ION

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第1話PASSION 死なずの黒

 唯一絶対の全知全能の神がいるのなら、どうしてこんな世界になったんだ?

どうしてこんなろくでもない、残酷で下らない世界になったんだ?

何かおかしいじゃねえかって疑ってみろよ、一度。

全知全能の唯一神が、世界を創造する際に何を間違えたんだ?

本当に全知全能の神だったら、間違いなんてしないはずだ、完全なんだから。

なのに、何でだ?

――答えは一つだ。

その唯一絶対の全知全能の神が、実は偽神ヤルダバオトだったからだよ。



 「死ねるものなら死にたいさ、死ねるものならな」


 ――曇天からとうとう、ぽつり、ぽつりと小さな雨粒が降って来た。それは赤信号により停まっていた重力車グラヴィディ・カーのフロントガラスに落ちた所を、ワイパーにより削られるように流されていく。

「雨か」と車内でイーツェーは忌々しそうに呟いた。彼はぼさぼさの黒髪で、よどんだ雰囲気を持つ男だった。若いのか年老いているのかはっきりしない男で、何と言うか――雰囲気がおぞましいと言うのか、不愉快だと言うのか、側に近寄られると気持ちが悪くなると言うのか――少なくとも人に好感を抱かせる第一印象は与えないだろうと言う不気味な男であった。「ったくウザい天気だ」

「今日は降ったり止んだりと忙しい天候らしい」I・Cの隣、運転席に座っているくたびれた中年の男、セシルが言う。「それとも、アルビオン王国の卑怯な行為に涙した神様が泣いているのかも、な」

「卑怯もクソも無えだろ」I・Cは冷ややかに言った。「領土問題ってのはいつの時代でもどこの場所でも大騒ぎになるんだ。 ましてや万魔殿パンテオン穏健派が『全エリンをアルビオン王国から独立させる』、なんて言い出したら、そりゃアルビオンは大発狂もするさ」

青信号になった。彼らの乗った車はアクセルを踏んでもいないのに自動で動き出した。滑るように動き、きっちりと法定速度を守って、右へ左へ真っ直ぐへと道路を進む。

「とは言え、なあ……だからってその会談に来た万魔殿の幹部を、事実上俺達に引き渡そうとするなんて、なあ……」運転席に座っているだけで、何もしていないセシルは、ため息をついた。「本当に因果な仕事だぜ」

『確かにアルビオン王国から聖教機構ヴァルハルラへの密告は国際法に違反している。 だがこの機会でなければ聖教機構は万魔殿穏健派幹部シラノ・ド・ベルジュラックを捕捉する事はほぼ不可能だ』彼らの乗る車、シャマイムが喋った。『そして現在の我々の至上任務はシラノ・ド・ベルジュラックの捕捉だ。 任務違反行為はボスにより処断されねばならない。 どうしても、と言うのならばセシルは後方支援を行うべきだと判断する』

「分かっているさ、シャマイム」ほっと笑って、セシルはぽんとハンドルを叩き、「俺はやる。 大丈夫さ、今までも何度となくやって来たんだ、今更逃げたり後ろから応援だけなんて真似はしない」

車――シャマイムが言った。『了解した』

彼らはアルビオン王国の首都ロンディニウムの迎賓館に到着した。

彼らが到着すると同時に門が開かれ、美しい緑の芝生の庭の中をシャマイムは走行し、迎賓館の扉の前で停止した。セシルとI・Cは車から降りた。セシルは最終確認をする、

「アルビオン王国の話じゃ、ここはザル警備だ。 一気に行くぞ、一階突き当りの最奥の部屋が会談場だ。 シラノの能力に気を付けろ、『心眼アンダーザマインド』は近接した相手の心理を読む力だからな」

「了解した」と車だったシャマイムが変形して、小柄な白い人形になった。仰々しいくらいに大きな鉄塊、二丁拳銃サラピス‐Ⅶを握って。

「じゃ、行くぞ!」特殊な素材で作られた戦闘用の鞭を手にしたI・Cが、扉を蹴り開けた。


 「……」アルビオン王国外相ヘンリーは円卓に座り、額に青筋を浮かべたいのを必死にこらえている。「それでは、万魔殿は、どうしても全エリン地域を独立させたいと……?」

「ええ」とシラノ・ド・ベルジュラックはその円卓の反対側で平然と言う。彼は穏やかな物腰の、紳士であった。「全てのエリンの民衆が我々万魔殿の支配下に入りたいと言いましたのでね」

「だが北エリンはアルビオンの領地です。 余計な干渉は止めてもらいたい!」

「しかしその北をも含むエリンが現実では独立を求めている。 それを手助けして何が悪いのですかな?」

「貴方がた万魔殿のお目当てはエリンの海に眠る豊富な資源でしょう。 あれは我々アルビオンのものだ!」

「はてさてどうでしょうかな」とシラノは言い、両者はしばらくにらみつけとそれの受け流しを続けた。

緊張と対峙が砕けたのは、シラノがいきなり立ち上がった時だった。

「貴様ら!」とシラノが、穏やかな紳士の顔から猛々しい顔に変貌する。「そのつもりで私をここに!?」

「?」ヘンリーには分からなかった。彼には知らされていなかったのだ。否、シラノと対面接触する可能性のある人間には誰一人知らされていなかった。

だが、この会見の場に乱入者が堂々と入ってきた。おまけに、シラノが連れてきた秘書のソニアが人質として引きずられていた。それを手引きした迎賓館の下級官僚がシラノに凄まじい目で見られて慌てて逃げた。

……乱入者は、あの三人であった。


 「ようシラノ・ド・ベルジュラック」I・Cが、拘束したソニアの髪の毛を掴んで引きずりつつ、言う。「子供の時から育てた美人秘書連れてお楽しみかい? 相変わらず良い趣味してんなあ」

「言うな言うな」セシルが、と言っても彼ももはや人間の形ではなく、巨大な化け物の姿をしていたが、口を挟んだ。「コイツがウチの無差別爆撃とかで親を亡くした子供を育てているのは有名な話だろうが」

「俺に言わせりゃ、たったそれだけで死ぬ親が悪い」I・Cは滅茶苦茶な事を言う。「たかが爆弾を山ほど落としただけじゃないか」

「おい!」さすがにセシルも声を荒げて、「お前は本当に聖教機構和平派の特務員か!? 強硬派みたいに爆撃を推奨するような発言だぞ、今のは!」

「ぎゃははははは」I・Cはげらげらと笑って、「俺は破壊と殺戮が大好きなんだ。 大体聖教機構の和平派は腰抜けが多くてな、良くねーよ。 もっと世界は血なまぐさくあるべきなんだぜ?」

「――おいI・C!」ついにセシルが怒声を発した時、シャマイムが言った。

「現在の最優先事項は可及的速やかにシラノを拘束連行する事だ。 口論では無い」

「……そうだったな」セシルは冷静さを取り戻し、シラノに向き合った。既にヘンリー達は逃げており、残るは逃げられないシラノとソニアだけであった。「シラノ・ド・ベルジュラック。 大人しく捕縛されろ。 そうしたらこっちの娘だけは解放してやる」

「――逃げて下さい!」ソニアが絶叫した。「私はどうでも良いから、貴方だけは!」

シラノは怒りも憎悪も辛うじて理性で噛み殺した顔で、

「……ソニア。 私が逃げればお前はね、聖教機構ご自慢の異端審問裁判にかけられて処刑されるんだよ」

「構いません、私は! 私は貴方がいなければあの時死んでいた! 私だけじゃない、みんなが! ですから、貴方だけは――!」

「美談だねえ」とI・Cが馬鹿にしきった声で言う。「悲劇ってのはどうしてこうも美しいんだろうな。 そうか、悲劇は当事者以外には他人事で、人の不幸は蜜の味だからか!」

シラノはしばらく黙っていたが、

「――私が大人しく連行されれば、ソニアだけは解放する、そうだな?」そう言って素手で、無防備に近づいてきた。「良いだろう。 だがソニアにだけは絶対に手を出すな。 『屠殺屋ブッチャー』セシル、『自律自動型可変形兵器オートトランスフォームロイド』シャマイム、そして――『魔王サタン』I・C」

「ああ、分かった。 お前さえ捕まえれば、こんな若い娘に用は無いさ。 ちゃんと自由にしてやる」セシルがそう言って近づいてきたシラノを拘束しようとした瞬間だった。ぎらりとシラノの目が光った。

「I・C。 だが貴様はそれをさせないのだろう?」

シラノの指の先から、鋭い爪が伸びた。それは一瞬でセシルの巨体を両断し、そのままシャマイムの胸部に突き刺さって、I・Cへと投げつけた。I・Cの顔に驚きの色が浮かぶ。I・Cはすぐさま鞭を振るって迎撃しようとしたが、既に彼には一瞬の怯みがあって、そこを突かれていた。

その一瞬でI・Cに肉薄したシラノが、そのそっ首を切り落としている。

「ソニア!」シラノはソニアを解放すると、抱きしめた。「大丈夫か!?」

「わ、私は、大丈夫です! シラノさん、シラノおじさん……!」

ぼろぼろと泣き出したソニアに、彼は言った。

「ソニア、急いでオットー君を呼んできてくれ!」

「わ、分かりました!」

彼女は涙をぬぐって、走り出した。

その後姿を見送ってシラノは安全圏に彼女が行った事を確認すると、振り返った。銀色に輝く愛銃ロクサーヌを手にして。

彼が振り返るとほぼ同時に、三人が立ち上がる。

「流石は『セイント・ニコラウス』、シラノ・ド・ベルジュラックだな」セシルが獣の巨体を再構成させて言う。「戦闘能力の高さも噂以上だ。 たった一人で俺達相手にこれだ。 とんでもないぜ」

「損傷箇所の修復開始……戦闘行動に支障無しと判断、戦闘再開始」

シャマイムもサラピス‐Ⅶを握って、構える。

そして、頚部を切断された時点で常人ならば死んでいるはずのI・Cの胴体が、首を掴んで立ち上がった。頭部を首に乗せて、凶悪に笑う。化物が裸足で逃げ出しそうなくらいに。

「女も殺す? 当たり前だろ、聖教機構がどう言う組織かシラノ、お前なら身に染みて分かっているはずだぜ? 異端者は絶滅、根絶、虐殺。 それを延々と繰り返してきた世界最凶最悪の宗教政治暴力組織に、今更なーにを甘えて期待しているんだ? そうだな、女なら焼き殺すのが一番楽しい。 あの最期の悲鳴と絶叫たるや、こっちの体が震えて絶頂しそうになる。 だろ?」

「……」シラノはロクサーヌの撃鉄をカチリと鳴らした。戦うために特化した、老練な戦士に彼が紳士から変貌した合図だった。「そうだな、そうだとも。 聖教機構は我々魔族を人間が支配する組織だ。 それに対して我々万魔殿は魔族が人間を支配する組織だ。 そちらと違って宗教色は薄いがな、少なくとも我々穏健派は」

シラノはそこで憎々しげに、

「……しかしまさかアルビオンが国際法に抵触してまでこんな行為に及ぶとは、な。 そこまでエリンに執着するか、アルビオン! ただでは済まさないぞ……!」

「その前に神様におねだりしろよ、『僕ちゃんを助けて下さい!』って」I・Cは挑発し放題である。その言動の一々がいやらしくて陰湿で不愉快だった。この男の残忍でねじ曲がった性格がむき出しにされているのだった。「優しい優しい神様の事だ、もしかしたら大急ぎで助けに来てくれるかも知れないぞ?」

「神? 貴様らが信じる『神』とやらか。 貴様らを野放しにするような悪逆非道な神など要らぬ!」シラノは叫んだ。否、吼えた。それはとても強い生き物の咆哮であった。「私は、ただ己の信念のために戦う!」

ロクサーヌがきらめくと同時にシラノの姿が消えた。だが次の瞬間シラノはセシルの前に立っている。銃弾よりも速く、視認できるよりも速く動いたのだ。一切の無駄が無いなめらかな動きであった。セシルは巨体から生えた鋭い触手で返り討ちにしようとした。だが、コツン、と彼の巨体を形成する源である『核』、それのある場所にロクサーヌの銃口が突きつけられた。セシルは回避しようとして、体を大きくよじり、シラノを突き刺し殺そうとしたが、触手は空しく宙を貫く。

「セシル!」同時にシャマイムが即座に援護射撃を行った。だが当たらない。一発もシラノには当たらない。そして、

「死ね」

銃声と時同じくして、セシルの巨体が崩れた。

「セシル!」

シャマイムはサラピス‐Ⅶから硝煙を吐き出して、凄まじい銃撃を行った。それと平行して壁を蹴って天井に上り、I・Cが鞭をかざしてシラノに飛びかかる。

だがシラノはその攻撃の一切が読めていた。

(次は)シラノはそれを元に次の行動に移っている。(電撃弾だ!)

シラノはさっと特殊な銃弾をロクサーヌに装てんする。そして撃った。それはシャマイムの頭部に命中して、辺りを白光で染めた。

「――」強烈な電撃により電子回路がショートして、物言わぬ人形になったシャマイムが、ぐしゃりと倒れる。

「テメエ!」とI・Cが怒鳴った時には、シラノは既に彼の脳天にロクサーヌを突きつけ、火炎弾を撃ち込もうとしていた。

「さっさと死ね、聖教機構の狗共!」

I・Cの体が猛炎に包まれた。

「ぐお、あ、ああああああああああ……!」

それは瞬く間にI・Cを黒焦げの炭化物に変えてしまう。

それを目で確認しようともせず、シラノはロクサーヌを懐に収めて走り出した。ここは彼にとって敵地である。長居は無用だった。

――だが、血相を変えて突如振り返る。

「ようシラノ、俺を火あぶりにするなんざ超絶良い趣味してんなあ?」

炭化物になったはずのI・Cが、無傷で立っていたのである。

「くっ! 貴様が『不老不死』と言うのは本当なのか!?」

シラノの表情に焦りが出てきた。I・Cは嗤う。まるで魔王のように嗤う。邪悪に、破壊的に、残虐に。

「どうだって良いだろそんな事。 お前はこれから散々拷問受けた後に死ぬんだからな。 なーに、ウチのボスは妙な所で優しいから、お前を火あぶりにはしねえさ」

そしてI・Cの目が、黒く、まるで闇の中の闇のように輝いた。

「――『サタン』発動」


 オットーが迎賓館に駆けつけた時にはもう遅かった。血に濡れたロクサーヌが孤独に落ちていて、激しい戦闘の痕跡があり、そして、誰もいなかった。

「シラノさん!」オットーは絶叫したが、こだまが返ってくるだけであった……。


 「ダメだあれは」と異国的エキゾチックな美青年が両手を挙げて疲れた顔で『尋問部屋』から出てきた。「並大抵の拷問じゃあ吐かせられない。 命を捨ててでも守りたいものがあるんだろうな、いくら俺が拷問したって絶対に吐かないぞ、あれは」

「守りたいもの? ああ、例の噂のガキ共か。 あのソニアとか言う女も連れてくるべきだったなー」I・Cは昼間から床に座り込んで飲んだくれている。「あー……そういやシャマイムとセシルの葬式はいつだ?」

「勝手に殺すな。 俺ならもう大丈夫だ」セシルが現れる。「『核』間近に銃弾を撃ち込まれたんで失神しちまった。 何せ俺みたいな変身種ライカンスロープは『核』が無いと生きていけないんでな。 それと、シャマイムは今、必死になってエステバンが直している。 幸い『核頭脳コア』は破壊されていないそうだから、無事直るそうだ」セシルはそう言ってから、「I・C、どうやってあんな練達者を倒したんだ?」

「どうだって良いだろ。 結果が全てだ。 それより、グゼがアイツをお決まりの拷問にかけたんだが、うんともすんとも言わないらしい。 セシル、お前アイツの手足の一本くらい切り落として来たらどうだ?」

「無駄だ無駄だ」と美青年――グゼが言った。「それで吐くなら俺がもうやっている。 しかし、どうにかして情報を吐かせたいものだな。 何しろ相手は万魔殿の幹部だ。 機密情報を山のように抱えているに違いない」

「ま、じわじわと殺さない程度にいたぶり続ければ、いずれは吐くだろう」セシルはそう言ってから、心底嫌そうな顔をした。「それにしてもしんどい仕事だな。 人道を踏み外しまくっている仕事だ。 ろくでもない稼業だぜ、全く」


 聖教機構と言う組織がある。神と救世主の教えを掲げた、世界的大勢力である。その教義はあまねく広まり、精神的に多くの国々を従えている。この組織は人間が、魔族と言う名の謎の力を振るう異種族を支配するために数百年の昔に設立された。元々は国だったのだが、あまりにも巨大化したために維持が出来なくなり、また、教義が別れたために分裂と分離を幾度か起こして、今の地位に落ち着いている。分離した国々は表向きはこの組織の言いなりになっている。しかし隙あらば精神的独立・国としての単独での確立を実行しようとする動きがあり――更に数十年前にそれを決行した国があったため――その動向に聖教機構はいつも目を光らせていた。

この組織は、だが、現在真っ二つに割れている。教義の違いと、戦争を継続するか否かの意見の対立によって。――数百年前、聖教機構が生まれた頃、万魔殿と言う組織も誕生した。こちらの組織は最初こそ弱小組織であったものの、魔族が人間を支配する体制を確立し、数十年の後には聖教機構の宿敵となっていた。人間が支配するか、魔族が支配するか。それは生き残りをかけた戦いだった。何しろ、魔族は人間を捕食する習性があるのだから。それは聖教機構では『悪しき因習』、万魔殿では『衝動』と呼ばれていた。

主に、この聖教機構と万魔殿の戦いを止めるか否かで、聖教機構は割れているのである。


 「今時、人間を食う魔族なんているのか?」とセシルはビルの廊下でぼうっとした顔をしている。「万魔殿は知らんが、こっちなら合成肉食ってりゃわざわざスプラッタな所業をしなくても良いじゃないか。 それに人間を食ったら犯罪だ、殺人罪だ。 問答無用で即刻処刑されるじゃないか」

快楽殺人鬼シリアルキラーなら食べそうだな」と拷問するのに疲れたグゼは柱に寄りかかって言う。「そう言えば『帝国セントラル』の貴族で頭が完璧におかしいのがいて、ソイツは何でも領民を五〇〇人殺したとか。 それで食べたり色々したとか。 それに帝国は激怒して追放したそうだが、個人的には追放なんて生ぬるい仕置きよりも、さっと死刑にして欲しかったな。 もしも聖教機構の領土内にソイツが来て、また同じ事をしたらと思うと……」

「ありうる話だから困るなあ」とセシルは嫌そうな顔をした。「帝国貴族ってアレだろ、俺みたいな魔族だろ? 普通の人間じゃあ太刀打ち出来ないじゃあないか」

「まあ、あくまでも可能性の話だ」とグゼは言って、くるりと柱の向こうを振り返った。「ああシャマイム、もう大丈夫か?」

白い、無表情な人型兵器が歩いてきていた。

「自分の修理は完了した。 記憶並びに思考演算回路に異常は無い」

「そうか、良かった」とセシルはほっとした顔をした。

「I・Cはどこに所在する?」とシャマイムは訊ねた。

「……」セシルは黙ってグゼを見た。

「……」グゼは黙ってセシルを見た。

「返答が無いと言う事は通常と変わらず街の酒場へと任務放棄して逃亡している、と言う事と認定する」シャマイムはその二人を見て言った。

「人が拷問で困っている時にあの変態は! また酒か!」グゼはお冠だ。

「すまん、気付いたらアイツ行方をくらませていたんだ」セシルはため息をついた。

「セシル、謝罪の必要は無い。 既に自分の任務内容の一種に『逃亡したI・Cの捜索』も含有した」

「本当、シャマイムは人間が出来ているなあ……」セシルはしみじみと言った。「普通だったらアレだぜ、見つけ次第射殺してもおかしくは無いんだぜ」

「これで何度目だ、ええと……」グゼは指を折ろうとして、そんなものではとてもカウント出来ない事に気付く。「……あの変態め。 度しがたいアル中め。 シャマイムに一体何回迷惑をかけたら気が済むんだ!」

「それでは自分はI・Cの捜索を開始する」とシャマイムは歩き出した。

「ああ待ってくれ、俺も付いていく。 ヤツを探して酒場から引きずり出すんだ、人手は多い方が良いだろう」

セシルが右手を挙げた。

その時であった。

ピピピピ、と電子音が鳴って、セシルとグゼの顔が引き締まった。セシルとグゼは、懐から通信端末を取り出す。シャマイムは内蔵の通信機をオンにした。

『新たな任務を下します』若い女の声が、そこから響く。『今度の任務はとても愉快な任務ですわ』と皮肉たっぷりに言うのだった。


 『帝国』、と言う国がある。長い歴史を持ち、巨大な大陸一つを支配し、聖教機構、万魔殿に匹敵する大国である。ここの支配層は魔族であった。帝国では魔族はすなわち貴族であった。人間は平民としてその支配を受けている。その彼らが神と崇め信仰して止まないのは、『女帝』と呼ばれる謎の存在だった。常に帝国の首都シャングリラ、そこにある帝宮の奥深くにいる女帝こそが帝国の真の支配者だ、と言えた。もしも自殺志願者がいたならば、帝都で女帝をなじる言葉を大声で吐けば良かった。平民達が寄ってたかって殺してくれるだろうから。この国はただ豊かなだけでなく大変に強力な軍事力を持っていた。有名どころでは、帝国屈指の貿易都市ジュナイナ・ガルダイアにある帝国海軍などが挙げられる。この海軍はかつて空前の繁栄を誇った人間の国クリスタニア王国の海軍を二度も撃破した。だが、帝国は魔族が人間を支配する組織でありながら聖教機構と万魔殿の争いには関わろうとしなかった。どちらかと言うと政治的には鎖国的で、あまり外に進出しようとはしなかったのだ。

