二幕『その男、面倒の種につき』Ⅳ
――カチカチカチ、機関式懐中時計に備わるにしては不自然過ぎる無数の釦を、男は一定の法則に則って連打した。
時計内に組み込まれている内部機構が、男の釦操作に応じて既定の小型機関カードを選別。其処に組み込まれている
――
電熱が鞭のように踊り、追跡者へと襲い掛かる。だが、電熱の帯が取り付いた相手はその高熱に晒されても怯むことなく男へと迫った。
「ああ、もう! ふざけるないでくれよ!」
悪態を零しながら、男は迫る追跡者から逃れるように横に跳ぶ。凄まじい速度で襲い掛かってきた
ごろごろと地面を転がって、男は顔を持ち上げる。渋面を浮かべる顔には焦りと困惑が色濃く浮かんでいた。
「――そもそも何故、こんな真昼間からこの化け物が現れる!」
男が叫ぶ。不満と憤りを言葉にする。だが、そうしたところで状況は完全されることはない。
男は歯噛みしながら今も自分を追いかける追跡者を見上げる。
人よりも高い長身の影が、中空を漂いながら男を見下ろしている。朧げな外見なれど、しかしその実重厚な威圧感と存在感を纏う化け物。襤褸布を思わせる頭部の奥で爛々と輝く赫眼が、しかと男を捉えていた。
その姿。その形。その身体を構築する鋼鉄の肢体と、脈動するかのように響き渡る蒸気機関の駆動音――男はその存在が何であるかを理解しているが故に、表情を強張らせる。
「ははっ……これが噂の
己の不運を嘆きながら、男は再び手の中に握る機関式懐中時計の釦を法則に則って打ち込む。
カチカチカチと叩かれる釦の音が響き――次の瞬間、男の目の前の空間が赤く染まった。
機関魔導式の一つである
だが、これといった手管は思いつかなかった。
そもそもに人外の――常識の埒外である怪物を前に、男に切れる
口から零れる悪態は、英国紳士にあるまじき口汚い言葉だ。合衆国大陸の
紅が――
紅色の何かが――
堂々と。
悠々と。
その人影は、超然と男の隣を通り過ぎて行った。
あまりに当たり前のように通り過ぎていくものだから――男は最初、それが人影であることを認識できず、焦燥する脳が生み出した幻覚は何かと思ったほどだが……どうやらそうではないらしい。
何処からともなく現れたその人影は、堂々たる歩みで男の横を通り抜けて――そして、機械仕掛けの化け物と相対する。
振り下ろされた鋼鉄の腕を、その人影は左手に握る短剣を振り上げて受け流す。ぎゃりぎゃりぎゃりと、金属同士が
「おおおおおおおおお、おいおいおいおい! だ、誰だか知らないけれど、受け流すなら後ろのことも考えてくれよ!」
「――ん? ああ、人がいたのか。そりゃあ悪かった」
男の非難の声に、しかして赤い外套の人物は気のない返事をした。目深に被られたフードの奥から覗く視線も、一瞬だけ向けてきただけでまるで此方のことなど眼中にない様だ。
これには思わず言葉を失ってしまい、目を丸くする中――赤い外套の人物が動く。受け流した怪物の腕をなぞるように短剣を走らせ、凄まじい速度で短剣を振り上げる!
力強い一太刀が、鋼鉄の怪物の――レヴェナントの腕を弾き飛ばす。呼応するように、レヴェナントも動き出す。中空漂う幽玄のレヴェナントは、その全身をすっぽりと覆う襤褸外套の中から幾つもの鉄腕を繰り出して迎え撃った。
繰り出される鋼鉄の腕は、その一撃一撃が銃弾のように凄まじい速さで赤外套をに襲い掛かる。
しかし、
「――はっ、そんなんが当たるかよ!」
そう言葉を発しながら、赤外套は軽やかな
しかし、その手には何も握られておらず、成り行きを見ていた男は瞠目する。それはレヴェナントも同様だったのか、赤外套の無駄な所作を嘲笑うように両腕を振り下ろそうとした――しかし、怪物が持ち上げた両腕が振り下ろされることはなく、ぎちり……という軋む音と共に、不自然に空中で動きを止めている。
(――なんだ? 何故動きを止めた?)
