第6話 露地


帰りの長時間拘束される飛行機のなかで、日本に帰国したらまず、おこなうべきことを頭に思い浮かべる。


外国に来ると、かならず日本が恋しくなるという不思議な習性がある。


それを人は、愛国心と呼ぶのだろうか。



日本に帰ったら、お茶をまず飲もう。


排泄を気にすることなく、たらふく水分補給することができる。


日本のトイレットに関連するサービスは正直半端ない。



とりあえず自宅へ無事に辿り着いたらあたたかいお茶を入れて一服してひと息つく、そんな自分のなかのルーティンがある。


簡易的でもいいから、ゆっくりお茶を飲む機会を自分でつくる。


そのお茶を飲んでいる空白の時間に、あらゆることを思い出したり、考えたりする。



千利休は「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて飲むばかりなるものと知るべし」と述べていた。


どんなに外国に憧れても、やはり自分の帰る場所は、日本だと思う。


わたしは、日本の文化を愛している。


茶道。


それは日々の雑多な物ごとのなかにひそむうつくしさを深く愛すること。


お茶は、はじめは薬として用いられ、のちに飲みものとして愛されるようになった。


八世紀の中国では、お茶は風雅な遊びとして詩歌の域にまで高められ、やがて十五世紀の日本において、美を極める宗教となった。


茶道は、宗教である。


茶道の精神は、ピュアな心、おたがいを慈しむ気持ちの深遠さ、この社会のなかでロマンティストとして生きることを教えてくれる。



絵画のなかのような静謐な微睡みに、ししおどしの音が響く。



しずかだ。平和だ。



喧噪がないから平和だというわけでもないのだけれど、やはり静けさのなかにはおだやかな時間が流れている。


みずみずしさあふれる水の音と、竹筒が石などの支持台に当たり、独特の抜けたカコーンという音を響かせる。


ひょっとしたら、ししおどしを見たことも触れたことも知識上としても知らない人も居るのではないだろうか。


”ググれカス”とは言わず、このおだやかな気持のまま説明をしようと思う。


「ししおどし」を一度は見たことあるかも知れないが、そのいかにも風流な感じを想像して欲しい。


一度も見たことがなくて、想像が全く出来ないという人がいる場合は、……そうだな、ググれカス。


……おっと本音が。


一応簡易的に説明してはおくが、百聞は一見にしかずで見たほうがはやい。


ことばで説明するよりも確実だ。


そして毎度、毎度、創作物のなかで、説明してもらえるだなんて思わないことだ。


「ししおどし」は、支点で支えた竹筒に水を入れ、溜まった水の重みで竹筒が頭を下げて水を吐き出すと、元に戻る力で勢いよく下の石を打つ。



その音は、かつて農村地帯で田畑を荒らす鹿や猪、鳥を音でおどして追い払う農具だった。



「ししおどし」ということばに当てる漢字は、「鹿威し」「鹿脅し」「獅子威し」だったりする。



現代では日本庭園などでよく見られ、水を楽しみ、竹が石を叩く快い音を楽しむという風情のひとつとも言われている。




そう、音。



竹がカコーン。



「佐倉さん、佐倉さん!!」



人の名を連呼しながら、ダダダッと猛スピードで廊下を走ってくる少年の声が聴こえる。



その足音で彼が今どの辺りにいるか、GPSが無くとも位置を的確に把握することが出来る。



そして彼は案の定、滑りやすいであろう曲がり角のところでダーンとお決まりのごとく転ぶ。



The 予想を裏切らない男。




「あー、もう騒々しいわ!!」



畳の香り、いけていた花の香り、自然とともにある静寂とも言えぬ心地良い微睡みに包まれていたはずだったのに、一気に台無しになった。



少年は転び慣れているのか、さして痛がりもせずに立ち上がり近くにやって来る。




「ああ、すいません。こちらに佐倉さんが帰ってきてくれたから、ついうれしくて」



「そう、それはありがとう」



かるくはにかみながら話しかけてきたこの男の子は「ハル」と言って、四歳ほど年下の浅倉くんの弟である。


年齢相応というべきなのか、いくぶん子どもっぽいのが特徴。


それでもわたしは彼の少々ばかし騒々しいが、このあどけない感じに癒やされている。


わたしが笑顔を見せるとほんとうにうれしそうな笑顔を返してくる。


まるで犬を飼っている気分になる。


わたしはその笑顔を見るのはたしかに好きなんだけれど、なんだかいつも気恥ずかしくなってしまう。


浅倉くんの笑顔をハルくんをとおして見ているような気分になるのだ。


残念ながら浅倉くんの笑顔はあまり見ることが出来ない。



「あー……えーと、ハルくん。浅沼くんは?」


「あと二日後に帰国します」


「そっか」


ハルくんのぶんのお茶を入れながら、浅沼くんのことを思う。


「浅沼くんは、旅行に行く前になにか言ってた?」


「んー、とくになにも」


「そっか」


「あ、でもデスクトップパソコンをぶち壊して、ノートパソコンを持って旅立ちました」


「え?なんで?」


「さあ……?」


「破壊衝動かぁ……」


「思うようにならないことが続いていたみたいではありましたね」


「そうだね、世の中ってそんなことばかりだね」


茶道の本質は、不完全なものを尊ぶことにある。


この世は不完全だ。


不完全であるがゆえに美しい。


完全なものが存在しないように、人生と呼ばれるこの場所もまた、思うにままらないことだらけである。


思うままにならないことを不条理だと嘆く人もいるが、受け入れるしかない。


