――シャーロック・ホームズ。

 この男には、世に知られている探偵としての顔以外に、もう一つ傑出した才能を有した裏の顔がある。

 彼は、先天的な霊媒体質だ。精霊をはじめとした、霊的上位存在との高い親和性と交信能力を有した精霊使いシャーマン――それがシャーロック・ホームズの裏の顔である。

 尤も、その能力は――彼の有した才能キャパシティは世界的に見ても屈指であり、同時に自身の意思では一切制御できないほどのものだった。


 それゆえに、彼は常に霊的存在を惹き寄せてしまう。それどころか、幽霊たちは隙あらばホームズの身体に憑依しようとするのだ。そのために、彼は幽霊たちを寄せ付けないようにあらゆる手段を講じた。彼が薬物コカインを愛用するのも、幽霊避けの一つだ。幻覚作用によって、一時的にではあるが幽霊たちとの親和性を低下させる効果があったと言う。


 他には、子供だ。彼が個人的に情報収集のために雇っている子供たちイレギュラーズ。子供というのはたとえ心が荒んでいても、穢れが薄い。精神的に、肉体的に、そして霊的に純真である故に、大人よりも悪しきものディアボロを寄せ付けないのだそうだ。


 最も幽霊たちを退けるのに効果を発揮した一つが、女精霊――彼にしなだれかかる幼い少女の姿をした、アイリーン・アドラーである。


 ホームズがまだ若かりし頃に、ひょんなことから出会った彼女と契約を交わした。彼女は幽霊たちよりも遥かに高位の霊的存在だ。彼女を傍らに置くことで、力のない幽霊たちはホームズに手を出すことはできなくなった。


 そしてもう一つは、ワトソンの存在だ。

 ワトソン自身には自覚も自認もないが、ワトソンはとある魔祓まばらいの血を引いている。その血に宿る聖浄な気配が、アイリーンと同じように幽霊や魔を寄せ付けないのだそうだ。尤も、その友人にして助手たるワトソンが母親の小言のように「薬を止めろ」と忠告してくるのにはほとほと困っているらしいが……それは聞き分けてやれよと思う。思うだけで、言う気にはならないが。


 実際、何度かホームズの周囲に幽霊が蔓延跋扈している情景を目にした身としては、薬に逃げたくなる気持ちはまあ、判らなくもなかった。ほんの一時だけでもあの悍ましい存在たちが視界から消えるのなら、薬を使うくらい致し方がないだろう。


 ――とまあ、そう言ったホームズの事情は一旦横に置いて、だ。


 トバリは気持ちを切り替えるように嘆息し、ホームズと対座する形で椅子に腰を下ろすと、怪しく微笑むホームズが、灰色の目を僅かに鋭くし、顔の前で手を合わせながら口を開いた。


「――君が私の元を訪れた理由は、大体想像がつく。君のご主人様が、数日前に依頼をしてきた。君らのところの可愛らしい伝言役メッセンジャーを寄越していたからね」


「その内容は?」


「君も御存知。ホーエンハイム・インダストリーについての調査だ」


 唐突に登場したその言葉に目を丸くするトバリを余所に、ホームズは意地悪く笑みを深めた。


「五年前、ティオフィス・ホーエンハイム女史が起業した機関企業エンジンメーカー。業界に参戦するや否や、瞬く間に倫敦の企業複合体コングロマリットの中心となった企業の名前だ。女性ながら見事な経営手腕で次々と敵対企業を押し退け、その高い求心力カリスマ民衆ユーザーからの高い支持と信用を持っていて、現在就職したい企業トップ――なんとも輝かしい経歴の塊だ」


「……ホームズ。名だたる名探偵様が、まさかそんな世間一般に知られているような情報しか手に入ってないのか? だったら看板を下ろしたほうがいいぜ」


「そういう君こそ、冗談くらい受け流す余裕を持ったほうがいいぞ。極東オリエント人は寛容な人種だと思っていたんだけどな」


「例外ってものがいるだろ、何処にでも……」


 言葉遊びに興じるホームズに剣呑な視線を向け、トバリは手遊びがわりに短剣を手の上で弄び、言外に脅しかけるのだが――無論、ホームズにそんなものが通じるわけもなく、それどころか彼はくつくつと笑ってヴァイオリンを手に取り、唐突に演奏を始めた。


