第5話 終点


品のない安っぽい派手な、すぐに色落ちしそうなピンクのテーブルにソファー。


飲みかけで口の開いている、キャップの見当たらないべこべこのペットボトル。



だぼっとれたズボンとTシャツ。


季節を問わず、衣替え知らずの洋服たちが、縦横無尽に部屋中に広がっている。


衣類はハンガーに掛けてあったり、床に置いてあったり、いたるところに点在する色。


畳んであったり、脱ぎ捨てられていたり。


干してある洗濯もの。不統一な下着。


単なる布切れにしか思えない。


食べかけのお菓子に、封が中途半端に開けられたスナック菓子。


散乱したその粉末。


タバコの吸殻とその灰。



束ねられた明細書の山。


ぐしゃぐしゃになったレシート。


折れ曲がったり、丸められた雑誌や週刊誌。



分別されず、中身があふれそうなゴミ箱。


コンビニの弁当容器の山と、破れかけたしわしわのコンビニの袋。


流しにたまりにたまった洗いもの。



歪む、歪む、歪む、空間。





夢を見ていた。なにか情景を見ていた。


ぼんやりと歪んでいた視界や意識が、ゆっくりと正常さを取り戻して行く。


携帯のバイブレーションの音で目が覚める。


ブーブーという音と振動を伴って床に落ちた。


そのバイブレーションで揺れる携帯が床に落ちた音で完全に意識が覚めた。


こうして落下することによって、携帯よりもケースの塗装が剥げてゆく。


まるで身代わりだ。



本体の保護という点では、ケースの本来の役割を果たしているのだろうか。


最近はいつの間にやら眠ってしまっていることが多いな、と思いながら伸びをする。


かすむ眼の焦点を合わせながら、床から拾い上げて携帯電話の画面を見つめる。



連絡はマスターからで、めずらしくメールに写真が添付されていた。


いぶかしく思いながら受信フォルダを開いてみれば、先日マスターに頼んだものが箱のまま写っていた。


一瞬、実物が見れるかもと期待してしまったのは、おそらくマスターの思惑通りなんだろう。



思わず笑ってしまったけれど、かるく腹がたったので、メールの返信にはお礼とともに嫌味を書こうと思った。




件名:ありがとうございます。


本文


それにしてもこのメール、じつに安眠の妨害です。

わたし、寝てました。




夕方ごろにマスターが車で迎えに来てくれる予定になっている。


病院にいるはずの浅沼くんも途中で拾い上げて、そこから河川敷に行く。


時計の時刻を見て、まだ時間に余裕のあるのを確認し、ベッドの上に寝転がる。




眼を閉じて、ほんのすこし思いに耽る。


この世界においては、永遠に妥当するものはない。



世界はたえまなく変化し続ける。


ついて行けなくなって、現実世界の隣で無責任な文化を築き上げる現実逃避の人間たち。



フィクションというベールを被り、真っ赤な嘘と化した偉大さのイメージに浸った井の中の蛙。



暴行だったり乱暴だったり、恨み憎しみ、現実じゃ出来なかった復讐劇をそのなかで作り描くのは痛快だろうか。



だれかに対して、すべてをかけて守ったり愛したり、それほど大胆にはなれたのか。




しょせん、それらは夢のまた夢。



醜く、汚らわしい、性悪の生物。


そんなものでしか欲望を満たせない愚かな生きもの。


臆病者の脳内自慰の助けでしかないのだろう。


むかし、悪口を人前で言ったことがないという人がいたため、自分もこれから一生、悪口を言わないと決めた。


そもそも『悪口を言わない』とはなんなのか。

それは、なにか意味があるのか?いい人ぶっていないだろうか?と思わないだろうか?自分でもそう思う。


『悪口を言うのをやめます』なんていうのは、いまどきの子どもだって宣言しないだろうし、人という生きものはやはり人間関係の上に成り立つもので、たまには悪口を言ってすっきりしたいことだってあるだろう。