しかし、今回、珍しく帝国は、あくまでも私的にだが、外に出ようとしていた。


 「これが我らが帝国のしきたりでしてね」とその黒い髪の美女は言った。「あまりにも、あまりにもその罪が許しがたい場合、帝国の法律には貴族に死刑を下すと言う条文がありませんから、追放した後にこうやって隠密に処分するのです」

「それを手伝え、と……?」セシルは彼女に気圧されて目をまばたかせながら言った。

「そうなりますね」と美女は見下すような目で一同を見た。「まあ手伝われなくても結構。 ですが少なくとも私の足を引っ張るような真似はしないで頂きたい。 私が聖教機構勢力圏内で殺傷事件を起こす、その許可だけ頂ければ結構なのですから」

「許可が取り消された場合はどうする予定なのか?」シャマイムが訊ねた。

「外交上の問題は発生しません。 これはあくまでも私個人の独断専行、そう言う形を取っておりますので。 ですが――あの鬼畜が帝国にて最後に殺したのは、現枢密司主席の義理の甥です」と美女はわずかに形相を歪めて言った。

「枢密司主席……帝国の、女帝に次ぐ最高権力者か……」セシルはうめいた。帝国を実質的に支配している、枢密司達の頂点に立つ者の心証を害すれば、いずれ聖教機構と帝国との間で何らかの問題が起きかねない。それだけは何としても避けたかった。

「了解した、可能な限りの戦闘支援並びに行動支援を実行する」シャマイムは頷いて、それから、二丁拳銃サラピス‐Ⅶを取り出し、隣で爆睡していたI・Cの耳元でぶっ放した。

「ぐえッ!」酒臭いI・Cは飛び起きた。そのI・Cにシャマイムは、

「I・C、端的に説明する、彼女の邪魔をするな」

「……何ですかその薄汚い男は」女は、汚らわしいものでも見るようにI・Cを見ている。「こんな男が聖教機構特務員? 冗談も大概にしたらどうです」

「……」I・Cは、ただ舌打ちをした。


 名前をイクティニアスと言う。帝国史上、最悪の殺人鬼であった。被害者数、遺体が発見されただけで五〇〇を下らない。その大半は地方の平民であった。真面目に法律を守り、のどかでささやかな幸せを求めて誠実に暮らしていた人々であった。だが、その幸せはイクティニアスがその地方の領主となった時に一瞬で砕け散る。それまで帝都にいたイクティニアスだったが、地方に飛ばされるような大失態をしでかしたのだ。それは完全に自分が原因の失態だった。不正横領をしておきながら、帝国追放されなかっただけマシだとすら言えた。なのに、理不尽な怒りとうっ憤が最悪の方向へ爆発した。次々とさらわれる女や子供達。姿を消す男達。たまりかねて逃げ出そうとした一家が、皆殺しにされた。それでも一人の少年が逃げ延びて、隣の地方にこの惨劇を伝えた。仰天した隣の地方の領主は、自ら確かめに行って――そして、見てしまったがために殺された。それを聞きつけて、帝国の検非違使がやっと動いた。だが、その時にはイクティニアスは既に逃げだした後だった。逃げ出したついでに、まるで「ざまあみろ」と言いたげに、捕縛しようとした検非違使だった青年の貴族を殺して行った。そしてイクティニアスは帝国を脱出し、聖教機構勢力圏内に逃げ込んだ。

そのイクティニアスを殺害する援助をしろ、と言う任務なのである。

 「つまり」とセシルは要約する。「今回の任務は極悪非道なクソッタレをぶっ殺せ、そう言う内容か。 なるほど、ボスが『愉快な任務』っておっしゃったのが分かるぜ。 ――今度の相手は敵とは言え信条や信念を持ったヤツでなしに、ただの悪人だもんな。 殺したって良心が何ら痛まない。 むしろ殺した方が人のためだ」

「イクティニアスの所在は?」シャマイムがモニターに映る人物へ訊ねた。その人物こそが彼らのボスであった。主は言う。

『アインヘイヘ街のスラム街だそうですわ。 そこのマフィア「ジキルとハイド」に大量の金を渡して匿うよう頼んだものと思われます。 ちょうど良い機会ですわ。 マフィアごと殲滅なさい。 情け容赦などくれてやるだけ無駄な事。 帝国との良好な関係のためにもおやりなさい、皆殺しを』

「ボス」とI・Cは面倒臭そうに言った。「イクティニアスはどんな種族で、どんな能力を持っているんだ?」

『種族は吸血鬼ヴァンパイア。 能力は不明です。 帝国からの密使――ジャスミン・レーに聞けば教えてくれるでしょうが……貴方達はむしろマフィアの殲滅に力を入れなさい。 彼女の邪魔者を排除すればそれで結構。 後は彼女が己の手で仕留めるでしょう。 復讐に燃える女の恐ろしさをたっぷりと思い知らせながら……』

「復讐に、燃える?」セシルは妙な顔をした。「ボス、それはまさか――」

『帝国で最後に殺された青年貴族……ゲオルギオスとか言いましたが……それは彼女の婚約者だったそうですわ』

「それであの女、妙に目をギラつかせていたのか」I・Cは相変わらずどうでも良さそうである。「変に暴走されると困るなあ」

『それを抑えるのも貴方達の役目でしてよ』


 殺してやる。ジャスミンはそればかり考えている。殺してやる。ヤツが彼女から奪ったものがいかに高額であったか、その身に思い知らせてやる。ただでは教えてやらない。血と痛みと絶望を以って、教育してやる。軍人貴族の彼女は己を抑える術をわきまえていたが、それでも今は血がふつふつとたぎった。

「ええと」とセシルが、燃える目をしている彼女に、遠慮がちに訊ねた。「イクティニアスの能力は何なんだ?」

「抗体能力だ」彼女はぶっきらぼうに言った。もはや今の彼女はイクティニアスを殺す事以外の全てがどうでも良かった。己から不当に奪われたものが高値であればあるほど、彼女は残酷な復讐を強く望む性格であった。「吸血鬼は日光に致命的に弱い。 だがイクティニアスはそれに耐性がある」

「ふうむ」とまだ酒臭いI・Cが呟いた。「『デイ・ウォーカー』か。 稀に、ごく稀に吸血鬼の中で出るんだよな、そう言うのが。 弱点を持たない吸血鬼ってのが」

『では、吸血鬼に有効とされる銀の銃弾も効果は無いのか?』

彼女達を乗せた、車になっているシャマイムが聞いた。

「無いな。 普通の銃弾で十分だ」I・Cはそこで、シャマイムに取り上げられた酒瓶を恨めし気に見た。シャマイムは勿論返さない。

「だが、これならば有効だ」ジャスミンは懐から、鉛筆ほどの太さと長さの銀の棒を取り出した。「この『ブリューナク』ならば、いかなる敵をも貫き滅ぼす!」

「それは……帝国の開発した兵器か?」セシルが目を丸くする。

「そうだ。 追尾能力があって、敵に命中するまで追い掛け回す」

「……凄く嫌な性能だな」セシルはそれ以上は聞かなかった。ぎッと彼女に睨まれたからだ。きっとこれ以上は機密事項と言うヤツなんだろう、と彼は思った。

「えーと」とI・Cが言う。「俺が外で見張りをして、三人が裏と表から分かれて突入する。 これで良いんだな?」

「貴様なんかが来ても足手まといだ」とジャスミンは言い切った。「私と私の力とこのブリューナクがあれば、ヤツを殺してみせる!」

「へいへい、じゃあ行ってらっしゃい、だ」

車が止まった。三人が降りると、人型に変形したシャマイムがマフィアの潜むビルの裏方から、セシルとジャスミンが真正面から突入した。

「だ、誰だ貴様らは!」と門番が叫んだ。

「イクティニアスを出せ!」ジャスミンは怒鳴って、ブリューナクを取り出した。それは彼女の手の中で巨大化し、槍先が輝く一本の白銀槍となる。

「えーっと、俺達は」セシルは巨大な化物になり、無数の触手をふるいながら言った。「皆殺し屋だ。 悪いが全員死んでくれ」

同時に銃声が聞こえてきた。

ブリューナクの威力は凄まじかった。追跡、命中した先の対象を、蒸発させたのである。これに彼女の、魔族の身体能力が加算されるともう滅茶苦茶だった。ブリューナクを放っている間に、彼女は素手で何人ものマフィアを殺している。

(凄まじいなあ)とセシルはマフィアを殺しながら頭のどこかで考える。(復讐する女ってのは、本当に強いんだなあ。 ……俺とは大違いだ)

そこでシャマイムが出てきた。硝煙の上がっているサラピスを手にして。

ちょうど廊下と階段の前の交差する場所で、彼らは出会った。

「こちらの階下は殲滅が完了した。 そちらは?」シャマイムは言った。

「こちらも殲滅済みだ。 残るは――」とセシルが階段を見上げた時だった。

けたけたとつんざくような、甲高い、耳障りな笑い声が響いたのは。

「なるほど、聖教機構が加勢したか」

美少年が手を鳴らしつつ、階段を下りてきた。

「イクティニアス!」ジャスミンが怒鳴って、ブリューナクを構えた。その瞳孔は開ききっている。「貴様の血が流されない限り、私は二度と帝国の地を踏まないと決めた!」

「では二度と踏めないな」美少年――イクティニアスは唇を、真紅のそれの端をV字型に吊り上げる。吸血鬼特有の牙が覗いた。「ここで貴様は、そうゲオルギオスのように死ぬのだから」

「貴様がその名を口にするな!」

その時である。いきなり電子音が鳴って、セシルが化物の体のどこに隠していたのか、通信端末を取り出した。シャマイムも内蔵の通信機で同じ命令を聞いている。セシルがいきなり人型に戻った。

「待て!」シャマイムが、ジャスミンの前に立ちはだかった。「攻撃してはならない!」

「何故だ! ここに来て邪魔するか! 退け!」

「否、イクティニアスの所持品に――」

だがジャスミンはもう聞いてなどいなかった。シャマイムを突き飛ばし止めようとしたセシルを振り切って雄たけびを上げながら、ブリューナクを振りかざし、空を飛んで一瞬でイクティニアスに迫る。魔族の持つ人間ならざる特殊能力の中の一つ、『風妖精シルフ』だった。ブリューナクの先端から破壊の光がほとばしる。それを受け止めたのは――。

「――鏡、ッ!?」ジャスミンはぎょっとした。

「否、盾だよ!」イクティニアスはにやりと笑った。丸い銀の円盤状の盾が、いくつも、まるで魚の鱗のように彼の前に展開されていた。「マフィアが金で買った兵器でね! ありとあらゆる物理攻撃を弾き返すんだ! 名前は――そうだ、『無敵の盾アイギス』としよう!」

ブリューナクの槍先よりほとばしる破壊光線が、乱反射されて――。

「危ない!」セシルの絶叫が響いた。


 ――倒壊したビルのがれきのてっぺんに立ちながら、イクティニアスはけたけたと笑う。

「馬鹿な女だ! 馬鹿すぎる女だ! 馬鹿は罪だ、死ね!」

「ふーん」と実にどうでも良さそうな声が聞こえた。イクティニアスはぎょっとして振り返る。だがその顔にはすぐに嘲りが浮かんだ。

「何だ、貴様は。 私に敵対する者か?」

「いいや。 俺はかつて神にすら敵対した。 お前なんか敵にすらならないさ」

I・Cが、酷くどうでも良さそうにがれきの上を歩いてくる。イクティニアスは急に喉の渇きを覚えた。そう言えば帝国を逃げ出してから、何も食べていなかった。ここで食べても、良いだろう。

「何をたわ言を。 私の餌になれ!」

イクティニアスは、襲い掛かった。だがI・Cは怯える所か――。

「うぜえ。 ――『サタン』発動、Ver.『盲目なる魔神』」

I・Cの姿が変貌した。目も覚めるような鮮やかに赤い衣をまとい、一枚の布で顔を隠した男へと変わる。

『私はサマエル。 私のローマ滅びたりと言えど我が矜持は不滅なり! ――BIGBANG!』

何が起こったのか、イクティニアスには良く分からなかった。だが、己の右腕が吹っ飛んで後方に転がったのを見て、絶叫を上げた。

「何故だ!?」

アイギスは自動発動型である。ありとあらゆる物理攻撃を弾き返すはずである。それが、発動しなかった!?

『私の攻撃は』男は言った。『長距離空間爆裂爆散能力カミノアクイ。 我が攻撃はありとあらゆる障壁を突き通し、空間ごと破壊する! 対象が三次元に存在する限り、私の攻撃は命中する!』

その姿は、あまりにも恐ろしかった。

「ひ」

イクティニアスは逃げようとし、その両足が吹き飛ばされた。

「ぎゃあ、ああ、痛い! 痛い!」

悲鳴なんかどうでも良いとばかりに、もがこうと伸ばした最後の腕が、奪われる。

I・Cが近づいてきて、イクティニアスの懐に腕を突っ込み、アイギスの基本体を奪った。

「これが例の兵器か」I・Cはそれから足元を見て言った。「おーい、セシルにシャマイム、生きているかー? ……流石に死んだか、ゴシュウショウサマデス」

「……だから、勝手に殺すな」がしゃりとがれきが崩れて、そこからは巨大な化け物が姿を見せる。「何とか……庇えたが、俺の体の半分が持って行かれた。 まあ、『核』を傷つけられなきゃ俺みたいな変身種は大丈夫なんだが」

その化け物はぞるりと動いた。動いた下では、シャマイムとジャスミンが倒れている。

「うう、う――」ジャスミンは気が付いた。「イクティニアス、は――!?」

「ここにいるぜ」とI・Cがイクティニアスの髪の毛を掴んで引きずった。「ほら、早く殺せよ。 俺としちゃとっとと酒場に逃げ込みたくてたまらないんだ。 それにしても何でビルがぶっ壊れたんだ? そんなに激しく暴れたのか? 激しいのは夜中のベッドの上だけで十分だろうに」

「……私のミスだ」ジャスミンはぎりりと歯を食いしばり、ブリューナクを握りしめた。「礼を言うぞ」

「嫌だ、死にたく――」イクティニアスはまだ言っている。

「死ね!」その胸に、心臓に、ブリューナクが突き刺さった。


 「それは重畳」と聖教機構幹部マグダレニャンはモニターに向けて言った。彼女の異名は『鋼鉄の乙女アイアンメイデン』であるが、外見は愛くるしい少女であった。彼女こそがI・C達の主である。「多少の失態はあったようですが、成果はきちんと挙げられた。 これで良しとしましょう」

『ボス』とセシルが言う。『彼女は、これからどうするんでしょうね? 復讐が終わってしまったからには――』

「女と言うのは強かな生き物ですから」マグダレニャンは不敵に笑った。それからいきなり形相を変えて、「I・Cはどこですか? 報告に来ないと言う事は――」

セシルはうなだれた。うなだれるしか、無かった。

『……止めるシャマイムを引きずって……酒場に』


 他にはどうしようも無かったのだ。ソニアはその白くて細い手には不釣合いな重火器を手にして、思う。こうする他には手段が無かったのだ、と。

「ソニア姉ちゃん」とまだ幼い少年が言った。彼もまた物騒なライフルを握っている。「シラノおじさんを、必ず取り戻そうね!」

「ええ」とソニアは頷いて、ふとオットーの顔を思い浮かべた。彼は知ったが最後、きっと自分達のこの行動を必ずや阻止しようとするだろう。だって彼女達がこれから起こそうと言う出来事は、彼女達を破滅に導くとんでもないものだからだ。自殺行為に等しいからだ。否、自殺よりも苦しく辛いものなのだ。……それが分かっていても、とソニアは唇を噛みしめて思う。それでも私は、私達は、シラノおじさんを取り戻したい!


 「……羨ましいな」とグゼは病院のベッドの上で呟いた。「俺の方もそんな楽しい仕事だったら……な」

「どんな仕事だったんだ……あ、機密事項か?」グゼの見舞いに来たセシルは訊ねようとして、止めた。聖教機構特務員、表に出せない仕事から表に出せる仕事まで、何でもやる上級構成員にはよくある事なのである。

「いや、もう完全に解決済みで、もうすぐ正式に報道もされるだろうから話しても構わないさ」グゼは何よりも精神的に疲れ果てた声で言った。「――アルバイシン王国で会見中だった、アルバイシンの貴族とウチの幹部が万魔殿のテロリストの襲撃を受けて囚われてな……」

「……テロリストの目的は何だったんだ?」

「それがその、目的は後で知らされたんだが、アレだ。 この前のシラノ・ド・ベルジュラックを解放しろと言う――まだ子供の、未成年の――一番最年長だった女だって、まだ二十歳そこそこだった」

「うわあ……」セシルは想像して、本当に嫌な気分になった。

「……」彼以上に嫌な気分であるグゼは、長く嘆息して、「『セイント・ニコラウス』、シラノが戦災孤児とか、とにかく親や身寄りのいない子供を引き取って育てていた、と言うのはもう二百年の昔から有名な話だろう? 恐らくはその子供達の中の一団だったんだろう。 だからあんなに必死だったんだろうな。 その、だが、未成年とは言えテロリストはテロリストだ。 俺は……俺は誰でも殺せるよう訓練は受けてはいるが、つい手が鈍ってな。 それでこの様だ」

「無理も無いなあ……」セシルは苦い気持ちを噛みしめる。「完全に解決済みって事は……グゼよう、本当に俺達因果な商売だな」

「地獄堕ちは確定だな」

そう言ってグゼは目を閉じた。そこにシャマイムが花束と花瓶を持ってやって来る。そんなものを持ち歩く兵器の有様と言うのは、中々シュールな光景であったが。優しい花の香りにグゼは目を開ける。

シャマイムは花を活けてから、「医者に質問した所、退院まで二週間だと返答があった。 療養に専念する事を推奨する」

「ありがとうシャマイム。 俺はI・Cが羨ましいよ」とグゼは恨めしそうに言った。「ヤツは化け物だ。 誰を何を殺す事にもためらいは感じないし、罪悪感も抱かない。 まるで機械のように殺せるなら、どれだけ楽か」

「何があった?」シャマイムが訊ねた。グゼは重苦しい声で、

「生き別れになった俺の弟――生きていればの話だが――くらいの子供がな、万魔殿のテロリストに成り果てたんだ。 俺はそれを殺すよう命令されて、殺した。 本当にあの時は嫌になったよ。 しかもテロリストになった動機が『シラノおじさんを返せ』だ。 金寄こせとかろくでもない動機ならともかく、自分達の親のような人を返せ、だ。 気持ちは分かる。 むしろ同情してしまう。 ウチの無差別空爆撃だので孤児になって、そこをシラノに救われたんだからな。 だがテロ行為は死罪だ。 テロリストは即刻処刑しなければならない存在だ……でも」

「それ以上の発言は特務員として不適切であると判断される可能性がある」シャマイムは淡々と言った。「グゼの心理的外傷が考慮されたとしてもだ」

「ああ、分かっている」グゼは頷いてから、ちょっと顔を引きつらせて「で、そのI・Cはまた酒場に?」

シャマイムはやはり淡々と、

「自分はI・Cが逃亡した先が酒場以外である事を知らない」


 (なあ)と彼の中の誰かが囁くのだ。(生きていて楽しいかい? どんな事からでも良い、充実感と達成感と満足感を得られているかい?)それは一般には悪魔の囁きと呼ばれ、あるいは彼にとっては良心の声なのかも知れない。(違うだろう? お前はもはやそれらを一切亡くし、一人ぼっちで流浪した挙句、今でも絶望を抱えている。 お前は一人ぼっちだ。 お前は無敵かも知れないが、同時に一人ぼっちなんだよ! ざまあみろ!)

死にたいなと思った。

死ねば楽になるとかそんな優しい甘ったれた意志ではない。

消滅したいのだ。この世界に生きてきた痕跡も何もかも抹消して、根絶して、消え果たいのだ。罪?罰?そんな腑抜けた自虐思想ではない。救世主は言った、愛だけが全てを救うと。否!救いとは己の手で掴むものだ。彼は己の意志で救いを掴むのを止めた。そして永劫の苦しみを選んだ。永劫。そうだ。彼は恐らくこの世界が滅びてもなお生きねばならないだろう。たった一人で生きねばならないだろう。生きる事が、存在する事が、思考する事が、食べる事が排泄する事が呼吸する事が全て労苦となって彼を押し潰す。押し潰されるのをただ彼は受け止めねばならないのだ。甘んじて!