「――ホーエンハイム・インダストリーは決してお綺麗クリーンなだけの企業ではない。表向きには英国を中心にした欧州全域に機関機械の流通をかなめに、様々な商品を手広く扱っている企業だが……その裏では恐喝、強請、賄賂に買収。果てには暗殺まで……必要とあらばあくどい手段も厭わないという後ろ暗い部分もある。そして極めつけはなんと、人間を利用した違法実験。即ち――」


「――レヴェナント」


「その通りだ」


 巧みにヴァイオリンの弓を操りながら、ホームズは喜々とした様子で頷いた。


「ホーエンハイム・インダストリーは、その発足当時から貧民街スラム民や転住移民ジブシー、外国人労働者に労働種などを密かに捕らえ、機関機械の移植という人体実験を繰り返していた。それもただの外科手術じゃない。干渉術式――世に言う魔術を応用した、狂気の如き施術によって――だ。これがどういうことか、判るかね?」


 ホームズは唐突に演奏を切り上げ、ヴァイオリンの弓をトバリへと突き付けて来た。トバリは手にした短剣の腹で弓を退けながら「さっぱりだ」と応えると、ホームズは得意げに笑うのだ。



「――魂だよ、ミスター・ツカガミ」




「……魂?」


 一瞬、空耳か何かと思って耳を叩き、改めてホームズの灰色の目を見ながら復唱すると、ホームズは「その通りだ!」と諸手を上げた。


「そうだ、ツカガミ。機関機械を、肉体に埋め込むのではない――魂に埋め込むんだ。魂の領域での融合だよ。

 人間を構築する、最も根源足る部分パーツ。それは魂と呼ばれるものなんだ。人類史にその名が登場して以来、その概念は様々な宗教や思想の根底に存在しながら、しかしてその実在は今もなお確認されていない。だが、多くの人間がその概念物質を認識し、理解し、時に口にする。たまに聞くだろう? 『ああ、主よ! この者の魂をお救いください!』とね」


 世界最大の宗教に喧嘩を売るような発言を口にしながら、ホームズは滔々と説明を続けた。


超常的思想オカルティズムにおいて、またブラヴァッキー夫人が創設した〈神智学協会〉が提唱する理論においては、しばしば人間の肉体を構成する細胞を含め、どのように成長し、どのような身体になるのか――それは魂という構成情報プログラムによって事前に定められているそうだ。

 レヴェナントというものは、質量保存も物理法則も無視している。君も知っての通り、レヴェナントは人間という〝入れ物〟に、その体積より何倍もの大きな機関機械を埋め込んでいるだろう? 本来ならば、そんなことはありえない。だが、物理法則を書き換える干渉術式を用いれば、どうだ? もしかすれば魂にすら干渉することもできる可能性はあるだろう。そうとう高位の術者でないとならない――という欠点はあれどね」


「……レヴェナントが実際に質量保存とやらを無視して、何倍もデカい機関機械を内包しているのは知ってる。だけど、それがどうして魂云々の話に……って――」


 何処か回りくどいホームズの説明に不満を唱えようとしたところで、トバリは彼の言わんとすることに思い当り、息を呑んだ。

 そんなトバリの様子を見て、ホームズはにたりと口元を意地悪く歪める。


「理解したようだな。そうだ。書き換えたのだよ、魂の情報を。

 干渉術式は物理法則すら捻じ曲げる。ならば――魂にあらかじめ記されている、人間を形作る構成情報に細工を施せばどうなる? 例えば、そう……『蒸気機関を内蔵する』なんて書き込めば?」


「普通なら不可能――って話だろうが……現物をのこの目で見てるからな。否定できねぇのが痛いな……」


 困ったことに、否定できる材料はなかった。トバリにとっては最早なじみとなったレヴェナントという存在が、ホームズの仮説に真実味リアリティを齎しているとは、なんとも皮肉的だった。