基本的にその場にいない人の悪口を言うというのは最低だが、ある意味根付いた伝統的な文化でもある。


本当にこれを文化と呼んでもいいほどに、みんながみんな、たのしそうにだれかの悪口を言っている。


『悪口を言わない』と決めてしまった自分は偽善者以外の何ものでもなく、その代償として”発言が制限される”のである。


批判的な気持ちが沸いて来たときに、ただ思考回路を変えるしかない。


それが現実逃避だと言われようと、誰かを傷つけるよりはよっぽどマシなのかもしれない。


忍耐だ。人生は忍耐なのだ。


だれもやっていない突拍子のないことは出来そうもない自分は、偽善者の面を保つためにただひたすら、なにか決めたことを実践するしかない。


控えめにドアを叩くコンコンという音が玄関から聞こえた。



ハッとして起き上がる。


時刻を見れば、マスターが迎えに来ると言っていた時間を過ぎていた。



「玄関チャイム壊れてんの?押したけど鳴らなかったよ」


「ああ……チャイム……。そうですね、以前に少々近所迷惑があったので」


「へえ、近所迷惑ねぇ……。チャイムに関連する近所迷惑って、あれだ、ピンポンダッシュだろ?」



ドアを開けて、呼びに来てくれたマスターの顔を何気なく見る。


マスターもわたしの顔を見ていたため、目が合った。



「佐倉ちゃん、寝てただろ」



破顔したマスターはわたしの頭に手をおいた。


その手が思いのほか、温かかったのでわたしはそのままにしておいた。


目が細まったマスターの表情の変化にわたしはついて行けていなかった。



「へぇー、佐倉ちゃん家、整理整頓されてるね」



マスターが視線をわたしから外すと、部屋を覗いていた。


その視線は生きもの特有の忙しない動きだった。


”静”か”動”か、といえば明らかに後者である。



「あの袋、なに?」



マスターの視線の先を追って、その対象を確認する。


部屋に似つかわしくない袋のため、すぐに目に付く。


この部屋では、あの袋も居心地が悪そうだ。



「遺品です。友人の」


「そう……。それも燃やす予定?」


「はい」



紙袋ふたつ分のなかには、まだ使えそうなものが、彼女の家族からわたしに送られてきた。


心置きなく使ってくれと言われてはいたが、到底使う気にはなれなくて、置きっぱなしになっていた。



捨てるに捨てられないのなら、燃やすしかない。



マスターは袋からおそらく一番上に置いてあったであろう口紅を取り出して、手の甲に塗って色を見ている。


「使えそうなの、多いな。どうせだったら使ったら良いのに。もったいなくないか?化粧品なんて消耗品だろ、どうせ」


「マスター、お化粧するんですか?なんだか慣れてますね。よかったらマスターにあげますよ。使ってください」


「出来なくはないけど、似合うやつがするべきだよね。好き好んで俺がやる必要はまったくないよね」


「それにしても……これ、あんまり佐倉ちゃんに合う色じゃねーなあ」



ちらりと視線を寄越して確認した後、そのままわたしの顎を固定して、手慣れた様子でくちびるに色を乗せてくれるマスター。


鮮明なルージュより、すこし黒い感じが混じっている色味。



彼女は大人っぽい色を好んでいた。



それにしても人に施される化粧というのは目のやり場に困るものだ。


なんとなく気まずくなって目を伏せていた。



「遅い」



いつの間にか来ていた浅沼くんが、うしろからマスターにかるく(?)蹴りを入れたようで、その衝撃でマスターの持っていた紅がわたしの頬を掠める。



「おい、徹!佐倉ちゃんの頬に色ついただろうが!どうしてくれんの!しかも俺の尻がもれなく痛いんだけど!」


「佐倉さんの頬についたのがマスターのくちびるじゃなかっただけマシだ。佐倉さんのくちびるそれ自体が危なかったかもしれない……それよりなんでマスターが佐倉さんに口紅塗ってんだよ。この状況が解せない。どこをどうしてそういう状況になったか三十字以内で説明して。……やっぱいいや。マスター話すと長ぇわ」



