第2話 端点2


わたしには、学校を中退してしまっていた友だちがひとり、いた。


早々に学業のレールから外れるのは、今となっては珍しいことでも何でもないのだけれど、この平穏で、他者と違ったところが少しでもあると異端的に見る習慣というか、生真面目なくせがある国柄としては、彼女は少々異端的に扱われていた。


学校での素行も悪かったわけではないが、教師からは敬遠されていたように感じた。


彼女は家庭状況が芳しくなく、ティーンエイジャーで実家を出てひとり暮らしをしていた。


彼女は、社会的評価から言えば、そんな子であった。


しかし、わたしにとっては唯一無二な友人であって、親友であった。


彼女にだって生活の不安もたくさんあったと思う。


大変だろうとことばで言うのはかんたんで、彼女に同情を示すのもかんたんなのだが、彼女の生活を見ていると、本当にふつうに生活を営んでいた。


わたしはよく彼女に誘われて、誘われるがままに、彼女が借りているアパートに泊まったりしていた。


わたしは彼女が自堕落な生活にならないよう部屋の掃除や食事を用意する、いわば母親代わりのような役割をしていた。


正直なところ、そんな家事ごっこを楽しんでやっていた部分が、自分のなかにはあった。


彼女の住処に訪れるのは、どこか秘密基地に来ている気分と似てもいた。


彼女の家では、とにかくうざったい干渉がない。


隣人や家主といった他人に対する配慮さえあれば、誰も干渉してくることはない。


それをさびしいと表現すればその通りだが、自由だと表現すれば自由であることには変わりない。


彼女の生活には、不良ならではの喫煙や飲酒もあったが、彼女はわたしにそれらのものを強要するわけではなかったし、わたし自身、お酒やタバコ特有の中毒性が全くわからなかった。


彼女が非行をしているという意識もあまりなかった。



喫煙のメリットはなにかと問われれば、ストレスの軽減と体重維持か。


デメリットはおよそ知っての通りだろう。


「主流煙が」「副流煙が」とか、学校教育授業の保健体育で習うような単語を言うつもりはない。



飲酒はわたしにとって、残念なことにまったくいい気分になるものではなかった。


これはもう、遺伝とか体質の問題である。


わたしの大脳新皮質はどうなっているのだろう。


アセトアルデヒド脱水素酵素も役割をあまり果たしてくれない。




『人間』と『ケモノ』を分けるのは、『理性』と『知性』と言われている。




酒に酔った状態での性格診断とかあるけれど、あれは当たっているのだろうか。


酔っている状態は、「素」なのだろうか。



自分を理性的な人間とも思わないけれど、開放的な人間とも思えない。



娯楽的なものに楽しみを見いだせない極々つまらない人間だ。



健康被害を宣うより増税つらいよねとか言っていたいタイプ。



彼女はどちらにも溺れてしまっているけれど、それらの背徳的とも言える行為をしているときの彼女は幸せそうと言うよりは、苦しげである。


彼女を苦しめているものはなんだろうな、そんなことをときどき思う。


彼女だけに限らず、そういった依存物に溺れてしまうすべての人に関連して。



大人らしいことをしたいから?


格好良くありたいから?


ストレスがあるから?


さびしいから?




心は目には見えないから、わたしにはわからない。


怠惰で続けている行為に依存性が伴うというのは悪循環だ。





法律では『未成年飲酒禁止法』『未成年喫煙禁止法』が制定されている。



飲酒の禁止は、大正。喫煙の禁止は、明治。



日本では20歳、ヨーロッパなどでは18歳が、大人の仲間入りでその区切りの主流となっている。



「禁止されているから反抗したくてやっている」だなんてこともあるのだろうか。


それは、いわゆる青い春というやつでしょうか。


法はすべてじゃない。


境界線は「自立」と「責任」だろう。



「自立」とは改めてなんだろうな、と考える。


「責任」という言葉は、頭で分かっていても、実際に負うとなるとつらいものである。


責任の重さを知っていれば知っているほど。



わたしは、書物のなかにお酒が登場すると、どういうふうに飲まれているのか、銘柄は何なのか、金額はいくらなのか、そのお酒を飲んでいる人はアルコールが強いのか、などなど、ついつい真剣にチェックしてしまう。


そしてそのお酒は小説のなかの小道具としてのお酒や、池波正太郎や太田和彦のような「お酒を飲むスタイル」を語っているのよりも、軽いエッセイで「ついついお酒について喋ってしまった」という感じの表現をチェックの対象とする。