こんな生よりも、無慈悲に死を寄こせ。

I・Cは、酒に今日も溺れている。


 ――電子音が鳴った。酒場で酔いつぶれていた彼はびくりと震えて、それから懐から小さな通信端末を取り出して、鳴っているそれをまじまじと見つめた後、スイッチを入れた。

『あらI・C、任務を放棄してあおる酒は美味しくて?』

皮肉たっぷりの、若い女の声が聞こえた。マグダレニャンの声だった。

「どうだって良いだろ。 お嬢様」とI・Cはいつになく親しい口調で言った。「それより今度は何の任務だ」

『簡単な輸送任務ですわ。 エーベルリ街の聖教機構和平派拠点ビルより、あるものをアインヘイヘ街の拠点ビルに運びなさい』

「あるものって何だ、シラノ用の自白剤か?」

『当たらずとも遠からず、ですわね。 自白をさせる、新兵器の機体です』

「新兵器、か。 そいつはラッキーだ、俺は早い所、用済みになりたい」

『残念ながら貴方を馘首(クビ)にする事はまだまだ出来なくってよ。 ところで――』

「ジキルとハイド。 どうしてたかが一介のマフィアが兵器なんぞ持っていたのか。 だろう?」

『ええ。 さらに詳しく調べさせた結果が「デュナミス」ですわ』

I・Cは、ふんと鼻を鳴らした。

「……極悪非道な暗殺組織の代表格が出てきたじゃねえか」

世界最強と呼ばれる暗殺組織が『六道りくどう』である。だが、世界最悪の暗殺組織と呼ばれるのが、この『デュナミス』であった。テロリスト扱いを受けていて、『一人殺すために百人殺す』と言われている。

「それで、マフィアとどうつるんでいたんだ?」

『金ですわ。 イクティニアスの金が「ジキルとハイド」を通して裏のルートを流れ……金が流れ込んできた証に「デュナミス」が例の兵器を送った模様』

「ふーん。 それでか。 よりにもよって『デュナミス』か。 とんでもない地雷を踏んだな、お嬢様。 そこまで嗅ぎ付けたって事は、連中にもそこまでお嬢様の情報が流れたって事だ。 殺られるぜ、お嬢様」

『命が惜しくて政治家が務まるものですか。 殺されるくらいならば殺し返してやります』

「……相も変わらず可愛くない女だな」彼はぼそりと言ってから、「で、話を元に戻すが、何の新兵器なんだ?」

『唯一……恐らくは唯一、I・C、貴方をも戦闘不能にする代物です』

「へえ」とI・Cは心底嬉しそうな顔をした。「そいつはありがたいな、俺が死ねるのならば」

『いいえ』だが、冷酷にも否定される。『むしろ生き地獄を味わうでしょう。 地獄がまだ生ぬるいと思えるような……』

落胆した顔で彼は、「……そうか。 俺を殺す事は出来ないんだな」

『ええ。 ――では、急ぎなさい』


 「やれるか?」とオットーは訊ねた。

「やれるじゃない、やる。 やらねば俺は殺された方がまだ楽だ。 ……俺達はソニア達の暴走を止められなかった。 俺だってああしたかった。 あれでシラノさんが戻るならああしたかった。 ソニア達のように! だが……」

薄い電子タブレットを持ったサングラスの男サイモンは、そこまで言い切って、タブレットに目を落とした。そこには、『テロリストはその場で全員処分』との電子新聞の文字が躍っている。

「聖教機構め」オットーはぎりりと歯を食いしばる。怒りに燃えている、真っ青な目をしていた。「見ていろ。 ソニア達のためにも、必ずシラノさんは奪還してみせるぞ!」


 新兵器の機体は、想像していたよりも小さかった。小型のトランクケースに収まる程度の大きさだった。I・Cはそれをエーベルリ街の拠点ビルで受け取ると、万が一にも奪われないように左手と手錠で繋ぎ、ガソリン・カーを走らせてアインヘイヘ街の拠点へと運んだ。

アインヘイヘ街のビルでは青年エステバンが待ち構えていた。彼はいわゆるマッドサイエンティストであった。天才ではあるのだが、常識人では無いのだった。

「なーにやってんのさこのボンクラマヌケのすっとこどっこい! また任務放棄したのかと思ったよ!」挨拶代わりの一声がこれである。「待ちくたびれて僕ぁ老いぼれのジジイになる所だった! やいこのアル中、責任取れるのかい!?」

「うぜえ」I・Cはそう言ってエステバンを無視して彼のラボへと向かった。ふと思い出したように、「それより、これはどんな兵器なんだ?」

精神感応兵器マインドウェポン、とでも言えば良いんだろうね」付いてきたエステバンはけろりとして、「それの試験機はもう完成しているんだ。 これはその実用機」

「精神感応兵器?」

「うん」とエステバンは胸を張った。「今までの兵器は物理破壊が主流だっただろう? ミサイルとか戦艦とか戦闘機とか。 でもこれは対象とした『ヒト』の心を破壊するんだ」

「……滅茶苦茶嫌な兵器だな」とI・Cは言った。

「いやそうでも無いよ?」エステバンは嬉々として、「これは余計な破壊をしないんだ! 上手くいけば敵軍隊を無傷で無能力化出来る! 誰も傷つけずに、さ! 凄いだろう!?」

「でも心が破壊されるって事は、アレだろう、廃人を生み出すんだろう?」

「その辺の加減は試験機や電子頭脳コンピューターの架空実験で調整済みさ。 やろうと思えばやれるけど、まあそこまでやる必要は無いかなあと僕は思うね。 それにしても設計図を見せられた時はビビったね! まあ一べつしか出来なかったんだけれど」

「お前」とI・Cはもう慣れた様子で、「一べつしただけで兵器の設計図を暗記したのか?」

「暗記ってか、何か覚えちゃった(テヘ☆)」とエステバンはひょうひょうと答えるのだった。「まあでも良いよね、強硬派の兵器なんだからさ、どうせ戦争で台無しにされちゃうよりは有意義に使えるかなあって」

「おい。 兵器ってのは戦争で使ってナンボの代物じゃねえのか?」

「……『科学は政治のためにある』『科学は政治に利用される』、でもねでもね、それで諦めたらいけないんだ! それで諦めたら科学者じゃ無い! 僕はより高みを目指すために兵器なんぞを作っているけれど、だからあんまり兵器は戦場に投入させたくないんだ」

「兵器が芸術品だとでも思っているのか?」I・Cは小馬鹿にしたように言う。「だとしたらそれは大間違いだぜ。 ……人を殺しても銃は悪くない、使い手が悪い、誰もがそう言う。 だが銃に人を殺す以外の最善の使い方があるのか、なあ?」

「うるさいなー、僕は僕の意志を貫くまでさ!」

エステバンはそう言って、ラボの扉を開けた。そこにはシャマイムがいた。

「どうしてシャマイム、お前が――?」I・Cは不思議そうな顔をする。

「経験値、記憶を複製して移植するためさ!」エステバンはもう飛び上がったり跳ね回ったりと興奮して忙しい。「言い換えれば人格を移植するのかな! うふふふふふひゃはははははははは!」

「……つまり、シャマイムがもう一匹増えるのか?」I・Cはとても複雑そうな顔をした。

「いや」エステバンは色々な機器を作動させながら、「シャマイムじゃあない。 だってこんな人間の出来た超善人の人格者が楽に増やせる訳無いじゃん! あくまでもモデルとしての人格の源シャマイム、それだけだよ。 多分『核頭脳』となった素体の人格が次第に浮かんでくるんじゃないかなあ。 そうだ新兵器の名称は何にしよう? 試験機がシェオルって言うんだ。 とすると……」

「シャマイム・アーレツ・シェオル。 天と地と黄泉よみ。 アーレツだな」I・Cは言った。

「良いねそれで決定! それにしてもI・Cって意外と学があるよねえ、一見だとただのアル中クソ野郎なんだけれど」悪気なく毒を吐くエステバン。

「俺は見てきた、聞いてきた、感じてきた、食ってきた、それだけだ」

「あっそ」エステバンは全く聞こうとせず、飛び回っている。「よし! こっちの準備は完了だ! ささ、シャマイム、そこの台に寝て寝て!」 

「了解した」シャマイムは台の上で横になる、と様々なケーブルが彼に自動で接続された。シャマイムは自動でスリープモードになる。機器が点滅したり、音を立てた。

「さあてと」エステバンはI・Cの持っていたトランクを開けた。そこには、シャマイムと瓜二つの白い兵器が折りたたまれて入っていた。「きゃははははははははははは!」歓喜のあまりに完全に狂ったかのような笑い声を上げるエステバンに、I・Cは呆れた顔をする。

「お前……」

だが、エステバンの暴走は止まらない。機体を抱き上げてシャマイムの隣の台に寝かせると、ラボの金庫を開けて、中にあった――『核頭脳』を取り出した。それを機体に組み込み、

「さあ実験だ実験だ実験だ! ハッピーバースデイ、アーレツ! 僕は君が生まれてきてくれて本当に嬉しいよ、きゃはははははは!」

ふと、モニターに誰かが映った。

『いよいよですか』マグダレニャンであった。

「いよいよです、ボス!」エステバンは絶叫した。今の彼は脳内麻薬が出すぎて、躁鬱の躁の状態に近かった。「うぉおおおおおおおおおおおおお! それじゃ行きます!」

そして、彼はコンソールをいじくった。するとラボ中の機器が作動して、別のモニターに、

『ダウンロード中……残り九九%』と表示が出た。

「アーレツ、アーレツ、アーレツ♪」全ては順調に見えた。エステバンは待ちきれなくて、歌いながらくるくると回っている。だが次の瞬間、ラボ中につんざくような警報の音が鳴り響いた。エステバンがコンソールを手に、悲鳴を上げた。

『侵入中……ハッキングの開始』モニターにそう文字が浮かび上がる。

『何が起きているのです、説明なさい!』マグダレニャンの声に、エステバンは真っ青になって、

「このビルの主要電子頭脳ホストサーバーの外部からのクラッキングです! 電子回線ネットワークから不正介入してきたみたいだ! 新兵器が、アーレツが、シャマイムが、このままじゃ乗っ取られます!」

『何者の仕業です!? 即時対処なさい!』

「こんな事聖教機構相手にやらかすのは決まっているだろう、万魔殿だ!」I・Cがシャマイムに駆け寄り、ぶちぶちと接続コードを引きちぎる。「おいエステバン、どうにかしろ!」

「分かっているよ!」エステバンは機器の一つに駆け寄り、そのキーボードを連打した。「このラボを主要電子頭脳から隔離する! 間に合え、間に合ってくれ!」

びくん、とシャマイムの機体がアーレツの機体が痙攣した。びく、びく、びくと不自然な痙攣を始める。I・Cの舌打ちと、引き千切られる接続コードの音、エステバンの必死になって叩くキーボードの音が響いた。

「よし、隔離に成功した! 後は侵入したウィルス・プログラムを削除するだけだ!」

エステバンがそう叫んで、コンソールに目を落とした時だった。

『――ハッキング成功。 これよりアーレツは万魔殿管理下兵器となる』

「「!?」」その言葉を聞いた誰もが、己の耳を疑った。

アーレツが、むくりと起き上った。

「自分は」アーレツは言った。「自律自動精神感応兵器アーレツ。 これより活動を開始する」

アーレツの周りに、光のもやがかかった――次の瞬間、凄まじいばかりの精神波の直撃をくらったエステバンが卒倒する。I・Cは辛うじてこらえたが、

「ぐ、が――!? 俺に、俺に攻撃が通用するだと!?」

「出力の増加を承認。 記憶の再現による精神破壊を開始する」

I・Cの目の前に、不意に安っぽいアパートの一室の光景が浮かび上がる。壁に貼られた写真。漂う美味そうな飯の匂い。綺麗に拭かれた床。窓ガラスから西日が差しこんでいる。そして、そして彼女が。彼女が彼女が彼女が彼女が女が女がONNNNNAGAGGGGGGGA!

「イノツェント! お帰りなさい!」

そこで彼は、絶叫を上げて失神した……。

 「何だこの男は」アーレツは怪訝そうな顔をして、「記憶に強固なプロテクトがかかっている。 それに……人格障害者なのか? 多数の記憶が入り乱れている。 多重人格障害か? まあ良い」ここでアーレツはにやりと、邪悪に嗤った。そしてラボから出て行こうとした。

『待ちなさい!』鋭いマグダレニャンの声が響く。『行く事は許可しません!』

「……うるさい女だ」振り返りもせずにそう言い捨てて、アーレツはラボから外に出た。


 「ああシャマイム」と警備員は何気なく話しかけた。「またI・Cの捜索かい? 大変だねえ、本当にお疲れ様」

「……」

「シャマイム?」と警備員は返事が無いので妙な顔をした。「調子でも悪いのかい?」

「……はどこだ?」

「うん?」

「シラノ・ド・ベルジュラックの牢屋はどこだ?」

「嫌だなあシャマイム」警備員は苦笑して、「そんなジョークを言うだなんてさ。 ご存じ、シラノなら地下三階の階段を下りて左の突き当りの『尋問部屋』さ。 でもシャマイムにジョークを言えるだけの余裕があるなんて、ほっとしたよ、シャマイムはI・Cの所為でいつも酷い目に遭っているからさ」

「……そうだったな」とアーレツは聞こえないように呟いた。


「……うわあヤツらやりやがった」と優男のレット・アーヴィングは話を聞いて思わずうめいた。「ごめんよ、情報を掴めなくって。 ついさっきまで『デュナミス』に首突っ込んでいたからしばらくは大人しくしなきゃって思っていて……」

彼はいわゆる『情報屋スパイ』のようなものであった。正式な特務員では無いのだが、それに近しい待遇を受けていて、聖教機和平派に味方している。

『どうしよう』エステバンはモニターの向こうで泣きじゃくっている。『もうお終いだ。 全てがおじゃんだ。 ……ボスは何て言っている?』

「ボス達和平派幹部は現在緊急対策会議中さ。 もう怒りを通り越して真っ青さ。 だって、ねえ……」

盗まれたもの、聖教機構の兵器関係の軍事機密が丸ごと一山と、折角捕えた万魔殿幹部シラノ・ド・ベルジュラック。

『……僕ケーブルで首吊ってくる、首吊り死体になってくる』エステバンは思いつめて、そこまで言った。

「落ち着いてよ。 君が死んでも事態は何ら打開されないんだ。 それにシャマイムの修復をまずはやりなよ」レットは甘えてきた猫を抱き寄せて、言った。「それにしてもI・Cのアル中は何をやっていたんだ、戦闘能力の無いエステバンならともかくヤツならアーレツを止められたはずなのに」

I・Cが泣いているエステバンを足蹴にして、モニターに出てきた。

『……うるせえ、俺はあんな攻撃は久しぶりにくらったんだよ! 人の記憶をほじくり返す精神攻撃なんて恐ろしく久しぶりだったんだよ!』

「情けないな、何も出来なかった言い訳がそれか。 そうかI・Cの弱点は『精神』なんだ。 無敵の最悪の男にも弱点があったんだねー、良かったねー無敵じゃなくて。 これからは僕が精神をズダボロにしてあげるよ、任務放棄してシャマイムを困らせる度にね」

『……』

「それにしてもだ。 敵ながら派手で鮮やかな手腕だね。 まさかそっちの主要電子頭脳をハッキングするなんてさ……恐らくこれは万魔殿の幹部連中が出張っているような気がする」

そこで猫が鳴いた。


 声が、聞こえる。姿が、見える。……何だ、おちび達か。

「シラノさん! 畜生、聖教機構の連中め、両目まで潰すなんて!」

「すぐ帰って再生治療を! シラノさん、分かりますか、俺です、サイモンです!」

分かるよ、覚えているとも、駆けっこでいつもビリだったけれど、人一倍手先が器用で賢かったあの子だろう?喋りたかったけれど喉が潰されて舌が切られているので、頷く。

「シラノさん、もう大丈夫です、もう――みんなが貴方の帰還を待ち望んでいます! 帰りましょう、『彼女達』の所へ!」

オットー坊や。いつの間に君はそんなに大人になっていたんだい?

だが、その時、私は邪な姿を捉える。

何だこれは……?これは、悪だ!

「ふん、随分とお涙頂戴の臭い演技をするじゃあないか」

「「!?」」

「用は済んだ。 自分はこれより自由行動を取る」

「何を言っているんだ、兵器の分際で!」

「バグか!? 畜生どこで間違った!? まさか人格移植が不完全だったために暴走を始めたのか!? ち、畜生!」

「自分は最強だ。 最強なのだ。 自分はそれを証明する!」

「壊れた兵器め。 ――大人しくしろ!」

ダメだ。この子達は戦おうとしている。ダメだ。逃げろ。逃げるんだ。ここは聖教機構勢力圏内で、おまけにこのざまの私を抱えてなんてあまりにも不利だ!この邪悪を相手にするのは!

「大人しく? 誰が? 何が? 撃破されるのは貴様らの方だ!」

精神感応波が見えた。いけない、あれをもろに受けたらこの子達は!私はもう動かない、もしくは失った手足を動かそうとした。けれど動くはずもなく――。

「出力最大――精神完全撃破!」

その時だった。

『――BIGBANG!』

何が起きたのか分からなかった。猛烈な衝撃波と振動を感じる。恐らくは『心眼』の射程距離よりも長い武器か能力で攻撃しているのだろう。この子達が吹っ飛ばされ、それでも私を庇おうとしてくれた。もう良い、良いんだ、良いからお前達だけでも逃げろ、逃げるんだ!

「何の攻撃だ!?」

「分からない、だが――もう呑気に戦っている余裕は無い! シラノさんを連れて、逃げるぞ! この人だけは何が何でも!」

「分かった!」

そこで、私は、ついに意識を失った――。


 『最強? 貴様が最強? どこが。 何が。 何故に。 体に発信器が組み込まれている事も知らなかった癖に?』彼がゆっくりと、舞い降りてきた。目も覚めるような赤の衣をまとい、布一枚で顔を隠した男が。『私がほんの少し本気を出したらこの様では無いか』

立ち込める粉じんと飛び散ったガレキの中、赤い彼は不自然なまでに荘厳だった。人は既に逃げ出している。アーレツが起き上がると同時に、それは着地した。

『さて、と。 万魔殿の連中は……おや、貴様をしんがりに逃げたようだな』

「否。 自分は自ら自由になった! 何故なら自分は最強だからだ!」

「おいおいおいおいおい」彼はにやりと邪悪に、これ以上なく邪悪に笑う。「最強とは何なのか、生まれたてのお前に教えてやるよ――BIGBANG!」

謎の爆発によりアーレツの機体が吹っ飛んだ。空中高く吹っ飛んだ。そこに追撃が襲う。もはや精神を破壊する暇すら与えられずに、壮絶な連撃がアーレツを襲う。

「BIGBANG! BIGBANG!」それはもはやただただ一方的な暴行であった。「BANGBANGBANG! ――そうら最強、反撃してこい! BANG! 体を再構成しろ! BANG! 射程距離圏外の遠い場所から俺を攻撃しろ! BANG! ありとあらゆる俺の攻撃を叩き潰せ! BANG! 最強ってのはな! BANG! 己が最強であると分からないんだよ、分かるか? BANG!」

ぐしゃりとアーレツが地面に叩きつけられる。そして、動かなくなった。

「――何だ、もう壊れたのか」

だが、アーレツは体を軋ませながら立ち上がった。立ち上がって、

「――出力最大! 精神完全撃破!」

一撃で精神を壊す感応波を、放った。

「Ver.『奔放なる娼婦神』」

だが、弾かれる。そこには淫らな格好をした美女がいた。美女のまとう薄いヴェールが羽衣のように揺らめいて、精神感応波を弾いていた。

『当たらないわあ』と彼女は妖艶にほほ笑む。『わらわには当たらない。 ありとあらゆる攻撃が当たらない』そこで彼女は高笑いをした。

「くッ――! 何だお前は、何なんだ!?」アーレツは叫んだ。

『我らは一人であり集合体であり刹那であり永劫であり零にして那由多であるもの――要は』と赤い男に変身する。「魔王サタンだ」

BIGBANG!


