2-5
その出来事があった翌日からも私は特に何も変わらずに毎日を過ごしました。
そんな、のほほんと平和に過ごしていたので、それからどの位の日が経ったか良く分かりませんが、子供のワイバーンが空から大地へと降り立ち始め、草原は賑やかになりました。ただ、悲鳴を上げ、崖に打ちつけられながら落ちて行くワイバーンの子供も少なからず見てしまいました。
それを見て、私はカラスの事を思い出しました。まあ、私の中には、もうカラスに関しては狡猾で力のないワイバーンだった、としか記憶が無いのですが。流石に生まれてすぐの記憶は、そう大して覚えているものではありませんでした。
マメとアズキは生まれた三匹の子育てに春からずっと夢中で、私達との関わりは薄くなっていました。
もし、この三匹全てが試練で命を落としてしまったら、と思うと、その子育ての熱心さには危なさも感じました。
いや、それともその事を分かっているからこそ、熱心に子育てをしているのでしょうか。
どのような気持ちで子育てに臨んでいるのか、それは子を持っていない私には分からない事でした。
ただ、持ったとしても私がマメとアズキと同じように振る舞うかどうか、と言われればそれも分からないのですが、私は敢えて冷たく子供に接する母親や父親を見た事がありませんでした。
試練で命を落とす可能性が高くとも、子は愛情を持って熱心に育てるのが当たり前、というように私には子育てをするワイバーンを見て思いました。
昼来ても夜来ても、試練の最後に出遭ったケルピは全く見えない川で夏の水浴びを楽しんだり、崖の上に飛んでみたり、喧嘩を毎日して本当の成獣になろうとしている内に、私の中の体感時間は更に加速しているように思えてきました。余り変わらない日常が過ぎて行っていたのです。
その理由は、私がただの、普通の一匹のワイバーンとして一生を過ごそうと決めたから、ではありません。
私は一体何なのか、何故私はあの幻獣に憐れみの目を向けられたのか、私の中に渦巻く疑問は解決されないままでしたが、その疑問を本格的に解決しようとはまだ思っていなかったからです。
本当に成獣したと言えるようになってから、この崖を出てみようと思っていたのです。
まだ、その時期じゃない。
その時期が来た頃から、私の体感時間はまた濃くなっていくでしょう。
それに、私はここに住むワイバーン達の群れがどのように暮らしているのか、全てを分かった訳でもありませんでした。それも疑問の一つであり、その好奇心が全て晴らされるまで、私はここを出ないでしょう。赤熊に関しても、本当にマメを助けたのかどうかもまだ分かっていませんし、もしかすると私と同じようなのかどうなのかも分かっていませんし。
そのように私は自分の中で決めて、皆と一緒に変わらない日常を過ごしていました。
変わらないとは言っても、ほんの少しだけ変りつつある事もあります。それは、私達が少しずつ、少しずつと強くなっていっているような感覚がしている事でした。
暑くて堪らない夏もいつの間にか過ぎて行き、秋もあっと言う間に過ぎて行きました。誰も儀式に来る事も無く、特に変わった事も無く、ただただ時間が過ぎて行きました。私達と同じ世代の中で、本当に成獣したと言えるワイバーンもまだ誰も居ませんでした。
夏がいつの間にか過ぎて行ってしまったように秋も過ぎて行き、冬が近づいてきました。
そして、今年も試練の日を迎えました。
マメとアズキはその前の日から少しそわそわしていました。他の年上の子持ちのワイバーン達はそうでもないように見えたのですが、何度も子を産んで、何度も試練に送って来て、慣れてしまったのでしょうか。
そうだとは思いたくありませんでしたが。
午前中に老いたワイバーンの中でも、最も老いているワイバーン達が森へとゆっくり歩いて行きました。悲壮感とか、そういう後ろ向きな感情はそのワイバーン達からは感じられません。むしろ、堂々としているように見えました。それを見て、老ワイバーンにはすべき事を為して死んでいくのが美学、という価値観があるように感じられました。
