第17話 アジ・ダハカ

 この季節、夕方六時はまだ昼の日差しが残っている。その明るさをさえぎるように、黒塗りの大型セダンが『龍のお宿 みなかみ』の玄関前に止まった。その後に続いてワンボックスが二台止まる。ワンボックスからわらわらと男たちが降り立ち、セダンと玄関とを繋ぐ様に並んだ。その様子を防犯カメラとモニタを通して見るのは何度目だろう。

 次の展開はこうだ、セダンの運転手が降り、後部座席のドアを開ける。そして足利百子が颯爽さっそうと降りてくる。いつもなら。でも今日は違うかもしれない。運転手が降りた。そして後部座席のドアを開けた。さて、降りて来たのは……小柄な男性だった。モニタの映像でははっきりとはわからないが、白人の男性のようだ。足利百子は反対側のドアを自分で開けて降りて来た。

 その時、事務所の電話が鳴った。八大さんがワンコールで出る。


「はい『龍のお宿 みなかみ』、おお萩原さん、ナイスタイミング。いやいやこっちの話。で、どうでした」


 ポーン、チャイムが鳴る。自動ドアが開いて人が入って来た合図である。八大さんは電話で話しながら天井を指差した。はいはい、僕が迎えに出るんですよね。


「出迎え遅い!」


 早速足利百子に怒られる。まあ珍しい事ではない。


「すみません、バタバタしてまして」


 頭を下げる僕に白人の男性はニコニコと微笑みながら、流暢な日本語で話しかけて来た。


「いやあこちらこそ急にお邪魔して、ご迷惑ではありませんでしたか」

「い、いえとんでもない。どうぞ、事務所はこちらの方になります」


 気分は害していないようで良かった。ちょっと緊張する。何せココアの里親候補第一号である。丁重に扱わないと。でも良い人そうで安心した。もっとあからさまに人を見下すような人だったらどうしようかと思っていたが、こういう人ならココアを可愛がってくれるかもしれない。

 いや、昔から金持ち喧嘩けんかせずとも言うしな。案外お金持ちというのは、こういう大らかなふところの深い感じの人が多いのじゃないだろうか。だが待てよ。冷静に考えてみると、八大さんもかなりのお金持ちだよな。だってこんなデカいペットホテル建てちゃうくらいなんだから、貧乏なはずがない。その割に八大さん、あちこちに喧嘩売るのは何故なのか。やっぱりお金と性格は関係ないのだろうか。そんな事を考えている間に事務所到着である。

 事務所のドアを開けたと同時に八大さんが笑顔で立ち上がった。


「ようこそいらっしゃいました。さあ、どうぞ中へ」


 と、招き入れる。しかし。先頭の足利百子が立ち尽くしている。どうしたのだろう、こんな足利百子の様子を見るのはあの時以来である。あの時。俵藤太のお札を貼った時。お札か。あの『茶』と書いて逆様に貼り付けたコピー用紙、あれはまたしてもムカデ避けのお札だったのか。しかし八大さんも何で今そんな面倒くさい事を。僕がオロオロしていると、足利百子の後ろから里親候補氏が、すい、と出て来て笑顔を崩すことなく事務所に一歩入った。バチン。何かが弾ける音がした。


「初めまして、水上です。よろしくお願いします」


 笑顔で右手を差し出した八大さんに、里親候補氏も一層の笑顔で応えた。


「こちらこそよろしく。アジ・ダハカです」


 二人は固く握手をすると、ソファに移動した。その後を少しよろめくように足利百子が追う。その目つきは何かを言いたげだったが、その口は何も言わなかった。

 アジ・ダハカ氏がソファに着くと、足利百子がその後ろに立った。向かい側には八大さんが座る。僕はアジ氏と八大さんの前にコーヒーを出し、八大さんの後ろに立った。ちなみに足利百子の部下達は廊下で待機している。


「それにしても、今日メールを返信して今日お会いできるとは思ってもみませんでした。ラッキーです」


 八大さんはそう言うとコーヒーに口を付けた。アジ氏もコーヒーを一口飲むと、


「こちらこそラッキーでした。明後日には米国へ戻らねばなりませんから」


 と返す。


「日本へはお仕事ですか」

「穀物油の製油工場をこの近くに建てる計画がありましてね。県庁の方々と相談に来たのです」

「なるほど、それでお役人がエスコートという訳ですか。となると相当規模の大きな工場になるのでしょうな」

「東アジアでは最大規模になる予定です」

「それは凄い。この辺りの海浜地区は空き地ばかりで寂しかったのですが、賑やかになりそうで嬉しいです」

「そう言って頂けると有難い」

「しかしそういった商談は普通、部下の方に任せるものではないのですか。ご自身もお忙しいでしょうに」

「もちろん全て自分で回っては、体が幾つあっても足りません。が、現場に出るのは性分でしてね、ずっと出ないでいるとストレスが溜まってしまうのです。それに今回の様な幸運にも出会える事がありますし」

