黒い本の歪な童話達

秋華

ひとつめの話 カニバ兄妹の9ページ目

 気がつくと、望月は濃い緑色をした水の中に居た。

 苦い水が口から勢いよく体に入り、呼吸がままならなくなる。

 浮上しようと足掻こうとするが、セーラー服が水を吸い込んで動けない。

 もがこうとする間に、水が体に入っていく。

 どんどん沈みながらも、尚足掻く。けれど浮上することはなく、ただ苦しくなるだけだった。

 ――ああ、もう駄目。

 望月が諦めて足掻くのをやめた時、不意に四つの手が望月の腕を掴む。

 腕は望月を力任せに水面へと引き上げた。水面に上がり、慌てて呼吸をする。

 そんな望月を、二つの腕が陸へと引っ張っていく。

 引っ張られながら呼吸を整え、陸に上がる。

 ようやく落ち着くと、望月は辺りを見回した。

 足元はティラミスでできていて、その上に砂糖菓子の草が生えている。

 望月が先程まで溺れていたらしい池は、濃い緑色をしていた。

 望月の口の中が、その水の味で満たされている。慣れ親しんだ、緑茶の味だった。

 状況が一向に掴めない望月の背後から、幼い声がした。

「大丈夫?」

 望月が振り返ると、そこには十歳程の少年と、それより少し幼い少女が居た。

 二人には狼の耳としっぽが生えていて、それが元気に動いていた。

「はい。大丈夫です」

 望月の返事を聞くと、少女と少女が嬉しそうに笑う。

「緑茶の湖は苦すぎるからね。それで失神して、溺れてしまったんだね。

 今度は、オレンジジュースの川にするんだよ」

「お兄ちゃんの言うことは、あんまり気にしないでね。いつも変だから。

 でも、無事でよかったわ」

 本能的に二人に恐怖感を感じて、望月は逃げだしたくなった。

 けれど、そうはしない。見知らぬ場所で一人きりにはなりたくなかった。

「まぁ、それより君、これから僕達の家に来ないかい?

 クリームの塗られた壁に顔をうずめるの、楽しいよ」

「相変わらず、変な遊びが好きね。でも、そうね。

 私達の家にいらっしゃいな。御馳走してあげるわ」

 二人が強引に望月を引っ張っていく。

 そこに断る隙はない。元々流されやすい望月は、二人に手をひかれ歩いていく。 

 歩きながら、望月は自分が何故ここに居るのかを考えた。

 彼女がここに来る直前の記憶は、図書館で本を開いたこと。

 いつものように図書館に行って、偶然背表紙が黒い本を見つけた。

 タイトルも何も書かれておらず、ただまっ黒なだけの本。

 気になって適当なページを開いてみたら、ここに居たのだ。

 しばらく歩いて、少年と少女が足を止める。そこは、まさしくお菓子の家だった。

 板チョコレートのドア、硬い焼き菓子でできた壁、そこにクリームやチョコレートで貼り付けられた数多のお菓子達。

 家の中に入ると、床はスポンジでできていて、クッキーでできたテーブルと椅子があった。

 他の家具もお菓子でできていて、甘い臭いが漂っている。

 望月は椅子へと案内される。少女と少年はテーブルの上に、次々とお菓子を並べていく。

 最後に、タルトでできたカップにココアを入れて出してくれた。

「お腹がすいたでしょう。さぁ、お食べなさい」

「美味しいよ。あっ、でもドロップには気をつけて。あの白い奴は不味いんだ」

「私もハッカは苦手だから、入っていないわ。心配しないで、さぁ、どうぞ」

 大してお腹は減っていなかったが、二人の好意を断り切れず、望月はお菓子へと手を伸ばす。

 一つめのケーキを食べながら、望月は二人に尋ねる。

「ここはどこなんですか?」

「ここは、お菓子の森。貴方が開いた本の中なのよ」

「本の中ですか?」

 思わず首を傾げる。

「貴方が開いた本の一ページ。ここが、そうなの。

 この本は人を食べる為に、人を本の世界へと入れてしまうのよ」

 望月の顔に動揺が現れる。少女は笑って、大丈夫よ、と言った。

「まだ貴方は食べられていないわ。

 この本の口にあたる部分に入らない限り、食べられたわけじゃないの」

 望月がほっと胸をなで下ろす。でもね、と少女は言った。

「私達は違うけど、この世界の人達は皆きっと貴方を本に食べさせようとするわ。

 でないと、いずれこの世界が餓死してしまうし。本に食事をあげると、ご褒美があるしね。

 だから、貴方が外の世界に戻ろうとすれば、危険な目にあってしまう。

 だったら、ねぇ、いっそ、ずっとここに居ない?

