五幕『空虚な慟哭、それは誰の嘆きか』Ⅱ
「――
そう声援を送った直後、受話器の向こうから響いたガシャンという騒音がヴィンセントの鼓膜を貫いた。「まったく……壊れたらどうするんだ」と苦笑を零し、ヴィンセントは自らも受話器を戻した。
「さて――リズィ。我らが可愛い
そう言って、ヴィンセントは執務室の長椅子に寝転がっている少女を見た。名を呼ばれたリズィは「ん?」と言葉少なに首を傾げる。その返事が是否のどちらか判らなかったヴィンセントは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせたのち――取り合えず、是と判断して話を続けた。
「これから少し出かけねばならないのだが……君について来てもらってもよいかな?」
「ん」
返ってきた返事は、やはり言葉少なだった。というよりも、果たしてそれが返事といってよい反応なのだろうか……ヴィンセントには判らない。
よくよく彼女の少ない言葉からその意図を汲みとれるトバリの読解力は、ある種異能といってもいいような気がするなと、ヴィンセントは率直に思った。
そうこう懊悩している間に、リズィが椅子から立ち上がって、愛用のキャスケット棒を被ると、コート掛けに引っ掛けている愛用の上着を手に取って袖を通した。その様子を見て、漸くヴィンセントは彼女が了承してくれたことを悟る。
「ありがとう。レディ」
ヴィンセントは遅れて謝辞を述べると、自分もまた愛用の外套を手に取って袖を通していると、リズィは半眼で見上げてその袖をくいっと引っ張る。
ん? とヴィンセントが首を傾げると、リズィは端的に訊ねた。
「――何処?」
「ああ」
少女の問いかけに、ヴィンセントは愛用の帽子を手に取りながら、にこりと笑って答える。
「この英国で、アカデミーと肩を並べる最も優れた叡智が集う場所の一つ――ロンドン大学だ」
◇◆◇
兎にも角にもこの場を離れることを第一と判断したトバリは、ギアを切り替えると同時にアクセル・ペダルを思い切り踏み込んだ。けたたましい駆動音と共に蒸気を吹き出し、蒸気式四輪駆動が勢いよく走り出す――はずだった。
ぎちり、と。
背後――車体後部から響いた、鋼鉄のひしゃげるような音に、トバリはぎょっと目を剥く。
慌てて振り返ったトバリたちの視線に先には、つい今しがた勢いよく壁に叩きつけたはずの怪物があった。いつの間にか壁から蒸気式四六道の背後に移動し、その車体後部爪を突き立てていたのである。
そればかりか、背後の化け物は車輪が地面を捉えないように、爪を食い込ませた車体をそのまま軽々と持ち上げていた。
人間三人を乗せた鋼鉄の塊を片手で掴み上げるなんて出鱈目なことも、幻想種ならば造作ないことらしい。いや、それどころか――
「――冗談だろ……?」
普段軽口ばかり零れるトバリの口から、余裕の欠いた言葉が漏れる。幻想種が腕に力を込めた途端、今度はがくんという衝撃と共に車体全体が持ち上げられたのだ。
そして幻想種は持ち上げる勢いのまま、大きく蒸気式四輪駆動を振りかぶる。
持ち上げられたことで車内の天地がひっくり返り、目まぐるしい変化にエルシニアもレナードも揃って悲鳴を上げる中、
「クソッタレがっ!」
と、トバリは悪態を吐きながら〈
機関武装の爪が右腕を包むと同時、トバリは赤く放光する爪を振り抜くと、赤光が迸り、車両の天井を打ち据えた。
衝撃波が駆け抜け、五爪が生み出した斬撃が蒸気式四輪駆動の天井を斬砕と同時――トバリは天井から飛び出しながら左手で異能を発動させる。
――血染化装・放刃式《
極細に形作られた血の糸が、車内にいるエルシニアとレナードの身体に巻き付き――二人の身体が勢いをつけて車内から引っ張り出された。
今まさに放り投げられようとしていた車内から救出することに成功すると、空中で二人の身体をキャッチして両脇に抱えながら地面に着地する。
「無事か?」
脇に抱えたエルシニアに問えば、彼女は眉を顰めながら「少し目が回っていること以外は……」と応じた。
「坊やは寝たまんまか?」
トバリの視線は、レナードが腕に抱えている赤ん坊に向けられていた。これだけ激しい三次元運動に晒されていたにもかかわらず、彼の腕に抱えられた赤ん坊は、気持ちよさそうな寝息を立てている。
(将来大物になるな、こりゃ……)
と、斜め上の感想を抱くトバリを余所に、レナードは青ざめた表情で答えた。
「はは……干渉術式ばんざーい。こんだけ飛び回っても、僕らの天使はグッスリお眠だよ……ちなみに僕は
「ご勝手に」
ぞんざいに返事を返しながら、トバリは二人を地面に下ろす。その際にレナードの腕から赤ん坊を拝借してエルシニアに渡すと、レナードは「ありがと」という言葉と共に、道端に嘔吐した。
「ミスタ・トバリ……」
「阿呆はほっとけ――今はこっちだ」
あきれ果てた声を上げるエルシニアににべもなく答えながら、トバリは腰に括っている二刀を抜き払い、わざとらしく口の端を持ち上げて見せた。
「よう、
皮肉を吐いて嘲るトバリの言葉に、しかし眼前の吸血鬼は沈黙で答える。
どうやら言葉のキャッチボールは嫌いらしいな、と落胆したとでも言う風に肩を上下させつつ、戦闘本能のすべてを眼前の相手へ注ぎながら、頭の片隅では目の前の怪物への対処方法を模索していた。
幻想種の頂点が一角――それも吸血鬼が相手となれば、鋼鉄の怪物の装甲すら切り裂ける短剣の斬撃も恐らく無意味――通常の武装による物理攻撃は通用しないと考えるべきだ。
(となると、使える手札は限られる……)
〈食い散らすもの〉の五爪から発生する力場干渉術式の刃と、トバリ自身の持つ異能である血染化装を織り交ぜた中近距離戦闘に限定される。
これが単なる殲滅戦闘ならばそれでもいいが、現在はいまだ経験不足のエルシニアと赤子連れの
(斯く言う俺も、極東外の幻想種との戦闘経験は殆どない状態。無知ってわけじゃあないが、相手が吸血鬼となると……なぁ)
身体を霧に、あるいは蝙蝠に分裂して背後に回られる――なんて挙動をされたら、流石に対処できるか微妙なところだ。せいぜい致命傷を貰わないようにしなければ。
そう、トバリが対吸血鬼戦闘のイロハを思案し終えた時だった。
「――み、ミスタ・トバリ!?」
エルシニアの困惑した声に、トバリは視線を眼前の吸血鬼に注いだまま「なんだ?」と訊ねようとした。
だが次の瞬間、彼女がなぜ声を上げたのかをトバリは察した。
吸血鬼の頭上。
ゆらりと、揺れる影。
其処にはあの幽鬼の如きレヴェナントが、忽然と姿を現し――その鋭利な機械触手を、一斉に吸血鬼目掛けて放つ姿があった。
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