天賀茂の狼

「ただいま戻りました」

 三峯みつみね刈無がるむは玄関で靴を脱ぎ、広い屋敷の中に声を響かせる。無造作に伸びた黒髪に、射るが如き黒い炯眼。左手には鞘に入った日本刀を持っている。

「ガルにぃ! おかえりー!」

 満面の笑みを浮かべ、天賀茂多央は廊下を駆けて刈無に飛びついた。

 刈無は縋り付く多央を無表情で引き離す。多央は頬を膨らませてそれに抗議した。

「姫、私のことは刈無とお呼びください。それから廊下を走ってはなりません」

「やだ! ガルにぃはガルにぃだもん。それから私のことは多央って呼んでよう」

「そのような恐れ多いことは出来ません。私は天賀茂家にお仕えする身」

「昔は名前で呼んでくれたのに……」

「あの頃の私は自分の立場を弁えていなかったのです。無礼をお許しください」

「そんなこと言うガルにぃは嫌い! なんでそんなこと言うの?」

 表情を変えない刈無を見上げ、多央はその目を真っ直ぐに見つめる。その目には戸惑いはなく、感情が含まれていない。

「こら多央、刈無が困ってるだろう。やめなさい」

「ジンにぃ――」

 紺色の着流しを身に纏った長髪の男、天賀茂迅宜じんぎはそう言って多央を窘めた。

「刈無、ご苦労だったな。昨日の夜から出てもうすぐ二十四時間経つだろう。少しでも眠った方がいい。ただその前に、少し話をいいか?」

「はい。何でしょう?」

「ここじゃなんだから、後で俺の部屋に来てくれ。あ、大分後でいいぞ。風呂にでも入れ」

「わかりました」

 刈無は迅宜と多央に一礼すると、すぐ近くにある自分の部屋に入った。刀を床に置き、箪笥の中から着流しを出して風呂場に向かった。

 早々に風呂を上がり、迅宜の部屋に向かう。この天賀茂本家は日本家屋なので、ドアではなく引き戸になっている。ノックをせずに声をかける。

嗣君しくん、三峯です」

「入ってくれ」

 戸を開け、刈無の部屋の数倍はあるだろう広い部屋に入る。迅宜は中央に置かれた机の奥の座布団に腰かけている。机の前にはもう一つ座布団が置いてあり、迅宜は刈無にそこに座るように勧めた。

「失礼します」

「なあ刈無、多央をあまり責めないでやってくれ」

 刈無が正座するとすぐに迅宜が口を開いた。

「そんな――私は姫を責めるつもりなど全く――」

「そうじゃない。お前はもっと俺達に気兼ねなく接してくれていいって話だ。お前が肩身の狭い思いをしてるのはよくわかるが、兄弟同然に育った俺達にまで気を使う必要はないんだ」

「姫にも申しましたが、私は天賀茂家にお仕えする身です。そのご子息であるお二人に無礼を働くことは出来ません」

 迅宜は大きく溜め息を吐く。

「お前を天賀茂家の『掃除屋』としてこき使っているのは、本当に申し訳なく思ってる」

「私は天賀茂家に多大なご恩を感じています。嗣君は何も気に病むことはありません」

 話は以上でしょうか――刈無が訊くと、迅宜は本題はここからだと居住まいを正した。

「お前も見ただろう。多央のあの格好」

「制服――ですか」

「ああ。あいつ、お前にも見てもらうんだと張り切ってたな。まあ、今の話題はそこじゃない。あいつを城南高校に編入させたことについてだ」

「私はよく知らないのですが、それは猊下のお心遣いなのではないですか?」

 天賀茂家の人間及び刈無は学校には通わず、家の中で教育を施された。

「いや、違う。実は城南高校には、焦点街の人間が多数紛れ込んでいるんだ。親父はその調査を多央にやらせるつもりなんだよ。それに、偽名も用意せずに本名で通わせている。囮としても使うつもりだろうな」

 不安じゃないか?――迅宜に言われ、刈無は返答に窮する。

「しかし、姫の力ならば焦点街の有象無象など恐れることもないのでは?」

「あいつの力は強大だが不安定だ。こんなことには向かない。そこでだ」

 迅宜は刈無の目を真っ直ぐに見据える。

「お前に多央の警護を頼みたい」

「しかし、私には怪忌の駆除が――」

「それはささめさんや右京うきょうさんにも頼む。今までのお前の負担は大きすぎた。この任務なら一応規則正しい生活は出来る」

「猊下は、このことをご存知なのですか?」

 親父か――迅宜は苦い顔をする。

「親父は俺が説き伏せるよ。あの人だってお前のことを息子のように思ってる。今のお前のハードワークを説明すれば納得するだろ」

 刈無は暫く考えるように顔を下に向け、逡巡の末に結論を出す。

「では、猊下のお許しが出たのならそのように致します」

 迅宜はそれを聞くと安心したように笑った。

「ああ、頼むよ。長いこと話して悪かったな。すまないが明日多央が家を出るのは早い。早めに寝てくれ」

 刈無は頷いてから立ち上がり、失礼します――と言って部屋を出た。

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