そして午後、昨年と同じように夕焼けが見える頃になると、全ての子供のワイバーンが森へと送られました。マメとアズキも、他のワイバーン達からは少し遅れながらも三匹の子供を連れて森の方へと飛んで行きました。
生き残れるワイバーンの数は、一割にも満たない。
私達兄妹が六匹中三匹も成獣出来たのはとても珍しい事です。もし私が私の母親だったら、一匹でも生き残っていてくれれば良い、と思ったでしょう。
私もあの時は生き残っていて欲しいと、願望で思っていました。絶対に生き残っているという確信は勿論ありませんでした。
特に、マメは死んでしまっているだろうと心底思ってしまっていたのです。この試練に生き残る為に必要なのが単純な肉体的な強さではなく、殺し合いの時に無駄な事を考えずに躊躇わず全力を出せるか、という精神的な強さの方が必要な事が分かってから何となく納得は出来ましたが、それでも意外だったという気持ちは残っていました。
体のやや小さいマメとアズキが産んだ子供は、それが出来るでしょうか。出来たとしても、この試練には運の要素もかなり関わっています。唐突に現れる捕食者に対応出来るか、戦いを乗り越えた後に空を飛べる事に気付けるか、魔獣に出遭ってしまわないか、等々。
覚悟をし、そして運に恵まれるかどうか。それらを満たして、生き残れるワイバーンが一割以下なのです。
今、マメとアズキも同様に辛い覚悟しているでしょう。
三匹が全てこの試練で命を落とす可能性はとても高いのですから。
全てのワイバーンが森の近くに着いてから、少しすると老ワイバーンの雄叫びが聞こえました。
試練がとうとう始まりまったのです。
私達ワイバーンが五感の中で最も優れているのは視覚だけであって、他の感覚はそこまで優れてはないのですが、老ワイバーンの雄叫びの後にはっきりと断末魔や悲鳴が聞こえてきました。
何匹のワイバーンが死に、何匹のワイバーンが生き残るのでしょうか。
マメとアズキの子供にさえ外見位しかそんなに関心を抱いてなかった私でも、その事は余り考えたくありませんでした。
試練が行われている時の狩りは、子供のワイバーンが居ないであろう場所まで行く必要があり、少し面倒に思えました。
山脈の向こうの景色を見た事はまだありません。この森がどこまで続いているのかを見に行った事もありません。
空を飛べるようになってから約一年が経った今でも、私はこの崖下以外で夜を過ごした事はありませんでした。
見慣れない、いつも狩りをしている場所からかなり離れた森の中へと私とアカは地に足を付けました。
臭いとか生えている木の種類とかは特に変わりませんが、やはり分からない何かは微妙に違い、新鮮味がありました。それは分からないものがある、という点で安心は出来ない、という事でもあるのですが、そこまで警戒はせずに私とアカは森の中をのんびりと歩き始めました。
成獣している魔獣に戦いを仕掛けて来るただの獣は殆ど居ない事を、この一年の間で私達は学んでいました。
私達が殺すか殺されるかという土俵に立って戦った事は、結局殆ど試練の時だけなのです。
毒針の精度も、最初と比べてかなり上達していました。
今はアカよりも私の方が精度としては上です。まだ、流石に動きながら小さな獲物に当てる事は出来ませんが、立ち止まった状態なら走っているリスにも毒針を突き刺す事が可能になっていました。
まあ、子を持っていない私がそんな小さな獣を取ったとしても、腹の足しにもならないのですが。
ただ、一番質量が大きく、満腹まで食べられるのは勿論大蛇ですが、二匹で全部を食べるには数日が掛かります。夏では、全て食べきる前に腐ってしまい、勿体なくなる時も偶にありました。それに様々な獲物を狩れるようになってから、大蛇を二匹だけで食べる事になってしまうと、他の獣を味わいたくなってしまいます。
飽き飽きしながら食事をするのは、余り好きではありません。
この頃は肉食動物ばっかり食べていたので、今日は草食動物を食べたいと私は思っていました。
私はもう一度飛び上がり、空から獲物を探す事にしました。