「その件なのですが、ドラゴンをアメリカまでどうやって連れて帰るご予定でしょうか」

「ジャンボを一機チャーターしています。積載については競走馬輸送用のコンテナを用意させています。これならエアコンも完備していますし、まあそれでもドラゴンには十時間少々窮屈な思いをしてもらわなければならないのですが、なんとかこれで行ければ、と」

「アメリカに着いてからはどうされます。ドラゴン用の施設は流石にお持ちではないと思いますが」

「オハイオに五千エーカー程の農場がありましてね、その一部を今度ショッピングモールと住宅地にする為に更地にしてあるので、そこに大型のテントを張って簡易飼養所にしようと思っています。ちゃんとしたドラゴンの家は米国に戻ってから用意する事になりますが、少なくともここと同等の規模の施設は作るつもりですよ」

「素晴らしい!ほぼ満点な解答ではありませんか」

「ありがとうございます」

「全てが本当なら、という話ではありますが」


 来た来た。八大さんの本領発揮である。僕は視線を上にあげた。部屋の四隅、天井の近くに貼られた四枚のコピー用紙のお札を見回す。どれも破れている。さっきバリンと音がしたのはこれだ。アジ・ダハカ氏が事務所に入って来たと同時に札が破れた。これの意味するところを、僕は知らない。けれど八大さんは知っているはずだ。

 アジ・ダハカ氏はしかし、笑顔を絶やす事なく八大さんに問うた。


「私が嘘をついていると仰るのですか」

「今まで聞いた中には嘘は無いかもしれません。けれどこれから聞く事に、正しく答えてもらえるとも思っていませんよ」

「ほう。と言うと」

「あなた、何故ドラゴンを飼いたいと思ったのですか」

「そんな事に理由が要るのですか。ドラゴンは魅力的な生き物です。誰でも手に入れたいと願うほどに。それで十分でしょう」

「では何故今までドラゴンを飼わなかったのです」

「それは何処どこでどうしたら買えるのか知らなかったからですよ」

「あなたが流通させているのにですか」


 アジ氏はほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた。しかし笑顔は変わることが無い。まるで仮面を被っているかのようだ。


「何の事ですかな」

「ただ流通させるだけでなく、開発と流通、双方の手綱たづなを握っているのでしょう」

「何をおっしゃりたいのかさっぱりです」

「先日ガーゴイルに襲われましてね。その頭の中に機械が埋め込まれていたのですが、それを調べたところ、電波でコントロールするタイプの様だと。ただこの電波の受信感度が低かった。発信機から離れられる距離はせいぜい百メートル、つまり半径百メートル以内にコントローラーを使ってガーゴイルを操っていた者が居たという訳ですよ」


 八大さんは視線をアジ・ダハカ氏より上に滑らせた。


「お前だな」


 足利百子は八大さんを睨みつけている。だが最早その視線には力が無い。


「どうした、反論はしないのか。それともご主人様の前では口を開くのさえ躊躇ためらわれるかね。滑稽だな、あれほどドラゴンを目の敵にしていたお前が、よもや蛇に使われるなどと」

「……黙れ」


 食い縛った歯の隙間から染み出すような声だった。


「いいや黙らんね。黙る理由も必要も無い」


 そして八大さんはアジ・ダハカ氏に目を向けた。


「あんたもいい加減わかっただろう。ムカデは役に立たんのだよ。人造ドラゴンも同じく。頭数にはなっても戦力にはならん」

「まったくだ。金の方が余程役に立つ。嫌な世の中になったものだ」


 アジ・ダハカ氏はニンマリと笑った。それは今さっきまで見せていた笑顔とはまるで違う、魔的な微笑みだった。


「いつ私だと気付いた」

「最初からだよ。いくらドラゴンが欲しいからと言って、こんなに急いでやって来るというのは普通じゃない。何としても急がなきゃならない、他の奴より先にドラゴンを手に入れなきゃならない理由があるとしか思えない。そんな理由のある者など、ドラゴンの流通を己が手で押さえたい貴様以外に誰が居る」


