2-3

 目覚めの良い朝ではありませんでした。

 疼きは私を深い眠りに落としてくれなかったのです。強い、雄のワイバーンと交尾しようか、と思う気持ちも少し浮かび始めていたのですが、それを実際にはしないだろうとも私は思っていました。

 下腹部の疼きは、我慢出来る程のそこまで強くないものでありましたから。


 今日、私はマメとアズキに付いて行く事にしました。

 付いて行く私にアカとロが付いてきました。イとハは付いてきませんでした。三匹で大体いつも行動しているのに今日は珍しい、と私は思うと共に、昨夜私かアカに交尾をしようとしてきたのはロだったのかもしれない、とも思いました。


 マメは私が試練の大半を過ごした場所の近くに降り立ちました。

 本当にマメの命を助けたのは赤熊なのでしょうか。この場所は赤熊と出遭った場所の近くでもあります。また、昨日マメの背に付いていた赤い毛も赤熊以外に考えられないものでした。赤熊である可能性は限りなく確実に近いと思えるのですが、どうしても私には余り信じられませんでした。

 ワイバーンを助けるメリットでもあったのでしょうか。

 分厚い毛皮は寒さなんてものともしないだろうに。助けたとしても、自分の食い扶持が減るだけだろうに。

 少し歩いた後に、マメは私達に一旦ここで待っているように身振りで示し、アズキとだけで先に歩いて行きました。

 無視して歩いて行こうかとも少し思いましたが、私は待つ事にしました。アカもロも、ここで待つ事になりました。

 暫くすると、「ル゛ルルル゛ッ」と、遠くからマメの掠れた声が聞こえました。

 それは私達を呼ぶような声ではなく、挨拶のような声でした。

 本当に赤熊なのでしょうか。私は困惑しながらずっと悩んでいました。

 それとそもそも、あの甘い匂いは何なのでしょう。何度考えてもマメから僅かに感じられたあの甘い匂いの原因が分からないのです。

 しかし、そんな事を延々と考えているのは私だけでした。アカとロは木に寄り掛かりながらぼうっとしていた私を放っておいて、喧嘩を始めていました。

 私はそれを眺める事にしました。考えるにしても情報が全く足りません。マメに呼ばれる事を期待して、待つ事にしました。


 ロは飛ぶ力と併せてふわりと高く跳びあがり、アカに毒針を飛ばしました。

 流石に体に比べて小さな鉤爪でそれを弾く事は出来ずに、アカはそれを身を大きく捩って躱しながら後退し、ロから距離を取りました。

 アカが後退しなければ、ロはそのまま蹴りを入れるつもりだったのでしょう。計画が崩れ、ロは少しバランスを崩しながら着地し、そこにアカは突っ込んでいきます。

 ロは立ち直す事なく、身を逆に伏せて、尻尾を高く掲げて再び毒針を飛ばしました。

 どす、と今度は躱せずにアカの肩に毒針が刺さりました。体の動きを封じるその毒は、毒を持つ成獣のワイバーン同士であっても、多少の時間が経てば動きを鈍らせる効果がありました。

 しかしながらその前に倒そうと、アカは怯まずにロに突進しました。

 ロは翼腕でアカの顔面を殴りますが、体全体の勢いは到底止められずに突進を食らいます。

「ア゛ッ」

 ロは短く悲鳴を上げました。後ろへ体重が傾いて尻餅をつき、アカは更に力づくでそのまま仰向けにさせようとしていました。

 力も、ワイバーンでは雄雌で大して変わりません。ロは不利な姿勢から何とか抜けようと体を横にずらそうとし、そこをアカは翼腕で拘束しました。

 首を抑えられ、尻餅をついていて、ロはもう負けているも同然でした。そこでアカはロの首に牙を当てようとしましたが、咄嗟に後ろへ下がりました。

 ロの毒針がアカの顔面があった位置に飛んでいました。

「グアアアッ!!」

 ロはアカが再び襲う前に立ち上がり、吠えました。

 それは単なるいつもの喧嘩ではなく、死をも有り得る、本気の喧嘩をやろうとしている声でした。

「……」

 アカはそれを見て、何も吠えずに見下したような表情をしました。私もそんな顔は露骨にはしませんでしたが、思った事はきっと同じです。

 何か下らないプライドか何かがロの中を占めているようでした。

 どうして単なる喧嘩なのに、負けが決まっている状況を、殺せるような攻撃を仕掛けてまで覆そうとするのか。どうして、自分が優勢な状況に持ち込んでから本気の喧嘩を仕掛けるのか。