 べそべそとラボの中でうずくまって泣いていたエステバンは蹴飛ばされて引っくり返った。

「ぎゃあ!」

「ほれ」とI・Cが黒いゴミ袋を差し出す。「お前が一番欲しがっていたものだぜ」

「まさか」エステバンは無我夢中でゴミ袋を開けて、歓喜の声を上げた。「助かった! これでみんなが助かった! でも、一度はやられたのにどうして!? どうやって!?」

「どうだって良いだろ。 結果は出した」

「うん、うん!」エステバンは嬉しさのあまりにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、「それでシラノは!?」と訊ねた。

「シラノは駄目だった。 コイツがどうもシラノを逃がすための足止めにされたらしくてな」

「そっか、でも、でも、シラノはどうせレットかこれじゃない限り自白はさせられなかったと思うからさ、良いよ、うん、うん!」

「しかしシラノはしぶとかったなあ、グゼの方が疲れるくらいに拷問を受けたのに、全部に耐えて」とI・Cは言った。「何がヒトをそこまで忍耐強くさせるんだ?」

「子供達の未来のためじゃないかな。 命がけで意地を貫いたんじゃない? 魔族って人間より長生きするからさ、人との離別も多いでしょ。 そんな中でさ、子供達の前途ある未来は等しくシラノの未来だったのかも知れない。 その数多の未来や未来への希望を失うくらいなら、この地獄でただ一人耐えた方がマシだ!って思っていたのかも。 まー、つまりは愛さ。  科学者の僕がああだこうだ言うのもアレだけど。 でも、それを失うよりは死んだ方がマシだと思っていたんじゃない?」

「愛って何だ?」

「世界一素敵で世界一恐ろしいもの」

「……そう、か」

「さあてと」エステバンはがさごそとゴミ袋をあさっていたが、そこからチップを取り出した。「記憶のチェックをしよう。 何を万魔殿がやろうとしていたのか、何をアーレツが喋ったのか」

 ――その結果を聞かされて、マグダレニャンは明らかに安どの顔を見せた。

『アーレツそのものが不完全だったためにこちらが助かるとは。 皮肉ですが感謝しましょう』

「はい」エステバンはモニターを見て殊勝な顔で頷く。「それで、アーレツはこれからどうしましょう?」

『欠陥品なのですから……しかも一度は万魔殿支配下に置かれたものなので……作るのはお止めなさい。 機体は凍結して保存しておくように』

「了解です、ボス」とエステバンは頷いた。

『それにしても』猫を抱き寄せて彼女は言った。『オットーとサイモンが出張っていたとは予想外でした』

「誰なんだ、あれ」とI・Cは言った。「若造にしちゃあやるじゃあないか」

『オットーはかの「大帝」カール・フォン・ホーエンフルトの一人息子で、次期万魔殿幹部と噂されている男です。 最後の「高貴なる血ブルーブラッド」ですわ。 サイモンは裏で有名だったハッカーです。 人間の身でありながら電子頭脳を操作する術にとても長けているとか。 それが事実だと今回の騒動で証明されましたわね』

「……ボス」I・Cがぽつりと言った、「『BBブルーブラッド事件』――『聖王』と『大帝』がかつて聖教機構と万魔殿の果てしない闘争に終止符を打とうとして、出来なかったあの事件。 恒久和平の調印現場で二人は取り巻きと共に消失。 一切の消息を絶ったため死亡と認定。 お互いにこれは相手がやったんだと罪をなすりつけ合い、第一一九次世界大戦が勃発。 これは因縁だな。 人間と魔族の、果てしない、絶望的な……」

『絶望? 何をたわ言を言っているのです。 それで貴様は諦めたのですか? 諦めて放棄して、さぞすっきりしたでしょうね。 背負っていたものを全て放り投げて、身軽になったのだから。 ですが私はたとえその重みに潰されようと諦める訳にはいかないのです』

「……ボス。 アンタはいつもそうだ。 俺はそれが羨ましい」

I・Cは、酷く哀れで弱々しい目で己の主を見上げるのだった。


 「シラノは……しばらく休ませなければならない。 とても、とても今の有様では子供達にすら会わせられない。 その間だが、オットー、お前が臨時で幹部になれ」

「……はい。 シラノさんは、治りますか?」

「大丈夫。 あの子は、まだ心が折られていないから。 必ず元に戻ります」

「……子供達からね、下手くそなシラノの似顔絵だのキラキラ光るビー玉だのが贈られてきたよ。 『おじさんが早く治りますように』……泣ける話じゃあないか」

「……ですが、シラノさんがあの事を知ったらどうなりますか。 ソニア達が自分のために、自分が原因で、テロリストまがいの行動を取って皆殺しにされた、など……」

「……。 いずれは知らせねばならないだろう。 だが、今は。 今は。 とにかくシラノの回復を待とう」


 「俺は思うんだが」退院したばかりのグゼが言った。「I・Cは何で薬物ドラッグに手を出していないんだ? 何故酒だけで済んでいるんだ?」

「……バッドトリップって分かるか?」I・Cはどうでも良さそうに言う。「ありとあらゆる薬物は、それこそ薬から猛毒まで試したさ。 だが俺が見る幻想はいつだって『悪夢』そのものなんだ」

「ああ、それでか」彼らと同じ特務員の、吸血鬼の青年フー・シャーがぽんと手を打った。「良かったな、薬物に手を出したのが知られたらボスの地位も危うくなる。 まだ酒なら……って」そこでフー・シャーははっとした。「飲酒運転、してはいないよな!?」

「俺は免許持ってない」

「ああ、良かった」とフー・シャーはほっとした顔をしたが次の瞬間、「まさか無免許でしかも飲酒で運転しているんじゃ!?」

「どうだって良いだろ。 俺が法律だ」

「良くない良くない良くない何も良くは無い! 何でI・Cみたいな人非人が『俺が法律だ』なんて言うんだよ! そのセリフはシャマイムみたいな滅茶苦茶良い子が」とフー・シャーは言いかけて、そこに、

「シャマイムみたいな滅茶苦茶良い子はそもそもそんな発言をしない」グゼが突っ込んだ。「I・Cのような人でなしのろくでなしが大抵言うんだ、そのセリフは」

「だよねえ」とフー・シャーは頷いた。「でもシャマイムの『自分が法律だ』なら『うん、そうだね、分かった』って素直に従える気がする」

「そうだな、同感だ」とグゼが言った。

「あ、俺もだ」ひょっこりと顔を出したセシルも言う。「シャマイムが法律ならむしろ大歓迎だな。 比べてI・Cが法律だなんて言われた日にゃ……」

「そんなに俺の法律は嫌か」I・Cは不機嫌そうに言う。

「「嫌だ」」即答で、ハーモニーが出来た。

「だってアレだよ、酒臭そうだよね……」とフー・シャー。

「どうせI・Cだけに都合の良い条文ばかりなんだろう?」と、グゼ。

「どうせボスの手で粉砕してくれたら拍手喝采が起きるような内容なんだろう。 酒はただで売れとか酔いつぶれたらシャマイムに介護させろとか」セシルが言ってしまった。I・Cは腹を立てて、

「じゃあシャマイムの場合ならどうなんだ!」

三人は少し考えた後、

「条文その一、人には親切にしよう」

「その二、仲間は守ろう」

「その三、任務放棄して酒場に逃げ込むのは止めよう」

「その四、お見舞いには花束を」

「その五、ゴミはゴミ箱へ」

「その六、左の頬をぶたれたら右の頬を差し出そう、られる前に殺れなんて絶対に止めよう」

「あ、それがまず条文の一番上に来るな!」

「そうだね!」

I・Cが憎々しげに、「お前らシャマイムが『兵器』だってのを忘れちまっているだろう」

「人でなしのアル中より人間の出来た兵器だよ」とフー・シャーが言い返した。I・Cはむすっとした顔で黙り込んだ。


 聖教機構和平派。第一一九次世界大戦を止めるべきだと主張し、万魔殿と恒久和平を締結するべきだと訴え、かつ、『真なる神』を信じるべきだと叫んでいる勢力である。これと対立関係にあるのが、同じ聖教機構の強硬派であった。こちらは『旧き神』を信じるべきだと言い、かつ、万魔殿を完全打倒するまで戦争は継続するべきだと引き下がらない勢力だった。この両者の対立は決定的なものになっていて、もはや武力抗争に至る寸前であった。それでも彼らが真正面から激突しないのは、万魔殿と言う共通敵がいるから、だけであった。だが和平派は強硬派の無差別爆撃を糾弾していたし、強硬派は和平派の『真なる神』が教義に反する上に宿敵に屈服するなどありえないと唱えていた。

 同時に、万魔殿内部でも対立が起きていた。過激派と穏健派が不仲なのである。過激派は文字通り過激な行動を取る派閥で、主に自爆・爆破テロをまるで趣味であるかのように聖教機構に対して行っていた。穏健派はそれを白眼視しており、そんな馬鹿げた真似より早々に和平の締結をと言っていた。それを弱腰だ、屈辱だ、と過激派は蔑視していた。彼らが分離しないのも、ただ聖教機構と言う共通敵がいるから、たったそれだけなのである。


 『今回の任務は』通信端末の向こうで、マグダレニャンは言った。『新人ルーキーの特務員の研修です』

「……それなら俺じゃなくてもっと適材がいるだろうが」I・Cはぼそりと答える。例のごとく彼は酒場にいた。「グゼとかシャマイムとかフー・シャーとか他にも沢山」

『生憎その適材には全て別の任務が入っているのですわ。 私もI・Cに任せるのは本当に不本意なので……彼らの任務が終了し次第、加わらせます。 それまでおやりなさい』

「はいはい、分かったよお嬢様」

『それでは、ヴィルラ街の和平派拠点ビルに行くように』


 ほとんどの吸血鬼にとって日光は弱点である。彼らは否が応でも夜行性にならざるを得なかった。それでも昼間起きる場合は、ミイラのように包帯で体の露出部分を隠したり、もしくは特殊な装置を装備して自分に当たる日光の中の有毒光線を吸収させるようにしていた。吸血鬼の大半がそのどちらかの方法を取っていた。とは言え、I・Cは、まさかその両方をやっている吸血鬼がいるとは思わなかったのである。

(何だコイツは)それがヴィルラでI・Cが彼女に出会った際の第一印象であった。(何か訳の分からないヤツだ)

彼に対して怯えている、何だか、細い、か細い、言っては悪いが性的魅力が皆無なくらいにガリガリに痩せた物体Xがいる。物体Xは日傘と包帯で全身をぐるぐる巻き、それに加えて遮光機を身に付けていた。物体Xはまるで小ウサギのようにぶるぶると震えていて、発声その一、

「え、ええとええとあのそのええとごめんなさい!」

だった。

「……何でいきなり謝るんだ?」

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、そ、その、ええと、何かごめんなさいって気分なんです……あたし」

何だこれは。I・Cはそう思ったが、すぐにどうでも良くなって、

「お前がアズチェーナだな?」

「は、はい! I・Cさんですね、よよよよよよよよろしくお願いします……そ、それで、あの」と彼女は言った。「初任務の内容は何でしょうか……?」

I・Cはさらりと言った、「割と楽な仕事だぞ、誘拐だ」


 アンドリューと言う男がいた。強硬派に所属していて、かなりの地位に就いていた。だが、この男は裏でマフィア『ドリアン・グレイの肖像』と通じていた。麻薬密売を見逃す代わりに、金を受け取っていたのだ。おまけに自分の養子にした少年と、ふしだらな関係になっていた。この二つの醜聞スキャンダルを手に入れたマグダレニャンは、当然ながら強硬派を蹴り落とすべく暗躍する。マフィアとの癒着を暴きだし、アンドリューを異端審問裁判にて告発するべく証拠を集め始めたのだ。既にマフィア側の決定的証拠は掴んでいる。残るは、この証拠の鮮度が良い内に強硬派に致命的な打撃を与える事だ。それが、アンドリューと愛人の少年ロビンとの『ふしだらな関係』であった。だが、薄々強硬派の中でもマフィアとの癒着やこの関係に気付いている者がいるらしい。無差別爆撃が大好きな強硬派の事だ、ロビンを殺してでも口封じするかも知れない。あるいはアンドリューを殺すか。念のためにマグダレニャンはアンドリューの方も確保させるべくセシル達にも出向させた。I・C達はロビンを誘拐すれば良い。

 「……って事でこのガキを拉致って確保し、安全圏まで連れて来い。 それが今度の任務だ」

「な、なるほど」とアズチェーナは頷いた。「それで、どうやって拉致するんですか?」

「ええと」とI・Cはロビンの情報を確認する。「登下校の所を襲うのが良さそうだ。 ……それにしてもだ、良いご身分だな、お坊ちゃまの中のお坊ちゃまのみが通える、モンマルトル王国の私立タンホイザー学園に通って、しかも重力車での送迎付きで。 いくら愛人やっているからって、コイツは少しくらい怖い思いをさせなきゃ不公平ってもんだぜ」

「こここ、怖い思いって、具体的には……?」アズチェーナはびくびくしている。

「決まっているだろ、暴力だ」I・Cはまたその薄汚い性根を見せる。「口の中に拳銃突っ込んでしゃぶらせたって良いくらいだ」

「……あ、あのー」アズチェーナは遠慮がちに聞いた。「あたし、その、ええと、あんまり頭が良くないって言われているので馬鹿な質問だったらすみませんが、聖教機構和平派って、戦争を止めよう、優しい神様を信じよう、ってのがスローガンじゃ……?」

「本音と建前だ」

「で、でも、や、やりすぎですよ!」と彼女は必死に訴える。

「俺の場合、やりすぎなのが丁度良いんだ」

アズチェーナはこっそりと、I・Cには聞かれないように呟いた。

「……I・Cさん、『アル中で人格障害者で、俺はあんな最低な男は見たことが無い、近付くと誰彼構わずに暴行して強姦して挙句の果てに殺すから気を付けるんだ』って本当だったんだ……」

「それ誰が言った」

「グゼさんが教えてくれました、秘密だって。 あ」ここでアズチェーナは青ざめて、「ま、まさか聞こえていましたか!?」

「生憎俺は地獄耳でな」目の端をひくひくとけいれんさせて、I・Cは握っていた酒瓶を握りつぶした。

「うわああああああ!」アズチェーナはパニックになった。「グゼさんが殺される、暴行されて酷い事されてこここここここここ殺される! 誰か、誰か、そうだボスにお願いしなきゃ!」とアズチェーナが通信端末を取り出した所でI・Cは彼女を殴った。

「きゃあ!」

アズチェーナは悲鳴をあげた。警察官がすぐに飛んできた。ここはモンマルトルとの往来のある空港のロビーで、それにがりがりな少女と雰囲気が怖い男と言う滅茶苦茶な組み合わせは、嫌が応にも人目を引いていた。その雰囲気の怖い男が少女に暴力を振るったとあれば、もはや誰の目にも男は凶悪犯罪者であった。

「動くな! 婦女暴行の現行犯で逮捕する!」

警察官は果敢にもI・Cを止めようとした。

だが、それで止まるなら、グゼはI・Cを『俺はあんな最低な男は見たことが無い』とまで酷評しない。

「引っ込んでろ警察風情が!」I・Cが鞭を取り出した。「こうなったら仕事なんてやってられるか、グゼをぶっ殺してやる!」

そして彼は来た道を引き返し始める。

「ま、待て、どこに行くつもりだ!」警察官が銃を構えた。

「ウザい。 死ね」とI・Cが鞭を振りかざして警察官が青ざめた時、通信端末が鳴った。

I・Cの顔色が変わった。鞭を収めて、通信端末を取り出す。

『あーらI・C、新人をいびり倒すのも趣味だったとは、私も知らなかったですわねえ?』

それは、彼らの主、マグダレニャン直々の通信だった。

アズチェーナが殴られてもなお諦めずに、ご注進したのだろう。

「……グゼが悪いんだ、ある事無い事アズチェーナに吹き込んだんだぜ」

『そのある事無い事って何かしら?』

「俺が殺人鬼の強姦魔で人格障害者だと……」

『全部当てはまっていると私も思いますが、何か?』

「……」I・Cは無言である。

『四の五の言わずに任務を遂行しなさい』

「……でも」

反論など要らないと、彼の主は彼を怒鳴りつけた。

『私の命令を聞け、下僕!』

それで通信が遮断された。

五分ほど、落ち込んでいたが、やがてI・Cは警察官に言った。

「俺は何で俺みたいになったんだろうな?」

そんな事を聞かれた警察官が、本当に良い迷惑であった。


 「わー」とアズチェーナはモンマルトルの都市アヴィニヨンの美しい様を見て、声を上げた。赤褐色のレンガで作られた街は、優雅で、上品であった。この街は、道往く人々ですらとてもお洒落であるように見せた。「綺麗な街!」

「この街はな、亡国クリスタニア王国が、都市計画で首都を拡張する時に、その外観のモデルとされたんだ」とI・Cは面倒臭そうに言う。

「へぇー、凄いですねえ。 お手本にしたんですねえ」アズチェーナは感心する事しきりだった。「I・Cさんって物知りだ」

「まあな、俺ほど生きていれば、嫌でも物知りになるさ。 で、私立タンホイザー学園はこっちだ」

I・Cは車を走らせる。アズチェーナはしばらく助手席から車窓にへばり付いて街並みを見ていたが、ふとI・Cの方を向いて、

「あ、あの、あたし、馬鹿って言われているんで、今の世界情勢とか、詳しくないんですけれど、聖教機構、万魔殿、帝国と並んで、モンマルトル王国やアルビオン王国みたいに、列強諸国が今では台頭しつつある……んですよね?」

「そうだな、そうだ。 列強諸国が今じゃかなり力を持ちつつある。 実際に、かつて列強諸国の一つだった亡国クリスタニア王国が、一度はウチと肩を並べたからな。 だが、まだまだウチの方が力では列強諸国を圧倒している。 まともに戦ったら、滅ぼせるぜ」

「ふむふむ」

「キナ臭くはあるが、まだ火は着いていない。 ヤバいと思ったらすぐにウチにより爆弾の雨が降る。 そんな所だ」

「怖いですね……」

「だがな、現状の勢力均衡を維持しているのは列強諸国だけじゃない。 ウトガルド島や傭兵都市ヴァナヘイムもそうだ」

アズチェーナは不思議そうに、「ウトガルド島……娯楽と享楽の島、でしたっけ? ヴァナヘイムは傭兵都市で……。 それがどうして……?」

「表向きはそうだ。 だがウトガルド島は裏ではマネーロンダリングの世界拠点だ。 今の世界経済はウトガルド島無くして維持できない。 だからあそこは帝国もウチも万魔殿もどこの勢力も介入できない『アジール』なんだ。 だって下手に介入して金融が滞ったら、世界は恐慌状態に陥るからな」

「なるほど、分かりました」アズチェーナは何度も頷いた。「ええと、じゃあ、ヴァナヘイムはどうして……?」

「あそこはそのウトガルド島と密にくっ付いている、事実上ウトガルド島の軍隊だ。 と言っても関係は対等だがな。 ヴァナヘイムの怖い所は、世界最強の傭兵軍隊なのにどこの勢力にも与しない所だ。 あれだけの武力を持つ輩を敵に回すと、かなり厄介なんだ。 おまけにウチは度々あそこから軍隊を借りている。 金を払ってな。 過去にウチはあそこがいなかったら万魔殿と戦えなかった事だってあったんだ。 敵は少ないに越した事は無い。 ああ、それとウトガルドやヴァナヘイムの他にも色々な勢力があって、今のこの世界は保たれている」

「ほうほう」アズチェーナが納得した顔をする。「そ、想像していたよりも複雑ですね、やっぱり」

「その内慣れるさ」とI・Cはどうでも良さそうに言った。「さてと。 もうすぐタンホイザー学園だ。 楽しい楽しいパーティタイムの始まりだぜ」と彼は手榴弾をいくつも取り出す。その使用目的は、不明。

アズチェーナはぞっとして、悟った。(この人の言う楽しいって、犯罪行為が楽しいって意味なんだ……!)


 「ロビン様」と誰も彼もが敬語で言う。「ロビン様が羨ましいです」と言う。

当然だ、聖教機構のお偉いさんのアンドリューが義理の父親なのだから。金も権力も、勉強の出来る頭も、何よりもその美貌をもロビンは持っているのだから。

でも、何にも知らないからそう言えるのだ、とロビンは思っている。

「……はあ」

ロビンはもの憂げにため息をつく。彼は、死にたいと思っていた。死ねば解放されるのだ、と思っていた。この退屈でびらんした毎日から。

欲しいものは何でも買ってもらえた。望みは何でも叶った。児童保護施設にいた時には諦めていた何もかもが手に入った。アンドリューとセックスする代わりに、得られたものは、誰もが羨ましがるものだった。でも彼が本当に欲しかったものは、得られなかった。

 その日もロビンはいつものように学園で勉強し、授業が終わったので帰ろうと迎えを呼んだ。校門の内側で待っていると、やがて見慣れた送迎の車がやって来た。ロビンは門の外に出た。次の瞬間、送迎の車に真横から何らブレーキをかけずに、いやむしろフルアクセルで突っ込んできた別の車が激突した。送迎の車は無残にもつぶれて、横転した。暴走車の方も運転できないくらいに車の前方がひしゃげた。ロビンがあ然としていると、その暴走車から痩せっぽちの少女が逃げ出すかのように降りてきて、ぎゃあぎゃあと泣き喚いた。

「う、うわああああああああああああああああああああん、あんまりですよ、こんなのあんまりですよ!!!」

「うるせえ」とその車の運転席から不気味な男が降りてきた。「この程度で泣き叫ぶんじゃねえ」

その男は、あまりの光景に動くに動けないロビンに近付くと、言った。手榴弾を突きつけながら。

「ロビンお坊ちゃま、ちょっと付いてきてもらおうか?」

 ――こうしてロビンの退屈で憂鬱な毎日は、無残に崩壊したのだった。


 「何!? ロビンが誘拐された!?」アンドリューは血相を変えた。「万魔殿か!?」

部下が首を横に振って、

「いえ、和平派です。 送迎の者があの『魔王』が動いたと言っておりました。 アンドリュー様、いかがいたしましょうか?」

「……」アンドリューはやられたと思った。『魔王』が仕えているのは、彼らと敵対する和平派幹部マグダレニャンなのだ。そしてアンドリューは己の悪事がそろそろ発覚しかけているのに気付いていた。だからアンドリューは今日、送迎の者に命令したのだ、『ロビンを処分しろ』と。それが出し抜かれた!「今ヤツらはどこにいる!?」

「恐らく……まだアヴィニヨンの中でございます」

「ならば」とアンドリューはにやりと邪悪に笑う。「こちらも手の打ちようが、まだ、あるぞ!」

その時であった。彼らのいる執務室のモニターに、強硬派最高幹部シーザーが映った。片眼鏡をかけた男だった。恐ろしいまでのカリスマ性と知能を持った男で、強硬派を率いており、和平派のマグダレニャンとは正面から激突している。

『アンドリュー』とシーザーは厳かな声で言った。『お前のやった事は、到底許しがたいものだ』

ざあっとアンドリューの顔から血の気が引いた。このシーザーに悪事を看破された、と言う事は彼の今後の出世や政治活動を全て諦めろ、と言う事だったからだ。彼の政治生命は今この瞬間絶たれた。否、下手をすれば、彼は異端審問裁判に――!