一足先に浅沼くんを病院から拾って来ていて、浅沼くんは車内で待機していたらしい。


浅沼くんがわたしを引き寄せて、着ているシャツの袖でわたしの頬を拭ってくれる。


浅沼くんの白いシャツが赤に染まる。



「いや、浅沼くん大丈……」


「あ、徹も肌白いし、口紅似合いそうだよね」


「は?」


「ほら塗ってやるよ。くちびる出せ。オニーサンが塗ってやる」


「いや遠慮する」


「遠慮する仲じゃねーだろ」


「誤解される言い方やめろ」



浅沼くんとマスターの新たな取っ組み合いがはじまって、思わず笑ってしまった。


そんなじゃれ合いで時間は流れて、周囲は夜のなかに落ちていっていた。


河川敷に着いたのは、もう暗くなったころ。




車内でマスターに「ここで見るのかよ!」と止められつつも、プレゼントを心待ちにする子どものような気持ちで覗いた箱のなかには、たいへん満足するようなギターが入っていて、浅沼くんと目を合わせて微笑みあった。



「ギブソンだと思った?それともフェンダーだと思った?」


「選択肢は腐るほどあるんだから」



浅沼くんがギターの弦を弾く。


車内にギターの音が反響した。



「マスターのことだからディーンとかにするのかと思った」


「それならビーシーリッチまで行って欲しい」



ギターの形をイメージしながら話す。



「プレテクであの動画のノリを再現するんじゃねーの?」


「プレテクは価格的に……マスターは見栄はりそうだもん」




「モズライトでその歴史を語るのもありかなとは思った。モズライトの愛好家好きそうだし」


「リッケンバッカーでUK感醸すとかね」


「PRSは?」


「いや、燃やすって言ってるのにさすがに無理でしょ」


「他人事だからって料金面とか本当に考えないよな、お前ら。しいて俺にはコネクションというものがある」


「だからプレテクのあのノリを……」


「やらねーよ?」



なんていう会話で盛り上がった。



開けた河川敷に来てみると、ずいぶんと静かで、ひんやりとした沈むような空間が広がっていた。



「まるで井戸の中みたいだ」



浅沼くんの言葉に頷いて同意を示した。



「井戸ってなあ……暗転とかもっとべつの表現ないの、きみたち。本当に若々しさってものを忘れてるよな」



呆れたようなマスターのことばを聞き流して、わたしはギターを抱えてそのボディに触れる。


ギターのカタチもそこそこに、やっぱり材質も気になるところである。


ネックは大抵、メイプルかマホガニーだが、ボディはアッシュ、アルダー、ウォルナット、バスウッド、ローズウッドなど多彩だ。


もし奏者であるなら、なにより大事なのは音の相性だろう。



だが、今日はシンボリックな存在しか必要ない。


使用目的を逸した役割を担ったギターを祭壇に置く。



燃やす前に消防法とか一応念のためにチェックしておくべきだったなと思いながら、ほかに火が移らないよう、細心の注意を払う。


マスターが油をかけ、火をつける。



「火って、四大元素のなかで、いちばん繊細で希薄だよね」


火を眺めながら、無表情にぼそっとつぶやく浅沼くん。



「火は赤い?わたしは火の色を赤って思えないんだよね」


「火の色ねえ……佐倉さん曰く火の色はオレンジだって言いたいの?」



わたしのことばに浅沼くんが返してくれるが、上手いことばが見つからなくて首を横に振る。



風に吹かれて一瞬消えそうになるものの、形状を変えて燃え続ける炎を眺める。



「炎の発する光は複雑だよ。重力でも変わると言われているし、外と内の温度はちがう。究極的には酸素の問題かな」



化学的な話をする浅沼くんの意見を訂正する。



「そうじゃなくて……なんて言うか、もっとイメージの問題だよ」



一呼吸置く沈黙が生まれた。



道中でコンビニに寄って買った酒やつまみをひろげて、火を取り囲みながら晩酌をする。


火だけがゆらゆらと燃えている。




「さっき佐倉さんが言ってたイメージ、そういう全体性が大事だと思う。定義付けほど無駄なことはない。おれはこういう性格だからすぐ定義付けしちゃうけど」



「『あれはどういう意味何ですか?』という問いに『意味なんてないよ』とほんとうのおれは答えたいんだ。他人が納得してくれるような意味も一応、用意はしておくけど、結局それは他者理解を求めた優等生的な答えでしかない」