作家は忘れてしまったが、「酒は安ければ安いほど良いと思っている」というようなことを書いていたことがあった。


お酒に対してそういうふうに感じている人が世の中にはたくさんいると思う。


「お酒は味わうものではなくて、酔っぱらうためのものだ」というふうに考えているのだろう。


もちろんその逆もいる。


お酒の味なんてわからなくて、ただ値段の高いお酒を飲みたがる人間。


そんなお酒を飲む自分のステータスに酔い痴れるのだろう。


「ワインの味ってそもそもよくわからないんですけど、ドンペリとかロマネコンティって本当に美味しいんですか? あれ、高いのをわかっているフリをしてるんじゃないですか?」と聞いたことがある。


こういう質問は、ぜったいに相手を困らせてしまう。


ワインを「美味しい」と感じるまでに至るには、学習しなきゃいけないという面もある。


普段はウーロンハイしか飲まなければ、とつぜん高級なワインを飲んでも、「美味しい」と感じないものだろう。


そこで話の冒頭に戻るが、たぶんその文章を書いた後で何度も美味しいお酒は飲んでいるはずで、彼のその後のエッセイを読んでいると、よくBARには行ってるようだった。


今でも「いちばん安い酒」を、BARで好んで飲んでいるのかなあと気になるところである。


そういうふうに、お酒は、「値段や場の空気」というのも関係してくる。


先日、池上彰と森達也の対談を読んでいたときのことだった。


森達也が池上彰に、はじめてカイロで会ったとき、のどがカラカラで、どうしてもビールが飲みたかったそうだ。


しかしながら観光客向けの高級レストランでは食事をしたくなく、現地の大衆食堂で食事をしたいのだけど、イスラム圏のカイロで大衆食堂でビールを出しているところなんてめったになく、店を探して歩き回ったとあった。


仕事の後に、高級レストランでのビールでは美味しくないと感じる人なのだろう。


そういう価値観もわかる気がする。


「そんな状況にぴったりの酒場を探して歩き回る」という作業、自分も好きなのでわかる。


探す対象が酒場ということ以外では。


わたしが小難しいことを考えだしたとき、彼女は決まってわたしを連れて街に遊びに出る。



「あんたの考えるそういう難しいのって、あたしには結局よく分かんないだけどさ」


「いまが楽しけりゃいいじゃん」



『わたしたち、ヒヨリミシュギね』と言って笑い合う。


そしてわたしは気付いた。


彼女は『なにか』から逃避しているのだと。


抗いがたい、『なにか』があるのだろう。



彼女は生い立ちこそ複雑ではあったものの、心根が腐っているわけではなく、素直であった。


素直がゆえに苦労していることは、多々あるはずだ。


素直であること、それがわたしと彼女が付き合っていられる条件でもあった。


心根が腐ってしまっていて、なにを言っても心に届かない人とわたしは付き合って行ける自信がなかった。


彼女の心は澄んでいた。


狡猾な人が多い世の中で、彼女は同様に傷ついたり苦労していた。


傷ついては癒して、その同じような傷を持つ人間や気遣える人間同士が集まるようになる。



人がたくさん群れる場所に行って、そのなかに混じって群れてみる。


そうすれば、いろんなことが見えてくる。


イヤなものもイイものもごちゃまぜな世界。



みんな赦されて生きている。



癖のある人は嫌われるのだろうか?


それともおもしろみのある人間として好かれるのだろうか?


