

「義理父上――」

ぶわっとエンヴェルの目からまた涙が溢れだした。セルゲイは本気で、彼の体内の水分が全部出てしまって干からびたミイラになってしまうんじゃないかと心配した。

「け、今朝起きてこなくて――亡くなっておりました」

「そうですか、それは大変でしたね――」

そこで彼ははっとした。何日か前に海で拾った男が、所在なさげにJDの背後に立っていたのである。彼は涙も引っこんで、言った。

「そち! 余が海で拾った男! 元気であったか!」

「ん、お前が俺を拾ったのか――?」

「その通りじゃ!」

男はしばらく何かを考えているようだったが――、

「ありがとう」

と一言言った。

「何の。 体は大丈夫か?」

「まあ、な――」何故か、男は酷く居たたまれないようであった。

JDが手早く紹介した。

「オットーさん、こちらはエンヴェル。 僕の養子で、ジュナイナ・ガルダイア太守です。 エンヴェル、こちらはオットーさん。 万魔殿の方です」

「おお、そうであったか、よろしくな!」

先程まで泣いていたのもどこへやら、にこやかに彼は言って、手を差し出した。

「――よろしく」

二人は握手をした。オットーの白い手と、エンヴェルの褐色の手だった。

 間もなくユナが到着した。彼女はグスターヴの長女で、現在の枢密司主席であった。枢密司主席のお出ましとあって、場の雰囲気が自然と張りつめる。

彼女はしばらく自分の父親の死に顔を見つめていたが――静かに頷いた。

「エンヴェル。 葬儀の段取りについてですが――」

「はい姉上!」

エンヴェルが素早く応える。この姉弟、姿形がよく似ていた。母親に似た他の姉弟達と違って、二人だけ父親似なのだった。もっとも性格は似ていない。

そこに、どやどやと貴族達が詰め寄せてきた。何しろグスターヴの子供は総勢一五人である。その孫達やひ孫達だけでも、ちょっとした人数になるのだった。親類縁者を加えれば、更に数は増すだろう。

「夜に徘徊すると聞いて、もう先が長くないとは思っていたが――」と次男のニケフォロスが言う。

「天寿を全うして女帝陛下のお膝元へ――母上の所へ行かれたのですね」

三女のラシェルが言った。彼女の娘のジャスミンも頷いて、

「全くです。 本当に綺麗な死に顔ではありませんか」

「――予算の関係で激しく揉めていたと言うけれど、エンヴェルと姉上も流石にこの場では言い争わないか。 当然だな」

と五男のテオドアがそっと二人の様子を見て言った。

毎年の事なのである。帝都シャングリラと商都ジュナイナ・ガルダイアが主に予算関係で激しく対立するのは。これは昔からそうであり、この問題で心を病んでしまった者が大勢出ているほど深刻なものであった。政治の中枢地である帝都シャングリラと、経済の中枢地ジュナイナ・ガルダイアが色々と異なっているために発生している諸問題であった。

「帝国最高齢がこれでクセルクセス義理叔父様に代わりましたわね」と言ったのは、テオドアの伴侶のエイレーネーである。

「しかしエンヴェルも立派になったものだ。 昔は一族で一番出来が悪かったのに、ちゃんとここの太守を務めて、父上の葬儀の段取りまでして」ニケフォロスはしみじみとした顔で、とても感慨深そうである。

「本当ですわね。 大器晩成なのかしら」と言ったのは、ニケフォロスの長女のザヴィーナであった。

彼らは口々に勝手なことを言いながら、それでも一応は粛々としていた。何より見事な、世界中を探してもこれ以上ない大往生であったので、誰もが永訣として悲しむよりも新たな旅立ちとして喜ぶべきだと快く思っていた。


 『グスターヴが死んだか』

「そしてユナがろくな警護も付けずにやって来た……これは好機だわ」

『我々の仕業だと連中に悟られてはならんぞ』

「大丈夫。 段取りは、既に付いているわ」

「ああ、心配はいらない」


 「お父様!」

あちこちに指示を飛ばしていたクセルクセスは、その声にはっとしたかのように振り返った。彼の顔に、珍しく、紛れもない笑みが浮かぶ。

「オデット! どうしたのです、遅かったではありませんか」

毒舌家の彼が、そう言った。駆け寄ってきたのは、これまた、水も滴る美女であった。青い眼が美しい。

「部下への仕事の引き継ぎに手間取って――申し訳ありませんでした。 それにしても、長くはないとは思っていましたが、まさか伯父上がお亡くなりになるとは――」

「いえいえ良いのですよ」

彼らの周囲の人間が、お互いに目配せしあって、こっそりとため息を吐いた。

「本当に急なことでしたしね」

でれでれ。この時のクセルクセスの状態を表すとなると、この単語がもっとも適切である。彼は頭の天辺からつま先の先まででれでれであった。いつも傲慢で我が侭でナルシストな彼はどこに行ったのか。たった一人の愛娘の前では、面子も何も消え失せるらしかった。

「私に手伝えることがありましら、何でもおっしゃって下さい!」

「ええ、ええ――」

状況が状況だが、グスターヴは大往生であるし、普段は仕事で忙しくて会えない愛娘との久しぶりの再会である。周囲の人間はただため息を吐くだけで、不平不満は言わずに留めておいた。


 館のどこにいても居たたまれなくて、オットーはバルコニーへ出た。そこでは一人の青年が煙草を吸っていた。青年はオットーを見て、

「ん、アンタは……JDさんの……」

そう言えばどこかで見たことがある顔立ちだな、とオットーは思ったが、それが誰かまでは思い出せなかった。オットーは先に言った。

「JDの友人だ。 オットーと言う」

「ああ、あの滅茶苦茶いい人のお友達だったな。 俺はセルゲイ。 XXのお妾さんの子供だよ。 平民と貴族のハーフ」

あ、と彼はそれで思いいたった。確かに顔立ちがよく似ている。嫌味なくらいに似ている。何故一目で気付かなかったのだろう。だが、

「平民と貴族……人間と魔族で子供が出来たのか?」

そんな例は聞いたことが無かった。唯一つの例を除いて。

「知らんよ。 ただこの一族は繁殖力だけはあるからなー、何やかんやで出来ちまったんだろ。 だから居てはいけないヤツなんだけどな」と、セルゲイはニヒリスティックに言った。

「居てはいけないヤツ?」

「だって貴族なのか平民なのか分からねえじゃねえか。 この帝国は、そっちかあっち以外の分際がいていい場所じゃねえんだ」

「そうなのか」初めて聞いた。

「法律でこそ定まってねえが、実態はそうだよ。 アンタは万魔殿、つまりは帝国外の人間だろ? だから知らんのだろうが、この帝国にだって闇や影の部分はあるんだよ」

そう言って髪をかき上げた。髪の色や目の色こそ違え、本当にクセルクセスに似ていた。

「どこも楽園ではないと言うことか――」

「その通り。 まあ俺一人くらい、大したことじゃねえんだがな」彼はくくくっと自嘲気味に笑って、それから急に真顔になって呟いた。「あーあ、死にたい」

そこで急に怒声が走った。

「こらセルゲイ! 先程から聞いておればお主は――」

しまった!という表情をセルゲイは瞬時に浮かべた。振り返ると、目に涙を溜めたエンヴェルが仁王立ちしていた。

「父上が死んだのに――お主まで死ぬと言うのか――」

そこで、うおーんうおーんと子供のように大声で泣き出した。

セルゲイが慌てふためく。その狼狽ぶりたるや実に見事だったので、オットーは呆れた。

「わーわー悪かった! 俺が悪かった! 死なない、死なないから! だから泣くな! 泣くなってば!」

そこに、若者達の一団が駆けつけてきた。出来の悪いエンヴェルの元に集った優秀な部下達だった。

「セルゲイ、一体アンタ大将に何をしたのよ!」

「大将、お願いですから泣かないで下さい!」

「うおーんうおーん……セルゲイが死ぬと言ったのじゃ、死ぬと言ったのじゃ」

激怒した一団は、セルゲイへ言葉のリンチをした。

「勝手に死んでろこの間抜け!」

「せっかく泣き止んだ大将をまた泣かせやがって!」

「この非常事態にお前はまた馬鹿な事を――!」

「だから謝ってるだろうがあああああ!」

セルゲイは堪りかねて吼えた。

「謝っても大将を泣かせた罪は罪だ!」

 ……やっぱり居たたまれなくなってしまい、オットーはその脇をすり抜けてJDを探した。

 JDは意外な場所にいた。館の、一族の肖像画が並べられた部屋にいたのである。家族が揃った絵が多かった。大家族だった。JDは言った。

「イレナエウス家は昔から優秀で出来た者が多くて、三位以上の高官になっている者も沢山いるのですよ。 特に長女の――いえ、家長のユナは一番優秀で、気性もしっかりしている。 枢密司主席に相応しい人材です。 一番出来の悪いエンヴェルとて、人を率いる才能がある。 それでXXが自らの跡継ぎにした。 もっとも今は、二人は政治的に対立こそしていますがね」

「お前の一族はどうなんだ?」

JDは寂しげに微笑むと――「残念ながら、とても。 僕の代でド・ドラグーン家は血統的に絶えます。 でも、それでいいのです。 僕の叔父は人殺しの謀反人で、僕にもその血が流れている。 凶竜の禍、という事件を御存知ですか。 僕の叔父があれをやった張本人なのです。 だから、僕は、その事態を収拾するために――」

「枢密司主席になった、と言うことか」

「あまり名宰相ではありませんでしたけどね。 XXに言わせれば、僕の背中は帝国を背負うには小さすぎたのですよ」

「あんなヤツの言うことなんか、気にしない方が――」

「XXは、毒は吐きますが嘘は言わない男です」

そこでいきなりJDは背を丸めて口に手を当てた。げぼっという音がしたかと思うと、指の間からぼたぼたとどす黒い血がこぼれた。オットーは血相を変えた。

「JD!」

「……大丈夫、よくあることです――ご心配なく。 家で寝ていれば、元に戻ります」

JDは車椅子を操作すると、部屋から出て行った。心配で、オットーは後を付いていった。

結局JDは数日間絶対安静で寝込むことになり、葬儀には出席できないことになった。


 「段取りは完璧に済ませたわ」

『そうか。 後は――運だな』

「神とやらに祈ろうぜ」


 案の定、それはグスターヴが亡くなった事を嘆き悲しむ有様と言うよりも、久しぶりに親族が集い、言葉をかわして、お互いの親交を更に深める場であった。

「おお、ジャスミン、元気にしていたか」とユナの夫のヴァレンスが声をかけた。「この前は本当によくやってくれた。 きっとゲオルギウスも喜んでいるだろう……。 いや、間違いなく喜んでいる。 ありがとう」