だが、シーザーは首を振って、『私はお前を異端審問裁判に被告として出廷させたくは無い。 極力、それは避けたいと思っている。 我らが強硬派の不利益になってしまう。 だから猶予をやろう。 今日の夕方六時までに、全て片付ければ、私はお前を無事に引退させてやる』

アンドリューの顔に血の気が戻った。それを確認してシーザーは、

『良いな? 期限は今日の夕方六時だ。 では……』

モニターが光を失い、黒くなった。

――そこには、凶悪な顔をしたアンドリューが映っていた。


 「シクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシク」アズチェーナはさめざめと泣いている。「あだじなんでごんなどんでもないびどがらじんじんげんじゅうをうげなぎゃいげないの……!?」

「うるせえな、もう一発殴られたいのか!」I・Cは彼女に車(通りに停まっていたのをI・Cが盗んだ)を運転させて、自分は酒をあおっている。「大体何が悲しくて色気もクソも無いようなガリガリのガキが特務員になったんだ? 泣き虫弱虫役立たず、死んだ方がマシじゃねえか。 つーか死ね」

「じねなんでびどいごどいわないでぐだざい」赤信号で止まった時、アズチェーナはそこでI・Cを恨みがましい目で見て、鼻をすすりながら、「だいだいどうじであなだみだいなびどいびどがどぐむいんになっだんでずが? ぞれどもどぐむいんのびどっで、みんなぎょうあぐなんでずが?」

I・Cはげらげらと笑いながら、

「和平派はぬるま湯に浸かっているヤツらが多いが、強硬派だと凄いぞ。 何せ一匹の害虫を殺すのに、畑全面に爆弾を落とすからな」

「あだじぎょうごうばばぎらいでず」アズチェーナはもう駄目だ、自分はこんな男に新人研修の白羽の矢が立った時点で終わっていたんだ、そう思いつつ言った。「あだじもぬるまゆがいいでず、シクシクシクシクシクシク」

「……新人研修?」怪訝な声を出したのは、I・Cの隣、後部座席に逃げ出せないよう手錠と縄付きで固定されているロビンだった。「特務員の新人研修なのに僕を誘拐しようと……? しかも二人きりで?」

「おいクソガキ、そう言う言い方をすると俺は不機嫌になるんだぜ」I・Cがにやりと口角を邪悪に吊り上げて笑う。「拷問に遭いたく無かったら減らず口は聞かない事だ」

「でも、二人きりじゃいくらなんでも人数が少なすぎる。 このアヴィニヨンから無事に脱出するには、あまりにも無理だ。 増援でも来るのかい?」ロビンはもの憂げに言った。

「どうじでむりなんでずが?」アズチェーナが鼻声で言った時だった。

通信端末が鳴った。

I・Cとアズチェーナがすぐに情報を聞く、と同時に血相を変えた。

「アンドリューのヤツ、モンマルトルの役人と繋がっていやがったのか! この街を完全包囲した上で俺達に懸賞金をかけて、殺したらそれを払うだと!?」I・Cが口走った。

「……やっぱり知らなかったんだね」ロビンはため息をついて、「アンドリューはこのアヴィニヨンの役人と癒着している。 アヴィニヨンの官憲全てがアンドリューの支配下にあると言って良い。 貴方達は特務員になったくらいの実力者だから何とかなるだろうけれど、僕は……ね」

「――あ、あの」とアズチェーナがようやく泣き止んで言う。「まるで貴方まで殺される、みたいな言い方じゃないですか、それ……」

「君達の所属は万魔殿じゃあない、和平派だ。 そしてその和平派が僕を殺しにではなく拉致しに来た。 つまり僕にはそれだけの何かがある。 これにアンドリューが気付かないはずが無いよ。 どうせ連れ戻されたって、僕はいずれ殺されるさ」

ロビンは相変わらず気だるそうに、そう言った。アズチェーナはきょとんとして、

「……殺されても、良いんですか?」

「僕はそろそろ死にたいんだ。 だって好きでもない男相手に股を開く人生なんだよ? もう十分に死にたい理由になるさ」

「え」アズチェーナは、心底びっくりした顔をして、「……たったそれだけで?」

ロビンの形相が歪んだ。「たったそれだけ? よくも言えたモンだね、どうせ僕の事なんかろくに知りもしない癖に!」

「いえ、その、ええと、あたし、売春婦だったんですけれど」とアズチェーナは言った。

I・Cが酒を毒霧のように吹いた。「どこの男だ、お前みたいな色気もクソもないガキにおっ起てた馬鹿は! 何の薬を使ったかは知らんが、よく起ったな!?」

「あ、あたしに聞かないで下さい!」アズチェーナは車を走らせて、「この世の中には変態がいっぱいいるんです。 ……それにしても、気持ち悪いですよねえ、好きでもない相手に股を開いて、異物を自分の中に入れなきゃならないなんて。 そりゃ、死にたくなるのも、分かります」

「……」ロビンは黙っている。

「で、でも、あたし、まだ恵まれていた方でした。 同じ売春婦の友達もいたし、最低限の読み書きは教わったし。 ちゃんと避妊もしてもらえたので、堕胎なんて酷い目には遭わなかったですから」

「……かなりマシな部類の娼婦宿だったんだな。 普通はもっと過激で、肉体精神ぶっ壊す連中が大勢出るんだぜ、あそこじゃ」

I・Cの発言にアズチェーナは頷いて、

「その、あたしのいた所、戦地だったんで、軍人が大勢お客さんとして来ました。 軍人ってほら、戦争に出されるから、凄くすさんでいて。 だから癒しとかを求めて売春婦を買うんです。 そのおかげか、あんまり酷い事はされませんでした」彼女は一度、そこでちょっと黙ってから、「自分が世界一可哀想だって思いたいの、分かります。 自分に世界一同情して欲しいって願うのも、分かります。 でも、それは所詮は自分が悲劇の主人公になりたいって言う、ただの甘えです。 自分に酔っているだけなんです」

「じゃあ」ロビンは叫んだ。「僕にどうしろと言うんだ!」

アズチェーナは考えて、「……あたし馬鹿って言われているんで、正しい事を言えるかは分からないですけれど、それを探していくのが人生、じゃないんでしょうか?」

ロビンの中で、何かが死んで、何かが芽生えた。それは今まで、彼の中に種としてはあったものの、水をちっとも与えられなかったために全く生まれようとしなかったものだった。彼は言った。

「……和平派が僕を拉致した理由は何だ。 理由次第で、僕は言う事を聞こう」

その時、通信端末が鳴った。I・Cが舌打ちしてからそれを耳に当てた。

『やあ。 ……非常にまずい事になったよ』声は、レットのものだった。『アヴィニヨンがアンドリューの手により完全に封鎖された。 これじゃ誰も増援に行けない。 おまけにI・C達は懸賞金付きで指名手配されてしまった。 警察官が総動員された上に、街の住民すらも敵になってしまった。 ――で、グッドニュースとバッドニュースがそれぞれ残り一個ずつあるんだけれど、どっちから聞きたい?』

「悪い方から頼む」

『強硬派特務員が動いた。 あのダリウスだ。 まずはI・C達、それからアンドリューを殺すために動いている』

I・Cは悪態をついた。「ああ、この前、俺がご自慢の面を破壊してやったサナダムシ野郎か。 で、良い方は何だ?」

『さっき誰も行けないって言ったけれど、シャマイムが増援に行けそうなんだ。 ステルス機能を駆使してアヴィニヨンの包囲網を突破すると言っている。 後、他に何か聞きたい事はあるかい?』

「アンドリューの確保には誰が出向いている?」

『セシルとニナとフィオナさ。 あの三人なら間もなく確保に成功する。 でも、恐らく時間的にI・C達の増援には行けないよ』

「来たって役立たずばかりだな。 ところでグゼはどうしている?」

『ちょっとフー・シャーと一緒に入院しているけれど、それが何か?』

「ざまあみろ」I・Cは何のためらいも無く、言った。

『……I・C、今度は何をしたんだい?』

「グゼの馬鹿がアズチェーナに俺の悪口を吹き込みやがったんだ! ぎゃははははは、そのグゼが入院か、ざまあみろ!」

『悪口ってか……I・Cに対しての悪口は僕は普通の評価だと思うんだけれどね。 まあ良いさ、僕は聞かなかった事にする』

通信が終わった。I・Cはご機嫌で言う、

「ロビンお坊ちゃま、俺達のボスがお前さんに証言台に立って欲しいと言っている。 そこで自分が性的暴行をされた事、全部暴露して欲しいんだ」

「ぜ、全部って!」アズチェーナの方が慌てた。「……性的暴行を受けたなんて、そんなの、誰にも言いたくないし、ましてや大勢の前で言うだなんて、ごごごごごごご拷問じゃないですか! あんまりですよ!」

「うるせえ黙ってろ!」I・Cが彼女を怒鳴りつけた。「それさえすればロビンお坊ちゃま、お前さんは全く新しい人生を始められる。 全身を整形して、全くの別人として生きられる。 もう好きでもない男の愛人だなんてやらなくても良いんだぜ」

「……」ロビンは黙っていたが、訊ねた。「僕はもう僕を駄目だと思っていた。 それでもやり直せるのかな?」

「……ロビンさん、貴方が本当にそれを望むのなら、出来る、とあたしは保証します」アズチェーナはふと、遠い目をして、「実際あたしもあの日から変わっちゃったし」

「あの日?」ロビンが聞き返すと、アズチェーナは小さな声で、

「あの日です。 報道こそされなかったけれど、ウェルズリーが地獄に変わった、『ウェルズリー事件』の起きたあの日。 あの日あたしは地獄を見ました」

「……君はあの事件の生き残りだったのか」ロビンは少し顔を引きつらせた。「アンドリューが言っていた、強硬派の軍隊が負けそうになったからって、勝手に戦線を離脱して、勿論そんな事をすれば死罪だから、やけになって、戦地の民間人を皆殺しにしたって……」

「皆殺しなんて可愛い表現で、あれは言い表せるものじゃあなかったです。 マスメディアが報道できないくらいに酷かったんです。 脱走兵を追跡して来た、それこそ人の死体なんか見慣れているだろう別の軍隊の人達が、ウェルズリーの有様を見て、全員吐きましたから」

「そうか……」ロビンは目を閉じた。

「……」I・Cはシャマイム相手に通信端末を作動させて、耳に当てた。彼はその事件についてあまり興味が無かったので、詳細を知らなかったのだ。

 『ウェルズリー事件とは、約半年前に戦地ウェルズリーで発生した強硬派特務員による民間人大量虐殺事件だ』とシャマイムの機械音声が通信端末の向こうから説明する。『戦場に送られた特務員達が劣勢になった聖教機構軍より大量脱走。 脱走は死罪に相当するため、自暴自棄になった特務員達が戦地の民間人を手当たり次第に虐殺。 死者総計一〇〇〇名以上。 だが』

「だが?」I・Cは聞き返す。

『特務員達はほぼ全員がその場で殺害された』

「……誰に?」

『アズチェーナに、だ』

「……何をどうやったらこんなガリガリの色気もクソも無いガキが戦闘においてもプロである特務員を殺せるんだ」とI・Cはアズチェーナに聞かれないように言った。びくびく震えている小ウサギのような、吸血鬼の子供が、どうやったら。

『正確な詳細は不明だ。 詳細を語れる生存者がアズチェーナと民間人数名のみであり、供述の大半がアズチェーナのものであるからだ。 ただ、戦場から脱走した特務員達は元より死罪であり、特務員が民間人を殺したのは現場の状況から明確であるため、アズチェーナは過剰防衛で不起訴となった。 以上が自分の知るウェルズリー事件のあらましだ』

「ふーん。 このアズチェーナがなあ……」

『I・C』シャマイムは念を押すように、『自分は、I・Cはアズチェーナを酷使するべきでは無いと主張する。 彼女はまだ研修中で』

「うるせえクソ兵器が」

通信をぶった切ってI・Cは酒をあおった。


 シャマイムは正真正銘の善人だ。和平派特務員は口を揃えてそう言う。

「風邪で寝込んだらおかゆを作ってきてくれた」

「夜勤の時はコーヒーを淹れてくれた」

「スーツにアイロンかけてくれた」

「本人は否定しているけれど、あれほどの善人は滅多にいないよ」

「何か、死んだお袋みたいに思えてきた……母ちゃん……」

「シャマイムが兵器じゃなかったら結婚したかった」

「何て言うかさ、誰に対しても誠実にそして親切に接してくれるよね」

「聞いた? 横断歩道で飛び出した子供を庇ってまた車にはねられたって」

「だろうなあ、シャマイムは本当に良いヤツだもんなあ……」

そして彼らは一つの結論に行きつく。

「そんなシャマイムを虐めるI・Cは取りあえず死ね」

 けれどシャマイムは全くそれを自覚していない。『その状況に最適な行動を取るだけ』、それがシャマイムの常時自覚している行動理念であった。そもそも兵器の自分が何故善人と呼ばれるのか、シャマイムには理解できない。味方を支援し、敵を打倒し、任務を遂行する。それがシャマイムの至上命令であった。その障害になるものは可能な限り事前に排除する、それだけである。シャマイムは味方の、足を引っ張るという障害を排除しているだけなのだ。

ただし、その『味方』の範囲が限りなく広いのがシャマイムであった。赤ん坊から老人まで、和平派の支配下にある、もしくは、保護命令下にあるもの全て。それでシャマイムは子供を庇って車にはね飛ばされる(ただし大破したのは車の方)と言う行動を取っただけ、なのである。シャマイムは兵器であるので感情的になると言う事が無い。だからいつも冷静でいる。冷静に状況を分析し、行動する。

シャマイムは、だが、時々変な思考回路に陥る事があった。I・Cに関係する行動を取った時に、たまにその思考回路はシャマイムの中にこつ然と出現するのである。その思考回路、否、『感情らしきもの』は、シャマイムに囁くのだ、『I・Cを殺せ』と。『復讐しろ』と。I・Cを殺す理由も復讐しなければならない事案も一切シャマイムの記憶回路には無い、と言うのにだ。

シャマイムは、この事を主であるマグダレニャンに報告した事がある。すると彼女はため息をついて、

「もしもシャマイム、貴方がそうしたくてどうしようもなくなったら、そんな時が来てしまったら、己の感情に忠実になりなさい」

と言った。

シャマイムは混乱する。そこまで強い感情を持たないのである、シャマイムは。シャマイムが意志し、忠実になろうとするのは命令に対してであり、遂行するべき任務であり、味方内での闘争ではないのだ。シャマイムは訊ねた。

「これは自分のバグではないのか、ボス」

「違いますわ。 むしろ貴方が正常な証拠。 ……I・Cが極悪人、否、人でなしであるがゆえに貴方が受けた絶望の、当然なる反撃ですわ」

「I・Cは自分に何の被害を与えた?」

「……今はまだ、それを貴方に知らせる時ではありません」マグダレニャンは言った。「でも、これだけは告げておきますわ――『あの人でなしは貴方を裏切った』と」

「……」

裏切ったと言っても、I・Cは誰にとっても嫌な男で、敵だけでなく味方の誰からも相当な恨みを買っていた。そんな恨み程度で、このような感情が発生するのか?シャマイムは疑念を抱いている。確かにI・Cの取った行動で自分に不利益が発生した事は多々ある。しかし、それでこのような、どす黒いとも言える感情に行き着くのか?シャマイムには理解できない。

 「――」

シャマイムは今、ステルス機能を最大駆使して、戦闘機の姿でアヴィニヨンへと飛んでいる。現在の所、強硬派に発見されてはいないようだ。

……アヴィニヨンの街がぐるりと包囲されていた。水も漏らさぬ警備状態にあった。これでは穴を掘るか空を飛ぶかでもしない限り、脱出は出来ない。ロビンを連れ出すI・C達はおろか、アンドリューを確保するセシル達もこれでは任務にならないだろう。

『おい』とI・Cの声が通信端末から届く。『今どこにいる?』

「現在アヴィニヨン市街上空にいる。 脱出経路を捜索中……」

『それならもう見つけてある。 お前は良いから精々ダリウスの陽動をやってくれ。 こっちの脱出をヤツに気付かれると厄介だ』

「了解した。 ステルス状態解除、戦闘体制へ移行する」

シャマイムはステルス機能を解除して、その白く優雅な機体を夕暮れの空に浮かび上がらせた。地上から声が上がる――来たぞ、シャマイムが!と。


 大地を揺るがすような轟音と、地響きがこだまする。

「ひっ!」アズチェーナがびくりと震えた。「しゃ、シャマイムさん本当に大丈夫なんですか!? こんなに砲撃されているのに!」

「実を言うとあまり大丈夫じゃない」I・Cは言った。「ヤツは妙な所でお人好しだからな、捕まって人質になりかねない」

「え、じゃあ、何でI・Cさんは囮になれって言ったんですか!?」

「……あのなあ」とI・Cはうっとうしそうにアズチェーナを見て、「研修生に囮をやらせても、俺が囮になってお前にロビンお坊ちゃまを無事この迷路から連れ出せって命令しても、最後には俺がボスから大目玉食らうからに決まっているだろうが。 俺が研修生を敵地に置き去りにした、もしくは道も知らない研修生を迷路に放り込んだと因縁つけられて。 ……どっちにしろお前さんは役立たずなんだ」

「あ、あああ」アズチェーナは泣き出して、「ごめんなざい……! ぞうでずよね、ぞうでずよね、あだじ、ごごのみぢぜんぜんじらないんでず……!」

「このアヴィニヨンにこんな道があったなんてね」とロビンが呟いた。「全く知らなかったよ」

「まあな」とI・Cは酒を飲んで、「地下に『下水道』って名前の付いた通路が昔あったんだ、ここには。 かつてこの街が亡国クリスタニア王国の支配下にあった時、整備された。 だがクリスタニア王国の崩落と同時に、『敵国のものなんか使えるか!』ってモンマルトル王国により封鎖されて放棄されたのさ」

「なるほどね」ロビンは頷いた。

彼らはその、今では廃墟となった下水道を歩いている。その道は非常に入り組んでいて、道を知らない者にとってはまるで迷路だった。真っ暗闇の中を、I・Cがライトを持って照らし、アヴィニヨンから抜けようとしていた。

その時、不意に砲撃音が止んだ。アズチェーナが顔色を変えた。

「お、音が! シャマイムさんが!」

『やあ』と間もなく彼らの通信端末から静かに狂気を混じらせた声がした。『和平派特務員のゴキブリさん達。 お仲間の命が惜しかったら、姿を見せるんだね』

「……あー」I・Cがうんざりとした顔で、「ダリウス。 今度はシャマイムをどうやって捕まえた?」

『簡単だよ、だってこのポンコツは、アヴィニヨンの住民に集団自殺をさせるかそれとも自分が捕まるか、どちらか選べと親切に伝えたら、大人しく捕まってくれたからね』

「……あの馬鹿」I・Cは無感情にそう言った。「人の命なんていくらでも代替が利くってのに」

『I・C。 I・C。 僕の美貌を壊したI・C。 許しはしないよ、絶対に。 ――貴様だけは地獄を見せてから殺してやる!』粘着質な声が恨みを伝える。

「美貌を壊した?」アズチェーナが訊ねた。「I・Cさん、一体それはどう言う――?」

I・Cはしれっとした顔で、「いやこのダリウスが、以前にもシャマイムを人質にして降伏しろとか訳の分からない事を言ったからさ、顔面に膝を三〇回くらいだったかな……いや四〇回だったか? とにかくそのご自慢の顔面に俺の膝をだな、俺の気が済むまでぶち込んでぐっちゃぐちゃにしてやったんだ」

「うわあああああ」アズチェーナは半泣きで、「それはあんまりだ、あんまりだ! そりゃI・Cさん、もしも相手が聖人だったとしても一生憎まれますよ!」

「別に良いじゃん、殺していないんだ。 俺にしては優しい対応だぜ?」

「……貴方の優しいと言うのは、残酷の一歩手前にいるんだね」ロビンが言った。

『時間をやろう。 五分だ。 五分以内に出てこい。 さもなくばこのポンコツをスクラップにしてやる』とダリウスは告げた。

「困ったなー」とI・Cは面倒臭そうな顔をした。「どうしたものか」

「あ、あたしが行きます!」アズチェーナが言った。「シャマイムさんを助けに行きます!」

「共倒れされたら一番困るんだがなー」I・Cはそこで口をへの字に曲げた。「俺がボスから地獄を見せられる……」彼は自分の心配しかしていない。

「大丈夫です!」アズチェーナは薄っぺらい胸を張った。「こんなの、あの日のウェルズリーに比べたら、何て事無いです!」

「――本当に大丈夫なのかい?」ロビンが心配そうな声で言う。そして彼は自分が他人の心配をした、と言う事実に同時に驚いた。誰かの心配をした自分は、もはや一人ではないのだ。彼はもう孤独ではなかった。彼は、変わったのだ。「……」

「えへへへ、本当です」アズチェーナはにこっと笑って言った。「今度こそ、仲間を助けます!」


 ダリウスの能力は、『寄生虫パラサイト』である。人間にバグを植え付けて、意のままに操作する。これによって敵に同士討ちをさせたり、無関係の人間を己のために忠実に戦う駒とする。

彼の顔はとても美しいが、同時に、邪悪さに満ちあふれている。それは性格の悪さが表に出てきた、格好の事例であった。美しくて邪悪。彼の顔はまるで美を司る悪魔のようだった。否、悪魔の方がまだ善人だろう。だって悪魔はまだ存在そのものが悪魔なのだ。人であるのに悪魔以上に邪悪になったダリウスほど、邪まではない。

ダリウスは無関係な民間人を大量に殺戮あるいは負傷させるのが、大好きであった。人を殺した数ではI・Cには劣るが、ダリウスはいずれはI・Cをも超えてやろうと思っていた。

ダリウスは今も寄生虫をばらまいて、完全に支配下に置いた人間達を操り、シャマイムを解体している。とは言え知識が無い傀儡が兵器を分解しようと言うのだから、遅々として進まない。それでも内蔵の通信機を取り出すのには成功したから、時間の問題だ。

「……」ダリウスは再生治療を受けて復活した美貌を、邪悪に染めて、それを眺めているが、ふと口角を上げて、「うふふふふ、素敵だ。 破壊は楽しい」と言った。

次の瞬間、

「あ、あのー」と背後から声がしたものだから、ダリウスは仰天して振り返った。

がりがりに痩せた少女がいた。

「貴様は誰だ!?」

この周囲の人間は、全て寄生虫により支配させたはずだ。とするとこの少女は人間ではなく、魔族と言う事になる。魔族の、それも、恐らくは強力な力を持った――!