 どちらも、自分が弱いと認めているような事でしたし、吠えたのも負け犬の遠吠えのようにしか聞こえませんでした。

 しかし、そうだとは言えどもアカは後少しの時間しか満足に動けない以上、ロとの戦いを放棄するという事も出来ません。放棄しようとしても、暫くの間ロから逃げ回らなければいけないのです。それに、私が助太刀する事なんて論外でした。

 ロに応える必要はアカは無いのですが、応えなければいけない状況でした。……ロはこれを狙っていたのでしょうか?

 アカは仕方ない、というような仕草で、そのまま何も構えずに翼腕もだらりと下げてロに向って歩いていきました。

 ロは自分なんか殺そうと思えば簡単に殺せると言ったその態度に目を細くして苦い表情を浮かべましたが、すぐに元に戻しました。

 アカとの距離はもうありませんでした。

 横から見ていた私には、アカの尻尾がロの見えない部分で動いたのが見えました。

「ヴルラァッ!」

 ロは吠えながらアカに向って毒針を出しながら姿勢を低くして跳びました。アカは自分の腹に毒針が刺さった事も気にせずに、自分の後ろから尾の先端を出し、ロの頭に向って毒針を飛ばしました。

 ガン、という硬い音がしてそれは額に当たり、毒針は上へ跳ね返りました。

「アヴッ」

 姿勢は痛みで崩れ、そのまま情けなく、力なくロはアカにぶつかりました。

 アカは無言のまま、翼腕でロの頭を殴り、そして強く踏みつけました。その動作は、殺そうと思えば殺せるけれど、流石にそれはやり過ぎだろうという風に、敢えて手加減したように見えました。

 そうして何も出来ずに、ロは気絶しました。


 アカの肩と腹に刺さっていた毒針を私が抜いてすぐ、アカは体を震わして力なく座りました。私はアカを木に凭れ掛けさせてから、私も違う木に寄り掛かって溜息を吐きました。

 麻痺している時間はそんなに長くはありませんが、大蛇が絞め殺せる時間よりは十分に長いです。

 これはマメが呼んでも行けないな、と私はつまらなく思いました。

「……ヴゥ」

 アカが唸り、私に呼びかけました。

 何だい? と私がアカの方を向くと、アカは僅かに動く体である方向を指し示しました。

 …………。

 オチビの事を言っているのでしょうか。最初に指し示した方向は、私達が試練の大半を過ごした場所でした。

 何を言いたいのでしょうか。私は少し考えた後に、少し穴を掘った後に「ヴル?」と聞きました。

 オチビの事かな、と私は思ったのです。

「ヴゥ」

 アカはそう、肯定するように頷きました。言葉が無くとも、軽い事を聞く、それを返す、その位の意志疎通は出来ます。

 私は座り、少しした後に「ヴゥ」と、溜め息を吐くように返しました。

 私にとってそれは未だに心の中の大きな部分を占めています。

「……ルゥ」

 アカにもそんなに仲の良かったワイバーンが居たのでしょうか?

 ……ワイバーンは、死んでいった者達を忘れる訳ではないのでしょう。ただ、けじめをつけるのが上手いのでしょう。

 今のやり取りを通して、そう思えました。

 それからアカは動く事なく、私に話し掛ける事もしませんでしたが、ただ、私の方を見ていました。

 変わっている、とでも思われているのでしょうか。

 別にそれでも構いません。私は私であればそれで良いのです。もう、それは知った事です。


 アカが動けるようになってから暫くしてもロは目を覚ます事はありませんでした。手加減したとは言え、相当強く踏みつけたのでしょう。地面が柔らかい腐葉土でなければ、ロの命は危なかった位には強く踏みつけたのかもしれません。