 私達とお菓子を食べて、遊んで暮らすの。きっと素敵よ」

「ごめんなさい。それは、できません」

 望月は即答した。

「まぁ、無理強いはしないわ。まずは、食べなさいな」

「あの、もうお腹いっぱいで……」

 この時点で、ケーキを二つ食べている。これ以上は、もう入らなかった。

「じゃあ、私達が食べさせてあげるわ」

「えっ?」

 少年が、望月の後ろに回る。そして、グミでできた紐で、望月の両腕、両足を縛ってしまう。

 抵抗する間もなかった。

 望月は慌てて紐を外そうとするが、紐は硬く結ばれていて、到底外れそうにない。

「ど、どうして」

 混乱する望月に、少女がスプーンにゼリーをすくって、望月の口へと運ぶ。

「はい。あーん」

 少女は片手で望月の口を無理やりあけ、もう片方の手でゼリーを口の中へと押し込む。

 思わずそれを飲み込んで、望月はもう一度、何故、と問おうとした。

 けれどそれより早く、少女が二口目を押し込む。

 続けて、三口目、四口目。

 考える間も、抵抗する間もない中で、望月は死だけを予感する。

 このまま、食べすぎで死んでしまうのでは、と。

 一人恐怖する望月の耳に、ドアを殴る音が届いた。

 少女の手が止まる。少年も、ドアを見た。

 ドアを殴る音は連続的に鳴り響き、段々大きくなる。やがて、ドアは真ん中から折れ、壊れた。

 望月の体がビクリと震える。ドアを破ったのは、二十代前半の若い男だった。

 シルクハットを被り、タキシードを着ている。明らかに日本人だったが、不思議とその格好が似合っていた。

 その肩には、小さなネズミが眠っている。

「帽子屋」

 少女が緊張した声で、男の名を呼ぶ。望月の後ろに居た少年もどこか緊張した様子で、男を見た。

 帽子屋がにやりと笑う。

「悪いね。その子は、私が五年も前から目をつけていたんだ」

 帽子屋はそう言うと、少年と少女に向かって突進する。

 そして瞬く間に二人を殴り倒した。

 二人が完全に気絶したことを確認すると、帽子屋は望月の拘束を解く。

 状況が飲み込めない望月に、帽子屋は軽く微笑みかける。

「無事かい」

「はい。ありがとうございます」

「いやー、食べられる前に間に合ってよかったよ。五年が無駄になる所だった」

 望月は、軽く首を傾げる。

「むしろ、食べさせられていたような気がするんですけど」

「最終的には食べられるんだよ」

 帽子屋は、少年と少女の目的を話し始める。

「この子たちはね、子供を食べてしまうんだよ。

 子供を見つけたら、ブクブクに太らせて、美味しく料理してしまう。

 後一週間遅かったら、君は衣に包まれ油の中。胃袋の中」

 思わず想像して、望月は体を震わせた。

 そんな望月を安心させるように、帽子屋は言う。

「私がついている限り、大丈夫だよ。さっ、とっとと逃げようか」

 帽子屋が手を伸ばす。その手を取ろうとして、望月は気がついた。

 どうして、帽子屋は自分を助けてくれたのだろうと。

 少女の言葉を思いだす。

 少女は、この世界の人達は皆望月を本に食べさせようとする、と言っていた。

 ――もしかして、この人も?

 本に望月を食べさせるために、望月を助けたのでは。

 そうでなくても、少年と少女のように望月を食べようとしているのかもしれない。

 疑念が湧きあがる。幸い、拘束は解かれている。逃げるなら、今のうちだった。

 帽子屋に背を向け、ドアと反対方向へと走り出す。

「あっ、ちょっと、待って!」

 帽子屋が呼びとめるが、望月は振り返らない。

 望月は走りに走って、ドアをくぐりぬけて、ある部屋へと行き着いた。

 そこには、窓も、他のドアもなく、逃げ場はない。

 隠れられそうな場所は、クローゼットのみと限られていた。

 望月は迷わずクローゼットの中へと入り、そっと息をひそめる。

 やがて帽子屋が、部屋の中に入ってきた。

 ―――気づかないで。

 息を殺しながら、そっと祈る。しかし、あっけなくクローゼットは開けられた。

 隠れる場所はここしかないのだから、当然の結果だった。

 怯え、震え、涙を流す望月に、帽子屋は困った表情を浮かべた。

「安心してくれよ。私は人食いの趣味はないって。私は少し、君に頼みがあるだけさ」

 その少しが問題なのだ、と望月は思う。

 帽子屋は警戒する望月の様子を伺いながら、説明した。

「ここは、人食い本の中でね。この世界の人間は、背表紙、本の口へと君を運ぼうとする。

 本に食事を届けた人間は、褒美として一つだけ願いを叶えてもらえるからね。

 でも、私はそんなの興味ないんだ。私の願いは、この本の世界を旅したいだけだからね。

 こんなお菓子しかないつまらない世界、私は嫌だ。でも今の私は、このページから出れない。

 他のページへ繋がる扉を開けるのは、外の世界の人間だけだから。

 だから、君が良ければ、私を他のページへ連れてってくれないかい。

 その代わり私は、君を本の表紙へ……出口へ連れてってあげよう」

「出口、あるの?」 

 望月の問いに、帽子屋は頷く。

「そりゃあるよ。で、どうするんだい」

 帽子屋が再び手を伸ばす。

 おずおずと、望月も手を伸ばした。

 恐怖がないわけではない。信じたわけでもない。

 逃げ場がないから、仕方なくそうしただけ。安全な場所に出たら、隙を見て逃げるつもりだった。

 帽子屋の手を握る。少し冷たい手の温度は、誰かのものに似ていた。

 決して思い出すことはない、優しい誰かに。

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