 ゆらり、世界が揺れた。意識がふっと途切れそうになる。もう慣れてしまったこの感覚。夢と現の狭間に引き込まれたのだ。引き込んだのはアジ・ダハカ。しかしここにはアジ・ダハカは居なかった。いや、居る。居るには居るが、ついさっきまでのアジ・ダハカとは似ても似付かぬ別物である。

 弁天堂の青木さんを更に二回り程大きくした巨大な体躯。肌の色は闇の如く漆黒で、目から漏れる輝きは黄色い。口からは下向きに白い牙が二本生え、右手には大剣を持っている。


「ヴリトラの本来の人型とはこの姿なのだ。そう滅多に見られる物ではないからね、良く見ておきたまえ」


 そう言った八大さんに切り掛かるヴリトラ。しかしその刃が届く寸前に八大さんの姿は無く、振り仰げば天空に青龍あり。ここでヴリトラ、視線を天から地に落とす。僕を見、そして剣を振り上げる。刹那、爆風。風圧にヴリトラは後退る。僕の頭の上に、赤く輝く小鳥の姿があった。


「我が主への暴挙、許すまじ!」


 迦楼羅の叫びは炎となり、ヴリトラに襲い掛かる。炎に包まれるヴリトラ。しかし。ク、クククク、忍び笑いが聞こえてくる。


「哀れなり迦楼羅、炎より生まれしこのヴリトラに、炎が効くとでも思うてか」


 ヴリトラを包む炎はメラメラと、まるで歓喜の踊りを踊るかのように燃え盛った。そして一瞬静かになったかと思うと、次の瞬間、天に向かって真っ直ぐに高く高く燃え上がった。炎の高さが青龍の頭より高くなった時、炎は二つに割れ門の如く左右に開くと、その向こうから漆黒の巨大な蛇が姿を現した。デカい。この前のオロチなど比べ物にならない。体の長さ、太さも桁違いである。そして何より目立つのは口の大きさだ。まるで蛇の頭にワニの口を付けたかのようなアンバランスさ。


「木、岩、乾いた物、湿った物、兵器によってもヴァジュラによっても、インドラと神々は昼も夜も私を殺すことができない。盟約はまだ生きているぞ」


 ヴリトラは地鳴りのような声で言い放った。しかし青龍は言い返す。


「我は既にアナンタではなく、この東の島国の龍神なり。お前の言う盟約など知った事ではない」

「私もまたガルーダではなく迦楼羅天です。盟約には縛られません」


 迦楼羅もついでに言い返す。何だかんだで仲が良い。だがヴリトラは鼻先でフッと笑った。


「さすがヴィシュヌの子飼い、飼い主に似て口先だけは達者なようだな」

「口先だけかどうか、その身で味わえ」


 直後、無数の落雷がヴリトラの全身を直撃した。しかし、ヴリトラ微動だにせず。


かゆい痒い。インドラのいかづちに比べれば児戯じぎに等しい」


 そのヴリトラの横っ面を炎の塊が張り飛ばした。巨鳥と化した迦楼羅がその炎の翼で打ち据えたのだ。


「インドラのヴァジュラすら跳ね除けたこの翼、効かぬとは申せまい」


 迦楼羅は両の足でヴリトラの頭を押さえつけると、両翼で打ち続けた。これにはヴリトラも応えたらしく、巨大な全身をくねらせて身悶みもだえた。

 一方、青龍は雲を呼んだ。もくもくと湧き出した黒い雲が、青龍の身に纏わりつく。やがて雲は青龍の胴体を隠した。すると、青龍の右の肩口から太く長い雲が天に昇った。次に左の肩口からも雲が昇る。また右から一本、左からも一本、次々に雲が緩やかな曲線を描いて伸びてゆく。そして右に四本、左に四本、都合八本の雲が伸びた時、青龍の右手の如意宝珠が光り輝いた。青龍の身を覆っていた雲が光の中に千切れ消え去る。八本の伸びた雲の中からは、龍の首が現れた。青龍の元の首を中心に、左右に四本ずつ、合計九本の首が一つ胴から伸びている。青龍は九頭龍となった。