 起きたとしても、気まずいですが、流石に不安になってきました。

 そして、そのすぐ後にマメがアズキと共に戻って来ました。どうやら、マメは私達に自分を助けてくれた何かに会わせるつもりは無いようでした。

 ただ、二匹とも強く甘い匂いを漂わせていて、アカがそれに興味を惹かれて二匹の匂いを嗅いでいました。私も、匂いが強かったおかげで、その正体を知る事が出来ました。

 それは、ある種の芋を焼いて食べた匂いでした。ワイバーンは完全な肉食ではありませんし、私も果物とかを少しだけ食べた事があります。

 けれども、それは新たに不可解な事も考えられる結果になりました。

 芋等を積極的に食べる魔獣は、やはり赤熊でしょう。マメは赤熊に助けられた、とほぼ断言出来ると思います。

 赤熊は、食べ物を焼いて食べる為にマメを助けたのかもしれません。けれどもそこで疑問が更に浮かびます。

 この赤熊は、炎を使えば物を更に美味しく食べられる事を知っていたという前提が無ければこの予想は成り立ちません。

 自らで炎を使えない赤熊が自分でそれを思いついたとも考えられませんし、この辺りには火口もありません。

 なら、何で知ったのでしょう。ワイバーンが偶々気紛れで肉を焼いて食べている所でも見たのでしょうか。それとも、赤熊も智獣に従っていた時期があったのでしょうか?

 ……それとも、赤熊も私と同じなのでしょうか?

 大蛇を殺したワイバーンを突き止めようとした時も、それはただ自分の好奇心に素直に従っただけなのか、そうでなかったのかは分かりませんが、確かめてみる価値はあると私は思いました。

 けれど、どうやって?

 マメとアズキが居ない内に会いに行けばいいのでしょうか。いや、殆ど見知らないワイバーンが来たとして、赤熊はどう思うのでしょうか。

 襲って来たとしたら逃げるしかありませんが、空に逃げられれば別に問題は無いでしょう。

 取り敢えず、行ってみる価値はあるでしょう。


-*-*-*-


 ロが起きたのを確認してから帰り、その夜、マメとアズキはまた交尾をしに崖下に降りて行きました。

 けれども、不思議と私の中に嫉妬の気持ちはもう、殆どありませんでした。羨ましいと単純に思えるようになっていました。

 その後、また昨日の様に三匹の内の一匹のワイバーンがゆっくりと立ち上がったのが感じられました。

 ……ロではないと思うけれど。

 アカに何も刃向う事も出来ずに叩きのめされ、ロは目を覚ましてからもどこかいたたまれなそうにしていました。

 そんなロが、私かアカのどちらかでも、また夜に襲おうとするでしょうか。そこまで馬鹿で厚顔無恥なワイバーンではない筈です。

 しかし歩く方向を聞いている内に、やっぱりロかな、と私は思いました。

 歩いて行く方向は外でした。

 私は首を音を立てないように上げて、外の方を見てみました。

 ロは洞窟の入り口で振り向いていて、私と目が合いました。

「……ヴゥ」

 ここには居られない、とでも言いたそうな感情が籠った、恥ずかしさを後悔するような声でした。

「…………」

 私は首を降ろし、目を閉じました。

 私がどうこうする事でもありませんでしたし、ロがそうしたいなら私は止めるつもりもありませんでした。

 ばさり、と翼を広げる音がします。

 そして、私が次に首を上げた時にはロは居ませんでした。

 その空虚な外を見ると、もうロはここには戻って来ないような、そんな気がしました。体だけが成獣した状態でこの崖から去ったとしても、生きるだけなら出来るとは思いますが、私には本当に生きるだけの惨めな生活を送る事になるんじゃないか、と不安に思いました。

 けれども、そうなると思っても私は止めず、誰かが起きて止めに行く事もありませんでした。

 ……全員、ロが起き上がり、飛び去るまでそれに気付かずに寝ているとは思えませんでした。ロが去るのを全員、黙認していたように私は思えました。

 そうして、そのまま夜は更けて行きました。朝になっても、その夜になっても、ワイバーンの発情期が終わっても、ロは帰って来ませんでした。

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