Ⅲ
ゴゥンゴゥンゴゥン――
今日もまた、大機関の音が都市の至るところから響き渡る。都市の半分は蒸気に覆われ、頭上には、やはり相変わらずの灰色の空が広がっていた。
その空の下、人々の生活や往来もまた、相変わらずである。
市街の各地をロンドン市民がせわしなく行き交い、大量の
そんな中を悠々と歩く男が二人。トバリとヴィンセントは、大通りの人波の流れに乗りながら徐々に、徐々にと、身綺麗な人たちの流れから離れていく。
代わりに周囲の人の身なりは小汚く、みすぼらしさが増していった。それと同時に、人間らしさもかけ離れていく。そうしてすれちがうのは、頭に獣の耳を生やす少女に、身体の露出部に爬虫類のような鱗が浮かんでいる老人。身体が異様に巨躯な男や、一部が異形の者など……まるで幻想世界にでも迷い込んだような光景だった。
「
すれ違う奇形の人々の姿を横目に見ながら小さく零すと、ヴィンセントは気難しげに眉を潜めて、
「第一次産業革命から、労働者の酷使は問題視されていた。そして機関革命によってそれはより一層酷いものとなった。その改善のために生み出されたのが、遺伝子改造による労働種たち――まったく、忌むべき人類の愚行だな」
ヴィンセントの言葉に、トバリは「ほんと、頭イカれてるよな」と肩を竦めて見せた。
――遺伝子工学。
それは蒸気機関革命によって生まれた高度演算装置――《
当時、遺伝子工学は宗教家たちや一部の神学者たち、あるいは倫理を唱える者たちから「生命に対しての冒涜的行為」と非難に晒された。だが、発展を続ける科学技術や産業の拡大化が齎した労働者の酷使に対し、この技術は一つの光明とも捉えられ、最終的には多くの支持を得て実施された。
そうした背景と共に遺伝子工学が世界に齎したもの。それは労働者に代わる、新たな労働力の人為的誕生である。
ヒト遺伝子を
人に似て、人とは絶対的に異なる種族。人の身にあらざる、獣の容貌を持つ偽人。
哺乳類。爬虫類。両生類。鳥類。犬や猫、熊や蛇。鷲や海豚……用途において配合される動物遺伝子は様々で、それぞれの分野の必要に応じて彼らは作られた。
過酷な労働をかせようとも、彼らは文句を言うこともなく働き。
時に事故で命を落とそうとも、すぐに替えの利くという理由で顧みられることもなく。
彼ら労働種は、まるで奴隷のように酷使されていった。
そうして十九世紀が半分を過ぎる頃には、あらゆる産業は彼ら労働種によって賄われることとなったのである。
しかし、そんな労働の現場光景は、長くは続かなかった。
ヒト遺伝子を素体としている。それは言ってしまえば、彼らの
ならば――
彼らは思った。
何故、自分たちがこうも苦渋を被らねばならないのだろうか?
彼らは考えた。
何故、自分たちが彼らの代わりに働かなければならないのか?
それは当然の疑問だった。
それは当然の帰結だった。
そして疑問が抱かれてしまえば、あとはもう――歯止めは利かない。
彼らが生まれて半世紀余りを経て辿り着いたその疑問が、彼らに積み重なり続けていた不満が――頂点に達するのは、それほど時間はかからなかった。
抑圧され続けた奴隷が辿り着く答えは決まっている――反乱である。工場などの作業現場で酷使され続けていた労働種たちが、一斉に発起したのだ。
元より人より発達した四肢や感覚器官を備えた彼らの戦闘力は、並みの人間の比ではない。如何に蒸気機関の発達によって優れた機械や兵器があっても、それを振るうのが人である限り、限界があった。
屈強な体躯や俊敏な動物の遺伝子を持つ労働種相手では、運動能力の
結果として労働種の待遇は過去に比べてかなり改善され、現在では正当な報酬の元に被雇用者としての扱いを受けるという形で落ち着きを見せている。
この一件以来、遺伝子工学に対しての風当たりは発達当初よりもはるかに厳しいものとなり、今では禁忌としてあらゆる実験の禁止が法によって定められた。
尤も、そうならざるを得なかった理由はほかにもあるのだが、今は関係ないことだ。
「にしても――四〇年ばかり
「当然だよ、トバリ。私は知識人だ。現世に舞い戻った以上、その時代の社会事情くらい熟知していなくてどうする?」
皮肉を投げると、ヴィンセントそう答えながら含みのある笑みを浮かべた。
「それにしても、蒸気機関革命か……まったきバベッジは、たった一つの発明で文字通り世界を一新したわけだ。いやはや、まさに見事の一語だよ」
まるであの
「あー……ヴィンス。お前、ミスター・バベッジをご存じで?」
「ああ。彼がまだ若かりし頃、ほんの少しだが教えを説いたことがある。まさかあの時の若造が――と思うと、なんとも感慨深いものだよ」
しみじみと語る初老の紳士の横で、トバリは「ホントになんでもありだな、アンタ……」と苦言を零しつつ、ふと周囲に視線を巡らせて、
「……ふーん」
まるで人の気配がないことに気づく。如何に此処がホワイトチャペルとはいえ、住民すべてが日銭を稼ぎに出ているわけではない。むしろ稼ぐことすら諦めた乞食のほうが余程多い区画だ。いつもなら――そう。二人のような身なりの整っている人間が訪れようものなら、物陰から無数の視線が向けられているはずのこのホワイトチャペルで。
何故か、今日に限って人っ子一人見当たらず。またこちらの隙を窺うような視線もなく。
(――何か……可笑しいな)
トバリは周囲への警戒を強める。
災害時に、犬猫が遠吠えを上げるように。
鳥たちが一斉にその土地から飛び去るように。
(――まさか……な)
そう思いながら、同時に意識しておくに越したことはないだろうと改めて。
コートのポケットに突っ込んでいた手を出して、代わりにコートの裏に隠れている腰帯へと添えてヴィンセントに並ぶ。
しかし、そんなトバリの変化になど露とも気づかぬ彼は、訝しげに眉を顰め「どうしたトバリ。随分浮かない顔をしているな。もう少し気楽に構えたまえ」とのたまう始末である。
トバリは盛大に溜め息を零し――そして底意地の悪い笑みを口元に浮かべながら言う。
「まったくお気楽だな、
すると、錬金術師は不敵に微笑んだ。
「それはそうだろうとも。最高の護衛を伴っていると自負しているのでね。魍魎あふれる魔窟と呼ばれる
そう、したり顔で語るヴィンセントに、トバリはほとほと呆れて「そいつはどーも」と肩を竦める。
最も、彼らがそんな軽口をたたけたのも、ロンドン病院に着くまでの話だった。
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