 深々と溜め息を吐くトバリの様子を見て、ホームズにしなだれかかっていたアイリーンがくつくつと笑った。


『本当にね。人間というのは、どうしてこう、精霊わたしたちから見ても恐ろしいと感じるようなほどのことができるのかしら。不思議だわ』


「――人間というものはね、アイリーン。不可能だと言われている事柄ほど、可能にしたくなるのさ。そしてそういった目標を見定めた者に、倫理や常識は通用しない。ただただ目標達成のためならば、いかなる手段も問わないのさ。何十万、何百万の犠牲を払おうとも――ね」


 アイリーンの頬に手を添えて、ホームズはそう零した。アイリーンはうっすらと微笑んだまま、彼の眼差しを受け止める。


「ご高説ありがとうよ。ホーエンハイム・インダストリーが裏で何をしているかはまあ、判った。だが、肝心の居所は何処だ?」


「それに関しては難問だったよ。なんといっても相手は大企業の最高経営席任者だ。そして彼女は殆ど姿を見せることはないことで有名だ。私に使い魔ファミリアがなければ、探し出すことは不可能だっただろう」


 トバリの問いに、ホームズはわざとらしく肩を竦めた後、自慢げに言ってアイリーンの頭を撫でた。


『――地下よ。最高経営責任者さんは、このロンドンの地下を拠点にしているわ』


「下水路よりもより深い場所。この大都市を動かす動力が鎮座する場所。即ち――」


「――大機関区画メガ・エンジン・エリア、か」


 ホームズの科白を先んじて、トバリはその区画の名を口にした。ホームズは「その通りだ」と頷いて見せる。


「サザーク工業区に、ホーエンハイム・インダストリーの無人事務所オフィスがある。最高経営責任者殿は、其処から出入りしているらしい」


 言って、ホームズはガウンのポケットから小さな紙切れを手渡してきた。受け取って開くと、それは手書きの地図で――流石は名探偵というべきか。実に子細に周辺の情報まで書かれていた。

 受け取った地図をコートのポケットに突っ込み、「こーゆーところはマメだよな」と囁く。ホームズは得意げに肩を竦めた。と同時に、彼の視線が僅かに動く。視線の先は、この部屋の出入り口だ。

 つられて、トバリも部屋の扉に目を向ける。

 特に何の変哲もない、トバリがこの部屋を出入りした扉があるだけだ。だが、その扉を見据えながら、ホームズは言った。


「一〇秒後に、あの扉を三回ノックする音がするだろう。恐らくワトソンだ。察するに、君の連れて来た誰かの様態を伝えに来るのだろう。あるいは、目を覚ましたかのどちらかだ」


 何故、そんなことが判るのか? 言葉にせず視線だけで訴えると、ホームズはあっけらかんと言う。


「――探偵の勘、というやつだ」


 ホームズとアイリーンが、揃って微笑んだ。

 と同時に、扉をノックする音。時間は丁度、ホームズが言った一〇秒きっかり。

 ノックの音と同時に、アイリーンが『それではミスター。また、お会いしましょう』と言い残し、何処へともなく姿をかき消した。

 トバリが面白くないと言う風に眉を顰める向かいで、ホームズが微笑みながら「入り給え」と声を掛ける。入って来たのは言うまでもなく、ホームズの友人にして助手たるワトソン医師である。

 ホームズはワトソンから視線をトバリに移して、得意顔で「どうだ?」と言う。トバリは「お見事」とおざなりに肩を竦めた。

 一人取り残されたワトソンが数度目を瞬かせた後、咳払い一つ零してから言った。


「――トバリ。彼女レディが目を覚ましたぞ」


 そう彼が言った瞬間、ホームズが「どんなものだい?」と手を叩きながら声を上げる。

 トバリは喜々とするホームズの様子に若干の苛立ちを覚えて、溜め息を吐きながら口の端を釣り上げて、


「――てやんでぃイー・ハー、だよ。こんちくしょう」


 と言い返した。というか、それくらいしか言い返せなかった。


 そんな二人のやり取りを見ていたワトソンは、何が何だか判らないと言った様子で立ち尽くし、目を白黒させていたのだった。




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