二幕『その男、面倒の種につき』Ⅲ


 蒸気機関大国たる大英帝国。その栄光なれり首都ロンドンの空は今日も灰色の雲に覆われている。発展した蒸気機関が生み出す大量の煤煙が空を覆っているからだ。

 その空の下の英国市民の営みは変わらない。人の往来は相変わらず。灰色の空の下に降る排煙から身を守るように外套を頭から被った人々が、あるいは傘を差す人々が行きつ行かれつ。天高くそびえる無数の高層建築物ビルディング。その間を縫うように張り巡らされた数多の多段構築道路ハイウェイ機関式自動四輪ガーニーが蒸気を吐き出して、けたたましい駆動音を響かせて走り抜けていき、蒸気馬スチームホースに引かれた馬車が大通りを闊歩する。都市に張り巡らせた蜘蛛の巣の如き線路を幾つもの蒸気機関車が黒煙を吹きながら客車を運び、回転羽根付飛行機ダ・ヴィンチ=フライトや機関飛行船が灰色雲の下を飛び交う、まるで混沌を絵に描いたような在り様――それはいつも通りのロンドンの姿である。

 そんな英国首都グレーター・ロンドンの一区。ソーホーとセント・ジェイムズのちょうど間に位置する路地裏から、ひょい姿を現す人影ひとつ。

 ロンドン市内でも一、二を争う整備地区。行き交う人々の身に纏う衣服は富裕層に相応しい高そうな布地をふんだんに使った仕立ての良い背広スーツやドレス姿の比率が多く、そんな中での若者の姿は聊かその通りに不相応と言えるだろう。事実、行き交う人の中には、その若者に対して険しい視線がもちらほらと刺さっていた。

 しかし当の若者はというと、無造作に伸ばされた黒髪の間から覗く赤い双眸を億劫そうに細めるだけで、彼らの視線など気にした様子もなく、赤い外套コートの裾を揺らして人の往来の人並みの流れに乗るように足を動かして、いつの間にかトラファルガー広場を通り過ぎる。

 今日の空模様は薄ら雲。公共放送ニュースで聞いた限り、今日の煤煙の降下量は少なめらしい。理由は……話半分に聞いていたから忘れてしまったが、正直其処はどうでもいい。

 重要なのは事実、こうしてフードを被らなくても頭に灰が積もることはないというこである。つまり、その程度には今日の天気はそれなりに良いということだ。

 そんなことを考えながら彼が歩いていると、その背に声をかける者があった。

「――ミスタ・トバリ?」

 その声に、彼は――ツカガミ・トバリは足を止めて振り返る。眉尻を下げて、億劫げな眼は変えずに声の主を見た。そして「外で会うのは珍しいな」と零しながら彼はその人物の名を口にする。

「――御機嫌よう、エルシニア」

「貴方にしては殊勝な挨拶ですね」

「そっちは随分な挨拶だな」

 左右それぞれを三つ編みにした銀髪を揺らし、白衣の女性――エルシニア・リーデルシュタインは肩を竦める。そんな彼女と同じような白衣に袖を通した男女が数人が、訝しげに眺めているのが見えた。

「こんなところで何をしているんですか?」

「そりゃこっちの科白だよ、お嬢さんレディ。見た感じ、午後のお茶会アフタヌーンティーってところか?」

「其処まで優雅なものではないですよ。碩学院の講義が終わった後、一緒に昼食を取っていました」

 と、トバリの嫌味には耳を貸さず、エルシニアは率直に答える。こなれてきた彼女の対応にトバリは微苦笑を浮かべた。

「そりゃ何より。この後碩学院アカデミアに戻るのか?」

「いいえ、本日の受講分は終了してますから、研究室に行くか、帰るかを考えていたところですね」

「そりゃ運が良いのか悪いのか……」

 そう一人ごちるトバリに、エルシニアは「と言いますと?」」と首を傾げる。トバリは一瞬だけどうしたものかと考えて……隠す必要もないだろうと肩を上下させながら答えた。

「――出先で、ヴィンスから連絡があった。大口からの依頼が来たらしい」

「……なるほど。確かに、運が良いのか悪いのか、という領分ですね」

 トバリの独り言の意味を理解し、エルシニアは納得したように眉尻を下げながら苦笑する。

「では、私も事務所オフィスに戻ります」

「いいのか、オトモダチは?」

 エルシニアの返答に対し、トバリはそう訊ねながら彼女と一緒にいた友人たちに目を向ける。途端、彼らはびくりと肩を上下させてトバリから視線を逸らした。どうやら、エルシニアを心配して立ち去れていないようで、しかし声を掛けることは躊躇われるらしい。

 最も、聖学院に所属する学徒という暴力とは無縁な将来有望エリートな若者たちと、異国の出身であり、尚且つ風貌が一般人カタギとは言い難いトバリが相手となると、声を掛けるにも勇気がいることだろう。