「ありがとうございます」とジャスミンは頭を軽く下げた。

「仇討ちが終わったばかりで、今はまだその事で頭が一杯でしょうけれど」と彼女の母親ラシェルが言った。「これからは貴方の幸せを見つけなさい。 それが亡くなった者が一番望んでいる事ですから」

「……ええ」少しためらった後、彼女は頷いた。それから少しはにかんだような顔をして、「でも、母上も父上の事を今でも想っていらっしゃる。 私ももうしばらく、思い出が美しくなるまでは、彼の事を想っています」

「――」ヴァレンスが目を潤ませて、慌ててぬぐった。

「しかしまあ、あの時は仰天したな」ニケフォロスが話題を変える。「エンヴェルが母上の腹の中にいると聞かされた時は……」

「超、超高齢出産でしたからね……」ザヴィーナが遠い目をした。「『出来ると思っていなかったのに出来た』、懐妊を聞かされたこっちが仰天しましたわ。 まさか自分の息子よりはるかに幼い弟が出来るなんて……」

「まあまあ。 何はともあれ、こうして皆が集ったんだ、親父殿にきちんとさようならを言って、その後は久しぶりに皆で楽しもうじゃあないか」

と、テオドアが苦笑した。


あれは驚天動地だった。いきなり両親から緊急招集がかかり、子供達は何事だと血相を変えて集まった。そこで知らされたのである、既に孫もいる夫婦に子供が出来たので産むつもりだと。子供の誰もが、一番しっかり者のユナでさえ五秒は絶句した。その時両親は既に高齢であり、その何人かの孫の腹の中にはひ孫さえいたのである。魔族の中でも妖精は非常に繁殖能力が高い種族である、だがこんな高齢で……など初耳であった。世界初であった。無事に産まれるのだろうか、無事に育つのだろうか、いや母親の体がもう持たないかも知れないと、子供達は色々な意味で反対したが、両親は断固として産む事を選択した。

それで産まれたのは父親そっくりの外見で、ちょっと頭が足らないが可愛い弟エンヴェルであった。

年齢差があまりにもあったので、彼の姉弟達は弟と言うより、孫を可愛がるように弟を可愛がった。彼らは、末弟は馬鹿だがちゃんと育つのだろうかと余計な心配をしたが、何とその弟は、気難しくて親族以外にはワガママな叔父クセルクセスに、たいそう気に入られ、その後釜に据えられた。更に成人してからはイレナエウス家に匹敵する名門であるド・ドラグーン家の養子に貰われた。姉弟達はとても喜んで、これなら安心だと胸をなで下ろした。これで弟の将来は栄光あるものだと確約されたのだ。

また、彼らは遺産相続で揉める心配も無かった。彼らの両親は子だくさんゆえの貧乏だった上に長生きだったので、遺言書はしっかりと生前に作成してあった。その文書では家督を継ぐ長子ユナに全てのちっぽけな財産が行き渡る事になっていたし、それに誰もが納得していた。そのちっぽけな財産は勿論、親の葬儀費用で使い果たされるのは誰にも分かっていたのだ。

よって彼らは、本当に気楽に亡父を見送れると心から喜んでいた。

彼らも長く生きている内に、幾度か別の名門貴族の親族間での財産争いを目撃していたし、それまで仲良しだった親族が遺産を巡って決裂だの刃傷沙汰を起こすだのと言う醜聞にも何度も顔をしかめていた。

だが今回は違う。天寿の果てに眠るように死んだ彼らの父へ、彼らはとびっきりの笑顔でさようならを告げられる。そしてその別れの儀式は後腐れなくすっきりと終わるのだ。

全く、我らの親父殿も、誰もが羨むような死に方じゃないか。

――この時は誰もがそう思っていた。


 葬祭場にて、葬儀は、何事も無く進んでいき、ユナが弔辞を読み上げる所まで進行した。彼女は壇上に上がり、弔辞を読み上げる――その時だった。

壇が、爆発したのは。大混乱と悲鳴が巻き起こる。煙が辺りに充満し、何も見えなくなった。

「大姉様!?」

「何が起きたんだ!?」

「爆発だ、爆発したぞ!」

「静かになさい!」クセルクセスの鶴の一声がとどろいたかと思うと、部屋の空気が急に澄み渡った。そこで一同が目にしたものは――血まみれで倒れているユナの姿であった。

彼女はすぐに医療団の手当てを受けたが――意識不明の重体であった。


【ACT四】汚名を晴らすために


 父親の葬儀に出向いた帝国の枢密司主席の命が危ない。そのニュースはジュナイナ・ガルダイアから素早く帝都へと伝わり、大騒ぎになった。

犯人は――暗殺を狙った首謀者は誰だという話で、持ちきりになった。

真っ先に疑われたのは、葬祭場の準備を調え、そして政治的に対立していたエンヴェルであった。葬祭場に出入りしていた他の者には、何ら殺す利点も、隙も、何より動機が無かったのだった。オットーも一度は疑われたが、その日はJDの館にずっといたことがJD本人の口によって証明された。

「余は姉上を狙ってなどおらん!」

エンヴェルは叫んだ。他の親族達も――特にクセルクセスが彼を庇った。

「あの馬鹿な甥にユナを殺すことなど出来ない」

彼らの言い分はそうだった。だが、帝都の貴族達にはそれが親族に罪を着せたくないだけの、言い訳に聞こえた。

「エンヴェルの部下が暴走して――」

と言う話もあった。だが、部下達は口を揃えて、

「大将の不利になるような真似を自分達がするものか!」

と叫んだ。どの道、部下の責任は主の責任であったから、エンヴェルへの疑いは増す一方だった。

エンヴェルは帝都から派遣された検非違使達の監視下に置かれた。

本来なら拘束されて帝都へと護送されるはずだったのだが、大御所クセルクセスの制止により、それで済んだのだった。

だが、彼の無実を証明する手段は、無かった。


 「――何ですと!?」

ユナ暗殺未遂の報を聞いたJDは、絶対安静だと言うのに起きあがって、出かける仕度を始めようとした。

「ダメだ、起きあがるな!」

オットーは慌てて止めたが、止める前にJDの体はへたへたとその場にうずくまってしまった。

「ああ――健康になりたい」

悲しそうに呟く彼を寝台へと寝かせて、オットーは訊ねた。

「俺に出来ることはあるか」

JDはすがるような目でオットーを見つめて、言った。

「XXを――呼んできてくれませんか」

 クセルクセスは苛々と不安の頂点にいた。

可愛い姪っ子の命は危ういし、馬鹿だが可愛い甥っ子にはその殺害未遂嫌疑がかかっている。犯人探しに躍起になっているものの、証拠は無いに等しい。爆弾や起爆装置は異国のもので――帝都ならまだしも、ここジュナイナ・ガルダイアでは誰でもその気になれば(それなりの金さえあれば)闇のルートから手に入れられるものだった。彼は全力で闇のルートを地道に追っているが、ルートがルートなだけに、納得の行く成果が得られるとはとても思えない。それに、直に異国で買ってきた可能性もある。そちらの方も主に貴族の渡航記録から追っているが、その記録の先頭にいるのも、彼の馬鹿で可愛い末の甥っ子エンヴェルだった。何と行くことが禁じられている享楽と賭博の島、ウトガルドへ行ったのだという。俺の所為だ、とそれを知ったセルゲイは青ざめ、仲間達からまた袋だたきに遭った。仲間達も必死に「大将」の嫌疑を晴らすため捜査しているのだが、得られる証拠はどれも大将の不利になるものばかりだった。

クセルクセスと情報を共有するために開かれた会議は、暗鬱とした結末に終わった。

一同が声も無く沈黙していた時である。クセルクセスの部下の一人が、彼にオットーの来訪と来意を告げたのは。

 「僕が思うに、彼は犯人ではありません」

寝台に寝ながら、JDは言った。

「当たり前です。 JD、貴方もあの子を養子にするくらいなのだから、あの子の性格はわきまえているはず。 実の姉の暗殺など出来るはずがありません」

呼ばれて駆けつけてきたクセルクセスは、ぼさぼさのブロンドの髪を振り乱して、叫ぶように言った。

「ええ、僕が思うに、帝国はちょっと妙なのです」

JDは頷いて、いきなり話題を変えた。クセルクセスは何のことやら分からずに、黙って話を聞くことにした。

「国や組織というものは、その時その時代に応じて形態を変えていくものであるはずです。 なのに、帝国は、ここしばらく何一つ変わった様子を見せていない」

「それは、平和であるからではないのか――?」

オットーが訊ねた。JDは首を振り、

「オットーさん、万魔殿は穏健派と過激派の真二つに分かれているそうですね。 意見が異なっているが故に、同じ組織でも分裂しているという」

「それは、そうだが――」

分裂して、激突している。

JDが何を言いたいのか分からず、彼も黙った。

「聖教機構も同じです。 和平派と強硬派に分裂している。 でしたら、同じく組織である帝国も、二つに分かれていてもおかしくはないと思いませんか? しかし、帝国は女帝陛下の元、一つに団結している――今現在、表向きは」