男はレヴェナントの挙動に違和感を覚えて、じっとレヴェナントの腕を凝視する。そしてよく見ると、路地裏という薄暗がりの中に微かに浮かび上がる赤い線――否、糸が空間に張り巡らされていて、それがレヴェナントの腕に絡みついていた。
糸の先は、巡り巡って赤外套の右手の指先に収束している。赤外套は糸の絡む指を動かしながら、「あー、これなんて技だったかなぁ」とか、意味不明な独り言を零しながら、その腕を振り抜いた。
途端、糸に引っ張られる形で異形の身体が壁に叩きつけられ――その衝撃で一瞬緩んだ糸を、レヴェナントは禍々しい曲刃の付いた手で引き千切る。
赤外套はその様子を見て呵呵と笑った。
一体何が赤外套を其処まで嬉々とさせるのか男には判らず、「何が愉しいんだ!?」と思わず憤慨する。
しかし赤外套からの返事はなく、代わりにといわんばかりに、レヴェナントが咆哮を上げた。
空気が振るえ、咆哮は物理的衝撃波と化して周囲に響き渡る。
路地の壁や地面が罅割れて、砕けた壁片が周囲に四散し、男は情けなく悲鳴を上げながら、それでも腕の中の存在を必死に守ろうと抱え込んだ。
だが、
「――ぎゃあぎゃあ
赤外套は、レヴェナントの咆哮に曝されながら涼しい顔でそんな軽口を叩き、天を衝くように右腕を掲げ――。
――がしゃん、という音が辺りに響く。
いつの間にか赤外套の掲げた右腕が、奇妙な機関機械に覆われていた。
赤外套の右腕を覆う禍々しい爪の備わった
だがそれも一瞬のこと――時間にして一呼吸にも満たない間を空け――次の瞬間、その機械仕掛けの手甲は目が眩むような激しい赤光を迸らせた。
薄暗いロンドンの路地裏が、瞬く間に光に包まれて照らし出される。しかしその光の色は血のように赤く、光という単語から想像できる神々しさも、清らかさもまるでない――むしろ禍々しく、恐怖で息を呑むようなおぞましい光だった。
「悪いが呼び出し中なんでな……さっさと終いにさせてもらうぜ?」
その光を手に漲らせる赤外套は、フードの奥から覗かせる口元をにたりと歪めてそう言うと、赤光の眩さに怯む鋼鉄の怪物目掛け、その腕を振り翳し――赤外套は一気にレヴェナントへ肉薄した。
右腕が薙ぎ払われる。
五本の刃爪が、暗闇に赤光の軌跡を描く。打ち込まれた刃の先がレヴェナントへと吸い込まれるように突き刺さろうとした――その瞬間だった。
今まさに、赤外套の刃爪が切り裂こうとしていたレヴェナントが、忽然と姿を消したのである。
爪を振りぬいた赤外套の背中が、僅かに困惑の気配を漂わせた中、男は「またかっ……」と悪態を零し――同瞬、男は自分の発言を後悔する。
「――おい」
詰問するような声が赤外套から放たれた。男は反射的に「うおぉぉう!?」間抜けな悲鳴を零しながら、赤外套を見上げる。
振り返りながらフードを外し、赤外套が素顔を晒す。眺めの黒髪の間から覗く鋭利で赤い双眸が男を見下ろしていた。
(……こわっ)
率直な感想であり、印象がそれが赤外套の人相に対する印象である。言葉にして発することをしなかったのは、奇跡に近い。
同時に、何故声を掛けられたのだろうと内心首を傾げる男に対し、赤外套は右腕の爪を元に戻しながら言った。
「お前、今〝またか〟って言ったな」
「え? そ、そんなこと、言ったかなー?」
「――言ったな」
「……ハイ」
思わずはぐらかそうと言葉を濁してみたが、駄目だった。剣呑極まる眼光の一睨みに、男は抵抗する気など一瞬のうちになくして赤外套の言葉を肯定する。
「えっと……理屈は判らないけど、あの化け物は煙のように消えたり、突如現れたりするんだよ。自分が不利になったりすると、奴は消えてしまって、そしてある時突然再び姿を現すんだ。それこそ、まるで幽霊のようにね……」
「なんだそりゃ……」
男の説明に、赤外套は渋い顔になって面倒くさそうに言った。そして彼はそのまま踵を返し、まるで何事もなかったかのように男の脇を通り抜け――