浅沼くんは苦々しげに心情を吐露した。



「だれかを特別な人間に仕立てあげる風潮がいやなんだ。特別にすぐれた創造的な人間だなんて思わされている、そんな感じが。そうすることで人が集まってくる。雑魚みたいなパラサイトみたいなそんなやつらが」


「クソみたいなやつはおいしいところだけ真似してきて、二番煎じの後追いを厚顔無恥でおこなう。それに負けじともっと頑張る負けず嫌いな自分が生まれる。並大抵の他人ごときが真似出来ない領域まで達して」


「それでカリスマだとか有名だとか言われて、天才崇拝そのものになる」



一度溜め息をつき唐揚げを爪楊枝に刺して食べる浅沼くんを横目に捉えながら、燃えるギターを一心に眺めた。



「創造が芸術家だけに特有のことだなんて言えやしないんだ」



マスターが浅沼くんに答える。



「あくまでこの世にはいろんな職業があって、創造する職だってそのうちのひとつにすぎない」


「それに正社員であろうと派遣であろうとアルバイトであろうと、そんな分類に囚われがちになるもんだが、実質はたらいていることになんのかわりもない」


「はたらく時間や待遇の違いは、もちろんあるけどね」



マスターは炎を木の枝で突つき、火が燃え移った木の枝を炎へ投げ込む。



「言うなれば、参加することに意義があるんだよ。すべてにおいて」



「仕事は、社会参加だ。芸術は、創造への参加だ」



怠惰なのか利己的なのか、なりゆきに任せておけばどうにかなると考えてはいないだろうかと自分に問いかける。



そんな物事も多にしてあったかもしれない。そう、小説や物語は展開任せが否めない。


映画だってゲームだって、あらかじめ作られたシナリオがある。


作られた枠のなかにある自由。それは自由なのか。



全部全部、出来上がったなにかだ。




それは人の創作のなにかに乗っかっているだけで、本当の自分ではないんじゃないだろうか。



いま、自分はなにをしたいのか。



火は燃えている。音もなく。



「進むべき方向を決めるときがかならず来る。そのときに必要なのがイメージだ」


「そのイメージを作り出すのが、芸術家なのかもしれないな」



マスターが話す。



「『あ、これが自分だ』と気付かせて『そうだ、自分はそういうことを思ってるんだ』と言わせるような代弁者になること。そこに媚びる、媚びないは関係ない。必要なのは自分のあり方、イメージだ」



「徹はさ、勘違いしてる。将来なにかが楽になるということはない。これまで以上に、過去にやってきたこと以上に責任が増える。ずっしりと重い荷物を背負い込んでいく。それが人生ってもんだよ」