「!」クセルクセスが形相を変えた。「まさか、JD、貴方は――」

「ええ」とJDは頷いた。「僕は、この事件の首謀者は、帝国の『主戦派』――と今は仮に名付けておきますが――ではないかと思うのです」


 『運は――我らに味方しなかったな。 暗殺は出来なかった』

「でも、大混乱を起こすのには成功したわ」

「大混乱に決まっているさ。 何しろ現枢密司主席の暗殺未遂だ」

『気を付けろ。 連中は本気で犯人を捜している』

「犯人が誰なのかさえ、分かってはいないでしょうけどね」

「――おそらく、な」


 「余は――余は」

エンヴェルは爪をかじった。爪に痛みが走る都度、無惨な姉の有り様が頭に浮かんできて、とても寝られたものではなかった。

「絶対に――姉上を殺そうなどとは、しておらん」

何百回、そう言っただろう。だが彼は推定有罪だった。限りなく黒に近い灰色だった。自らの父の葬儀の場で姉を殺そうとした極悪人。それが今の彼に付いている肩書きだった。

聞き飽きた、とでも言いたげに、傍らの椅子に腰かける検非違使が欠伸をした。

「分かっている」

超強化ガラス越しにセルゲイは頷いた。

「俺達の誰もが、アンタの無罪を確信している。 誰一人、アンタが犯人だなんてこれっぽっちも思っちゃいない」

「何故姉上が狙われたのじゃ!?」

エンヴェルは叫んだ。彼は狂乱する一歩手前であった。

「分からない。 とにかくエンヴェル、大将のアンタはしっかりしていろ。 必ず俺達が無罪を証明してやるから――」

「頼む」

主の細い声に、セルゲイは今すぐガラス窓をぶち破って抱きしめたい衝動に駆られた。だが、平民と同程度の身体能力しか持たない彼には、貴族でさえ破れない超強化ガラスを破るのは、とても出来ない所業だった。

「それよりエンヴェル、何か食べられそうか? ――すっかり痩せちまって」

「無理じゃ」彼はうなだれて首を振った。

セルゲイは、そうか、と頷いて、

「じゃ、また来るからな――」

名残を惜しみながら、帰ることにした。

「ああ」エンヴェルは顔を上げようともしなかった。

それからしばらく経った時である。

「クセルクセス様からの差し入れだとよ――」検非違使の一人が、甘い果実の詰まった籠を持ってきた。「全くこれだからお坊ちゃまは」

「要らぬ。 お主らで勝手に食べるがいい」

がりがりと狂騒的に爪をかじりながら、エンヴェルは言った。彼はこの数日、水以外の何も口にしていなかった。人間なら消耗したであろうが、彼は貴族――魔族なので大して消耗もしていなかった。精神的にはともかく、肉体的にはそれほど。

「それじゃお言葉に甘えて――」

検非違使達は、果物を食べ始めた。それから五分も立たない内に、彼らは血を吐いて倒れた。果物に魔族にも効く猛毒が入れてあったのである。

だが混入してあった毒は微量であったために、彼らは一命を取り留めた。クセルクセスが一族の名誉のために不祥事を犯した身内の処分を自らの手で下したのだろうと検非違使達は思ったが、それでも念のために、と事情を聞かれたクセルクセスは仰天した。彼は捜査に手一杯で、甥っ子への差し入れまでは気が回らなかったからである。他の親族達にもこっそり事情を聞いたが、誰一人として差し入れを送った者はいなかった。

だが、これで彼にも確信できた。JDの話を聞いてから、まだ半信半疑だったのだが――間違いなく、何者かが、今度はエンヴェルの命を狙っているのだ。

「『主戦派』――ですか。 よろしい、かかってくるがいい!」


 クセルクセスとの二度目の会議で、エンヴェルの部下達は、『主戦派』の存在を知った。今度はJDも出席していて、部屋の隅で車椅子に座っていた。

「とにかく正体は分からないが、枢密司主席だけでなく大将の命を狙っているヤツがいると――!」

若者達は殺気立った。もしその場に『主戦派』が出てくれば、彼らは何の躊躇いもなく血祭りに上げていただろう。それほどだった。エンヴェル自身はあまり賢い男ではなかったが、部下達からは女帝の次に慕われていた。

「誰が敵か分かりませんので――この事はくれぐれも内密に」

クセルクセスに向けて、彼ら一同は頷いてみせた。

 「それにしても」

と会議が終わって、クセルクセスは若者達が駆け出していくのを見送りながら、呟いた。

「一体誰が――『主戦派』なのやら。 まさかJD、貴方ではありますまいな?」

「僕が裏切る場合は、先に女帝陛下に報告をいたします。 XX、貴方は?」

「私はあの女からびんたを食らいそうな真似はしませんよ」

「こら」とJDは言った。「女帝陛下をあの女などと――」

「貴方と私の間だけですよ」

「全く、この悪友は……」

XXは笑った。そして、久しぶりに笑ったと思った。

そこに、

「お父様、お疲れでしょうから、お飲み物をお持ちいたしましたわ」

オデットが二人分の飲み物を持ってやって来た。

XXは完全にめろめろになって、いつもの高慢さは失せてしまい、

「おや、有り難う。 毒などは入っていないでしょうな?」

「まあお父様ったら、いやらしい!」オデットは笑う。

その時だった。オットーが、何の気配もさせずに、部屋に転位して出現したのは。それが彼の、魔族としての特殊能力であった。

「JD、医者が心配している、早く帰って寝た方が――」

そこで彼は、凍りついているクセルクセスの、傍らの美女を見て――何か、運命的なものを感じた。それは軽く感電したかのような感覚だった。言うに言えない、初めての感触だった。向こうもそれは同じだったようで――彼女も、がちゃん、と二人分の飲み物の器を床に落として、こぼした。

「貴方は」

「君は」

と訊ねかけた所で、クセルクセスが動いた。神速の動きで、美女を抱えて、部屋から飛び出す。

「あ――待ってくれ!」オットーが後を追った時には、彼らの姿は消えていた。

 「オデット」

息を荒くしたクセルクセスが、館の裏で、ようやく彼女を降ろした。降ろされるなり、彼女は言った。

「お父様、一体何なの――あの男は!?」

クセルクセスの顔には、隠しきれない動揺が現れていた。

「オットーとか言う万魔殿のならず者です。 絶対に近付いてはなりません。 貴方が害されてしまいます。 オデット、いいですね?!」

「え、ええ――」

彼女は、クセルクセスの気迫に負けて、頷いた。

 「彼女は、彼の一人娘のオデット嬢ですよ。 ――どうされたのですか?」

さっぱり事態がのみ込めないと言った表情のJDが、訊ねた。

「いや、何でもない」

オットーは首を振った。そして内心で、こっそりと、この痺れるような感覚は一体何だろう、と思った。


 『計画に変更が必要だ。 あのオットーが生きている。 計画に気付かれた場合、重大な障害となる可能性がある。 海の藻屑としたつもりが、まだ生きていたか』

「こちらの味方にすることは出来ないか?」

『――失敗した場合に備えて、消去する準備を調えておかねばなるまい』

「適材がいるわ」


 「おかえりなさいませ!」

帰宅したJDらを出迎えたのは、両手に皿を一杯抱えて歩いてくる召使ソーゼの笑顔だった。

「お館様、先にお食事にされますか、お風呂にされますか?」

JDの顔がはっきりと引きつった。

「いえ、その、それより――止まりなさい!」

遅かった。ソーゼは、自らの足に足を引っかけて転倒した。

オットーとJDは目を覆った。

がらがらがっしゃーん。

恐る恐る開くと、皿の無惨な死体が床一面に転がっていた。

「あああああああああああああああああああああああ!」

ソーゼが顔色を変えて、絶叫を上げる。丸かった皿が何枚も見事に割れてしまっていた。

「――ああ、月よ、お前が満月であった時はげに短きや」

JDはため息をつきながら言った。何かの詩句の一節のようであった。

「もももも申し訳ありません!」

土下座して謝る召使いを叱れず、JDはいいんですよ、と逆に慰めた。

このソーゼという召使いは、性質こそ真面目で素直だったが、ドジと間抜けの頂点にいるような若者であった。皿を割り、壷を割り、絵を台無しにした。掃除をしていたら書斎の棚に激突し、分厚く重たい本の下敷きになって死にかけたこともあった。

「元から高級品は無いので大した損害では無いのですけれど――とても怖ろしくて書斎と倉庫には入れられませんね。 ――いいですか、決して入ってはなりませんよ」

食事の給仕を務めながら、ソーゼはしょげかえった表情で、

「……はい」

と神妙に頷いた。

「絶対に、入りません」

「よろしい」

JDも頷いた。

だから、オットーは皿を抱えて階段を登ってくるソーゼを見た時、血相を変えたのである。彼の脳内では、無惨に砕け散った皿の姿が再生されていた。

「だ、大丈夫か!?」

「今度こそ落としません、オットー様!」

にっこりと彼は笑った。えくぼが出来た。

「そ、そうか――それなら、いい」

「オットー様もお優しいですね」ソーゼはにこにこしている。「僕、こんな有り様なので、幾つものお屋敷を首になって――ここが初めてなんですよ、こんなに長く雇っていただいたのは」

だろうな、とオットーは思った。誰だって皿が惜しいだろう。

「JDに感謝しろ」

「はい、勿論です! でも――あのう」

急に彼は落ち込んだ様子で言った。

「お館様のお先が長くない――と言うのは本当ですか?」

彼は、心底死なないで欲しいと言った表情だった。それは雇ってもらえなくなるからではなく、JDを人格者として慕っているからの様だった。

「……お前は、仕事を失敗しないよう頑張れ。 そうすればJDの心労も減って、少しくらいは長生きするかも知れない」

ぴしっとソーゼの顔が引き締まる。

「は、はいッ!」

元気よく、そう言った。

「ところで」とオットーは訊ねた。「この館に武器庫のようなものはあるか。 刀剣が欲しい」

ぎょっとしたような目でソーゼはオットーを見つめた。

「ま、まさかそれでお館様を――」

「体が鈍ってきたから鍛えたいだけだ」

じろじろとソーゼはオットーを見て、

「――太られた様には見えませんが」

「太る前に何とかしたいんだ。 頼む」

「――お、お教えしますが、絶対にこの館の中では振りまわさないで下さいね! 後、ちゃんとお館様の許可も取って下さいよ!」

 JDは快く許した。

「どうぞどうぞ。 どうせ僕は使いませんので。 お好きなものをお持ちなさいな」

武器庫に入って、ほうとオットーはため息をついた。

古今東西のありとあらゆる武器が備えられていたのだった。銃から、剣まで揃っている。初めて見た兵器らしきものもあった。

「僕の父のコレクションです」

「凄いな」

「父は、戦争は嫌いでしたけれど、武器が好きだったのです。 戦争は醜いが、武器は美しいと」

「同感だ」

オットーは片刃の長刀を手にして、頷いた。

これがいい。気に入った。

「この世界は醜いですけれど――地に埋まる宝石のように、掘り求めれば美しいものもあるのですよ。 決して諦めなければ、いずれ辿り着ける。 いえ、諦めないという覚悟こそ、美しいのです」