「――って、ちょっと待って待って待ってくれ!」
男は素っ頓狂な声を上げ、赤外套の背中に飛びついた。赤外套は振り返りながら目を瞬かせ、不思議そうに首を傾げる。
「なんだよ」
「なんで何事もなかったかのように帰ろうとしてるのさ!?」
「いや、これでも急ぎの身なんだよ。普段なら口封じするところを見逃してやってるんだから、お前もとっとと
「しっしっ」と、まるで犬猫にするかのように手を振って見せる赤外套に、青年は驚きのあまり目を丸くする。
「
「いや、興味ない」
「嘘ぉぉぉぉぉぉぉ!?」
全身全霊で叫んだ青年の驚愕の声は、赤外套のブーツの底によって阻まれた。口を閉じろと言わんばかりに繰り出された赤外套の蹴り足が青年の顔面にめり込み、彼の叫び声は強制的に遮られ、
「――うるせぇ、いちいち叫ぶな」
という叱声と共に、赤外套は溜め息を吐く。そして彼は「俺がお前にその問いかけをしないのには幾つか理由がある」と、青年に向けて片手を突き出し、三本の指を立てて言う。
「一つ――興味がない。
二つ――雇い主に呼び出されて急いでる。
そして三つ――これが一番大きい理由だ」
そう言って、赤外套は指を立てていた手をくるりと捻り、青年を――正しくは、青年が腕に強く抱きかかえているものを指さして、言った。
「――それに関わるのは面倒以外の何事でもないからだ。ったく、なんてものを抱えてんだよ、オニーチャン」
哀れみの籠ったその科白に、青年は目を剥く。「判るのか?」と咄嗟に口に出した問いに、赤外套は舌打ちする。
「その科白が口から出てくるってことは――お前、判っててそれを持ってるのか」
「事情があってねぇ……僕だってこんなものは抱えたくないんだよ。でも、
「そうか。じゃあ頑張ってくれ」
愚痴を零すその隙にこの場を離脱しようとする赤外套だったが、
「――ミスタ・トバリ!」
突如、こんな薄暗い路地裏には似合わない奇麗な声音が響き渡る。青年が振り返ると、路地の一角から姿を現したのは、青みがかった銀髪の女性だった。その女性は、赤外套の姿を確認するや、「漸く見つけました」と安堵のしたように吐息を零す。
知り合いなのだろうかと赤外套に目を向けると、件の若者は顰め面を浮かべ、声を発した相手を見ながら溜め息を吐く。
「あんた……来たのかよ」
「むしろどうして来ないと思うんですか……」
赤外套の呟きに、女性は呆れ顔になる。そのまま女性の視線は、赤外套から青年へと向けられた。
「其方の方は?」
「
投げやり気味な返答に、女性は柳眉を下げる。
「意味のない軽口を叩いてもお望みの返事は返しませんよ。《
――何気なく。
本当に何気ないやり取りだったのだろう。少なくとも、目の前の二人にとって、そのやり取りはさほど珍しくもない掛け合いであり、言葉遊びだったに違いない。
しかし、青年にとっては違った。
女性の口から発せられたその呼び名に、青年は痴呆の如く口を開け――やがて、恐る恐るその名を口にする。
「――……《血塗れの怪物》? 君のが、あの?」
「あーあ……」
青年の問いかけに対し、赤外套――《血塗れの怪物》の二つ名を持つ請負屋は、面倒くさそうにそう声を発して溜め息を吐く。
「だったらなんだよ」
若者は不快感を露にして鋭く睨んでくるが、不思議と先程までなら感じた畏れも躊躇いもなかった。それどころか、
「――
自然と、口から感謝の言葉が零れた。常日頃から、信仰を捨てずにいて良かった。現世はまだまだ捨てたものじゃあないと強く思った。
(主よ――今この瞬間、私はこの巡り会わせを与えてくれた貴方に心から感謝する)
天にまします父に感謝の念を抱きながら、青年ははやる気持ちを必死に留めながら、《血塗れの怪物》と称される若者を見上げて言った。
「――僕はレナード・スペンサー。どうか頼む。僕をサン=ジェルマン伯爵の元へ連れて行って欲しい」
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