それは羨望だったり、期待だったり。


憎悪だったり、敵対心だったり。


目に見えたり、見えなかったり。




「どうして俺がこの儀式に手を貸すか、わかるか?」



問いかけてきても答えを待つことなく、答えを求める様子もなくマスターは話を続けた。



「芸術は作るものなんだ」


「そして壊す。ふたたび、作る。そのくり返し」


「さて、壊したときに得ることが出来る代償はなんだと思う?」



わたしは言われた全体性について考えていた。



試みること、絶えず新しくなにかを発見すること、反復すること、壊れたり傷つくこと、回復すること、それら全体性の原理を思い出すこと。



「高度で難解だから専門家にしかわからないだなんて、詭弁なんだよ」


「偉人を知っているから頭がいいというわけでもない」


「用語を知っているから、その物事をしっかり理解しているというわけでもない」



「なにを見て、なにを考えるか。つまり感性と想像力の問題だ」



「徹にとってのこの炎と、佐倉ちゃんにとってのこの炎の捉え方はちがうだろう」


「でも確実にふたりになんらかの影響を与えるんだ」


「視覚として、記憶として、なにかとして。そしてそれは俺にとってもおなじだ」



「徹は根っからの表現者だよ。俺はそれが羨ましい。それは望んでも持ち合わせてはいないからな」


「だから自分の出来ることを選択してやるんだよ」



わたしはマスターの方を見なかった。


きっと浅沼くんも見ていないだろう。


マスターがどんな顔をして語っているか想像出来たから。


浅沼くんがどんな顔をしてその話を聞いているかも想像出来た。



目の前の炎に照らされて表情はよく見えるだろうに、


心の眼に映る表情のほうがずっとずっと鮮明だと思えた。



鎮火した後の残骸を眺める。


すべて燃えた。


きれいに燃えきったとは言えないけれど。



黒いものが残った。わたしたちには沈黙が残った。




よく考えれば、わたしはあまり話していない。


もともとお喋りなほうではなく、あくまで断片的にしか物事を話せない。



よく話が飛び飛びになって、なんの話をしているのかぜんぜんついて行けないと友だちに言われた。



わたしは話すのが得意ではない。



この想いは、どのようにしたら人に伝えることが出来るのだろう。



話すのが得意ではないと言い直って、それを他人に伝えて、他人から理解してもらおうという魂胆は持ちたくない。


だから、あくまで、自分のなかで、どのようにしたら相手に上手に伝えることが

できるのかひたすら考える。


マスターの思いとか、浅沼くんの思いをぼんやりと思い浮かべる。


それぞれが、それぞれなりに思うことがある。


そしてもちろん、わたしにも思うことがある。


それをすこしでもことばにしようと頭を働かせてみようとした。



そうしたら眼から自動的に涙が溢れてきた。



かなしいとかそのような感情が湧いたわけでもなく、ポロポロとこぼれ落ちてきた。




泣く場面で泣けなかったわたしが今さら、涙を流す。



そんなわたしをふたりは慰めるでもなく、なにか声をかけるわけでもなく、かと言って突き放すわけでもなく、ただわたしをそのままにしておいてくれた。



今すぐになにかが現れるでもなく、徐々に変化は起きてゆく。



これは言うなれば、きっかけなのだ。


きっかけが必要だった。




わたしはおそらく、泣きたかった。


泣きたいときに泣けたのなら良かったのに。



そして多くの物事は複合的だ。


なにかが動けば、なにかが変わる。


そんな因果関係。






あれから数年が経った。


わたしと、マスターと浅沼くんとの関係が別段変わったわけではない。



「じゃあね」も「またね」もないわたしたちの関係には、近付くことも遠ざかることもない。



わたしは無事就職を果たした。職を得た。


おかげで安定した収入を得る代わりに、時間を拘束される毎日を送っている。



浅沼くんは相変わらずそちらの方面で活躍をし、マスターも相変わらずBARを経営している。



しかし、目に見えないところで変化があったのはたしかだった。


口にはしないけれど、おたがいが理解している。



わたしは、気晴らしと自分のご褒美を兼ねた旅行に来ている。


長期休暇を取り、パンフレットやネットで調べて、飛行機や宿泊施設の予約を取る。



場所はスペイン。



昔からこの眼で見たいと望んでいたものを見に訪れていた。


荷物はさほど多くはしない。日数に関係なくスーツケースひとつでいい。


必要最低限を持ち、あとの物は現地調達しようと思った。



時を同じくして、浅沼くんも海外旅行をしているという連絡が入った。



彼はフランスのパリに居るらしい。


セーヌ川を写真におさめて送ってきた。


そして、たくさんの南京錠がかかった橋。


思わず笑ってしまった。