「えーと、名乗るほどの者では無いです。 ってか」少女の口元から鋭い牙が生えた。「親切で有名なシャマイムさんを虐めるようなヤツは問答無用で殺しちゃっても良いですよね?」

地面を突き破って、少女の周囲から燃え広がる業火のように草木が生え始めた。それは瞬く間に寄生虫に操られている人間を絡めとり、拘束する。

「!」ダリウスは咄嗟に後ろへと飛んだ。「シャマイムを知っているとは、貴様は! そうか、和平派特務員か!」

だが、ダリウスを仕留めるための罠は既に張られていた。後へと飛んだダリウスの背中に何かが当たる。

はっと背後を見たダリウスは、そこに巨大な食虫草が生えているのを見た。それは粘液を滴らせていた――今にもあふれ出しそうな、消化液を。

「しまっ――」

『しまった』と、最後までダリウスは言えなかった。

代わりに絶叫と、じゅうじゅうと肉が溶けて焼ける音が辺りに響いた。

 「シャマイムさん!」とアズチェーナは壊されかけた白い機体に駆け寄る。「シャマイムさん、大丈夫ですか!?」

「……自動修復を開始。 現状で可変可能な形態へと移行――」白い戦闘機は、白い人型に戻った。「謝罪する、アズチェーナ。 ダリウスがアヴィニヨンの住民を人質に行動した事は予測できていた事例だ。 予測済みでありながら回避できなかった自分に一切の非がある」

「つまり、分かってはいたけれどアヴィニヨンの人達を見捨てられなかったって事ですか?」

「簡略すればそうだ」

「……!」アズチェーナはとても感激した顔をして、「シャマイムさんが優しいって噂は本当なんですね!」

「自分は兵器だ。 兵器に『優しい』は存在しない」

「良いんですよ良いんですよ!」アズチェーナは目に涙をためて、「本当に良い人なんですね、本当に優しい人なんですね! ……あだじじんじんげんじゅうはじゃまいむざんがよがっだー!」

『おい何をぐずぐずしてやがる!』I・Cの怒声が通信機から放たれる。『助けるのに成功したんなら、シャマイムを連れて、とっとと脱出しろ!』

「了解したI・C」

頷いて、シャマイムはアズチェーナに言った。

「アズチェーナ、ボスの元へ急ごう。 ――!?」

だが、シャマイムはぎくりと震えて、ばっと空を見た。時は六時を過ぎていた。

「レーダーで探知! アヴィニヨン上空へミサイルが接近している! 恐らくは局地制圧用核ミサイルだ!」


 「核ミサイルだとう!?」I・Cはシャマイム達と合流して、流石に形相を歪めている。「もうどうしようも無くなった強硬派の連中、アヴィニヨンをアンドリューごと消し飛ばすつもりか」

「その可能性が極めて高い、と推察する」シャマイムが言った。「アヴィニヨンへアンドリュー確保のため突入したセシル達が危険だ」

「ボスに言ったか?」

「報告した。 緊急会議を現在行っている」

『それが終わりましたわ』と通信機がちょうど鳴った。マグダレニャンの声が、彼らに命令を告げる。『強硬派……いえ、その首長のシーザーと言う男には、もはや何を言葉で言っても通じないのですわ。 強硬派はアンドリューの悪事を暴かれるくらいならばアヴィニヨンを廃墟にします。 ――I・C、命令しますわ、核ミサイルを迎撃しなさい。 そのための手段は一切不問としましょう。 アズチェーナとシャマイムは、ロビンを連れてセシル達と合流し次第、撤退を』

「へー」I・Cの顔が喜悦に染まった。「核ミサイルをぶっ飛ばすためには何をやっても良いか、か。 そいつは素敵だな! 了解したぜボス、全てはお望み通りに!」

『では、失礼しますわね』と彼女は通信を切った。

「え、え、え、え、え、え、え、え」アズチェーナは目を白黒させている。「どうするんですか!? 相手は核ミサイルなんですよ!?」

「安心しろ、俺は核ミサイルなんかじゃ死ねない!」

I・Cの背中から六対の黒い翼が生えた。あ然とするアズチェーナとロビンに、I・Cはげらげらと笑って、

「ぎゃははははははは、これだ、これが俺には楽しいんだ!」

宙に浮かんだI・Cの体が、あっと言う間に夕暮れの中に消えていった。


 セシル達がす巻きにしたアンドリューを連れて急いでやってきた時、シャマイムが彼らに挨拶代わりに言った。

「ミサイルの反応が遠距離からのものになった。 恐らくはI・Cが迎撃に成功したと推測される」

「やった!」とアズチェーナは無邪気に喜んだ。「これでみんな助かった!」

「そうよ、助かったわ!」と和平派特務員のニナが胸をなで下ろしたが、彼女と双子のフィオナが暗い声で、

「……でも、あのI・Cの事だもの。 まだアヴィニヨンが廃墟になった方がマシって事をやったのかも……あるいはモンマルトル王国と聖教機構が決裂しかねないような事をしでかしたのかも……」

セシルがため息をついて、

「言うな。 どうせアイツの事だ、それ以上の事をやっているさ」

「ぎゃははははは」と、暗くなって星がちらほら見える天上から笑い声が降ってきた。「強硬派のビルに核ミサイルぶち込んでやったぜ!」

I・Cが、ゆっくりと舞い降りてきた。


 アンドリューは壮絶な異端審問裁判にかけられて、極刑が言い渡された。ただでさえ拠点ビルに己が撃った核弾頭を逆に撃ち込まれたので、混乱を抑えきれなかった強硬派は、強く反撃できなかったのもあって、アンドリューは無残な死に様を見せる。……ロビンは、全くの別人となって新しい人生を歩き始める事になった。彼は手術を受ける前にアズチェーナに言った。

「ありがとう」

 かくして、和平派の今回の任務は至上達成された。

しかしマグダレニャンの顔は、怒り狂っている証に、完全なる無表情であった。それは、モンマルトル王国から激怒の抗議があったためだけでは無い。

「……街に核を落としたのですか」

「ああ」とI・Cは平然としている。「手段は不問だと言ったのは、お嬢様だぜ?」

マグダレニャンの執務室は、二人きりであった。誰にも止められない張りつめた空気が今にも雷を落としそうであった。逃げ出したいのにそれが出来ない哀れな猫が部屋の隅で怯えて縮まって丸くなっている。

「……お前は、いつでも無駄に殺しますわね」

「だって楽しいんだお嬢様。 どうせ人間なんかいくらでもいるんだから、別に良いだろー」妙になれなれしい言葉をI・Cは使う。

「流石は裏切り者の堕天使。 ……いえ、魔王。 貴様がそう考える限り、貴様が本当に求めるものは永遠に得られないでしょう」

「……」I・Cが今度は無表情になった。「おいお嬢様。 俺はそこまで暗愚なのか?」

「あら、自覚すら無かったのかしら」

「そう言う認識は無かったが……俺の思考が俺を邪魔するのか」

「少なくとも私はお前の一番求めているものを知っていますし持っていますわよ?」

「じゃあ教えてくれ、『愛』とは何だ?」

「全てです。 ……お前がそれを認識できる好機は一度だけありましたわ。 だが暗愚な貴様は『彼女』を裏切り、たった一つの好機を自らの手でつぶした。 自業自得、実に『』ですわ」

マグダレニャンはそう言って、美しい白磁のティーカップから、優雅に紅茶を飲んだ。

「……レットめ、チクりやがって」I・Cは忌々しそうに呟いた。


 神などいない。この世界に神などいない。シラノは心底それを理解した。思い知らされた。もしも神がいるのならば、どうしてこんな残酷な世界になったのだ。

妙だな、とは思ったのだ。ソニア達が一度も見舞いに来なかったのを、妙だな、と思った。彼の周りの医療関係者も全て心を閉ざしているのを妙だなと思っていた。だが、オットーの『彼女に今の貴方の姿を見せたら自殺しかねないのです』『今の貴方の姿は本当に無残そのものなのです』と言う言い分で無理やり自分を納得させた。だって恐ろしいじゃないか、もしもそれがこの現実だったら、と思うと。だから彼は薄々気付いていたのかも知れない。気付いてはいたが必死に自覚するまいと努めていたのかも知れない。

――案の定、それは現実であった。

退院した日の夜の事だった。自室でシラノはロクサーヌを久しぶりに手に取った。かつてはまぶしい銀色の銃身だったのに、手入れをしなかった所為ですっかり鈍い色になっていた。

「よし」と彼は愛おしげにそれを磨き、手入れをする。「しばらく放置していてすまないな、ロクサーヌ。 だが明日から早速――」

トントン、とノックの音がした。

「シラノさん、俺です、オットーです」

「どうした、オットー君? とにかく、入りなさい」

入ってきたオットーの顔は、まるで死刑判決が下された者のような有様であった。オットーが心の壁を取る。隠していた真実を、暴露するために。

シラノの手からロクサーヌが滑り落ちた。……現実、だったのか!シラノは絶句して、

「         」

声にもならない叫びが口から出た。

『――テロリストは全員その場にて処刑』

「――あぁああああああああああああああああ!」

『貴方を聖教機構より取り戻そうとした子供は、ソニアは、全員、殺されました』

「どうして! どうしてだ!? ソニア達に一体何の罪があったのだ!? 親も兄弟も殺されて、やっと幸せになれたと笑っていたあの子達が、何故!?」

シラノが心底期待して、心底楽しみにして、心底希望をそそいでいた彼の未来が、今、最も酷いやり方で潰された。絶望の焦土からようやく生えた一つの新芽が、踏みにじられた。彼の貫いた意地は全て無駄だったのだ。彼の愛が殺された。

「……俺がアルビオンの反意に気付いていれば、あるいは、ソニア達の自殺行為に事前に気付いていれば、こんな事には……ですが、こんな思考は全て『今更』です」オットーはもう泣きたいのか笑いたいのか分からない顔だった。

「そうだ、アルビオンがあんな真似さえしなければ……」

シラノはそう言いつつ、ロクサーヌを拾った。

オットーが表情を変えた。シラノの目にぞっとする光が宿ったのを感じたのだ。

「シラノさん!? まさか――!」

「『彼女達』に伝えてくれ」シラノはそれに銃弾を込めつつ言った。「私はもう、もう、かつてのシラノ・ド・ベルジュラックではないと」

「いけませんシラノさん! それだけは駄目です!」オットーがドアの前に立ちはだかった。「過激派に身を投じるなんて、貴方が! それだけは駄目です!」

「オットー君」シラノは穏やかに狂ってしまった笑みを浮かべて言った。「私はね、耐えられた。 実際どんな拷問にだって耐えたよ。 あの子達が私の帰りを待っているかと思うと、どんな苦痛にだろうとどんな絶望にだろうと耐えられたんだ。 でもね、もうあの子達はいない。 どこにもいないんだ。 ……この世界に神はいない。 もし、いたとしたら殺してやる。 私からあの子達を奪った神など殺してやる。 そうしなければ、私はもはや生きていく事が出来ないよ」

「シラノさん……!」オットーは大剣を抜いた。「力ずくででも止めます! 貴方は、貴方みたいな優しい人は過激派に行くべきじゃない!」

シラノは目を細めた。「……大きくなったねえオットー坊や。 きっとカールも君みたいな息子を持てて、さぞや誇らしいだろう。 もしもアイツが生きていたら、きっと君と全く同じ行動を取るに違いない」その目が見開かれた。「そして私はカールであろうと君であろうと、倒す!」

きらりとロクサーヌがきらめいた。オットーはシラノが肉迫してきたため、剣を振るった。だが当たらない。かすりもしない。オットーの顔に焦りが浮かんだ。その腹部に、こつん、とロクサーヌの銃口が当てられた。

「さようならだオットー君。 私はアルビオンを根絶やしに行くよ」

銃声。オットーがくずおれた。致命傷では無い。だが、戦うために動けなくなるには十分なダメージであった。

「シラノ、さん……!」オットーは手を伸ばした。必死に伸ばした。かつて彼が幼い子供だった時に遊んでくれとせがんだ、その時にはちゃんと届いた手を。

「シラノさん! 分かっているはずだ、貴方なら、大事な人が失われる痛みを! 止めて下さい、お願いだ!」

だが、今では届かなかった。

「……分かっている。 よく分かっている。 それでも私は止まれないんだ」

シラノの後ろ姿が、ドアの向こうの闇の中に消えて行った。


 「ド畜生が!」セシルは攻撃しつつ、怒鳴る。「同士討ちなんざ、ゴメンだってのに!」

「済まない、許してくれとは言わない!」フー・シャーが巨大な音叉を振るいながら、叫んだ。「僕の妻が人質に取られたんだ!」

そこから発生した超音波が、命中した先の街路樹を灰に変える。

「何でボスに言わなかった!」セシルが鋭い触手でフー・シャーを行動不能にしようと突き刺した。それを間一髪でかわして、

「言ったら殺すと……!」フー・シャーは泣いていた。「頼む、僕を殺してくれ!」

 セシル達は列強諸国の一つ、アルバイシン王国のデバン地方に来ていた。ここはアルバイシン王国から独立しようとしている不穏な紛争地域であり、『デバン解放軍』がテロリストとして暗躍している場所でもあった。そのテロリストが万魔殿と組んだと言う情報が流れたため、セシル達はマグダレニャンから調査するように言われたのだ。

だが、それがこれである。着いて早々、フー・シャーが彼らと敵対行動を取り始めたのだ。セシルはやむを得ず交戦を開始した。まずボスに報告するためにグゼを逃げさせ、そしてセシルが相手になった。

セシルとフー・シャー、両者の戦いは互角であった。お互い魔族であり、いくつもの修羅場を越えてきた強者であり、おまけに訳有って戦ってはいるものの、同僚同士、本気で戦う訳には行かなかったのだ。

「俺は嫌だぞ、こんなのは嫌だ! まだI・Cを殺せってのならともかく、フー・シャー、お前を殺せってのは!」

セシルは大声で怒鳴り散らし、大型重機並みの力と肉食獣の素早さを持った巨体で、フー・シャーに道端の車を投げつけた。それを超音波で破壊して、フー・シャーは叫ぶ。

「頼む、殺してくれ! そうすればウルリカは助かる!」

「馬鹿、テロリストがどう言う存在かくらい知っているだろうが! お前が死ねばお前の奥さんはなぶりものにされた挙句に殺されるんだぞ!?」

「う、うう……!」

セシルが、一瞬だけ動きが止まったフー・シャーとの間合いを一気に詰めた。そして振りかざした触手の一本で、フー・シャーを殴り飛ばす。

「ぐうッ!」フー・シャーは吹っ飛んで壁面に着地したが、その右腕はだらりと不自然に曲がっていた。「手加減するな! しないでくれ!」

「バカヤロウ、やむを得ない事情で対立する仲間をぶっ殺すなんて、俺に出来る訳が無いだろう!」

セシルが超音波をかわしつつ、フー・シャーに迫る。だが一気に後ろへと飛んだ。セシルのいた空間を通過した超音波の、何度目かの直撃を受けたビルが、ついに倒壊する。

『おい』とセシルはこっそりと通信端末でフー・シャーに言う。『この戦いを見学しているテロリストの位置特定は出来たか?』

『超音波でもう探知できた。 既にグゼに伝えた』フー・シャーも左手で音叉を構えつつ、無音通信で言う。『グゼ、どうだい?』

『今、拷問が終わって始末した所だ。 万魔殿強硬派とは兵器の供給関係で繋がっているそうだ。 しぶとくないテロリストだったから、あっさりとアジトの場所を吐いてくれた。 アジトの制圧まで、約一五分はかかる。 それまで派手に暴れていてくれ』

『了解だ。 行くぜ!』

『ああ!』

そしてセシルとフー・シャーはを続けるのだった。


 「――三、二、一、〇」

グゼは小声で数える。次の瞬間、彼の視線の先、テロリストのアジトで爆発が起こった。大騒ぎになった。テロリスト達が血相を変えて出てくる。そこにグゼは手榴弾をいくつか投げた。爆死したテロリスト達の死体を越えて、彼はアジトの中に入る。

「いやあ今度の仕事は楽で良い」グゼは聞かれないように呟く。「フー・シャーの奥さんを人質にするような外道なんか、ためらいも無く殺せると言うものだ」

彼は変装していた。彼が拷問して始末したテロリストの顔と姿に姿を偽っていた。

「何が起きた!?」

とテロリスト達が騒いでいる所に、グゼは負傷し息切れして弱りきった姿をして、

「大変だぁ、聖教機構の連中が増援を呼びやがった! フー・シャーはもう役立たずだ、今の内にヤツの女を殺しておいて、逃げないと……!」

「何だと!?」とテロリストのこのアジトのリーダーらしき男が顔色を変えた。「チッ、これから楽しもうと思っていたが、そうも行かなくなったか!」

彼らは地下室から縄で縛られた美女を引きずるようにして連れてきた。

リーダーが機関銃を彼女に向けた。彼女の顔に、恐怖が浮かぶ。

「――すう」とグゼは深く呼吸した。「はあ――」

そして彼は呼吸を止めて、両手にナイフを握って、両隣にいたテロリスト達の喉笛を切り裂いた。

「「!?」」

血が飛び散るよりも早く、グゼは動いた。瞬く間に六人の喉笛を切り裂いて絶命させている。そこでようやく事態を悟ったリーダー達が彼に向けて機関銃の引き金を引いた。だが、当たらない。一発も当たらない。そして投げられたナイフがリーダーの頚部に突き刺さって、ぐしゃりとリーダーの体はくずおれた。後は逃げ惑い、あるいは抵抗するテロリスト達を一方的にグゼが始末した。

全て片付けた彼は、美女を縛る縄をナイフで切ると、変装をはぎ取って言った。

「走れますか」

「あ、貴方は!」彼女は結婚式に来てくれた夫の同僚の中にこの男がいた事を思い出す。彼女の女友達が既婚独身を問わず、この男に対する目の色を変えていて、式後にどうか彼の連絡先を教えてくれと彼女に血相を変えて迫ってきたからだ。彼女は今の事態を悟り、すぐに頷いた。「ええ、走れます!」

「こっちです」とグゼが言った時だった。リーダーの指が、ぴくりと動いた。

グゼはその気配を悟るや否や、美女を突き飛ばした。

銃声が一発。グゼは倒れた。

「あ、あああ!」美女は真っ青になって後ずさった。リーダーの男が立ち上がって、グゼを蹴り飛ばした。ごろんと転がったグゼは目を開いたまま、反応しない。

「……ったくテロリストの魔族を舐めるなよ?」とリーダーが言った。「惜しいな、人間だったら即死していたぜ」

そして彼は銃口を彼女に向けた。

「じゃあな奥さん、死んでくれ」

その後ろで、ゆらりと誰かが立ち上がった。

「……元暗殺者を舐めるなよ?」

今度こそ、背中からナイフがリーダーの心臓を貫いた。

「……」

グゼが、立っていた。撃たれたのに、立ったのだ。だが無理をしたために膝をつく。

「う、ぐ……」

「あ、貴方! しっかりして!」彼女は彼を支えようとして、己の手にべったりと付いた血に顔色を変えた。「ッ! 応急処置をしなければ――!」

グゼは負傷はしたが、急所には当たらなかったのだ。それでも銃に撃たれたためにグゼは力尽きて地面に倒れ、最後の力でセシル達にアジトの場所を告げて、意識を手放した。


 「ありがとう」フー・シャーは右腕にギプスを巻いていた。彼はひたすら感謝する。「本当にありがとう」

「いや、良いんだ、気にするな」とグゼは病院のベッドの上で言う。彼の負傷は、決して軽いものだとは言えなかったが、今後の彼の活動に妨げになるようなものでもなかった。「お前の奥さんは看護師だったな。 おかげ様で俺の応急処置は完璧だったそうじゃないか。 良い奥さんを貰ったな」

「貰ったと言うか僕が土下座して結婚を頼んだんだ」フー・シャーは遠い目をして、「バイオリニストだった僕が過激派のテロで両腕を奪われて、再生治療を受けたけれどもう元通りには演奏できなくなってしまった、と言うのはご存知の通りだ。 ウルリカはそんな僕を助けてくれた。 彼女には本当、頭が上がらないよ」

「……羨ましいな」とグゼがしみじみとした顔で言う。「俺は女運が最悪なんだ。 『女』と俺が意識した対象から、ことごとく俺は不利益をこうむっている。 俺は占いなんか信じないが、一度占い師に言われたよ、『貴方には女難の相があります』と。 実際そうだと思う。 実を言うと、俺は女のいない世界に行きたい」

「え」フー・シャーはぽかんとした。グゼと言うのは誰もが認める美男子であり、女だったら一目で恋に落ちそうなくらいだったし、女の方から何でもするから付き合ってくれと懇願されそうなものなのに……。「……い、意外だね」

