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 心に余裕が出てくると、私は周りをきょろきょろと観察し始めました。私の他に飛行訓練をしているような子供のワイバーンは、同じく飛行している成獣のワイバーンより多かったです。それは即ち、まだまだ弱肉強食の犠牲となるワイバーンが居るという事でした。一体これから何があるのか、私には見当も尽きませんでしたが、取り敢えず私はそれを頭の隅に放置しました。今はこの初めての空飛ぶ感動に浸っていたかったのです。負の感情が含まれるものは後で考えれば良いのです。

 余裕が出て来たとは言え、まだ私には緻密なコントロールは出来ません。気を抜くとまた自由落下に戻ってしまったりしますし、風を掴む事にも慣れていません。そんな私や他の子供のワイバーンを気遣ってか、成獣のワイバーンは距離を取って飛んでいてくれます。それは私にとってはとても助かる事でした。

 もし、速く飛んでいるワイバーンにぶつかってしまったら、私は地面に落ちるまでに体勢を立て直す事が出来るかどうか不安でしたから。いえ、もしそんな事態になったとしても、落ちてしまう前に母が助けてくれるでしょう。母はゆっくりと降りる私を見守り続けながら、ずっと近くに居てくれましたから。もう、私はこの試練を完遂したのです。

 そして、もう一つ気付いた事がありました。ここ辺りには幾ら見回しても他の動物は見当たりませんでした。ここはきっとワイバーンだけの楽園のような感じなのでしょう。言い返せば、ここにやってきた動物は全てワイバーンの餌食になってしまうという事なのでしょうが、私にとっては安全である事が保障されているようで、地面に降りても安心出来る場所である事が嬉しかったです。


 そうして長い時間の滑空の末、私はとうとう地面に足をつけました。ふさふさの草原です。私は目を閉じて、目一杯その草の香りがする空気を吸い込みました。しかしその香りは唐突に訪れた、ぼとっ、という音と共に消えてしまいました。

 そして、香りを吸っていた鼻に何かが入った音と感触がありました。

 私はいきなり鼻の中に入ってきたその臭い物に驚き、目を開けました。目の前にあったのは、黒茶色のどろどろしたものでした。

 ……見間違えようがない、その雌雄関係なくお尻から出る、私も兄妹も未だに洞窟で情けなく垂れ流すしかない、アレです。それが分かった途端、私はぴぎゃあと泣きました。鼻にソレが入って苦しかったのもありますし、そもそも、そんなのを鼻について誰が喜べるでしょうか。最高の気持ちだったのが最低の気持ちになってしまいました。

 母が隣に来て、私に顔を近付けました。私は吸い込んだ綺麗な空気をその鼻に入ったモノを出す為に一気にふん、と息を出しました。そうすると見事にすぽんと出て、びちょちょ、と汚い音を立てて目の前の大きなソレの一部になりました。

 私は声を上げて泣きながら、ソレから背を向けて鼻にこびりついたのも拭い去る為に、必死に草に鼻を擦りつけました。喧嘩に負けても大して私は泣きはしませんでしたが、それ以上に私にとってはショックな事でした。

 私の最高の思い出は、最低の思い出と同居する事になってしまいました。

 母は私を大きな翼腕で守りながら「グルァ!」と上に向って吠え、飛びながら便をした不埒者に向って怒ってくれました。その大きな声の結果は、私がびびって泣き止むだけだったのですが。


 少しの間鬱屈した気持ちだった私ですが、気を取り直して草原を歩き回る事にしました。上空には細心の注意を払いつつ、ですが。

 近くでは成獣のワイバーンがぐっすりと無防備に寝ていたりもします。顔はとても気持ち良さそうでした。子供のワイバーンがそこらを走り回ったりもしています。喧嘩をしているワイバーンも居ました。それを見守る親は、少し不安そうでした。

 私も喧嘩を吹っ掛けられるのでしょうか。雌だからとは言え、容赦はされません。父母を見ていると成獣になってもワイバーンというのは性別で強さはそこまで変わらないみたいですし、ましてや子供では、力の差は雄雌の関係は関係ありません。

 私は最初っきりで空からソレが落ちて来ない事に気付き、それからは呑気に歩いていましたが、今度は周りを警戒する事にしました。


 くぁ、と私は欠伸して座り込みました。ただ草原を歩き回るのも、飽きるものです。このまま寝てしまえたら心地良いのになぁ、と私は思いますが、そんなに長い時間遊ばせてくれる訳でもありませんでした。感覚としては後、もう少しで母に首根っこを押さえられるかして、洞窟へと戻らされるでしょう。

 後少しかぁ、と少し寂しく思っていると、いきなりどん、と後ろからどつかれました。私は咄嗟に前転をして体勢を立て直します。

 振り向いた先には、雄の、私と同じ位の大きさのワイバーンが居ました。

 まあ、いいか。私は喧嘩を吹っ掛けられた事に対して最初はその位の気持ちでいましたが、鼻にソレがくっついてしまった事を思い出すと、こいつで憂さ晴らしをしようという気になってきました。不意打ちをしてきた時点で、実力は知れていましたし。

 私は取り敢えず、ゆっくりとそのワイバーンに向って歩いて行く事にしました。前脚である翼腕を前に出して威嚇する事も無く、ただ、ゆっくりと歩いて行きます。

 そんな私を見て、そのワイバーンは後退りをします。私は目をじっと合わせました。瞬きもせずじっと見ます。相手にとって目は逸らせません。目を逸らしたら、それは少なからず負けを意味しますから。

 徐々に距離が狭まって行きました。私はまだ何もしません。相手もただ、後退っているだけです。若干の怯えは見えましたが、何とか自分を奮い立たせようと頑張っているようにも見えました。

 そして、十分に距離が狭まった所で私は地面を強く蹴って跳びました。牙が少し生えている口を前に突き出して、首に狙いを定めて。

 相手はその急激な動作に一瞬対応が遅れました。翼腕を振って防御しようとしましたが、私を邪魔するには至らず、私の口はしっかりと首を捕らえました。私はそのままそのワイバーンを地面に押し倒し、体全体を使って動けないように抑えつけました。

 ふと、私は気付きました。この時点で私の勝ちですが、この姿勢はまずいんじゃないかと。まだ、子供同士ですから良いですが、成獣同士だったら、これは、その、交尾をする姿勢に近いんじゃないかと。

 じたばたと必死に私の拘束から外れようとするワイバーンも、そんな事を気付いた私には数瞬の間、意識の外に外れていました。

 はっ、と我に返ると、私はまだ子供だから大丈夫、とも思いつつも少し恥ずかしい気持ちになっていました。抵抗が弱くなるのを待ってから私はゆっくりと拘束を外して敗者の前に立ち、フン、と鼻息を鳴らしてから歩いて去る事にしました。恥ずかしく思っていたのは隠せたと思います。

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