Ⅱ
階段を上ると、二階には扉が二つ。一つはワトソンの部屋のものだ。そしてその隣にあるもう一つの扉の向こうこそが、このロンドン随一の――そして時には世界一とも呼ばれる諮問探偵が座す部屋である。
尤も、彼の知名度がこうも世界に知れ渡ったのは、偏にワトソンの書いた伝記小説のおかげだ。そして、あれはあくまで大衆に読まれることを前提に誇張して描かれている部分も多い。実際の彼は――伝記小説として描かれている名探偵シャーロック・ホームズとはかなりの落差がある。
正直、ホームズの奇異さはトバリの雇い主たるヴィンセント・サン=ジェルマン伯爵といい勝負だ。どちらも揃って聡明で鋭い観察眼を持ち、膨大な知識をその脳に蓄えており、そして
自分の周りはこんなのばかりか、なんて胸中で愚痴りながら、トバリは諦めと共に目の前の扉をノックした。
返事はない。しかしこれはいつものことである。返事があることのほうが少ないのがホームズだ。
トバリは「入るぞ」と一言断りながら扉を開けた。瞬間、異臭が鼻腔をつく。顰め面になるのを自覚しながら、トバリは部屋の中に入った。
薄暗い部屋の中で、暖炉の火とランプの明かりだけが部屋を照らしている。トバリは視線をランプの近く――安楽椅子に腰掛ける男へと注いだ。薄汚れたドレスガウンに身を包んだ、白髪交じりの斑頭の男が、焦点の合わない眼差しで天井を仰ぎ見ている。まるで其処に何かがいるように、一心に凝視している。
否。
いるように――ではない。確実にいるのだ。
トバリは男の視線を追って、意識してその位置を凝視する。注視する。そして――霊視する。そうすれば――ほうら。薄っすらとだが、青白い何かが其処に張り付いて、じっと男を見下ろしている姿が浮かび上がった。
――
そう呼ばれる存在だ。肉体を失った、死した者たちの魂の成れの果て。
あるいは、世界の誕生と共にこの世界に存在する人より上位の
人はそれら全てをひとまとめに幽霊と呼ぶ。
この場合は前者だ。この部屋にいる幽霊のそのほとんどは、彷徨える死者の魂だった。
天井にも壁にも床にも。よくよく部屋の中を観察すれば、そこら中に幽霊たちが這っていて、男をじっと見据えているのである。
そんな幽霊たちの視線を一身に浴びる男はというと、椅子にじっと座り、手を合わせてじっとテーブルの上に置いてある香炉を見据えていた。
先ほどから鼻につく臭いの正体は、そこから漂う煙だ。香水や香草の類――とは考えにくかった。同時に匂いの正体に心当たりがあったトバリは、まさかと思って男へと近づく。
男が見つめる香炉の中身と、その傍に置いてあった粉末の山を確認し――そして呆れ返った。そして断りなく香炉の火を消し、それを手に取ると締め切った部屋の窓を殆ど殴りつける勢いで開けた。途端に煙が外に流れ、部屋の中に清浄な空気が流れ込む。
煙が霧散していくのを確認し、トバリは開け放った窓から香炉を外へと放り投げた。
そうすると、幽霊たちが慌ただしく姿をかき消していくのを見て、「やっぱりか……」と嘆息を零した。
男が香炉で焚いていたのは、あろうことか反魂香だった。
反魂香とは、道士が作る香の一つだ。
その効力は、炊いた煙の中に死者の姿が現れるという通説が古来から存在する代物だ。
しかしその実態は、通説などよりはるかに高い効果を発揮する、正真正銘の本物の死者蘇生道具の一つだ。高度な魔術師などが使えば実際に死者を甦らせ操ることができる、
どうやって手に入れたのかは知らないが、この男はあろうことか、そんな代物をロンドンのど真ん中で焚いていたのだ。なかなかに信じがたい所業である。
トバリは反魂香の散った部屋を見回し、幽霊たちが大人しくなったのを確認してから男へと近づき、憤慨しながら訊ねた。
「――お前……正気か? いや、そんなわけないな。反魂香なんて焚く奴が、正気であるわけがない」
そう声を掛けるのだが、男の返事はない。というよりも、そもそも反応らしい反応がない。男は先ほどと変わらぬ姿勢でじっとテーブルの上を凝視している。
暫し男の反応を待つが、いつまでたっても反応はなく――トバリは「仕方ねぇなぁ」と肩を落としながら、
「――アドラー。その莫迦を起こしてやってくれないか?」
と、誰にともなくそう申し込んだ。
本来ならば、返事などあるわけがない。此処にはトバリと、椅子に座る男しかいないのだ。
だが、
『――ええ、ミスター。構わないわよ。少し待ってくださる?』
と、何処からともなく返事が返って来た。そして周囲を
年頃は十二歳くらいかの少女だ。しかし、その外見年齢からは想像もできない、何処か艶やかな雰囲気と笑みを浮かべて、腰かける男にゆったりとしなだれかかり、妖しく微笑んで見せる。
幽霊――ではない。これこそが、彼女こそが
精霊たる彼女は、男の顔に手を添え、その瞳を覗き込む。
怪しく、艶めしく、そして優しく――愛おしげに。そしてその美しく造形された口元に淡い笑みを浮かべて、彼女は男の名を呼んだ。
『起きて頂戴、愛しい人――シャーロック・ホームズ』
女が――精霊が、彼の名を呼ぶ。
そう。
彼こそがあの名探偵。このロンドン随一の頭脳と呼ばれる男――シャーロック・ホームズだ。
何度顔を合わせても、本当にこの男が探偵なのかと疑いたくなる。だが、まごうことなくこの男が、ワトソンの書いた伝記小説に描かれているホームズと同一人物なのだから、世の中は本当に不可解だ。
そして件のホームズ氏はというと、女精霊に声を掛けられ、漸く反応らしい反応を見せた。
「……やあ、アイリーン。どうしたんだい?」
『お客様よ。貴方のその知識と慧眼を求めてやって来たみたい』
女精霊――アイリーン・アドラーが、ホームズの問いに答えながら視線を此方に寄越す。ホームズもまた、彼女の視線を追い――漸く、トバリの存在に気づいたらしく、彼は目を丸くした。
「これは……これは……ツカガミ、じゃなあないか。其処で何してる?」
「おはよう。随分遅いお目覚めだな、名探偵さん」
とぼけた科白を口にするホームズに、トバリは辟易気味に皮肉を返すと、彼は無精髭に覆われた顎を撫でながら、
「起きてはいたよ。ただ、意識を手放していただけさ」
そう、嘯いて見せた。
「反魂香焚いてた奴がほざけよ。幽霊避けに薬打つくせに、幽霊呼んでどうすんだ」
「実験だよ。普段は鬱陶しい連中だがね、逆に招き寄せた場合、彼らは私にどのような反応を示すのか――と思ったわけだ」
「……実験の結果は?」
「見ての通り。失敗したよ」
トバリの問いに対し、朗らかにホームズは笑った。その傍らで、アイリーン・アドラーもまたくすくすと微笑んでいる。そんな二人を見て、トバリは頭痛を感じて眉間を指で抑えながらただただ嘆息するしかなかった。
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