 わざわざ名前も知らない相手に気を遣わなえばならないのかと胸中で唸った。

「ま、帰るなら伝えてこいよ。待っててやるから」

 ぶっきらぼうに告げられたトバリの科白に、エルシニアは「そうさせてもらいます」と答えて踵を返し、学徒たちの元へと向かって小走りに駆けていく。その背を見送りながら、直ぐ傍にあった軽食屋ジャンクフードショップでフィッシュ&チップスを注文し、何気なくエルシニアたちの方へ視線を向ければ、学友たちと笑顔で言葉を交わすエルシニアの姿があった。普段トバリはなかなかお目にかかれない光景に、僅かに目を丸くしているうちに、彼女は学友たちと別れてトバリの元へ小走りに戻ってくる。

「……どうかしましたか?」

 目を瞬かせるトバリを前に、エルシニアは首を傾いだ。

「いや、なに。あんた、ああいう笑顔かおもできるんだなと思ってな」軽食屋の店員からフィッシュ&チップスを受け取りながらそう答えると、途端エルシニアが呆れ顔になる。

「貴方は私をなんだと思っているんですか?」と首を傾げるエルシニアの問いに、トバリはフィッシュフライを口に放り込みながら答えた。

「――愛想が壊滅的に足りてない碩学様」

「……貴方に愛想を振り撒く気が今限りなくゼロになりましたよ」

「そのぶんオトモダチに振り撒いとけよ。少なくとも、お前さんに向けられてた視線は好意的だったぜ」

「そのぶん、俺への視線は懐疑的だったがな」と自嘲と皮肉を混ぜて口の端を吊り上げる。

「だといいですけど・・・・・・」

 エルシニアの返答は随分と曖昧なものだった。尤も、彼女の背景を鑑みればその反応も致し方がない。


 半人半機械――人でありながら、その身体に超高度の蒸気機関を埋め込まれたレヴェナントである、人間と機械の融合体マンマシーン・インターフェイス


 それがエルシニア・リーデルシュタインである。

 身体の一部が期間機械の義肢――などという次元を超えた、霊的領域で期間機械をその見に宿した稀有なる存在だ。そんな彼女の存在を知った有象無象が、彼女に対してどのような反応を見せ、対応したのかは――以前彼女に問い質した際の反応を考えれば、語るまでもない。

 それを思えば、彼女にとって知人を得る――ということさえ、非常に祐樹がいることだろう。

 親しくなるほど、近しくなるほど、彼女自身の事情が露見した際の危険度リスクは大きくなる。

 勿論、それを知った上で以前と変わりなく彼女と接する者も、中には現れるだろう。ましてや、今彼女が接しているのは、機関機械や神秘に対して無識者ではなく、理解ある連中である。しかし、それを加味しても確かめるのは分の悪い賭けだ。

 いや、分が悪いとか、そういう次元ではなく――単純に恐ろしいのだろう。

 これまで心ない連中に不遇と扱われてきた者には――勇気を持って一歩踏み出すのは、容易ではない。

 それは別に憶測ではなく、形は違えどトバリにも似たような経験則があるからこその推察だ。勿論、彼女自身の口から利かされたわけではないから、断言は出来ない。

(まあ、当たらずとも遠からず――ってとこか)

 隣を歩くエルシニアの諦観交じりの横顔を盗み見て、トバリはそう胸中で一人ごちる。

「面倒くさい奴……」

「……人の横顔を見ていきなりなんですか」

 つい口にしてしまった本音へ返ってきたのは、実に冷ややかな眼差しだった。トバリは「独り言だよ」と肩を竦めて見せ、エルシニアと共に住居兼事務所ホームへ向かう。

「そういえば、ソーホー方面から歩いてきていましたが、彼方に用事でも?」

「ソーホーっていうか、用事はメイフェアだよ」

「メイフェア……ですか?」

「――の南。グリーンパーク辺りだな」

 トバリが淡々と答えると、エルシニアは「ああ」と一人頷く。

「確か、極東の大使館があの辺りでしたね。まさか、強制送還ですか?」

「それこそまさか――だ」

 エルシニアの問いに、トバリは首を横に振って苦笑すると共に「俺の英国滞在は公的に認められてるよ」と否定する。すると、その言葉にこそ驚いたように「そうだったんですか?」と、エルシニアは目を丸くする。

 トバリは首肯で応じた。

「俺を雇っているのはヴィンスだが、一応俺の扱いは請負屋協会に登録されている請負屋ってことになっている。請負屋協会を通せば、協会への貢献度にもよるが……外国人であっても滞在期間の無期限延長も可能だからな」

「そういえば、そんな制度がありましたね。そして貴方は《血塗れの怪物グレンデル》――今やロンドンでも腕利き。それにレヴェナント関連でいえば一番の問題解決人トラブルシューターですから、むしろ『居てくれ』とお願いされるくらいでは?」

