――ホワイトチャペル地区ロンドン病院。


 正確にはロンドン病院付属研究施設。蒸気機関革命以降、飛躍的成長を遂げた医療の研究のために増設された施設であり、通称――実験棟。医療などに関係するさまざまな治験・研究を行う専門の施設であることからそう呼ばれているのだが、この施設で何が行われているのかは、関係者以外誰も――それこそヴィクトリア女王ですら知らないと言われている。


 そして二人は、その実験棟の正面玄関前に立っていた。

 並び立つ二人は、揃って周囲に視線を向け――そして、徐にヴィンセントが尋ねる。


「つかぬこと訊ねるが……あー、トバリよ。此処はこんなに無警戒な場所だったかな?」


「いいや……滅茶苦茶厳重な警備だったはずだぜ?」


 答えながら、トバリは以前この辺りを訪れた時の自分の記憶を探る。普段ならば、この施設の前には厳重と言っていいほど厳重なまでの、屈強にして重装機関兵器ヘビー・エンジンアームで身を固めた警備員がいたはずである。

 だというのに、今はどうだろう。警備員はおろか、人影など一つとして見つけられない――まさにもぬけの殻という状態だった。

 そしてこれ見よがしにほんの僅かだけ開いている入口。


(これ……どう見ても罠だよなぁ)


 と、訝しむトバリを余所に、


「さて――では入るとしようか」


 そう言って、迷いなく実験棟の扉に手をかける阿呆ヴィンセントに、トバリは「おいっ」とその背に声を掛けるも、彼は耳を貸さずに盛大に扉を開けて振り返った。


「何をしているんだ?」

「少しは怪しめよ。どう見ても様子が可笑しいだろうが……」


 呆れて愚痴を零しながら、トバリはやれやれと肩を落とし、言うだけ無駄かと嘆息する。こうなったらなるようになれ、だ。

 さっさと研究棟に入っていったヴィンセントの後を追い、トバリは辟易としながら建物の中に足を踏み入れる。

 そして薄暗い研究等の中を目の当たりにして――一言。


「――はは、こいつはすげぇ」


 中は、凄惨の一言で片づけるにはあまりに悲惨な有様だった。

 建物の玄関広間エントランスホーム。ただ其処に立っただけだというのに、鼻腔を刺激する強烈な鉄錆の臭いと、それに交じる腐臭。そして白かったのであろう床を彩るどす黒さ。そして天井や壁、床の至る所に転がる肉片――何が起きたかなど、想像したくもない地獄のような光景が広がっていた。

 情人ならば、現場を目にした瞬間胃の中のものを逆流させるか、そうでなければ気絶するであろう惨劇の場だが――トバリは不快感に眉を顰めるものの、さして気にした様子もなく、部屋の真ん中に立つ雇い主の元へ歩み寄った。


「こりゃ酷いな。これで『問題なし』なんて判断した警官ヤードは目が腐ってたのか?」


「まあ、間違いなく買収されているだろう。そうでないなら、この情景を見て精神に異常をきたして判断能力を失ったかのどちらかだ」


 軽口を叩くトバリに、しかしてヴィンセントは至極真面目な表情で言った。

 まあ間違いなく後者だろうなぁと判断しながら、トバリは辺りを見回す。

 何度見ても〝見るも無残な〟という言葉がまったき相応しい有様だった。建物に入ってすぐの部屋がこれでは、果たして奥がどんな状況なのかなど、考えるもの莫迦らしい。

 こりゃ調査なんてしないで兎にも角にも帰ったほうがいいんじゃないか。なんて考えてヴィンセントを振り返り――その視線の先にふと、姿を現す人影が一つ。

 薄暗がりの建物の中。異様な暗さで奥が覗けないエントランスに通じる廊下の入り口に立つ誰かの姿に、トバリは警戒するように視線を鋭くし注視する。


 影――ゆらりと立つ人の姿。


 暗がりの中であるが、トバリの目にはその姿がはっきりと浮かび上がっている。まだ若い女性だ。入院患者などが着る病院服に身を包んだ、肩ほどまで伸びた金髪の女性。


 件の娘――エルシニア・リーデルシュタイン、らしき姿。


(あぁ、くそ……厭な予感がしてきたな)


 彼女の姿をはっきりと視認した瞬間、トバリはそんな予感に捉われていた。まあ、厳密にいえばこの仕事ビズが舞い込んで来た時からそんな気はしていたのだが……エルシニア・リーデルシュタインの姿を見た途端、その予感はほとんど確信となっていた。

 一体どの世界に、こんな狂気じみた施設内に留まる人間がいるというのか。しかも彼女本人に至っても、目は虚ろで焦点があっておらず、足取りは覚束ないもので、おまけに着ている衣服の随所が赤黒く染まっている始末。

 誰がどう見ても、怪しさ満点である。


 ――だというのに。


 何故だろうか。トバリにの雇い主たる彼。ヴィンセント・サン=ジェルマンは、


「おや。そこにおります方はもしや……ミス・リーデルシュタイン嬢ではありませぬか?」


 さも当然と言わんばかりに、極めて紳士的に声を掛けていた。

 どうして、この男はそんな怪しさの塊のような相手に平然と声を掛けられるのだろうか。


(あーもー……ホント、つくづく理解ができないわ)


 紳士というのは精神スタイルではなく病気なんじゃないか? と疑いたくなるくらいだった。

 カツカツと杖をつき、悠々と娘へと歩み寄るヴィンセントに注意を促そうとした――その時である。



 ――ぎちり、、、……、と。


 

 空気が軋む音を、トバリは聞いた気がした。

 勿論、それは物理的な変化ではない。

それは感覚的に捉えた気配の変化だ。

 どう表現するべきか。言い表すならば、それは空腹の肉食獣の前に、血の滴る新鮮な肉を置いた時のように。

 揺れる金髪の間から覗く彼女の相貌が、怪しい光を宿したのを見た。

 赫い、赫い、眼光が。

 ヴィンセントをしっかりと見据えていて――


「――ヴィンス!」


 叫びながら床を蹴り、走りながら腕を伸ばす。ほとんど飛び出すように駆け出しながら伸ばした手が、紳士の襟首を摑む。同時にトバリは思い切り身体を捻り、腕を振り抜いてヴィンセント背後へと引っ張り投げ――その立ち位置を入れ替えた瞬間、それは姿を見せた。



 きゃはははははははははははははははは――



 哄笑と共に。

 彼女の――エルシニア・リーデルシュタインと呼ばれていた少女の姿が変貌する。

 内側からその身体が、文字通り大きく開く。

 そう。まるで花が咲くように。

 少女であったものが、トバリの眼前で異形と呼ぶべきものへと姿を変える!


 それは鋼鉄の異形。

 それはクロームの怪物。

 それは人に最も近しい姿形を模しながら、人から最も逸脱した――機械仕掛けの人喰いマシーン・マンイーター


 かつて人であったもの。

 そして今や、人ではなくなったもの。



 魂を失い、彷徨う存在――即ち、レヴェナント。



 そう――それはロンドンに蔓延る、都市伝説の怪物。

 鋼鉄と鋼鉄が折り重なり、それこそ大輪の花を思わせる鋼の花弁の異形。

 それが、まるでねめつけるように目の前のトバリを見下ろしていて――



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