第23話 長雨

 王国暦三百八十二年の春。ライネガルドのほぼ全域を厚い雲が覆った。晴天が続く季節に珍しいこの灰色の雲が、全ての騒動の始まりだった。

 雲がかかって数日後、春の陽気を感じることが出来ずにいた人々の頭上に、ぽたりと大粒の雨が降り始める。当初彼らはこの雨を歓迎した。雨が降れば雲が晴れるのは自明の理だ。ようやっと日光を拝めると一足早く顔を晴らしていたが、しばらく後その顔にも雨を降らせることとなった。

 雲は数日を過ぎても晴れる気配を見せなかった。それどころか雨は増々勢いを強め、ライネガルドに降りしきる。ようやく雲が薄くなり、太陽の光が差し込んだのは、雨が降り始めて十日も過ぎた頃だった。



「被害状況を報告いたします!」


 長雨が止んだ後、領館の書斎に各地に急行させた家臣たちが戻ってきた。父上の傍らで領内の報告を受ける内に立ちくらみを起こしそうになるも、表情では平静を保って頷き続ける。


「父上」

「ああ、拙いことになったな。収穫前の小麦畑がほぼやられるとは……」


 彼らを退室させ、執務机に座る父上に振り返ると、その額にはわずかに汗が滲み出ていた。


「早急に対策を打たねばなりません。幸い、豆やかぶなどの収穫は既に行われていた為、非常時にはそれを食料にできます。備蓄の一部を放出すれば、領内の食料は十分に供給することができるでしょう」

「領内は良い。だが……」

「ええ。輸出先であった他領が未知数です。ですから――」

「大量に買い付けが行われるかもしれないということだな」

「はい」


 農業改革の成果によりクラネッタの備蓄は潤沢だったが、そのすべてを他領に送るわけにはいかなかった。長雨によって畑も荒れてしまった為、今年の収穫が不透明になってしまったからである。


「それでも各領へ適切に分配がなされればなんとか賄えるでしょう。ですがそれを利で動く商人たちに任せては、飢える人々が出てしまいます」

「領内の価格統制、商人たちからの供出は行う必要があるな」

「はい。それに加えて領外へ大量に持ち出しを禁止する事と、他領に対する知らせが必要となります」

「知らせとは?」

「被害の大きい領地から順次適切な価格で提供する旨を知らせ、所領の状況を申告して貰うのです」

「ひとつ、懸念が残る」


 父上は俺の提案に頷くも、右手の人差し指を立ててそう呟いた。


「確かにそれが正確に申告されれば、分配は確実になされよう。しかし、自らの所領を優先させるために、虚偽を行う者が出るのではないか」

「間違いなくそう考える者は現れるでしょう。そのため虚偽を申した所領は後回しにすると釘を刺す事に加え、私たちからも調べを送る必要があります」

「『耳』を使うのだな」


 察しの良い父上に微笑みで応える。クラネッタの隠密である『耳』、普段は市井の暮らしに混ざってその暮らしぶりや、役人などの不正を伝える者達の総称である。彼らを各領に派遣して秘密裏に調査させ、申告と照らし合わせる事で虚偽を見抜く。俺の案を承認した父上は、すぐさま耳達への指示を送った。



 領内外への知らせを行った数日後。書斎で他領への支援準備を進めていると、アミーンの商人達との折衝を任せていたクロードが戻ってきた。


「姫様。アミーン内の商人達から備蓄食料の供出を行いました」

「お疲れ様。クロード、商人達は言うことを聞いてくれた?」

「標準価格で買い上げることに渋る者もおりましたが、流石は商人といったところでしょうか。皆この地で商売を行い続ける事を選んだようです。買い上げた食料の代行販売に手数料を支払う事で、僅かながら利益も与えております。この件でクラネッタ家に恨みを抱く者は少ないかと」


 そう報告し、机に座る俺に向かって頭を下げる。その所作は、元浮浪児であることを微塵も感じさせない堂に入ったものだった。感慨深げな視線に気付いたのか、クロードが濃い青色の頭を上げた。


「姫様? いかがなされましたか」

「いや、よくやってくれたね。ありがとう」


 クロードの迅速な交渉により領内での販売額は安定し、民衆はパニックを免れた。十分な食料の供給が受けられない限り、彼らは他領への支援を許しはしないだろう。その懸念を取り除いた今回の働きは、目立たぬが並々ならぬものであった。


「姫様の御為ならば」


 灰色の瞳を嬉しげに細め、クロードが力強く答える。彼は直属の臣の中ではエミリーに次ぐ古参であり、その働きぶりとクラネッタへの忠誠から、若くして都市の運営の一角を任されるまでに重用されていた。保護された時のやせ細った身体は、今やたくましいまでの身の丈となったが、その瞳に宿る高潔さは何一つ変わってはいなかった。


「これで支援への準備はほぼ整った。各領へ送った使者と耳達が戻り次第始めよう。暫く忙しくなるよ」

「はい。すでに遠距離運搬に備え、馬車の車軸の補強も行っております」

「そうか、それは忘れていた。他にも気付いた事があれば頼む。その時は私の名前を使ってくれて構わないからね」

「御意!」


 細部にまで行き届いた重臣の心配りに満足しながら、俺は父上に任された仕事を続けた。

 だが、数週間後に各地の情報と共に届けられた知らせが、再び俺達を苦悩させる事となる。

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