JDは呟いた。その言葉は、いやにオットーの心に残った。

「似たような言葉を聞いたことがある――『足掻くことを諦めたら、そこで全てがお終いになるのだ』と」

「この世界は広いですから」JDは、ふふ、と笑った。「きっとその人も――生きることを諦めていないに違いない」


 その夜も、また美しい夜だった。誰もが寝静まった深更、オットーは手紙一つを残して出かけた。帯剣していた。

街を歩き、彼は、いつしか墓地まで辿りついていた。

「――そろそろ、姿を見せてもいいんじゃないか?」

ゆらり、と彼の目の前が揺らいだかと思うと、深々とフードを被った人影が姿を現した。

「お前は、誰だ?」

『――この世界が醜いと思わないか』

変声器を使っているのか、奇妙なしゃがれ声でその人影は言った。

「醜い? もちろんそう思っているとも」

オットーは答える。この果てしない戦争ばかりが繰り返される世界が、醜くないはずがない。腐って歪んで醜い有り様である事は良く承知している。

『美しい世界を作りたくはないか』

「出来るものならな。 だが俺達はこの世界で足掻くしか無いんだ」

戦って、戦い抜くしか無いのだ。

『美しい世界を作る術がある。 ――知りたくは無いか?』

彼の好奇心が刺激された。

「――知りたい。 だが――その前に訊こう。 お前は誰で、何が目的なんだ? どうして俺の後を付けた?」

『我々に協力して欲しい。 決して、お前の損にはならない。 むしろお前のためになることだ。 ――美しい世界に、お前も住みたいだろう?』

「住みたいが、俺の手は血で汚れている。 それでも許してもらえるのか?」

『我々に協力すれば、罪は全て浄化されるだろう。 私としては、君に是非協力して欲しい』

「俺が嫌だと言ったら?」

『――君は報いを受けるだろう』

背後で、気配がした。それも複数。オットーは言葉を選びながら言った。

「――この世界が醜いというヤツは、この世界で足掻くことを諦めたヤツだ。 諦めた負け犬に協力する理由はない」

『――そうか。 私としては、非常に残念だ』

人影が、揺らめいたかと思うと消える。同時に彼は背後から襲いかかられた。

だが、その時には彼は既に転位している。背後を取った。長刀を一閃させると、凄まじい切れ味のそれは、襲撃者達をすっぱりと真二つにした。

「凄い切れ味だ」彼は呟いて刃を振り回した。

残り一人となった襲撃者はナイフを構えた。オットーも長刀を構える。緊迫した空気が流れる。襲撃者が、動いた。オットーは流れるように長刀を動かした。だが、肉を打つ感触はあったものの――弾かれる。どうやら刃が効かない装備をしているようだった。

ならば、峰打ちで肉と骨を砕くまで。彼は長刀を持ち変える。その隙を縫って襲撃者はナイフを繰り出す。彼の頬を掠めた。青い血が流れる。続けて繰り出された鋭い蹴りを、彼は近距離転位してかわす。

転位した直後に、男の胸を蹴った。男はのけ反る。だが、そのままバク転した。その靴先からもナイフが現れ、オットーの胸部を浅く切り裂いた。彼は舌打ちする。

「ちッ――なッ?!」

だが、次の瞬間、彼の体は硬直した。ナイフには暗殺者が使う猛毒が塗られていたのである。それが、効き始めたのだった。

襲撃者は、素早く駆け寄ってくる。オットーの体には力が入らなくなって、前のめりに倒れた。両手をつくが――体が痺れて立ち上がれない。意識が点滅を始め、長刀が手から離れる。ナイフが振り下ろされ――。

「何をしている!」

辺りを打つような声が響いた。花束を持ったクセルクセスが、墓地の入り口に立っていた。

「!」

襲撃者は、逃げ出した。クセルクセスが走り寄ってくる足音を聞きながら、オットーは意識を失った。


 ――ぽかりと額を打たれて、彼は転倒した。

「ほらほら、どうした、かかって来ないか」

彼女は、木刀を振った。

 (ああ、これは、俺が幼い頃の一光景)

「――勿論だッ!」

彼は木刀を掴んで、立ちあがる。

そして彼女の背後に転位した。だが、ひらりとかわされて、今度は背中を打たれる。彼はまた転倒した。

「ううッ――!」

「お前の攻撃はとにかく背後を狙おうとするから読めてしまう。 たまには奇策も必要だぞ?」

「――う、るさい!」

彼は彼女の頭上に転位して、襲いかかった。

「くらえ!」

だが攻撃は空を斬り、ぽかりとまた頭を打たれる。

「まだまだ甘い」

彼女の厳しい言葉が降ってくる。

 (俺は、いつも彼女に勝てなくて)

「裏の裏をかく奇策が必要だ、オットー坊や」

「坊やじゃないやい! いつもいつも子供扱いしやがって!」

「じゃあ、次の稽古までには考えておくんだ、オットー」

彼女はくるりと背中を翻すと、去っていった。

彼は歯軋りしながらそれを見送って――。

 (その背中を越えたくて、いつも足掻いていた)

 (あの頃から俺は、どれだけ成長できただろう)

 (俺は――)

 (――)


 「オットー!」


 その声で、覚醒した。

彼は医療器具に取り囲まれて、寝台の上で寝ていた。

「ごあ、あ――」

舌がもつれて、よく喋れないと思ったら、口に医療器具が突っこまれていた。彼は邪魔になってそれを取ろうと片手を上げたが、その手が握られた。小さな温かい手に。

「良かった……! 医者の話では、目覚めるか否か五分五分と言うことだったのですよ」

(――JD!)

彼はもう片方の手で医療器具を取ると、彼に問うた。

「お、俺を襲った連中は!?」

「分かりません。 おそらく帝国外の連中でしょう。 見た事の無い顔だった上に、最後の一人をXXが追ったのですが、行方をくらましたそうです」

「首謀者がいる。 美しい世界に住みたくはないかと――俺に協力するよう持ちかけた」

「そう、ですか――万魔殿の貴方に助力を請い、失敗して命を狙うとは――」

「『主戦派』とか言ったな? もし事実だとすれば――俺の敵でもある」

「何故ですか?」

「万魔殿でも過激派は、穏健派の『』の――俺の敵だからだ」

「オットーさん……。 何も貴方が関わる必要は無いのですよ」

JDは彼から目をそらした。

「もう十分に関わっている。 それに、友達だろう?」

JDの手を握りかえして、オットーは言った。


 「説得に失敗。 暗殺にも失敗。 失敗だらけだ」

「貴様が提案したんだろうに!」

『言い争うな。 計画は、依然順調だ』


 ジュナイナ・ガルダイアで生死の境を彷徨っているユナの見舞いに行くと女帝が言い出した。これは誰にも予測出来ていた。自分にもっとも近しい側近が死にかけているのである。太母として、見舞わぬことなど出来ないだろう。だが、隠密に行きたいと彼女が言った時、クセルクセス達は全力で彼女を止めた。

『まだ、ユナを狙った犯人も捕まっておらぬのです!』

立体映像として宮中に現れたクセルクセスは、血相を変えていた。

『隠密に行かれては、陛下のお命も危ういかも知れません』

「ですが、ユナを早く見まいたいのです」

『出来る限り迅速に準備を進めますので――どうかお待ちを!』

「では、遅くとも今日中に出立しますがよろしいですか?」

『そ、それは――』

幾ら何でも早過ぎる。準備も何も、間に合わない。

高官や側近達が揃って止めたが、彼女は頑として、

「我が侭だと思うでしょうが――一刻も早くユナにあいたいのですよ」

『陛下――』

弱々しい、消え入りそうな声が聞こえたのは、その時だった。

「JD――」

立体映像で、車椅子のJDが登場する。

『どうか、何とぞ、お待ち下さい。 陛下のお命に差し障りがあっては、ユナも堪らないでしょう――』そこで、ごぼっと彼は血を吐いた。側近達や居並ぶ貴族達が硬直した。彼の病状は重いと言う情報を得ていたが、ここまでとは。彼は苦しい息の下、言った。『――どうぞ、お願い申しあげます』

「――では、三日」女帝は渋々といった感じで物申した。「三日、まちましょう」

側近達や貴族達の間に、ほっとしたような空気が流れた。

 「JD」クセルクセスは、緊急御前会議が終わった後、心底やれやれと言った感じで、呟いた。「私は陛下をあの女呼ばわりしましたが――貴方はそれ以上だ。 

「まあ、こうでもしなければ陛下は留まってくれなかったでしょう」JDは口元を拭いながら、少し笑って言った。「それにしてもトマトジュースと言うのは、いばかりであまり美味しくないですね。 ソーゼに作らせたのがいけなかったのでしょうか?」


 クセルクセスの弱点は娘オデットである。掌中の珠と言うか、目に入れても痛くないと言うか、溺愛していると言うか――とにかく甘い。彼女のその美貌から結婚の申し込みは殺到していたが、鬼舅と化したクセルクセスによって片端から吟味され、はね除けられていた。もし彼女が恋人を連れてきたら、彼はおそらく馬鹿高いプライドも地べたに叩きつけておいおいと泣くだろう。

「ねえお父様」

と彼女がやって来ると、彼はいつもの驕慢っぷりはどこへやら、

「どうしたのです、オデット」

でれでれでれでれし始める。原形を留めないほどに。

「早くユナ様を殺そうとした犯人は捕まらないかしら」

「今必死に捜索しております、もう少しお待ちなさい」

「女帝陛下が御幸の前に、何としても捕まえなければ――私にも是非手伝わせて下さいな」

「気持ちは大変嬉しい。 ですがオデット、申し訳ないことに貴方の出来ることは今は無いのです」

「もうお父様ったら、私をまだ子供扱いしていらっしゃる――」

オデットは不機嫌そうに頬を膨らませる。

クセルクセスはふと顔をあらためて、

「貴方はいつまで経っても私の大事な娘ですよ――フリージアの形見です」

「お母様は――私を産んですぐに亡くなってしまったのですよね。 でも、サーシャが本当に良くしてくれた。 セルゲイもいて――あの子は捻くれたまま育ってしまったけれど」