後者は、マイノリティだろう。


大抵はめんどうくさい人間として嫌われる。


嫌われるまではいかないにしても、排除される。


全体的にほどほどというのが、世間一般には好まれるのだ。


出る杭は打たれるのが常だ。



奥まった翳りのある場所に立地し、煤けた空気のなかにあって埃っぽさゆえに霧がかったような印象を一見受ける、古びたノスタルジックあふれる老舗BARに訪れた。


知る人ぞ知る、みたいなまさに隠れ家のような場所にそのBARはあった。


門構えからしてまるで一見さんお断りのような排他性があって、初見の人ではおよそ入れないだろう。


小さい入口で重厚感のある重たい木の扉を開けて押し入ったところで、その空間には奥行きがあるわけでもなく、ドアを開ければすぐにカウンター席。


10人もはいれば満員になってしまうような店内。


すこし奥のところには二セットほど、ボックス席がある。


壁には古い、時間の流れで染まっていったセピア色のレコードがびっしりと飾られていたり、敷き詰められたりしている。


手を伸ばせば届く距離に、すべてのものが満ち満ちている。


映画やマンガのなかに出てくる見覚えのある、年代の浅い旧製キャラクターのフィギュア、比較的保存状態の良いパンフレットなどもある。


オーナーの好きなものばかりが詰まった空間。


常連客たちは音楽の話、世間話、恋愛話、他愛ない話をして、各々オーナーとおなじ時間を過ごしていた。


そこはとても自由な空間だった。



わたしは、中でも音楽談義はまったくと言っていいほど分からなかった。


音楽に興味がないというわけではないけれど、そこに来ている人たちの聴いている音楽とは違ったジャンルであったし、音楽を人と語り合うという状況は初めてだった。


「どんな音楽を聴くの?」


と聞かれても、答えられるのは最近流行の音楽か、童謡を口ずさむ程度のものである。


こういう場所で仮に聴いている音楽は”クラシック”と言えば、気取った人間のようになってしまいそうだし、民謡などもどこか違うだろうし、と頭のなかで考えを巡らせていた。


相手におなじ質問を引用し、敢えてわたしから質問を質問として尋ねることによって相手に見本のような答えをもらっても、別のジャンル過ぎて聞かされた単語を脳内の記憶と照らし合わせるも、あまりに思い当たらず首を傾げるばかりだ。



音楽にはくくりとか、あるものなのだろうか?


音楽はそもそもカタチなんてものはなくて、流動的なものに思える。


ことばに書き起こせば、ひどく陳腐になるから、音楽というものが存在しているのであって、それをことばに置き換える必要は決してなく、音楽は音楽のままあればいいと思う。



良いものは良い、好きなものは好き。


そういうのでよい気がする。



けれど、こういう場所において手っ取り早く趣味趣向を聞くときには、そういう名称というかなんというか、用語や単語は知っていて損は無いのかもしれない。


たしかに好きな系統の音楽というものは存在する。


好きなメロディ、コード進行、音、テンポ、技術……。


しかしながら、その時々の気分によって聴きたい音楽も身に沁みる音楽も異なってくる。


星の数ほどある作曲された音楽のなかから自分の気分にあったものを選び出し、それを聴き込む。


音楽とはそのようなものだと思っている。



かなしい音楽を聴きたいとき。


たのしい音楽を聴きたいとき。


うれしい音楽を聴きたいとき。


わたしは、そこで聴いた音や、歌詞を見様見真似で、鼻歌で歌ったり、口笛を吹いたりしていた……と言いたいところだけど、口笛は吹けない。


口笛は陽気なようで、どこかさびしい音色だ。


口笛は口の中の微妙な容積、形状の変化によって、直感的に音程や音質をコントロールするものらしい。


なかなか理論的な解説がむずかしくて、結局は慣れだとしか言いようがない。


わたしはそうそうに口笛は諦めて、身体を揺すってリズムを取ったり手で、リズムを叩いたりしていた。



BARという空間そのもの自体、ある種の人との出会いを求めているような場所でもあって、似たような人間が集う場所でもある。


だれかが言っていた。

お酒にまつわる場所では、いろいろなドラマが生まれる、と。



「ねぇねぇ、みてみて。あの人にさっきからすっごい見られてるよ」


「え?」



バンバンと力強くわたしの肩を叩いてくる彼女に言われ、彼女が指差すほうに視線を向けると、コの字型のカウンターの真逆のほうの席に座っている人と自然に目が合った。



「どちらさま?」



その強すぎるとも言える真っ直ぐな視線から逃れようと、こそこそと友達と囁き合う。


一度逸らした視線を戻してみても、まだ視線がかち合う。



あの人、ずっとこっちを見ている。




同じ高校の二年生の浅沼徹だ。


精悍な顔つきで、成績は良いのに不登校で引き篭もりがち、それよりもなによりもゲームオタク。


彼女は居るのに、二次元への興味のほうが強くて、如何いかんせん長続きしない。



………たしかに引き篭もりなだけあって、色白で細身、黒髪で、清潔感はなぜかそこそこあってかっこいい部類かもしれないけれど……



……なんて言うか、べつにお近づきにはなりたくない。


正直なところ、第一印象はそんな感じだった。


パソコンの前とか、家のソファーやベッドが定位置であろう人間なのが想像できる。



「気をつけなね」



彼女は笑って、またわたしの肩を叩いた。



……だから痛いって。

彼とは目は合ったものの、別段会話もなくその日は終わっていた。



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