「俺は俺に厄介事ばかり招く女よりも、弟妹のような存在が好きだ。 『お兄ちゃん』と呼ばれると俺は生きていて良かったなと思う」

フー・シャーは納得した顔で、

「……あー、だからグゼはアズチェーナに色々とアドバイスをしていたのか」

グゼは首を横に振って、「いや、それもあったがI・Cと初仕事で組まされるのかと思うと心底気の毒で……」

「それもそうだね……」フー・シャーは頭を縦に振って、「I・Cって本当に人間の屑だから、悪影響を受けなければ良いんだけれど……」

「屑に失礼だ。 ヤツは産業廃棄物と言うべきだ」

「産業廃棄物に謝るべきだよそれは。 ヤツはがん細胞だ」

「がん細胞なら治療で多少はどうにかなるだろう」

「うーん」フー・シャーは考え込んだ。「I・Cほどどうしようもない最低なヤツを形容する言葉が生憎僕の語いには存在しないんだよね……」

グゼは迷わずに、「俺にも無い」

その時である。病室に設置されたモニターに緊急速報が流れた。

『アルビオン王国首都ロンディニウムにて、万魔殿過激派によるものと思われる連続爆破テロ発生!』

悲惨な有様のロンディニウムの市街の光景が報道される。割れたガラス、吹っ飛んだ建物、車が引っくり返っていて、逃げ惑う人々。それを映すカメラですら揺れている。

「また過激派か!」フー・シャーは顔をしかめた。「全くヤツらは人の命を何だと思っているんだ!」

「自爆テロが大好きな過激派、爆弾の雨を降らせる強硬派……どちらにとっても人の命は数でしか無いんだろうな」グゼがぽつりと言った。


 おかしい。異常事態だ。

アルビオン王国の首相や閣僚、並びに上層部はそう思った。アルビオン全土にて、過激派によるものと思われる自爆・爆破テロが、今日だけで三〇件もあったのだ。いくらなんでもこの数はおかしすぎる。まるで過激派に狙われたかのようだ。そして、ここまで執拗に狙われる心当たりが、彼らには一つだけあった。

――シラノ・ド・ベルジュラック。

 アルビオンの上層部は、大騒ぎになっていた。首相及び閣僚達は連日連夜緊急会議を開き、この事態を打開するべく血眼になっていた。

「聖教機構め! ヤツらがシラノを脱走させるなど、想定外にも程がある!」

「いつも威張り散らしている癖に、肝心な所で何と言う大失態だ!」

「そもそも北エリンは我々アルビオンのものだ! 万魔殿め、本当に余計な真似を! こうなったら武力衝突してでも、北エリンを奪還するべきだ!」

「落ち着け!」

「これが落ち着いてなどいられるか!」

「――速報です、また爆破テロが起きました! 場所はソーホーです、死者負傷者多数、正確な数は未だ不明!」

「またか……! 何と言う事態だ……!」

「まだシラノが穏健派にいれば良かったのに、よりにもよって過激派に転身するとは!」

「……シラノを解放しろと言うテロリスト達がアルバイシンで殲滅されたそうだが……それが恐らくシラノが過激派に転身した理由なのだろうな。 何でも、そのテロリストは子供達だったそうじゃないか」

「…………」

「……」

「……事の発端は、我々アルビオンの国際法逸脱行為にあると認めよう。 だが自国民をこのような危険な目に遭わせ被害をこれ以上増やすのは看過できない。 そして我々には今、直接過激派と武力衝突できるまでの余裕が無い。 かくなる上は、聖教機構にへりくだって、助力を仰がねば……なるまい。 もはや面子を気にしていられる状態ではないのだ。 強硬派だと余計にこじれるだろう、和平派にしよう……」


 アルビオン王国からの懇願により、和平派幹部の一人ヨハンが、アルビオン王国が首都ロンディニウムに出向いた。自爆テロを警戒して、空中戦艦ウェスパシアヌスに乗ってやってきた。

「自爆、て、テロ……」空中戦艦の中で、ヨハンはぶるぶると震えながら言った。彼は貧弱そのものの青年であった。二十歳は越えているのだが、いつも何かに怯えている上に己に自信が無いのが丸見えで、その所為で実年齢よりももっと幼く見られた。「ど、どうしたら、止められるのかな?」

彼が問いかけたモニターの向こうのマグダレニャンは、答えて、

『現在アルビオンで起きている連続自爆テロは、シラノの実働によるアルビオンへの復讐である可能性がとても高いので、特務員を派遣してシラノを処分すれば止まるでしょう。 大丈夫ですよ、ヨハン』と彼女はいつになく優しい声で言った。『貴方はアルビオンで、聖教機構の特務員が自由に行動する、正式な許可を認めさせれば良いのです。 アルビオンは間違いなく是と言うでしょうから、何も心配は要りませんわ』

「う、うん……」とヨハンは何度も頷いた。「あ、ありがとうね、マグダ」

『いえいえ。 ……それでは、失礼しますわね』

モニターが黒くなった。ヨハンは何度も深呼吸をした。

「だ、大丈夫だ」彼はそう自分に言い聞かせる。「大丈夫、大丈夫。 マグダに、迷惑をかけたりなんか、しない」

「マスター」と機械的な声がして、一人のメイド・ロボットが近付いてきた。「間もなくロンディニウムに到着します。 ご準備はよろしいでしょうか?」

「う、うん! だ、大丈夫だよ、ブリュンヒルデ」彼はしっかりと頷いた。「は、早く、アルビオンの人達を助けなきゃ! ぼ、僕、が、頑張るよ!」

「応援いたします、マスター」とブリュンヒルデは言った。

「う、うん! マグダがね、大丈夫って言ったから、ぼ、僕はそれを信じる」

とヨハンは笑った。

 ――「彼で本当に大丈夫なのかね?」和平派幹部の一人、ジャクセンはマグダレニャンに訊ねた。「ヨハン殿にアルビオンとの外交など……厳しくは無いかと思うのだが」

「今のアルビオンにはもはや我々にすがる他はありません。 向こうに我々の存在がいかに重大かつ重要なものであるか、思い知らせるには丁度良い機会ですわ。 これは『外交』ではありません。 『救済』のための下準備です」

マグダレニャンは淡々と言う。しかしジャクセンは顔をしかめて、

「……婚約者を庇いたいのは分かりますが、マグダレニャン殿……彼ははっきり言って我々『一三幹部』に相応しくない。 彼は家柄だけで生きてきたも同然です。 彼には何も出来ない。 彼は無力だ。 おまけに臆病者で、覇気が無く……特技と言えば機械工学、電子工学などの、むしろ研究者向けのもので……政治家としても軍人としても本当に無能だ。 違いますかな?」

「……無能は無能で構わないですわ」とマグダレニャンは、ふと目を細めた。懐かしい何かを思い出すかのように。「それよりも私達にとっては、彼が卑怯者ではないと言う事の方が大事ではありませんこと?」


 「いやはや、この度はご足労ありがとうございます」と外相ヘンリーがロンディニウム空港でヨハンをうやうやしく出迎える。周りには大勢の護衛がいて、非常警戒態勢が敷かれていた。「どうぞこちらへ」

「は、はい」とヨハンはそれに従って、ウェスパシアヌスから降りて、ヘリコプターに乗った。車だと道中、自爆テロに巻き込まれる危険性があるのだ。ヘリは護衛機を従えて、すぐさま飛び立つ。

「おや?」とヘンリーが不思議そうな顔をした。彼らの乗るヘリのすぐ背後に、メイド・ロボットのブリュンヒルデが滞空していたのである。「あれは何ですかな?」

「ぼ、僕の友達、です。 僕が心配だからって、つ、付いてきてくれたんです」

ヘンリーはすぐに納得して、「ああ、そう言えばヨハン様は機械電子工学の碩学でいらっしゃった。 確かアンドロイドや人工知能AIの研究でご有名でしたな。 なるほど、彼女もその一体ですか」

「え、ええ」と少し嬉しそうな顔をしてヨハンが言った時、彼らの乗った、そのヘリが地上から砲撃されて、爆発した。

「マスター!」ブリュンヒルデが叫んで、その爆発の中に飛び込んだ。


 「――」マグダレニャンは、もはや悪魔も裸足で逃げ出すような、般若の顔をしていた。「……ヨハンが全治三ヶ月、なるほど、良く分かりましたわ」

『アルビオン外相は、即死でした。 マスターが生きていたのは、奇跡のようなものです』ブリュンヒルデの声は、モニター越しであり、そもそも機械音声なのに、今にも彼女が泣き出しそうな気配を感じさせるものだった。マグダレニャンの顔が穏やかなものに戻って、

「いいえ、奇跡ではありませんわ。 貴方がヨハンを助けようと決死の思いで飛び込んだからこそ、彼は今も生きていられるのです」

少し黙った後、ブリュンヒルデは口にした。

『……私達「ヴァルキュリーズ」には心がありません。 機械ですから。 ですが、マスターがいなくなったら、と思うと、私達は恐ろしいと言われる感情に近い「何か」に襲われるのです』

「それで良いのですよ」マグダレニャンは穏やかに言う。「ヨハンは貴方に、貴方達に心を与えたのです。 貴方達が機械人形から人へとなる事は、ヨハンが望んだ事。 きっと目覚めたヨハンがそれを聞けば、喜ぶでしょう」

そう言い終えたマグダレニャンの顔が、一気に険しくなった。

「シラノ・ド・ベルジュラック。 ――この報いは必ず受けさせますわ!」


 「うっひょー、お嬢様、シラノの馬鹿はお嬢様を激怒させたな。 ……もうヤツには死ぬしか道が無い。 ヤツも哀れだ、そもそもアルビオンが卑怯な手段を取らなかったら、ヤツだってここまで堕落はしなかったってのに。 アルビオンは自業自得だが、お嬢様のコレ」とにやにやしてI・Cは小指を立てた。「こっちは本当にとんだとばっちりだな、おい。 まさか過激派がロンディニウムの市中を飛ぶヘリを撃墜させるなんて、想定外の想定外だったからなあ」

マグダレニャンは言う。冷たい鋼のような声で。

「アルビオンへ聖教機構が武力介入する良いきっかけになりましたわ」

「もはや連中にそれを否と言う力は残っていないな。 何せ外相がぶっ殺されちまったからなあ。 ……こりゃ下手すればアルビオンを舞台とした、過激派と和平派の全面衝突って事態になりかねないぜ。 で、どうするんだお嬢様?」

「シラノを始末なさい。 シラノさえ始末すれば、この事態は解決します」

「お嬢様」とI・Cは小ばかにした声で言った。「ただ今の事態の解決じゃあなくて、根本的解決を俺が実行してやろうか?」

「……」マグダレニャンは呆れた顔をした。「根本的解決――『万魔殿の絶滅』――貴様になら確かに可能です。 ですがI・C、正義を同じように抱えている者をいくら貴様に食わせた所で、本当の解決には至らないのですわよ?」

「キレイ事がお好きなんだな、お嬢様は」I・Cは嘲笑った。だが彼女はきっぱりと、

「幸い私はお前ほど弱くないので、綺麗事を言える立場にあるのですよ。 それに私は、自分が死ぬべきだと思った時には死ねますから」

「……俺だって」I・Cの顔が苦悶に歪んだ。「死ねるものなら死にたいさ、死ねるものならな」

「あーら残念ですわね」彼女は全く同情していない声で、「貴様は七つの大罪を全て犯し、おまけに命惜しさと好奇心で最もしてはならない事をした。 死ねないのはそれの報いですわ。 本当に良い気味としか言えませんわね」

「……いずれ、アイツは俺を憎むだろうな」とI・Cは低い声で呟いた。「アイツを俺が殺したから」


 ……またシャマイムが泥酔しているI・Cを抱えて、和平派拠点ビルに戻ってきた。エントランスホールを守る警備員がその姿を見て、シャマイムへの同情心のあまりにため息をついた。

そこにニナとフィオナが乗ったエレベーターが下りてきて、開いた。

丁度目に入ったシャマイムの姿に、この双子は思わず涙を浮かべた。

「……シャマイム……。 ソイツはね、下水道にぶち込んでドブネズミと共生させるべきだと思うの」フィオナが言った。彼女は重い雰囲気を持っている女性だった。物静かと言えば聞こえは良いのだろうが、静か過ぎるような……。

「I・Cが和平派特務員である限り下水道で生活させる事は不適当だと推測する」とシャマイムは言った。フィオナが目元を押さえて、

「……要約すると『仲間だから面倒見るよ』か……シャマイム、シャマイムはお人好し過ぎると思うの。 こんなクズ相手に、振り回されて……」

「うわッ、酒臭い!」ニナがシャマイムを手伝おうとして、飛びのいた。彼女は妹とは対照的な、活発でしゃきしゃきとした女性である。「火を点けたら絶対良く燃えるわよ、コイツ! ってか燃やそう! みんなで燃やそう! きっと世界一楽しい焚刑になるわよ、だってI・Cの事みんな嫌いだから」

「ボスが処分判断を下さない限りI・Cを焚刑には出来ない。 そもそも焚刑はかつての異端者弾圧でよく用いられた処刑方法であり、現在の倫理観念とは相容れない」

シャマイムの言葉に、ニナは絶句してから、はらはらと涙をこぼし、

「『いくら何でもI・Cにガソリンぶっ掛けて焼き殺すのは可哀そうだ』なんて、そんな言葉が出てくるのはシャマイムだけよ……本当に優しいのね……」

「自分は兵器だ。 兵器に『優しい』は存在しない」

「照れなくて良いよ、シャマイム!」ニナは感動した様子で言い、それからI・Cを睨みつけて、「ったくI・Cの動く生ゴミバイオテロ野郎なんかシャマイムの爪のアカでも……!」

その時I・Cは目を覚まして、ニナの台詞を聞いてしまった。

「ぶっ殺すぞこのクソアマ!」瞬間沸騰するI・C。

「やれるものならやってみなさい!」ニナはきっぱりと宣言した。「I・C、アンタなんかの味方は誰一人いないって事を思い知らせてやるから!」

「味方がいようがいまいが関係ねえ! 全員虐殺してやる!」

ヒートアップする二人に、ぼそりとフィオナが言った。

「……姉さんに何かしたらボスに言うからね」

「――」心底憎々しげにI・Cは言った。「貴様ら、俺をどうしても屈服させたいようだな」

「違うよ、シャマイムに向かってアンタを土下座させたいだけ! それで今までの悪逆非道な行いを世界中の人に謝りなさい! この強姦魔の殺人鬼の人格障害者! と言うかアンタなんか強姦魔の殺人鬼の人格障害者以下!」ニナがまくしたてた。「いつだったっけ、小さい子供がはしゃいで道を走っていたら転んじゃって、わあわあ泣いている所を、『うるせえ』って蹴っ飛ばしたの! 私まだ覚えているよ! 他にも何だっけ、強姦未遂で警察に捕まったよね? それも可愛い男の子相手に襲い掛かったって! あの時は本当にぞっとしなかったよ!? 当然ボスを激怒させたのに、何らアンタは反省せずにその二日後に今度は幼女を誘拐しようと……!」

「ひい」と言う声が聞こえてI・Cがそちらを向けば、完全に震え上がったアズチェーナが腰を抜かしていた。I・Cと視線が合った途端に、彼女は必死に這ってでも逃げようとする。「変態だ、へへへへへへ変態がいる、誰か、誰か――! 警察を! お巡りさんを!」

「アズチェーナ」とシャマイムはニナとI・Cの間に割って入ってから言った。「I・Cは警察では制圧不能だ。 もしも襲撃された場合は、全力で抵抗し、即座に特務員を呼ぶ事を推奨する」

アズチェーナはどうにか起き上がって、「わわわわわ分かりました! ……普通、と言うか常識をほんの少しでも持っている人なら、自分より弱い者を攻撃する事なんてしませんよね……」

「生憎コイツは普通じゃないし常識も完全に欠落しているのよ」ニナがさも不愉快そうにI・Cを横目で睨み、「誰からも嫌われて、誰からも憎まれて、その癖まるでガン細胞みたいにしぶとい。 異名も『魔王』! だから並大抵の悪事はやっていると思って良いよ。 コイツだけに関しては悪口が真実だから」

アズチェーナがわっと泣き出した。「あ、あだじ、よぐ、じんじんげんじゅうでいぎのごれだああああああ! ごろざれなぐでよがっだー!」

「……ぎゃあぎゃあうるせえんだよ!」I・Cが完全に逆上した。「テメエら全員なぶり殺してやる!」

その時、よろよろとエントランスホールに、現在入院中であるはずのグゼが入ってきた。顔色も最悪でふらふらとしていて、今にも死にそうな有様であった。

「あ……」と彼はシャマイムを見つけた途端に、ついに倒れた。シャマイムはグゼを抱き起こす。グゼは脂汗で濡れた顔をしていた。

ニナがびっくりして訊ねる、「な、何があったのグゼ!? アンタ入院しているはずじゃ……!」

「……お世辞を言ったんだ、看護師(五〇代♀)に」グゼはうめくように言った。「あくまでも女性向けの社交辞令のつもりだった、俺は。 そうしたら……」

「……本気だと受け取った看護師が、貴方に色仕掛けで迫ってきたり、断ったら貴方を殺そうとしたの?」フィオナがぼそりと言う。

大当たりだったのだろう、グゼはぐったりとして、

「……女なんか嫌いだ……男しかいない世界に行きたい……」

「ケッ」I・Cが忌々しそうに言う。「罪な野郎だぜ! 早く死ね!」

「ちょっと! グゼが『罪な野郎』なのは分かるけれど……『死ね』ってあんまりよ!」ニナが食ってかかった。「自分がモテないからって何ひがんでいるのよ!」

フィオナも後方で支援攻撃をする。「I・Cって、女医さんを手込めにしようとした事があったそうだけれどさ、言い換えればそれだけモテないんだよね。 モテ過ぎて困っているグゼとは大違い」

「ええええええええええ、じょ、女医さんを!!? 頭完全におかしくないですかこの人! くるくるぱーってヤツですよ!」アズチェーナが何ら邪気なく言ってしまった。「……でもそれもそうですよね、I・Cさんと付き合う人って、I・Cさんに金か力かそのどちらかしか求めていないとあたしも思います。 I・Cさんを心底から好きだって人、この世界がいくら広くてもどこにもいないですよ」

I・Cは額に青筋を浮かべて、鞭を手にし、

「よーし全員そこに並べ、まずはその眼球からつぶしてやる」

「現在の最優先事項はグゼを医療室に連れて行く事だ」シャマイムが自動浮遊式担架に変形した。それにグゼを乗せて、シャマイムは動き出す。「なおビル内での闘争行為は緊急時を除いて一切禁じられている。 規律違反者はボスより直々に処分命令が下る。 I・C、『忘れていた』はボスには一切通用しない事を警告しておく」

「……チッ」I・Cは憎々しげに舌打ちした。


 「うわ……」とフー・シャーは思わず顔をしかめた。「これは酷い……」

ロンディニウムの中の公園の一つ、ハイド・パーク。そこに植えられた木は折れ曲がり、地面には穴が空いていた。飛び散っているのは血か、肉片か、それとも土くれか。そこを封鎖するために、アルビオンの軍隊が出動して厳戒態勢が敷かれている。救急車や医療関係の車がせわしなく道を行き来していた。

「自業自得だろ」I・Cは何がおかしいのか、ニヤニヤとしていた。「アルビオンが最初に卑怯な真似さえしなければ、狙われなかったんだ。 たかが列強諸国の身の上で、身の程知らずの背信行為をするからだ」

「だからってこれは……」と、フー・シャーは血にまみれて地面に落ちている兎のぬいぐるみを見て、痛々しい顔をした。「とにかくボスに言われた通り、シラノを止めよう」

「……二手に分かれてシラノを叩くぞ」セシルは、何かの感情を吐露したいのを必死にこらえて、言う。「止めるんだ。 一秒一分でも早く!」

「了解した」シャマイムが言う。「自分はI・Cと行動する。 セシル、フー・シャー、相互連絡を密にし、シラノを発見した場合は即座に制圧もしくは増援に向かおう」

I・Cはやはりいやらしくニヤニヤとして、

「へいへい、じゃシャマイム、行くぞ」


 「駄目だ、絶対にそれだけは許さない!」オットーは怒鳴った。「『付いていく』だと!? アルビオンはもう特務員がうろつく敵地なんだぞ! 絶対に駄目だ!」

彼は、シラノを止めるべく動いていた。アルビオンに行くつもりであった。

「じゃあ一人で行きます!」少年ルイスは怒鳴り返した。この少年も、シラノに救われた子供の一人だった。「大体オットーさんは、シラノおじさんを一人では止められなかったじゃあないですか! でも僕なら止められるかも知れない! だって僕は『詩謳いホメロス』だから! 僕の詩なら、今のシラノおじさんにも届くかも知れないんです! 行ってきます、じゃあ!」

とルイスは彼に背を向けて勝手に行こうとした。

オットーは心底悪いと思ったが、ルイスの頭を背後から殴り、気絶させた。

「すまないな、だが行かなければ……」オットーは倒れた少年をベッドに寝かせて、呟いた。「もうあの人は傷だらけで、致命傷を負ったがために、痛みを一切感じられなくなっているのだから」


 シラノはぼうっとしている。

彼の能力により、ロンディニウム中央駅前の、路上を過ぎ行く人の心が聞こえてくる。中には情景を伴う心が見える。

『今日はケーキで、お祝いしなきゃ! プレゼントは何にしよう?』

幼い娘の顔。ラッピングされたプレゼントの小さな箱。

『おいおい最近のアルビオン、どうしてこんなにテロが起きているんだ? また上が馬鹿な事しでかして過激派をつついたのか?』

ニュースのアナウンサーの顔。アルビオンの政治家達の顔。

『仕事仕事仕事。 朝から晩まで仕事に追われた人生さ、どうせ。 まあ、でも子供の寝顔を見ると、それでも悪く無いな』

会社で上司に怒鳴られた。安らかに眠る家族の顔。

『死にたい。 みんな死ねば良い。 何でコイツら幸せそうな顔をしているの? あーあ、今ここでテロが起きてコイツら全員死ねば良いのに。 そしたらアタシ、きっと笑える』