「サーシャの事では、私は貴方がたに謝らなければならない。 凶竜の禍の騒ぎで、彼女の葬儀にも出られなかった」

彼女は涙を浮かべて、

「いいえ、あれはお父様の所為ではありませんわ――」

そのまま、涙をこらえるふりをしてクセルクセスの部屋から出ると、彼女はぼそりと呟いた。

「お前を、私は一生恨んでやると決めたのよ!」


【ACT五】愛していたがために


 クセルクセス・イレナエウスの人生は、途中まで順調だった。名門貴族の子弟として生まれ、誰からも大事にされて、厳格な父親の元、次々と位階を極めて昇進していった。同じ若き名門貴族の子弟ファフナーと並び称されるほど、彼は優秀であった。いずれは彼らのどちらかが枢密司主席に――と誰もが思っていた。

 だが、彼は恋をしてしまった。相手がもし貴族の娘であったなら、誰もが喜んで二人の恋を祝福しただろうが、相手は召使――平民の小娘であった。勿論彼は帝国の法律上貴族と平民の結婚は絶対に許されないことを知っていた。それで彼らは駆け落ちをしようとしたのである。しかし、厳格な――人情味が薄いほど厳格な父親に見つかり、彼らは生木を引き裂くように無惨に引き裂かれた。小娘は帝国を追放され、自分の息子の愚行に激怒した父親は、彼を僻地ジュナイナ・ガルダイアに左遷した。彼はそこで泣きわめき、絶望し、そして二度と帝都の地を踏まないことを決心した。彼の人生を全てジュナイナ・ガルダイアに費やすことを決意したのである。

 彼は僻地を改革した。およそ三〇年で、帝国の富の一角を成すような、巨大な貿易都市へと変貌させたのである。息子の偉業に驚いた父親は彼を呼び戻そうとしたが、彼は頑としてそれに応じなかった。帝都にて国葬で行われた父親の葬式にも行かなかった。彼はまだ父親を許せていなかったのである。この事で、彼は姉を除く親族から徹底的に責められたが、それを平然と受け流した。この時には、傲慢で我が侭でナルシストな彼は形成されていたのだろう。

彼は何でも屋だった。何をやらせても人の数倍速く、上手くやった。政治家としても、軍人としても彼は大成した。彼は主に女と前衛芸術を愛した。金がかかるものを愛した。新しくて変わっていて値段の張る物は彼のお気に入りであった。彼のコレクションは膨大であった。止めるものがいないばかりに、彼の奇矯な性格は酷くなっていくばかりだった。

 彼がジュナイナ・ガルダイアの太守兼海軍提督として、不動の地位を築き上げていた頃のことである。その頃の彼は独身で、女遊びが激しく、自分でも生涯結婚することはあるまいと思っていた。だが、姉が見合いを持ちこんできた。相手は平凡極まりない貴族であった。他の親族はともかく、優しい姉のことだけは敬愛していた彼はやむを得ず引き受けて――一目惚れした。何の偶然か、彼が数百年前に失った少女によく似ていたのである。次に彼は慎ましやかで笑顔を絶やさない性根に惚れた。ほとんど彼の意志で、二人は結婚した。彼は幸せだった。

 カール・フォン・ホーエンフルトが帝国にやって来たのは、彼の幸せの絶頂期であった。彼は女帝に面会を求めて、帝都に入る許可が下りるまでクセルクセスの屋敷に滞在することになった。彼は帝国外の話を聞けると無邪気に喜び、カールを歓待した。男一人で寝るのは寂しいだろうから、と女まで手配したのである。その頃の彼は幸せに目がくらんで何一つ疑っていなかった。だから、まさか彼の妻がカールに一目惚れして、その女に金を渡して入れ替わり、カールと寝たなどとは露ほども思っていなかったのだ。

 彼の妻フリージアは愛されてこそいたが、不安であった。自分は彼を愛しているのだろうか?と思うことがあった。見合い結婚で、向こうから望まれて嫁ぎ、何ら不平不満のない生活を送り――それで、自分は本当に幸せなのだろうか?彼女は時々この正体のない不安に襲われて、笑顔で無くなる時があった。正にその時に、彼女はカールに出会ってしまったのである。そして、泥沼の恋情を抱いた。泥沼。正に泥沼であった。一歩踏み入れたら、もう後戻り出来ないのであった。そこに彼女は足を踏み入れた。

カールは結局宮中まで迎え入れられたものの、女帝との謁見は許されず、気落ちして帰っていった。

クセルクセスは彼を慰め、彼を見送った。彼は去り際に言った。

「満ちない欠月は無い。 私は諦めない」と。

 フリージアの妊娠が発覚したのは、それから少し経った時だった。

 クセルクセスの喜びようと言ったらそれはもう無かった。有頂天の彼は子供の名前を考え、子供の将来を考え、自分がもう若くはないことを自覚して、万が一自分が死んでも後の生活に困らぬようにと長い長い遺書を大急ぎでしたため、それらの行為を嬉々として――そのつもりは無かったのだが、妻に見せつけた。

「ね」と彼は心底嬉しくて言うのである。悪意など全く無いのである。あるのは愛情と誠実さであった。「この老いぼれが死んでも、貴方達の生活には一欠片の不安も要りませんよ。 ああ、でもこの子が大人になるまでは生きていたい!」そこで彼は妻の腹を見て、急に泣き出しそうな顔になり、「……娘だったらいずれは嫁がせねばならないのか。 それは嫌だ!」と時期的に早すぎる駄々までこね始めた。

 一方、妻は、確信していた。この腹の中にいる子供はカールの子だと。彼女は追いつめられた。彼女は罪の子を胎んでしまったのだ。彼女は今さらながら後悔したが、取り返しが付かないことであった。夫の優しさと思いやりこそが、彼女を本当に追いつめた。優しくされる度、腹の中の赤ん坊がお前は罪人だと叫んでいる気がした。彼女の顔から笑みが消えた。クセルクセスはそれがマタニティ・ブルーだと周りからも言われて完全にそれを信じ込み、ますます彼女に優しくした。彼女の負担を減らすためならば金と手間暇を惜しまず働いた。ジュナイナ・ガルダイア最高の産院、極上の医師団の手配、彼女がつわりで苦しめば世界中から食べられそうなものを買い求め、落ち込む時にはそっと一人にしたり、優しく慰めたり、とにかく彼女が安心し幸せになるためならば身を粉にした。

もう悪循環だった。彼女は優しくされる都度、自分の夫を裏切ったのを何より後悔し、自分を激しく責めた。

 出産後、彼女は全てを書き連ねた遺書を残して、自害した。

 全てを知ったクセルクセスは、事情を知る姉が見守る前で、その遺書を金庫の中の一番奥にしまって、厳重に鍵をかけた。どんな錠前破りの名人でも、悲鳴を上げるような鍵を、幾重もかけて。

本当にそれでいいのですか、と姉が訊ねた時、彼はこう言った。

「あの子は私の子です」

何故言ってくれなかったのか。クセルクセスは悲嘆しつつ思った。こんな老いぼれと結婚してくれただけで嬉しかった。こんな奇人と結婚してくれただけで良かった。死ぬほど後悔して反省しているのならば、彼は許した。自分のような変人と付き合ってくれただけで感謝していたのだ。誰にでも過ちはある。そして彼にとって彼女のした過ちは十分に許せるものであった。彼女の罪は、彼の今までの放埓と奔放そのものであった人生と比べれば、何の事は無いものであった。女から女へ次から次へと浮気に浮気を重ねてきた彼が、彼女のたった一度の一夜の過ちを許さなくて何なのだ。……だが彼女に死なれてしまっては、もう『許した』と伝える事すら出来なかった。

 彼はその子を育てた。しかし仕事が忙しい彼は自分一人では育てきれず、子守の女を求めた。それでやって来たのがサーシャであった。彼は女癖の悪さを発揮して、すぐ彼女に手を出して、胎ませた。魔族と人間だからまさか子供は生まれまいと思っていたら、見事にセルゲイが生まれた。彼は赤ん坊を一目見てぎょっとした。嫌味なまでに彼に似ていたからである。彼は、だからこの息子はあまり不憫に思わなかった。この子は己と血が繋がっている。それは消すのにとても手間がかかる、大変に頑丈な絆である。だが、彼の娘は、本当は彼とは何の関係も無いのだ。愛情が無ければ、いともたやすくその絆は途絶えてしまう。だから彼は息子は放置気味にする一方で、娘を溺愛した。

クセルクセスはジュナイナ・ガルダイアから離れなかったが、将来の出世のことを考えて、子供達は帝都で育てた。離ればなれであったものの、彼らは幸せな一時を過ごした。――凶竜の禍が起こるまでは。

サーシャは子供達を庇って死んだ。彼は高位の帝国貴族の務めとして事件の後始末に追われて、彼女の葬儀にも行けなかった。

後々、彼はこの時のことを思い出すと、必ず激しく後悔するのだった。何故貴族の務めと愛を秤に掛けて、貴族の務めを取ってしまったのだろう。何故仕事を捨ててしまえなかったのだろう。彼は務めを放棄してでも愛を取るべきだった。そうは言っても彼の奮迅の働きがなければ帝都は復興しなかったのだ。――だが、何にしても、もう遅いことであった。


【ACT六】裏切りと戦いと


 「ヤツが来たぞ」

「いよいよね」

『仕損じるなよ』


 「……」爪が噛み切れなくなるほど短くなってしまったので、今のエンヴェルは指を噛みしめていた。血が出ていた。だが今の彼にとっては、その痛みすら全くどうでも良い事であった。

「……エンヴェル」セルゲイは、その痛ましい有様に、一瞬、言葉が出なかった。「……俺、ここへ行幸なさる女帝陛下に直訴してくるよ。 エンヴェルをここから出してくれって頼みに行く」

「良い」とエンヴェルは、言った。「姉上がこのままの状態であったら、余がここから出されようと何ら事態は変わらぬ」

「……」

「……余は、別に追放されても構わぬ。 冤罪でも構わぬ。 だが、姉上のみならず女帝陛下へも危害が加えられたならば……余は……!」

「……お前、本当に良いヤツだな」セルゲイはエンヴェルには聞こえないように、小声で言った。まるで自分に言い聞かせるかのようだった。「自分の事よりも大事な誰かを優先するんだ。 自分がどんな目に遭っても、構わないんだ。 だから俺達は自然とお前の側に寄って行った。 居心地が良いからだ。 だって、お前は本当に良いヤツだから。 お前は誰も拒まない。 お前は誰も否まない。 だから……俺は……俺は」