 九頭龍は九つの口を大きく開き、ヴリトラに向けた。


「下がれ迦楼羅」


 叫ぶと同時に九つの口は水平に雷を撃ち出した。間一髪、身を翻した迦楼羅をかすめて九つの雷光はヴリトラの頭頂の一点を貫く。もんどりを打って倒れ込むヴリトラ。


「どうだ、これでも痒いか」


 勝ち誇る九頭龍。だがしかし。ク、クククク、ヴリトラは忍び笑いで答えた。


「危ない危ない。あと一時間遅ければ死んでいる所だった」


 ヴリトラは平然と身を起こした。頭頂の傷は見る見るうちに塞がって行く。


「だがこの季節、この国ではこの時間はまだ黄昏時ではない。昼か夜なら私は死なない。お前達が否定しようがとぼけようが、神々との盟約は生きているのだ」


 そしてヴリトラは僕を横目で見つめた。


「哀れよなヴィシュヌ。いや、今は那羅延天だったな。かつて両腕と頼った二人が今世ではこの体たらくとは、流石の貴様も見抜けなかったか。己の見る目の無さを呪うがいい」


 九頭竜と迦楼羅が僕とヴリトラの間に身を割り込ませる。ゴウッ、風が吠えた。それはドラゴンの炎を身に浴びた時に聞こえる音に似て、けれどもっと大きな音がした。ヴリトラが大きく口を開いている。轟々ごうごうと鳴る強風は、その口の中に吸い込まれていた。

 僕の身体が浮き上がる。九頭龍が左手でそれを押さえた。迦楼羅が火炎を噴く。しかしそれはヴリトラの口の中に吸い込まれる。九頭龍は雷を落とす。これもまた吸い込まれる。まるでブラックホールの如し。

 ヴリトラがにじり寄る。風は奇声を上げ勢いを強める。迦楼羅も九頭龍も、地面から引き剥がされないようかじり付くだけで精一杯、身動きすら取れなかった。最早これまでか、そう思った時、僕の胸の中に何かが沸き起こった。それが何なのかはわからない。わからないが、それは僕の内側から僕の口を動かした。僕の口はこう発した。


「ハーラハラ」


 刹那、九頭龍は九本の首をもたげ、九つの口を開いた。そこから吐き出されたのは、群青色の煙。もちろん一瞬にしてヴリトラの中に全て吸い込まれた。そして一、二、三秒を数えた。風が止んだ。しばしの静寂の後、ヴリトラは地響きと共にその長大な巨体を投げ出した。全身が痙攣けいれんしている。辛うじて眼だけがこちらを睨み付けていた。僕の口が動く。


「ハーラハラは世界を焼き尽くす猛毒の煙。いかなお前でも耐える事は出来ない。ハーラハラは木でも岩でもなく、乾いても湿ってもいない。盟約にも反しない。お前はまだ死なない。けれど黄昏が訪れ、昼でも夜でもなくなった瞬間、お前は死ぬだろう。そしてまた蘇る。その時に思い出すがいい、お前を殺せる者はインドラのみに非ずという事を」


 ヴリトラは血の涙を流し、目を閉じた。


「何とか、終わったのですね」


 迦楼羅は小鳥に姿を変え、ほっと一息ついた。しかし九頭龍は、


「いいや、まだ終わってはいない」


 と、振り返った。遠く離れた場所に平伏している者が居る。足利百子だ。


「そうでした、あれが残っていましたね」

「あれを何とかせねば、枕を高くして眠れぬ」

「では許そう」


 僕の口から出た言葉に、びっくりして足利百子は顔を上げた。


「えっ」


 迦楼羅は絶句した。


「ちょ、ちょっと待て、ちょっと待て」


 九頭龍は動揺した。


「那羅延天の名の下にお前の罪を全て許す。但し二回目は無いと思え」


 足利百子はしばし呆然としたかと思うと、突如顔をくしゃくしゃにして、大声を上げて泣き出してしまった。そして僕は唖然としている九頭龍と迦楼羅に向かってこう言った。


「これで厄介事は無くなっただろう」


 返事は無かった。そりゃそうだろうなあ、と僕は他人事の様に思った。

 そこに突然、天から「おーい」という声と共に何か大きな物が降って来た。どしーん。地響きをたてて着地したのは、柴又駅前の銅像だった。


「ヴリトラが出たと聞いて加勢に来たんだが」

「遅いわ馬鹿者!」


 九頭龍と迦楼羅に突っ込まれる帝釈天を見ているとき、僕の中の那羅延天が耳元でそっと囁いた。


「またしばらく眠る。後は頼む」


 えーっ、この状況で頼まれても困るなあ。

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