アカはそのまま、森の中を歩き続けています。アカの好物は肉ではなく何故か果物です。勿論それだけでは腹は膨れませんが、今年の果物が食べられる時はもうすぐ終わるので、肉で腹を満たすよりも優先して今の内に出来るだけ果物を食べておきたいと思っているのでしょう。
もし、アカが智獣に負けて使役される事になったら、アカの主はその嗜好を満足させるのに多大な出費を迫られるかもしれません。
暫く空を飛んでいると、親子の鹿が見えました。特に巨大でもなく、頑強そうな体もしていないただの普通の鹿です。
親子かぁ。まあ、いいか。
そう思い、私は空を飛びながらの毒針の練習も兼ねて毒針をその親の鹿に向けて放ちました。ワイバーンの頭蓋を砕く事はおろか、急所に当たらない限り直接的なダメージには殆どならない毒針ですが、速度はきちんとあります。
どす、と親の鹿の胴に毒針は当たり、飛び跳ねて親子とも逃げて行きました。狙ったのは頭でしたが、まだそこまでの精度はありません。親を狙って子に当たってしまった、という事がなくなったのには私は安心していました。
私はそれを暫くの間追い、親が動けなくなったのを見届けてから着地しました。子がまだ隣に居ましたが、吠えて追い返しました。
この親一匹分で、今日の分としてはアカのも含めても十分でしょう。
首を食い千切って息の根を止めてから、暫くの間私は食事に夢中になりました。
血の臭いを嗅いでか、アカもやってきて私が食い終わった後の残りを残さず食べました。
食事を終えてから少し休み、毒針の練習も終えてから今日もいつもと同じようにアカと喧嘩をする事にしました。朝と夕方の狩りと食事の後、毒針の練習をして喧嘩をする、というのも習慣になっていました。
私とアカ、イとハのそれぞれの勝率は大して変わりません。イとハは、私とアカに勝つ事は未だに殆ど無く、私よりもアカの方が少しだけ強いのも変わりませんでした。
ふぅ、と両方が同時に息を吐き、休憩を終えてゆっくりと立ち上がります。
喧嘩も習慣の内ですが、他の習慣とは別物です。
何回も何回も毎日のように戦っている内に、喧嘩をしようと立ち上がる時は殆ど同時に立ち上がるようになってきていました。強くなる為の、本当に成獣する為の日課であり、この一年間雷が降るような雨の日も、思わず体がぶれてしまう程の強風の日も、勿論晴天の日も絶えずに続けて来た、体が覚えた習慣なのです。
のそりのそりとゆっくり歩き、ある程度間合いを開けて向き合います。もう、私にもアカにも、休憩時のぼけっとした表情は残っていません。
私は神経を集中させ、アカの動向を見つめました。
ひゅるるるる。
冬の始まりを告げるような、寂しい音の風が吹いています。
ふぅ、ふぅ、とアカと呼吸を合わせ、私もアカも始めるタイミングを見計らっていました。
「……」
ん?
何か、声が聞こえた気がしました。私が首をその声が聞こえた方向に向けると、アカも同じようにしていました。
一旦、喧嘩は中止です。
「……」
私はゆっくりと足音が極力聞こえないようにその方向に歩く事にしました。まだはっきりとは聞こえませんが、声は喋っているような感じに聞こえました。きっと智獣でしょう。
儀式に来たのでしょうか。いや、違う気がする。
この試練が行われている時期に態々儀式をしに来るのは、単なる偶然だとは私には思えませんでした。
儀式という命がけの行為をせずに、子供のワイバーンを捕えて連れ去ろうとしに来た、と何故か私は確信していました。
「ヴゥ」
アカが後ろで私を小さく呼びました。
振り向いてみると、アカは行きたくないようでした。
アカと会ってから丁度一年程度でしょう。アカは何も変わらない日常を好み、非日常は嫌う傾向がある事を、私は一年間一緒に過ごした間で知っていました。
私は、行きたい。アカは来なくても良い。そう身振りで示し、私はアカを放ってまた歩き始めました。
そして、アカは付いて来ませんでした。私の中のオチビが時を経るに連れて薄れ、表面的に心の脆さが見えにくくなったこの頃、アカは私の姉のように振る舞う事ももう殆どありませんでした。
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