そこで検非違使が面会時間の終わりを告げた。


 「――なあ」

「どうしたの?」

「アイツの傍にいると、息がしやすいんだ。 みんなそうだ。 みんな、アイツの傍にいるのは、結局息がしやすいからなんだ」

「……何を言っているの?」

「たった独りぼっちの偏屈な俺を、アイツは本当に大事にしてくれる。 こんなにねじくれた俺をだぜ? だから、俺は――やっぱりアイツだけは裏切れない」


 女帝がジュナイナ・ガルダイアへ御幸した。取り巻きの貴族達も下がらせて、ヴェールの中から昏々と眠るユナを見下ろす。

「お前は、私の大事な子。 まだ死ぬことはゆるさないわ」

そう言って彼女はユナの手に触れ――。

 女帝達は、それから迎賓館に向かった。

 ――「うう、う」

低い呻き声が聞こえた。医者達が駆けつけてきて、驚愕に目を見張る。

生死の境をさ迷い、時が経つごとに生還が絶望視されていたユナが意識を取り戻していた。

 「おい、クソ親父」

呼ばれて、クセルクセスははっとした表情でそちらを振り向いた。

脇腹を押さえて、セルゲイが人々がたむろする館の一階の柱に寄りかかっていた。クセルクセスは、ユナが意識を取り戻したという知らせを聞いて、この館に駆けつけたのだった。

「何です、馬鹿息子」

例のごとく傲慢な口調で彼は言った。

セルゲイは場違いにも煙草をくわえると、

「――『主戦派』の正体を教えてやるよ。 俺と、その他諸々と、俺の姉さんオデットだぜ」

「!?」クセルクセスの驚愕もよそに、彼は続けた。

「爆弾を仕掛けたのは姉さん、毒入り果実を送りつけたのは俺。 俺達の最初の目標は『』、そして今の目的は『』。 ――もうすぐ、万魔殿の『過激派』の軍隊が、ジュナイナ・ガルダイアめがけて押し寄せてくるぞ。 早く迎撃しないと――この街は芥子粒一つ残さず焦土と化す」

ずるずると、彼は柱にもたれつつ、その場にくずおれた。柱に赤い痕が付く――血だ!

「セルゲイ! お前というやつは! この馬鹿息子!」

クセルクセスは駆け寄って抱き起こした。彼は脇腹に深い傷を負っていた。傍にいたJDが訊ねる。

「セルゲイ君、君はまさか――」

「クソ親父、アンタは大嫌いだ。 でも、エンヴェル、アイツだけは――絶対に――どうしても裏切れなかった。 すぐに釈放してやってくれ。 アイツだけは、アイツだけは――」

そこでセルゲイは気を失った。

 すぐに手配がされた。だが、オデットの姿はどこにも見あたらなかった。おまけに、軍隊を出動させようとした面子は絶句した。銃弾や砲弾、燃料の類が、一切消え失せていたのである。これでは、いくら最新兵器で満たされているジュナイナ・ガルダイア海軍とて、何も出来ない。

そうこうしている内に万魔殿の『過激派』の軍隊――空軍と海軍が帝国の領海を侵して進軍してきたとの報告が入った。

釈放されたエンヴェルは、それを聞くとどこかに姿を消した。

 そして――彼は、押し寄せてくる万魔殿の海軍艦隊の真ん前に、木っ葉のように小さな小型船に乗って立っていた。

「父上、母上――力をお貸し下され!」

彼はまっしぐらに船を海軍艦隊へと走らせながら、両腕を大きく振り上げた。その途端に、平穏だった海が、一気に荒れ狂った。巨大な渦を巻き起こると、次々と艦隊を呑みこんでいく。全てを怒濤と化して呑みこんでいく。『海妖精トリトン』である彼は、海水を操ることが出来るのだった。


 ――ジュナイナ・ガルダイアにいた貴族達の間に激震が走った。

これは、紛れも無い戦争だ。彼らはまず女帝を逃がそうとして必死になった。

だが、迎賓館にて、彼らに裏切り者たる主戦派の貴族達が襲いかかった。貴族同士の争いが起こった。同じ魔族同士の争いである。中々決着が着かなかった。クセルクセスは、その争いの真っ直中にいた。細身の剣を振るい、次々と裏切り者達を排除していく。それでも、敵の数は尽きなかった。どころか、徐々に、女帝を守ろうとする彼らは劣勢となっていく。情勢が不利と見たクセルクセスは叫んだ。

「私が殿しんがりを務める、あなた方は女帝陛下をお守りしてお逃げなさい!」

側近達は、その言葉に従った。

「馬鹿め、たった一人で我々と渡りあおうと言うのか!」

裏切り者の貴族達が襲いかかる――。

だが、クセルクセスは傲慢にも笑っただけだった。

「馬鹿が。 逆ですよ、私ただ一人でなくば、力が使えなかったのですよ」

いきなり、貴族達が、喉を掻きむしって苦しがった。――と、ばたばたと倒れていく。まるでその有り様は毒ガスを吸ったかのようであって――。

「『妖精王オベロン』は大気を操ることが出来る。 どうです、窒素一〇〇%の空気の味は。 精々窒息死しなさい」

「クセルクセス」

小さな声が、彼の背後から響いた。はっとクセルクセスは振り返ろうとして――背中を浅く刺された。振り返ったが、誰もいなかった。

だが、気配はする。光の屈折率を曲げて透明に見せているだけなのだ。

「『蜃気楼ミラージュ』! オデット!」

彼の愛娘が、彼の命を狙っているのだ。

「窒息死するまでに、お前を殺してやります」

「馬鹿娘!」彼は大喝した。「その根性、叩き直してやります!」

彼の周囲以外の――部屋中に窒素が満たされていく。

大気が動く気配だけで、彼は攻撃を察知し、全て受け止めた。

「くう」やがて、苦しげな息が、聞こえた。「苦しい――」

がくりと膝が折れる気配。幻が解けて、そこには剣を手にした美女が姿を現す。

その髪を掴んで、クセルクセスは叫んだ。

「何故こんなことを――!」

無感情な声が響きわたったのは、その時だった。

「流石は『ハルトリャスの魔王』クセルクセス・イレナエウス――だが、お前もここまでだ」

迎賓館の入り口に、仮面の男が立っていた。両手剣を構えている。

「……貴様は誰だ?」

「メタトロン」と男は言った。「お前達の敵だ」

そして、彼めがけて一目散に突進してきた。

激しく打ち合う。腕前はほぼ互角だった。

だが、男が伸ばした手をクセルクセスは切ろうとして――剣が、蒸発した。

「な?!」

彼が驚きに目を見張った時である。

ばっさりと、彼は袈裟切りにされた。大量の血が吹きあがる。

「この世界は醜すぎる。 浄化が、必要だ。 ――

それを聞いたクセルクセスは、断末魔の中に、はっきりと驚きの色を見せた。

「な、何だと――!」

「叔父上!」

そこにエンヴェルが到着した。到着するなり彼は大喝した。

「貴様、誰だ!」

「――私達は、退散するとしようか」

仮面の男は、オデットを抱えて、姿をくらました。エンヴェルは血まみれの叔父に駆け寄る。

「叔父上、しっかり――! 海軍は止めました! 後は空軍だけです! どうぞ気を確かに!」

エンヴェルは叔父を抱きかかえて、泣きそうな声で言った。彼の能力でクセルクセスの体から流れる血は止まった。だが、既に流れすぎていた。

「エ、エンヴェル――後を、頼みます。 オデットを、どうか――

そこで、クセルクセスの目が何もない虚空を見つめて、彼は微笑みを浮かべた。

「ああ、何だ、二人とも、そこにいたのですね――」

その手が、宙を掴んで、落ちた。


 既に空軍の押し寄せる不気味な気配がジュナイナ・ガルダイアに満ちていた。広がる海の上の青い空に、黒い点々とした列が見えている。

迎賓館から必死の思いで逃げ出した女帝達の一行を見送り、JDとオットーの二人は街道の上にいた。空爆されると言う情報を知ってしまったジュナイナ・ガルダイアの人々が恐慌状態に陥って、泣き叫んだり怒鳴ったりしている声があちこちからしていた。彼らも逃げようと必死になっていたが、時間はそれを許さなかった。JDは言う。

「オットーさん。 僕は今ほど健康になりたいと思ったことはない。 健康ならば、僕も戦うのに――」

「――」オットーは重い口を開いた。「俺の血が欲しいか。 『癒しの血』を持つ魔女の息子達である俺の血が」

『癒しの血』さえあれば、魔族の『飢え』は治まるのだった。

魔女の息子達であるオットーの青い血を吸えば、飢えが原因であるJDの病も、一時的にだが治るだろう。

「ええ、どうか――どうか、下さい」

JDは小さな手でオットーの手を握った。オットーはひざまずくと、自らの首筋を差し出した。そこに、JDは吸い付き、小さな牙を立てた。――ぷっつりと浮かんだ青い血玉を、JDは赤い唇で吸い、舌で舐めた。ごくんと喉が鳴った。

「ありがとう、オットーさん。 お礼に――僕の戦いをお見せしましょう」

次の瞬間、JDの内部に封じられていた亜空間が幾つも展開された。光が放たれる。オットーは目がくらんで思わず目を覆った。

光が止んで、彼が目を指の間から覗かせると――彼は驚愕した。

竜。古代の伝承そっくりの巨大な姿が、彼の目の前で滞空していたのである。

『これが僕の――ド・ドラグーン家の真実の姿である竜。 僕は翼ある蛇ケツアルコアトル

「お前は――」

オットーは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。それほど目の前の存在は大きかった。かつての、太古の昔に人々も唯一神をも圧倒した魔神達の名残が、今、再び現れたかのようだった。

『お乗りなさい。 ――いざ、戦いへ!』


 迎撃能力が無力化されていると知って、無差別爆撃にやって来た万魔殿の空軍は、いきなりレーダー上に現れた巨大な影に瞠目した。それはすぐに可視な存在となる。

彼らは度肝を抜かれた。化け物。怪物。竜。何が何だかよく分からないが、巨大な何かが襲ってきたのである。それは口から荷電粒子砲のような光線を吐き、それは展開されたシールドをぶち破って空中巨大空母を一撃で沈め、鋭い爪で空中護衛戦艦を引き裂いた。尾の一撃は爆撃機を粉砕した。彼らは慌てて攻撃したが、巨体の割に戦闘機並みに俊敏なそれは、全てかわした。それは戦いと言うよりも蹂躙であった。巨大な竜に、彼らはただ一方的に滅ぼされるのだった。