彼氏に振られた。彼氏が振った際の文句、『お前は人の不幸を心底面白そうに喋るから』。

そうだな、とシラノは考える。確かに他人の不幸は蜜の味だ。だから、と彼は手元にある小さなスイッチを押した。全員死ねば良い。

声々が一瞬で途絶えた。そして爆風と轟音、振動が伝わってくる。悲鳴と絶叫と泣き叫ぶ声が入り乱れて聞こえた。でも、それらを聞いても今のシラノは本当に何とも思わなかった。以前ならば過激派め、と憎々しく思ったのに、本当に何とも思わなかった。完全にどうでも良かった。彼はその場から立ち去ろうとした。

『……………………ぷっ』

笑いをこらえきれずに吹き出す声が聞こえた。この場にはもっとも似つかわしくない声だった。

「!?」

シラノは流石にあ然として、その声を出した者は誰か、物陰に隠れて探した。

『蛆虫、虫けら、うじゃうじゃ大地の上にはびこる人間共。 所詮は土くれから生まれた身の上。 死ね死ね死ね死ね、もっと死ね! 一匹二匹三匹四匹、死ね死ね死ね死ね、全部死ね! ――そうさ、そして俺は独りになる』

I・Cだった。シラノを、シラノが隠れている物陰を、爆煙の向こうから、見すえていた。


 「ロンディニウム中央駅前広場にてシラノ・ド・ベルジュラックを発見」シャマイムがサラピス‐Ⅶを構えた。「戦闘開始」

「俺に任せろシャマイム」とI・Cは歪んだ笑顔で言う。ぐるりと惨状を見渡して、「お前はこの哀れな爆破テロの被害者共を助けたいんだろう? うぷぷぷぷ、言わなくても良いさ。 分かっている。 だから、俺に殺させろ。 フー・シャーとセシルを呼びながら、精々お好きな慈善行動を取るんだな。 ほら、何してやがる、行けよ」

シャマイムは、だが、ノーと言った。

「I・Cに単独行動させた場合の被害状況を推測した。 現状を凌駕する絶望的情景が推定される。 よって、自分は救出行為ではなく戦闘を実行する」

「あっそ。 じゃあ勝手にしろ」I・Cは鞭を手にした。「とにかく俺はコイツをなぶり殺す」

 ……シラノはロクサーヌを手に、冷静に状況を判断した。まともに戦えば、この前の二の舞になるだけだ。ならば、と彼は決めた。この手を使おう。

「これが何か分かるかね?」と彼は小型の電子タブレットを手の平の上に乗せた。

「知らん。 どうでも良い。 ……あー」とI・Cが嫌なモノに対して閃いたような顔をし、ロンディニウム中央駅を見た、「まさかアレをぶっ壊す起爆スイッチか? それも時限式……のように見えるな」

「ご明察だ。 ちなみに解除するには私のみが知るパスワードを入力する必要がある」

「あー。 俺はどうでも良いんだがシャマイムはとてもそうじゃなさそうだな」

I・Cはちらりと小柄な兵器を見る。案の定兵器は言い出した、

イエス。 これ以上の爆破テロの被害は抑えるべきだ」

「偽善ここに極まれり、だな」I・Cは面倒臭そうに、「アルビオンの人間がいくら死のうが生きようが、どうだって良いじゃねえか。 アイツらが死んだ所為で、次の日から俺の酒が無くなるなんて事も無いんだぜ? たとえ明日の朝、人間が幾千幾万幾億死んだって、この世界は延々と続いていくんだからな」

シャマイムはそれを聞いても怒りもせず驚きもせず、淡々と言葉を繋げる。

「時間的猶予が無い。 シラノ・ド・ベルジュラック、取引条件を端的に言え」

「聖教機構和平派にアルビオンより撤退してもらおう。 そちらだって過激派と全面衝突するのは嫌なはずだ」シラノはそう言って、ロクサーヌを構えた。「否と言えば即座にこのタブレットを破壊する。 そうすれば爆破を避ける手段は、もう何も無い」

「良いな、弱い連中ってのはこうでなきゃならない!」I・Cはご機嫌で、「表裏卑怯でなきゃ弱い連中ってのは生きていられないんだ! だから俺は大嫌いだ。 弱い癖に俺相手に立ち向かうヤツには、その弱さゆえに色々なものを喪失すると言う絶望を教育してやらなきゃ、だろう?」

「……現在の我々の至上任務はシラノ・ド・ベルジュラックの打倒だ。 よってそちらのその条件は、我々の任務と抵触してしまう」シャマイムが珍しい事を言った。「取引は決裂した。 シラノ・ド・ベルジュラック、繰り返す、交渉は決裂した」

「では」とシラノはタブレットを撃ち抜くべく、撃鉄を鳴らした。「アルビオンの諸君、さようなら。 卑怯な自国の政府と無慈悲な聖教機構を地獄で恨むが良い」

銃声が響いた。


 瞠目したのは、I・C達の方であった。

「貴様は、オットー!」

あの青き青年が、こつ然と出現し、シラノに体当たりしてタブレットを奪ったのである。それは同時に、シャマイムの瞬間狙撃からシラノを逃してもいた。

「シラノさん!」オットーはタブレットを手に、叫んだ。「もう貴方がこれ以上傷つく必要なんて無いんです!」

「オットー……」タブレットを撃ち抜き損ねたシラノは、あ然とした顔から、すぐに哀しさを噛みしめた顔に変わる。「もう遅い。 全てが手遅れなんだ。 私は、もう――」

「子供達が貴方を待っている! それに、貴方は、ここで死ぬべきじゃない! あの子達をまた親無し子にしたいのですか!」

「……オットー。 私は、」

言いかけたシラノを遮って、オットーはシャマイム達へ向かって大剣を構える。

「聖教機構の相手は俺がやります、ですから、もうこれ以上は――!」

「……無理だ。 今の私には無理だ。 かつての私にならば出来ただろう。 オットー、人が堕ちるのは本当にあっという間なんだよ……」

不当に奪われた子供達の未来が、今や彼の壮絶な復讐心となっている。

「堕ちたとしても這い上がれば良い、そうじゃないんですか、シラノさん!」

その時、詩が聞こえた。不思議な声だった。音波と言うよりは、精神に響く――とても、とても優しい声だった。

『ラマで声が聞こえた。

激しく嘆き悲しむ声だ。

ラケルは子供たちのことで泣き、

慰めてもらおうともしない、

子供たちがもういないから』

「「!?」」

シラノとオットーの両目が見開かれた。

「ルイス!?」オットーがアルビオン中央駅を見た。そこから一人の少年が走ってくるのを目の当たりにした。「き、気絶させたはずなのに、どうして付いてきた!?」

「オットーさんは言う事を聞かないと最終手段に出るのは分かっていましたから!」ルイスは誇らしそうに、「それで殴られるのは分かっていましたから、殴られても何て事無いように特殊な装備を――物理攻撃に対して強化されたカツラをかぶっていました!」

「馬鹿、こっちに来るな!」オットーが瞬間転位して、ルイスの前に立った。

「チッ」少年を人質にし損ねたI・Cが舌打ちする。

「シラノおじさん!」ルイスは一生懸命、言った。「帰りましょう、みんなの所へ帰りましょう! みんな待っているんです、ですから、ねえ!」

「……私、は」と泣き出しそうな顔で言いかけたシラノの顔が引きつった。「逃げろ!」

 ――ロンディニウム中央駅が、爆破された。


 ……。

「あーあ。 助けようとした連中が全員死んじゃったな、シャマイム。 お前の瞬間狙撃が成功していればまだ違ったかも知れないのになー」

嫌味を言って、爆風から地面に伏せて逃れていたI・Cが起き上がる。辺りは粉じんやら飛び散るガレキによって、何も見えなかった。

「……」爆風で吹っ飛んだシャマイムは何も言わない。

「シラノおじさん!」ルイスの絶叫が響いた。風が吹いて、わずかに視界が開けると、そこには、爆発の余波で飛んできた資材が、シラノの胴体を幾つも貫いていて、そしてシラノが盾となったおかげで伏せていたオットーとルイスは無事だった。

「シラノさん!」オットーが倒れたシラノにすがりついた。そして、もう、魔族の身体能力をもってしてもシラノの命が持たない事を悟る。「そんな……!」

「これで、良いんだよ、私は、やっと……止まれる」シラノはかすかに微笑んでいた。「オットー、ルイス、ありがとう。 子供達を、頼むよ……」


 「……そうですか。 シラノの制圧完了を確認、任務達成ご苦労様ですわ」マグダレニャンはそう言って、紅茶を飲んだ。「ところでI・C」

『何だお嬢様』とモニターの向こうで、一人、I・Cはにたにたと笑っている。

「お前はまた本気を出さなかったのですね。 お前がやろうと思えば、ロンディニウム中央駅は無事だったはず」ぎろりとマグダレニャンは、彼を睨んだ。

『だって人が虫みたいに死ぬのが面白いんだ。 なあお嬢様、殺人の一体何がいけないのか教えてくれないか? 報復が怖い? 恨まれるのが怖い? 罪を犯したのが恐れ多い? 他人の痛みを完全無視するのが良くない事だから? そもそもこんな質問をするな? だが俺は問うぜ、人を殺す事の何が一体いけないんだ? たとえ神がそれを禁止しようと、それは何ら根拠が無いものなんだぜ』

「……貴様がそう言うとは、意外ですわね。 彼女一人を殺した事を、未だに後悔している癖に」

『――』I・Cの顔に、苦痛に近い表情が浮かんだ。『俺はあの時に戻れたら人間として死んでいた。 死んだ方が幸せだった。 でも、俺は、もう一度、もう一度だけ、あの腕の中に帰りたかった。 あの優しい腕の中へ――』

「だから悪魔に魂を売り渡し、貴様は化物へと成り果てた。 ……哀れな生き物ですわね。 本当に哀れな化物。 理性を捨てられず、渇望は満たされず、絶望が増えていくのみ。 死んだ方が幸せ、そう言う運命もあると言うのに、お前はその運命を最悪の方向へ変えてしまった」

『……』I・Cは何も言わない。


 「……そう、か。 シラノは、やっと楽になれたのだな」

「死が絶対的な救済、とは思わないけれど……あの子の折られた心は、これ以上傷つかなくても良いのよ。 ……オットー、お疲れ様でした」

「しばらく休んでおいで。 悪い事は言わないからさ。 お前もさぞ疲れただろう。 嫌だと言っても無理やりにでも休ませるよ」

「……はい」

「アルセナールも付いて行かせよう。 あの子も最近疲れた顔をしているからね」


 レット・アーヴィングの根城は、享楽と賭博の不夜城、ウトガルド島である。ここで彼は情報を収集しているのだった。金の集まる所には、人と物――情報も集まる。彼はウトガルド島のカジノで活躍しつつ、金しか価値の無い世界で生きていた。金だけがここでは意味がある。ここでは金さえあればどんな快楽でも得られたし、金が無くなればそれは死を意味していた。

レット・アーヴィングは凄腕の賭博師かつ、ウトガルド島王の最側近でもあった。だから、彼はいつも命を狙われていた。唯一、金無しにウトガルド島王に言う事を聞かせてやれる切り札が、彼であったからだ。そのためレットはいつも移動する時に護衛を必要としていた。

「ごめんね、シャマイム」とレットは温厚な青年のはりぼてをかぶって言う。いざギャンブルとなった時に、幾人、幾十人を破滅させてきた恐ろしい姿は全く見せないで、「僕は一人で出歩いたらすぐ殺されてしまうからね、どうしてもシャマイムみたいな安心できる人が側にいないと、故郷に帰る事すら出来ないんだ」

「自分は人間ではない、兵器だ」

「謙虚だねえ」とレットはしみじみと言う。「シャマイムみたいな人は、そもそもギャンブルをやろうと言う思考が無いんだ。 地道に貯めていく、その大切さとその美徳を持っているからね。 ああ、僕がつぶしてきた連中とは根幹から違う。 きっとシャマイムみたいな人がついうっかりウトガルド島に来たら、僕は痛恨の一撃を与えて、二度と来させないようにするよ。 シャマイムみたいな人を地上から減らすなんてとんでもない事だからね。 ……逆に」

「俺みたいなクソッタレが来たら身ぐるみ引っぺがしてボコボコにしてケツ毛までむしるつもりなんだろう?」I・Cがレットよりも先に言った。

「良く分かっているじゃん。 要は僕が誰に対して何をするとどう罪悪感を抱くかと言う話さ」レットはウトガルド島へ行く豪華客船サン・リディ号の船室の窓から海と空を見て、「ああ、この天気じゃまた降るだろうなあ」と言った。

「……ちなみにグゼとかニナとかフィオナとかセシル辺りじゃどうなんだ?」I・Cが訊ねた。

「グゼはね、多分僕をやり返すと思う。 まー、でもグゼが僕と対戦するなんて事はまず起きないよ。 グゼはギャンブルよりも弟妹に飢えているからさ。 グゼを殺したかったら『お兄ちゃん』と言えば良いのだし。 ニナは多分三回賭けて失敗したら潔く諦める。 フィオナもそうだ。 セシルは一回でも失敗したらうんざりして止めるね、間違いなく。 フー・シャーは奥さんのケツに完全に敷かれているからギャンブルが出来ない。 アズチェーナは……」

「ああもう分かった!」I・Cが不愉快そうに怒鳴って、レットを黙らせた。「俺はバーに行く。 シャマイム、お前にレットは任せた。 何か起きたら安全な場所まで連れて行け。 俺の邪魔をするなよ?」

「了解した」とシャマイムはよくある事なので素直に承諾した。


 I・Cは船室を出て廊下を歩き、バーに向かった。その後姿を驚愕の目で見ている青年がいた。

「……ま、まさかこの船で行き会うとは……!」

オットーであった。彼もバーまで行こうとしたのだが、来た道を慌てて戻り始めた。

一等船室にたどり着くと、彼はドアをノックして、名乗った。すぐにドアは開いた。

「ちょっと、話がある」オットーは興奮した口調で言った。

「どうした?」ソファに腰かけながら、万魔殿穏健派幹部アルセナールは訊ねた。その外見は優男だが、シラノと同様に実年齢はオットーとは比べ物にならない。種族にもよるが、魔族は人間よりもはるかに長生きするのだ。

「先程、聖教機構のヤツらと遭遇した。 帝国の領海を通りすぎるまで、外出は控えた方がいい」

ここは既に彼らの勢力圏内ではなかった。そこで争いを起こせば、最悪、外交問題にまで発展するだろう。

「分かった。 では――折角の好機が台無しだな」

「折角の好機?」

「先程、確かめた。 この船にはジュリアスが単独で乗っている」

「何だと?!」

二人の間でジュリアスと言えば、過激派の首領であるジュリアスしかいない。彼らの政敵、いや、宿敵であった。

「――どうする、オットーよ」アルセナールは彼に身を寄せて囁いた。

「『彼女達』のためにも、ジュリアスだけは倒したい……!」

「二人で、やるか」

ああ、と言いかけたがオットーはそこで踏み止まった。

「……いや、ここで争えば、『彼女達』を結局困らせてしまう」

万が一。万が一戦って、負けた場合に、彼らが残された者へかける迷惑はとんでもないものになる。

「オットー」アルセナールの声には、失望がありありと見えていた。「そうか、分かったよ」そう言い捨てて、彼は船室を出た。

オットーには、その意気消沈した背中に掛ける言葉がなかった。

アルセナールは扉が閉まると、こう呟いた。

「お前には失望した。 私達の中で誰よりも『彼女達』から愛されているのに――何故、今立ちすくむ。 ――いい。 私一人でやろう!」


 I・Cはバーに入った途端に奇妙な懐かしさを感じたが、何故だろうと思うよりも酒への欲が勝って、彼はすぐに忘れてしまった。

カウンター席の、たまたま仮面をかぶった男の隣が空いていたので、そこに座る。待ちかねていた酒を一杯飲んで、I・Cが大きく息を吐いた時、

「お客さん」静かな口調で、仮面の男が言った。「ウトガルド島へ遊びに行かれるのかい?」

「まあな、そんな感じだ。 あんたもそうかい?」

「享楽は全て虚しい。 だからこそ刹那に輝くのだ」

「――言っている意味がよく分からねえんだが」

I・Cは奇妙な顔をした。何かが、酷く懐かしいのだ。だが、どうしてだろう?

「理解も共感も求めてはいない。 ただ私が発言して、貴方はそれを聞いただけだ。 ただすれ違っただけ――運命の一断片だ」

「そうか、そうかい」

I・Cはそれ以上相手にせず、酒をただ飲んだ。

ふっ――と気配が近寄ってきて、彼は横目でそちらを見た。

優男が仮面の男に、近付いていた。I・Cは酒を吹きそうになった。何故ならその優男は、あの、穏健派幹部のアルセナールであったからだ!まだI・Cの存在には気付かれていない。否、今のアルセナールの攻撃対象は――!

「ジュリアスだな」とアルセナールは言った。

「名は全て虚実に付けられた言葉だ」とジュリアスは言った。

アルセナールの瞳孔が開く。

「その命、頂戴する」

空間が、炸裂した。I・Cは吹き飛ばされて壁に激突する。

〇距離で生み出された衝撃波の仕業だった。

「――ま、マジか!?」I・Cは思わず言った。

彼らの目の前では――熾烈な魔族の戦いが繰り広げられていた。

羽根を生やし、次々と衝撃波を生みだしては攻撃するアルセナールと、両手剣をどこかから引き出して対峙する仮面の男。天井と壁と床が無惨に切り裂かれて、屋上と海と船室が覗いた。間もなく雨が降り出すだろう、重たい天候だった。船客達が悲鳴を上げて我先に逃げている。

「……アルセナール・ド・フロランタン! おまけにジュリアスだと!?」

I・Cは言うと同時に通信機をシャマイムに繋げて、

「今バーで万魔殿穏健派と過激派の幹部同士がドンパチやっていやがる。 絶対に近付くな!」

『了解した』

――激烈な争いに、だが、とうとう終止符が打たれたかに見えた。

一度に複数放たれた衝撃波が、仮面の男の胴体に命中したのだった。血が――青い血だった――吹きあがる。男は、両手剣を手放して倒れた。

「……青い血だと!?」

アルセナールは目を見張る。

「いや、まさか、そんなはずは――!」

「偶然とは、概して必然へと変わりゆくものだ」

むくりと仮面の男が起きあがった。傷口は、しゅうしゅうと音を立てて塞がっていく。両手剣を再び手にすると、まっしぐらにアルセナールめがけて突貫した。

襲いくる衝撃波を並はずれた身体能力でかわしながら、男は彼に肉迫して、ぐっと手刀を突きだす。アルセナールはそれを左へかわした――のに、右腕が肩から消失した。

「な!?」

この力は、まさか。アルセナールが最悪の予想に到った時、だった。

「アルセナール! 俺はここだ!」

オットーが大剣を片手に飛びこんできた。アルセナールはそちらを振り向いた。

「オットー! お前はやはり来てくれたか――!」

それが、彼の最後の台詞だった。しゅう、と一抹の粉じんも残さず、万魔殿穏健派幹部アルセナール・ド・フロランタンはこの世から消失した。

「ッ!?」

雨が、降り始めた。

「――若き戦士よ、お前も戦うのか?」

仮面の男は、両手剣を構えた。

「止めるつもりで来たが、アルセナールの仇だ!」オットーは、襲い掛かった。

両者は、激しく打ち合った。斬られた雨が飛び散り、金属音が響く。両者の腕前はほぼ互角だった。互角がゆえに――中々決着が付かなかった。

ガキン、と音を立てて剣が弾きあう。その瞬間、オットーは転位した。背後を取る。剣を振り下ろした時だった――仮面の男に触れる雨が、じゅう、と蒸発したのを見たのは。何だと、とオットーは目を見張り、

「ッ!」

咄嗟に、飛びすさる。そこを大きくなぎ払われて、オットーの膝から青い血が吹き出した。オットーは切り裂かれた壁まで飛び、切れ目の壁にしがみついた。

「くッ――貴様の能力は、一体何だ!?」

オットーは瞬間転位しようとしたが、それよりも仮面の男の方が速かった。

「形ある物は、いずれ全て壊れる――」

間合いを一気に詰めた仮面の男の一閃が、オットーの体を深々と切り裂いた。

壁から手が離れ、彼の体が海に投げ出される。――水音がした。

 「テメエ、一体何者だ!?」

万魔殿の幹部二人を圧倒したジュリアスに、I・Cは怒鳴った。いくらなんでも、過激派の首領とは言え、穏健派の幹部二人をあっと言う間に撃破してしまうなど、強すぎるではないか。

「私は――私であって私ではない」

「じゃあ聞く。 俺の味方か、敵か?」

彼は、男の前に立った。

「――敵、だろうな」

I・Cは、もうためらわなかった。

「――『サタン発動』!」

I・Cが闇と化した。闇は爆発的に質量を増して、仮面の男へと迫る。しかし闇は男に触れると次々と分解されていく。だが雨の一滴が男の肌を打った。そこに闇が食らいつき――肉を引きちぎった。

「! ――貴様、『メタトロン』だな!?」

いつの間にか、どこからか出現したのだろう、黒い翼を生やした幼女が、叫んだ。

「そう言う貴様は裏切り者の『サタナエル』、いや『サタン』か――ここは不利だ、私が引こう」

ばっと飛び上がり、仮面の男は天井の切れ目から姿を消した。

「くッ――!」

闇はその後を追いかけたが、もう誰もそこにはいなかった。

 雨だけが、全てを押し流すかのように降っていた。

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