駄々捏ねっこが諦念を理解するように、大人になれば、人々はやがて受け入れるしかないことを理解する。


そんな日々を生きながら、汚れてしまいそうな心を澄ませて「せめてわたしに出来ることをやり遂げてみせよう」と新たに柔軟な心で挑戦を試みる勇気を振り立たせる。


それは自分で自然におこなうカタルシス。


精神共々衛生的である必要がある。


そしてうつくしくある必要がある。


旅行はそのターニングポイントとなるかもしれない。


これらをとおして学ぶのは、美だけではない。


人間への眼差し、自然への眼差し、いずまいの清潔さ。


当たりまえのようで、当たりまえではないこと。


こころに余裕がないと出来ないこと。


贅沢なものよりも、シンプルで慎ましいものの中に、真のやすらぎを見出すこと。


しずかな空間で、精神を研ぎすますと、宇宙の中でわたしたちがいかに小さな存在であるかを実感する。


宇宙と自分のバランス感覚を知り、それは精神の幾何学のように思えてくる。


住まいから習慣、きもの、料理、うつわや絵画、文学まで茶道の影響を受けなかったものはない。



「あー美味しい。佐倉さんが入れてくれた飲みものって特別美味しくかんじるんです」


「そう?なにも特別なことなんてないんだけどね」


「いいえ、なんか特別なんです」


「甘くまろやかなお茶だったり、にがいお茶だったり、渋みと甘みが調和したお茶だったり。そのどれにも属していないようなお茶な気がするんです」


「そうかなぁ、持ち上げ過ぎだよ」


「いつだって佐倉さんの好きな芸術や音楽や文学から得た思想が反映されているような、そんな気がして、いつもそばにいるのが居心地いいんだって、兄も言ってました」


「浅沼くんが?」


「ぼくもずっとそう思ってますよ」


「……ひょっとしたら、こころは深いふつわのようなものなのかもしれないね」


表面がどれほど波だっていようと、底に潜っていけば、深海のようにしずけさに満ちた場所があるのかもしれない。


人間の感情を受け止めるうつわのなんと小さいことか。


ハルくんの感情を受け止めるほどのうつわはわたしにはない。


かなしみの涙はすぐにうつわからあふれ出てしまうし、尽きることのないこころの渇きはあっという間にうつわを飲み干す。


よろこびもかなしみも、たかだかカップ一杯分。


自分が内心自慢に思っていることも、いかにちっぽけなものかと感じる。


すべてがちっぽけだ。




「ねえ、自分の顔って好き?」


「え、どうしたんですか?とつぜん」


「わたし、けっこうこんな変な質問をたまにするんだけど、いろんな人に”もし整形するとしたらどこを変えますか?”って聞いてみてるんだ」


「そして、その答えは”ええ?!そこなの?そんなところが気になってるの? って言うかそこって誰も気にしてないですよ”って感じることが多いの」


「たとえば、大人になってから”人前でオナラをしてしまった”とする。その瞬間、みんなが”あれ、今、オナラした?”とか思うんだけど、そんなに大したことじゃないだよね」


「ああ、ありますね。でもうっかりオナラをしてしまった本人は、ずっとずっと”ああ、もう死にたい。もうこの人たちの前では生きていけない”ってくらい恥ずかしいものなんですよね」


「でも周りってそんなこと全然気にしてないんだよね。でも本人は気にしている」


”自分の顔の変えたいところ”って、それとおなじくらいで、周りの人にとって”え? そこ?”みたいなことがよくある。



ところで、わたしは自分の顔に関しては高校生くらいのときに、あきらめた。


高校生のときはいろいろあがいて美容を意識的に高めて、「もっと顔がかわいかったりきれいなほうが良いなあ」とは思っていたし、「こういう目つきをするとまわりに受けるなあ」とか「こういう角度だと映りがいいぞ」とかいといと思ったりもしたけれど、もう途中であきらめた。


あきらめてからは、「ルックスが良いだけの人間はつまらない」とか「不細工のほうがいっそなにかとがんばるから成功しやすい」とかそういう「世のなかの噂」ばかり拾っては、こころのアルバムにそっと貼り付けて、「そうそう、そうなんだよなあ」と納得していた。


転機と言うか、「あれ、そんなにルックスが大事ではないのかも」と気がついたのが、外国人のコミュニティのなかで過ごしていた時期だった。


いま、頭のなかで「外国の人びと」を想像してもらいたい。


肌が漆黒の人から、インディオ、金髪の人、アジア人、もちろん、その全部が混じった人、とにかくルックスにバラエティがある。


そのような状況は、かなり「キャラクターとか雰囲気とか全体的な印象重視」である。


マッチョなのか、インテリタイプなのか、みんなを笑わせるタイプなのか、そういう「印象」みたいなのが重要なのだ。


あるいはその当時、わたしは髪の毛が長かったのだが、そのくらい長さは、ブラジル人には少ないらしく、女性から「触らせて」と言われていた。


そういう「人種の違い」でちょっとした「かっこよさ」みたいな価値観も変わるのだなあと気がついた。


で、20代半ばあたりからは自分の顔みたいなものには、ほんとうに「どうでもよくなった」が、最近、なんだか自分の顔が変わってきたような気がする。


「年をとってから顔が変わる」とか「それまでの人生が顔に出る」とかはよく聞く。


なんかそういうことなのかどうか、最近、たまに自分が写った写真を見る機会があると、「あれ、自分って顔、変わったなあ」と思う。


よくも悪くも、人は日々変化していく。

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