彼らは、やむを得ず撤退した。


 ――海岸の砂浜に降り立った竜は、小さな、けれどとてつもなく偉大な男へと姿を変えた。

「お前は――何のために戦う」

オットーは、ようやくそれだけ言えた。

「この世界を――女帝陛下を護るために」

男は胸に手を当てると、そう答えた。

「俺は――」声が、出なかった。戦って戦って、その果てに何があるかも知らずに戦って――己はどこへ行くのだろう。

全てを抱擁するかのような優しい笑みを、JDは浮かべた。

「貴方には貴方の理由がある。 それでいいのですよ」

「お館様!」どうして、どうやって見つけたのだろうか、ソーゼが駆け寄ってくる。「あわわわわ、お召し物は?!」

「ああ」と恥ずかしそうな顔をして、JDは苦笑した。「破れてしまいました」

「こ、これをどうぞ!」ソーゼはタオルを差し出した。

「ああ、ありがとう」

JDがそれを身にまとった時だった。

「オットー」急に、地を這うような低い声でソーゼが言った。「貴様があの時、是と答えて我々の仲間に入ってさえいれば――こんなことにはならなかったものを」

「!?」オットーは一瞬訳が分からなくて、固まった。

「どうしたのです、ソーゼ――ッ!?」

全ての答えの代わりに、JDの胸に、ナイフの切っ先がずぶりと生えた。

「――JD!!」

オットーは絶叫して駆け寄った。

ソーゼは憎々しげな声で、ナイフを引き抜き、逃げだしながらこう叫んだ。

「俺だってこの人は殺したくなかったんだ!」

 JDの小さな体が、砂浜に倒れる。

オットーは半狂乱で抱き起こした。

「しっかりしろ、JD! 死ぬんじゃない! JD! JD!」

「――」

JDの顔に、全てを悟ったかのように、大きな虚無の微笑みが広がった。その瞳には、まるで砕け散りそうなくらいに青い空と――今にも泣きだしそうな青い青年が映っていた。良かった、と彼は思う。この腕の中で死ねるのならば。


 「ああ、青い」


【ACT七】滅竜


 魔族の中でも、『竜』はその筆頭に立てるくらいの戦闘能力を持つ。古代、異教の神々が存在した時、竜は必ずと言って良いほどその神々の中にいて、主に軍神、武神として人々に崇め奉られていた。単騎で万軍に値するほどの戦闘能力を所持しているのだ。

だが、竜には、致命的な弱点があった。生殖能力が低かったのである。

竜の場合、母親が竜でなければその絶大な能力は継承されない上に、生殖能力が低くて中々子供を孕むのが難しかった。父親が竜であっただけでは、竜の子供は生まれないのである。出産で母子共々死んでしまう事態も良く起きた。だから、竜はゆっくりと滅びていったのである。

魔族が人を総べる国、古代から存在し続ける「帝国」でさえ、竜は滅亡しようとしていた。

 JDの母親は彼を産んだために死んだ。それまでに何度も流産を繰り返し、精神も肉体もずだぼろになって、その挙句に死んだ。これで生まれたのが女であればまだ救いようもあったであろう。だがJDは生まれついて男であったし、生まれ持った難病の所為でいつ死ぬか分からないと医者が暗い顔で宣告しなければならないほどの虚弱児であった。

JDの父親は絶望した。するなと言う方が無理であった。彼の伴侶が失われたのはJDの所為なのだ。竜の血脈を残せず、おまけに病んだ体を持っている不具の子の所為で彼の妻は死んだのだ。JDの父親は憎悪を抱いた。しかし彼は辛うじて理性でそれを抑圧し、虐待しないためにJDを己の弟の所へやった。

JDは聡い子であった。健康も愛してくれる両親も無くした代わりに賢さを得たかのようだった。叔父からも厄介者扱いを受けても、親族からも腫れ物に触るような扱いを受けても、耐えた。しかし彼は内心では悲しかったし、何よりさびしかった。彼は自分が長生きできない事を悟っていた。三日に一回は血反吐を吐いて医者が駆けつける、と言う生活なのだ。長生きして魔族の天寿を全うする事は、到底出来ないだろう。

せめて、と彼は願った。せめて死ぬ時だけは独りで死にたくない。誰か側にいて欲しい。

彼が成人するが早いか叔父は彼を家から追い出した。彼は独り暮らしを始めた。彼は本を読んだ。ありとあらゆる本を読んだ。本の世界にいる時だけ、彼は独りでは無かった。けれどそれは夢のようなもので、はっと気付いて目覚めると彼は一人ぼっちでこの世界にいるのだった。彼は泣きたかったけれど、涙は出なかった。

どうやったら死ぬ時に独りきり、と言う事態を避けられるだろう。彼はそればかりを考えて生きていた。

カール・フォン・ホーエンフルト――「大帝」が帝都シャングリラへやって来た事が、彼のそんな人生の転換点になった。

出会いは突然すぎた。真夜中にJDが本の世界に寝台の上でひたっていたら、窓から(地上三階)ひょいっと男が入ってきたのである。

「こんばんはー」と男は言った。酷く青い目をしていた。「いきなりでごめん、道に迷ったんだが、どうやったら迎賓館まで戻れるんだ?」

「……貴方は誰ですか?」とJDは言って、すぐに気付いた。今迎賓館でもてなされている人物と言えば、帝都で今もっとも話題となっているあの一人しかいない。「まさか……!」

「うん、そのまさか。 帝都に来たのは初めてなんで、あっちこっち行きたくて抜け出してきたんだが、ものの見事に道に迷ったんだ」

「……………………」

JDはまじまじとその男を見つめた。万魔殿にて、否、世界中からも「大帝」とまで呼ばれた男が目の前にいるのである。不思議な男であった。何が、とは明言できないのだが、不思議と魅力的なのだ。カリスマ性があるとでも言えば良いのだろうか。

「帝都はやっぱり広いなあ。 おまけに綺麗だ。 俺のヤンデレな姉貴も一度来た事があるって言っていたが、やっぱり素敵な街だぜ」

「……」まだJDが唖然としていると、男は続けて言う。

「そういや、君は? 名前をうかがっても良い?」

「……JD、です」

「あれ」と男は不思議そうな顔をして、「君は女の子なの?」

「いえ……父は、女の子が欲しかったので……」

「……そうかそうか。 色々と辛い事もあっただろうが、生きろよ。 生きるって事は大切な事だ。 生きてさえいれば、機会はあるんだから」

「僕は……!」JDは思わずぶちまけてしまった。彼はこれをぶちまける友達すらいなかったのだ。自分の出自、差別、冷遇、そして悲しみを。

「大帝」はうんうんと頷きながら、JDがぶちまけた全てを聞いた。それから言う、「よく我慢したなあ。 でも、もう、泣いても良いんだぜ?」

……JDが落ち着いた後、彼は言った。

「そうか、そうか。 なあ、気分転換にジュナイナ・ガルダイアとか別の街に行ったらどうだ? お前さんの人生はお前さんのものだから、お前さんの望むがままに生きるべきだ。 耐えるだけが人生じゃないんだぜ」

「……そう、ですね」JDはそこで頭を撫でられた。その温もりに、彼はまた取り乱しそうになる。けれど彼は構わずに取り乱すがままにした。泣いて、泣いて、それからやっとまた落ち着いた。「すみません、ありがとう」

「良いんだ良いんだ」彼は笑って、「じゃあな」と窓から飛び降りようとした。JDは慌ててその背中に、

「まだ道をお教えしていませんよ!」と叫びかけた。

「あ」「大帝」はきまり悪そうにして、「……そうだった」

JDは道を教えた後、こう言った。

「もし良かったら、もう一度お会いできませんか?」

「おう、良いぜ!」と「大帝」は笑顔で頷いた。

 JDはジュナイナ・ガルダイアに転居した。彼はそこで人生初めての友達を得た。XXと言う悪友を得た。

この時、JDはほんのわずかだが、己の人生に初めて希望を見出していた。

もう一度あの人に会おう。会って、お礼を言うのだ。

 だが、凶竜の禍が起きた。彼の叔父が、竜である彼が、いきなり暴れだして、帝宮は何とか守れたものの、帝都の首都機能は徹底的に破壊されたのだ。JDが臨時とは言え枢密司主席になったのは、その時には彼しかなれる人材がいなかったのである。帝都にいたほとんどの貴族や平民が、死ぬか、重傷を負っていた。JDはよく働いた。お前の叔父の所為で、と人々が恨み言を言うのを黙って聞いた。その罵詈雑言を聞いたXXの方が激怒するほど、JDは悪しざまに言われた。JDは文字通り自分の寿命を削って、最短期間で帝都を復興させた。彼はそれを確認すると、辞任して、またジュナイナ・ガルダイアに戻った。戻ってからの彼は、半分死人であるようだった。彼の体はもう、無理をしたために、持たなかったのだ。

JDは、己はいつ死んでも良い、とぼんやりと思っていた。ただ、死ぬ前にもう一度だけ、あの人に会ってみたい、と思っていた。あの人にありがとうと言えずに一人ぼっちで死ぬ事だけは嫌だったのだ。

そんな彼のささやかな希望は、凶竜の禍とほぼ同時期に発生した『BBブルーブラッド事件』で完全についえる事となる。

「聖王」と「大帝」が聖教機構と万魔殿の数世紀間にわたる長い長い戦争を終わらせようとして、けれど両者が同時に行方不明になった一大事。

JDは、それでも、耐えた。彼は凶竜の禍で死んだ父や、帝都を破壊できるだけ破壊して行方をくらませた叔父の家督を継いで、養子をもらった。たとえ人は希望を失おうとも、未来を潰されようとも、先にも後にも絶望しか見いだせない人生だとしても、ただ一つ、己の魂の高潔さと高貴さを失ってはならないと彼は知っていたからだ。

その養子が、ある日いきなり「大帝」の息子を拾ってきたのである。JDは、「大帝」が約束を果たしてくれたのだ、と思った。同時に、もはや末期的であった己の病状を考えて、JDは人生初めてのワガママを思いついた。せめて死ぬ時だけは独りではなくありたい。彼に側にいて欲しい。あの「大帝」とそっくりの青い目を見つめて、JDは思うのだった。それくらいは、許されるだろう、と。