「一度帰るかどうかって考えた話を小耳に挟んだ連中が、ヴィンスのところに陳情を送り付けたらしいな。笑える」

 くくっと失笑しながら、トバリは続けた。  

「それに、元々俺はトガガミ・センゲの捜索で英国入りをしてるが……これは個人的な理由であるが、政府機関からの正式な依頼でもあるんだよ。だからあいつの生死がはっきり確認できるまでは、強制送還はまずないだろうな」

「トガガミ・センゲ……《心臓食いハート・スナッチャー》……ですか」

「我が従姉妹あねながらまったく物騒な二つ名だよ」

「貴方もいい勝負では。《血塗れの怪物》――そして《都市伝説殺しの赫き獣フォルクール》でしょう」

 微笑を口元に浮かべながら、エルシニアは片手を持ち上げ、彼方を指さした。トバリはその指先の先に目を向け――「うげっ」と表情を歪める。

 エルシニアが指をさし、トバリが見た先にいたのは、トバリの身に纏っているコートに似た色の、赤く染められた布を羽織った子供の姿である。いや、それだけではない。

 壮年の男性や、路地裏にいる無法者アウトローを気取る若者の中にも、赤い外套コートを纏った人の姿がちらほらとあった。

 その光景にトバリは溜息を零し、エルシニアはくつくつと笑う。

「《都市伝説殺しの赤き獣》――伯爵の狙いとはまた違った意味で、効果を発揮しているようですね。赤い衣服を着ていれば、化け物に襲われないらしいですよ」

「気休めのお守りにするには、仰々しすぎると思わないか?」

「彼らには――民衆には必要なのでしょう。例え気休めでも、都市伝説の怪物フォークロア・モンストロに遭遇しないように、と」

「レヴェナント……か。創造主おやがいなくなったってのに、未だに消えやしないな」

「そうですね……」

 二人共に、其処で口を閉ざした。


 鋼鉄の怪物エネミー・オブ・クローム――あるいは、レヴェナント。


 そう呼ばれる蒸気機関エンジンの身体と、鋼鉄クロームの骨格を持つ化け物が、このロンドンの何処かに存在している。

 常人には決して相容れぬ、人の口から口で伝わり語られるだけのはずの、人食いの化け物マンイーター。人の姿を借り、人に紛れ、人目を逃れて人を襲い、食らう存在だ。

 人間の限界に絶望し、人間であることを捨て、蒸気機関に魅入られ切望した魔女――アリステラ・シャール=リーデルシュタインの狂気によって生み出された、人間を材料に生み出される正真正銘の化け物。

 しかし、もうその化け物を作り上げていたアリステラは存在しない。ひと月前、にトバリの刃貫かれて、ロンドンの遥か地下に落ちてその命を散らしたからだ。

 故に、本来であればそこでレヴェナントの都市伝説も潰え、新たなレヴェナントが誕生することもない――そう思っていた。

 しかし、現実はそうはならなかった。

 未だ、レヴェナントの存在は確認され続けている。ロンドンの夜の闇の中で、奴らは何処からともなく姿を現し、今も人を襲い続けている。そしてその数は、一向に減ることはない。

 それは魔女の残滓のように、あるいは呪いのように――今もこのロンドンに存在し続けている。

 まるで、アリステラ・シャール=リーデルシュタインの願いは、今も生き続けているとでもいうように。

 勿論、あれは願いなどという美しい試みではなく、最悪極まる所業であるということは明白だ。到底、許容できるものでも、看過することができることでもない。

「まあ、なんにしても俺たちにできることなんてたかが知れてるわけだけどな」

「今は地道に、一体一体を見つけて倒すくらいしかできないでしょうね」

「御尤も」

 エルシニアの言葉に、トバリ肩を竦めて残り少ないフィッシュ&チップスを口にしようとして――ふと、その手を止めて、ついでに足を止めた。

 そして、今し方通り過ぎようとした路地へと視線を向ける。

「ミスタ・トバリ?」急に立ち止まったトバリを不審に思ったエルシニアが、振り返って彼の名を呼ぶ。しかし、トバリは返事の代わりに「持ってろ」と手にしていたフィッシュ&チップスの入った紙袋をエルシニアに押し付け――そして走り出す。

「ミスタ・トバリ!?」

「――それ、捨てるなよ」

 突然の行動に驚くエルシニアを置き去りにし、トバリはそんな科白を最後に深紅の残像を残しながら路地の奥へと飛び込んでいく。

 そして、残されたエルシニアはというと――

「まったく……なんなんですか!」

 という憤慨の科白を口にするや否や、近くのごみ捨て場にフィッシュ&チップスの袋を投げ捨てて、トバリの後を追うのだった。


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