「恋人たちの愛が重くて、橋の崩壊の危機に面してる。皮肉なもんだね」


「この橋は、ポンデザール?アルシュヴェシェ?」


「ポンデザール」


「ああ、やっぱりね。有名ってたいへんね」


「ほんとうだよ。これじゃもうロマンでもなんでもない」


「偶像的である必要性はどこにもないのにね」




短文のメールのやり取り。


それでも浅沼くんがなにを言いたいのか、わたしには理解できた。


恋人たちのロマンティックな願いのあふれる橋。



永遠の愛を誓って恋人同士の名を書き、南京錠を掛けて、鍵はセーヌ川へ捨てるという儀式。



「佐倉さんもなにか写真撮ったら送ってね」と言われて、しばし考える。


自分が観光してからでもいっかと、考えなおして道をゆく。





スペインのバルセロナにある『サグラダファミリア』。


またの名を『聖家族贖罪教会』。


いまだに未完成で、2026年に完成されると言われている。


わたしは昔から『ガウディ』という建築家が好きだったのだ。


彼の作品は、自然界の形や曲線を表現していると言われている。



美に言葉や説明は要らない。言葉で表現することが不可能なのだ。


ただ、圧巻の美しさがそこに存在する。



工事用の足場さえまだあるというのに、その存在感たるやことばを失くす。




うつくしい建築物を見上げたり眺めたりしながら、わたしはこころの中でなにかを祈った。



贖罪の名に相応しい。



あなたのために祈ることくらいなら、いまのわたしにも許されることだろう。




マスターからもメールが入っていた。



「佐倉ちゃんがいま、スペインにいるってマジ?なんで誘ってくれないの?」



マスターが得た情報は、いったいどこ情報なんだと思いながらも返事を返す。


マスターの情報網は侮れない。



「おみやげ、買って帰りますね」


「いや、おみやげの催促じゃないんだけどね。無事帰ってこいよ。……あ、でも変なおみやげは要らないから。ネタに走ったようなやつ、ぜったい要らないから。実用性のあるものでお願いします」


「……あと、変な輩に気を付けること!」



マスターの親のような気遣いに思わず顔が綻んだ。



「マスター、いつもありがとう」


「いいえ、どういたしまして」



マスターへのおみやげは、フラメンコギターのCDにしようかなと思いを巡らせていれば、かばんに入れていたiPodの存在を思い出した。


あらかじめ同期して入れておいた『パコ・デ・ルシア』を選曲する。


イヤホンを耳にかけ、しずかに音楽が流れ出し、それと同時に胸いっぱいにスペインの空気を吸う。


時間が経てば、『ビセンテ・アミーゴ』が流れるだろう。



スペインにいる限りは、スペインの気分を存分に味わおうと思った。


常になにかに縛られているなんてごめんだ。



『カサ・ミラ』というガウディの晩年の作品を眺める。


直線が全くない。まるで海の中に居るような気分になる。


芸術はいい。ただ受け身に、受動的にしているだけでいろんなものが流れ込んでくる。


だれかが伝えようとした、残そうとした思いや努力やそういった欠片を垣間みることができる。


つぎに『カサ・パトリョ』に訪れ、壁が青や白のタイルで彩られているのを見れば、さらに海のなかに居るような気分になる。



壁に埋め込まれたステンドグラスが美しく、屋根の形状がドラゴンの背中のように見えると言われていたりする。



『カサ・ミラ』は色彩感が乏しいので、『カサ・パトリョ』を好むひとのほうが多いかもしれない。


色彩に疲れたひとは、その逆を好むだろう。




芸術を堪能した後は、独特の疲労感に包まれるので、いつも自分の観光の予定には休憩時間を多めに取っておく。



ただ眺めているだけなのに、なにに疲れるのかわからないのだけれど。


たぶん、それは感受性というなにかが働いているのだろう。


グエル公園に訪れ、ベンチに座り眺望を楽しみながら、『カサ・アマトリェール』というところで買ったチョコレートを口にする。



チョコレートは疲労を癒してくれるような気がするから不思議である。



このグエル公園は、ガウディと、ガウディのパトロンであり、よき理解者でもあったグエル伯爵が建造した。



当初、ふたりの発想はぶっ飛び過ぎてて周囲には理解されなかったらしい。



なぜかわたしは浅沼くんとマスターの顔が思い浮かんで、微笑をもらした。


砂糖をまぶしたなにかのような甘みがこころを満たした。



リフレッシュするために遠くに来ても、戻ってしまう想いというものがあるのだ。


そこをまるで自分の居場所のように感じている。


その居場所も、もしかしたらいつかは消えてなくなってしまうかもしれないし、それ以前に崩壊してしまうのかもしれないけれど、こうして、たしかに居場所を実感している。



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