――ぼんやりと霧散して虚ろになっていく意識、けれど己の名を半泣きで呼ぶ声がする、JDはこれで良かったのだと思う。『俺だってこの人は殺したくなかったんだ』、そうか、自分は殺したくない存在だったのか。良かった、自分はそう言う人間として生きてこられたのか。ならば、もう、それで十分だ。

砕け散りそうなくらいに青い空と、相も変わらず青い瞳を最期に見つめて、JDは微笑む。己が幸せの中に孤独ではなく死ねる事を知って。

「ああ、青い」


【ACT八】出港


 「もう少しここにおれば良いものを――」

名残惜しそうにエンヴェルは言った。帝国で大騒ぎとなった女帝暗殺未遂事件の後処理の合間をぬって、彼らは港に来ていた。

「いや――そろそろ帰らねば、家族が心配する」

オットーは言った。

「家族か。 ――ケッ、ろくでもない連中ばっかりだ。 勝手に死ぬは、逃亡するわ。 俺の気持ちなんか何も考えてねえ。 クソッタレばっかりだ」

「これ! 失礼だぞ」

毒舌を吐いたセルゲイの背中を、エンヴェルはどついた。

「うごッ、げほ、げほ! ――怪我人には優しくしろよ!」

「十分優しくしておるわ!」

この主従は、こうして永遠にどつきあって行くのだろうな、とオットーは思い、我知らず笑みを浮かべた。

「それじゃあ、これで」

そう言ってオットーが船のタラップに足をかけた時、

「あ!」

とエンヴェルが大声を出した。

「叔父上が亡くなられる時――『あの男が生きている』とおっしゃったのじゃが、『あの男』とやら――そちは知らぬか?」

誰だろう。オットーは考えたが、思いいたらなかった。

「いや、済まないが、見当も付かない。 誰だろうな?」

「そうか」エンヴェルは気落ちしたものの、すぐに笑顔を浮かべる。「――それでは、息災でな!」

「ああ。 お前達も――な」


 船は、白い跡を引きながら、ジュナイナ・ガルダイアの港から去っていった。


【ACT?】彼らは出逢う


 いわゆる大学に相当する帝立勧学院を卒業したばかりの一六歳のセルゲイは、就職するでもなくふらふらとジュナイナ・ガルダイアの父親の元で暮らしていた。父親はどちらかというと彼に無関心気味であった。もっとも父親のことを嫌っていた彼には、どうでもいいことであったが。

 することもなく、彼は毎日のように遊び歩いていた。

 そんなある日のことである。彼は前方からうおーんうおーんと泣きながら歩いてくる人影を見つけて、何だろうと思った。いい年をした――彼と近い年頃であろう――少年が、びーびー泣きながら歩いてくるのだった。体格の良い少年だった。何じゃこりゃと彼は思い、立ち止まってそれを見つめた。泣いている少年を街の人々は生温かい、やや冷めた眼差しで見送る。――と、同じような少年達の一団がやって来て、彼を取り囲んだ。

「大将、剣術の稽古で撲たれたからって、泣かないで下さい!」

「しっかりするんです、大将!」

口々に励ましながら、一団は少年を連れてどこかへ行ってしまった。

 セルゲイはその夜久しぶりに父親と口を利いた。実に二週間ぶりのことだった。父親はジュナイナ・ガルダイア太守も兼ねており、ジュナイナ・ガルダイアの色々な情報に精通していた。

「今日、泣きながら歩いてきたいい年こいたガキ(彼は相手を少々見下す癖があった)がいたんだけど、ガキの一団に連れられていった。 ありゃ一体何だ?」

はーっと深いため息を父親はついた。そして、

「それは貴方の従兄、エンヴェルです。 我らが一族の中で一番に出来が悪くて、誰もが処遇に困っているのです。 要するにとびきりの馬鹿者なのですよ」

「ふーん。 その割には仲間がいたけどな」

「妙に若者に人気はあるのですけれどね――」

 翌日、同じ時間帯に彼が同じ街道を歩いていると、またびーびー泣きながらエンヴェルが歩いてきた。彼は興味を持って、話しかけてみた。

「おい。 俺はお前の従弟のセルゲイだが、どうしてそんなに泣いているんだ?」

「け、剣術の稽古でまた負けたのじゃ……うおーんうおーん」

「向上心のために泣いているなら、別にいいけどさ。 負けて悔しかったのかい?」

「違う。 先生は、余が負けると、必ずこう言うのじゃ――『御母堂があの世で泣いていらっしゃるでしょうな』と。 余は母上を泣かせてしまったのじゃ……うおーんうおーん」

「ソイツはひでえ教師だなぁ。 アンタが泣くからアンタの母さんも泣く、普通はそうじゃないのかい?」

「!」

ぴたりと彼は泣き止んで、驚いたようにセルゲイを見つめた。

「余が泣くから母上も泣く……?」

「そうそう。 うるさいから、びーびー泣きながら街を歩くのは止せよ」

「分かった」エンヴェルは殊勝に頷いた。「これから余は泣かぬ」

 宣言通り、翌日エンヴェルはたんこぶと痣だらけになりながらも涙をこらえて街を歩いていた。彼はいつものごとく、一団に慰められながら取り囲まれていた。セルゲイは驚く。

「ちょ、お前、どうしたんだよ!?」

エンヴェルは生傷だらけであった。

「何故泣かぬと先生に責められた……だが余は泣かなかったぞ」

泣かなかったから――教師の気が済むまで暴行されたらしい。

「待てよ、そいつ教師としておかしいぞ!?」

周囲の人間達が、やっとそれを言ってくれたかと言いたげな顔をして、いっせいに頷いた。

「おかしい?」きょとんとした顔で――おそらく育ちが良すぎて人を疑ったことなど無いのだろう――エンヴェルは訊ねた。「どこがおかしいのじゃ?」

「その教師はアンタを泣かせたいがためにアンタの剣術の稽古をしているみたいじゃねえか! それって、おかしいだろ?!」

「そ、そうなのか?!」

「そうだよ! 親に言って、教師を変えてもらえ!」

急に寂しそうな顔を、らしくもなくエンヴェルは浮かべた。

「――父上は、母上が亡くなって以来、少々おかしくなってしもうたのじゃ。 いつもいつも母上の幻を追い求めておる」

「じゃ、俺の親父に言えよ! 必ず変えてくれるから!」

「本当か?!」

 セルゲイ達は、一緒に彼の父親の元に行った。

事情を聞くと父親は顔をしかめ、

「よろしいでしょう、私から断っておきます。 また別の先生を探しましょう」

と言ってくれた。

 「ありがとう」エンヴェルはそう言って彼の手を握った。

「いや、いいって、別に」

何だかこそばゆい気持ちになってきて、彼は笑ってごまかした。

この少年は馬鹿だが、何故か人を惹きつける。

不意に、ではあったが、コイツの下で働けたらいいな――と彼は思った。コイツのためなら、おそらく命だって惜しくはないだろう。

それほどに、天性のカリスマ性というか、魅力があるのだった。

彼らは、手を振り合って名残惜しくも別れた。

 その夜のことである。エンヴェルの元に全身酷い傷だらけになった少年が駆けつけてきたのは。

「大将、ごめんなさい、ごめんなさい――」

と、彼はエンヴェルを見るなりその場に泣き崩れた。

「何があったのじゃ!?」

「あの教師が――更迭させられた原因を白状しろと、襲いかかってきて――」

命を脅かされた少年は、無理やりに喋らされたのだ。セルゲイが言い出しっぺであり、更迭の原因であることを。話し終えるなり、少年は気絶した。慌てて館の者が介抱する中――、

「何じゃと!? セルゲイが危ない!」

彼は剣を掴むと、駆け出した。

 セルゲイは、その夜は何だか眠れなくて、館の周りを散歩していた。父親は例のごとく花盗人に出かけているし――全くお気楽なものだぜ、と彼はため息を吐いた。その時である。

「お前がセルゲイか――」

怨みがこもった低い声がかけられた。

「ん、お前は誰だ?」

振り返ると、剣を抜刀した中年の男が、凄まじい形相で彼を睨んでいた。

「貴様の所為で――俺は失職したのだぞ! お前の父親の所為で、もうこのジュナイナ・ガルダイアでは仕事も出来ん! もう俺はお終いだ! だから――せめてその前に貴様を殺してやる!」

マズい。彼の背中に冷や汗が浮かんだ。せめて館の中なら警護の者がいるのだが――彼は高い塀の外にいた。悲鳴を上げても、駆けつけてくる前に彼は始末されてしまうだろう。相手は捨て身になっているのだ。彼はじりじりと塀の間際まで追いつめられ――男が剣を振りかざした時だった。

「やああああああああああああああああ!」

気合いの声と共に、誰かが走り寄ってきた。その人影は輝く刃を閃かせ、彼と男の間に割ってはいる。

「あ、アンタ――!」セルゲイは驚いた。

エンヴェルだった。男の顔に、嘲りの表情が浮かぶ。今まで一度もエンヴェルは男に勝てていなかった。

「馬鹿が。 お前が俺に勝てる訳も無かろうに!」

「そちのやろうとしている事は、許されぬ事じゃ! 成敗してくれる!」

二人は相対し――瞬間、交差した。

ごぶ、と血を吐いた。

「何故、負けるのだ――」

そう言って男は、ぐらりと倒れた。

「怪我は無いか!?」

「おかげ様で――何とか無事だぜ」

「良かった――」

いきなり抱きしめられて、彼は慌てふためいた。

「な、何だよ、暑苦しいじゃねえか!」

「間に合って本当に良かった――」

無邪気に、エンヴェルは安堵したように言うのだった。


 それまで就職する気配のしの字も見せていなかった息子が、その気になったと言うので、父親は驚いた。彼の息子はその少々変わった出自のために身分は平民だが、能力があるので、その気になれば平民の最高位にまで上れるだろう。

「それでは帝都に戻るのですね?」

「いや、ここがいい」息子の予想外の返事に、彼は驚く。「エンヴェルの下に就きたい」

「――また、何と」彼は軽い頭痛がした。しかし息子の希望だ、無理やりに帝都へと送り返すことも出来なかった。「仕方ない――いいでしょう」

それを聞いた息子は、久しぶりに彼の前で子供のように笑った。

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