-666- Rock & Bell`s story

EDA

プロローグ

 黄昏時の路地裏を、一人の少女が必死の表情で走っていた。

 品のいいオリーブグリーンのブレザーに身を包み、背中には可愛らしいリュックを背負った、小柄でショートヘアの少女である。


 身長は百五十センチ前後であろうか、体格はずいぶんほっそりしており、面立ちもやや幼げだ。野ウサギのように大きくて丸っこい目に不安と焦燥の光を浮かべながら、ときどき後方の様子をうかがいつつ、その少女はひたすら薄暗い路地裏を駆けていた。


 そんな少女の進行方向に、やがて人影が浮かびあがる。

 古びたフライトジャッケットとダメージデニムに身を包んだ、長身の男である。こちらに背を向けているので人相はわからないが、くせのある黒髪を不精に肩までのばしており、ジャケットのポケットに両手を突っ込んでかったるそうに歩いている。


「あの、申し訳ありません……!」


 少女はその逞しくて力強い背中に取りすがろうとした。

 が、そうすることはかなわなかった。

 少女が声をあげると同時にその人物は凄まじい反応速度で振り返り、懐から抜き放った大振りの刃物を突きつけてきたのである。


 少女にもう少しでも注意が足りていなかったら、きっとその刃物で鼻先をえぐられていたことだろう。

 あるいは、その足に履いたローファーと地面の摩擦係数があと少しでも小さかったら、やっぱり同じ末路を辿っていたかもしれない。


 ともあれ、少女はぎりぎりのところで踏み留まることができた。

 そんな少女の小さな姿を、男は頭ひとつ分以上も高い位置から見下ろしてきた。


「何だお前? こんなところで何をしてやがるんだ?」


 それは、いささかならず異様な風体をした男であった。

 額に大きな古傷を負っており、左目は白い眼帯で隠している。鼻は高く、口は大きく、それなりに顔立ちは整っていなくもないのに、むやみやたらと凶悪な表情を浮かべている。とりわけその黒いざんばら髪から覗く右の瞳は、飢えた獣のようにぎらぎらと光っていた。


 フライトジャケットは前を開けており、その下に着たTシャツには「666」の数字がプリントされている。年齢は意外に若いのかもしれない。どちらかといえば細身に見えるぐらいなのに、服の上からでもその身体は十分に鍛えぬかれていることがうかがえた。


「あ、あの、わたし、悪漢に追われているのです!」


 少女は必死に言いつのった。

 しかし、それに対する返答は「当たり前だろ」であった。


「あ、当たり前ですか?」


「当たり前だよ。そいつは万里女子の制服じゃねえか。そんな格好でこんな裏通りを歩いてたら、どうぞ襲ってくださいと大声でアピールしてるようなもんだ」


 刃渡りが三十センチはあろうかという厚刃のククリナイフをかざしたまま、若者は皮肉っぽく口もとを歪める。


「制服だけでも五万円、中身も込みならその十倍。捨て値でもそれぐらいの価値はあるんだから、そりゃあ誰でも放っておかねえだろ。たとえお前みたいなちんちくりんでもよ」


「ちんちくりんとは心外です。平均身長から外れているのはおたがいさまではないですか?」


 少女がつい反射的に口答えをしてしまうと、若者はいっそう皮肉っぽく笑いながら、ようやく凶悪な刃物を懐に収めてくれた。


「ま、何でもいいから俺に関わるな。でっけえ仕事を片付けたばかりで、俺はくたびれてるんだからよ」


「あ、あの、ですが、悪漢が――」


「このあたりに俺よりあくどい人間なんてそうそういないだろうぜ」


 そのように言い捨てて、若者は少女に背を向けようとした。

 そのとき、少女の背後の薄闇から複数の足音が差し迫ってきた。


「ようやく追いついたぜ。ずいぶん逃げ足の速え女だな」


 少女を追いかけてきた三人の悪漢どもである。

 いずれも当世風のストリートファッションに身を包んだ、まだ若い男たちだ。一人は金髪の鼻ピアスで、もう一人は爬虫類のような顔つきをしたスキンヘッド、最後の一人は類人猿のような顔つきの大男で、その手にはそれぞれミリタリーナイフとブラックジャックと鉄パイプという物騒な得物が握りしめられている。


「うん? 手前は───獣田けものだろくだな? どうして手前がこんな場所をうろついてやがるんだ?」


 鼻ピアスの男がそのように言いたてると、獣田六と呼ばれた若者はうるさそうにそちらをにらみ返した。


「どうしたもこうしたも、ここは俺の縄張りだ。手前らこそ何者だよ?」


「はんッ! 俺たちゃ《ファング》のメンバーだよ!」


 その言葉に、獣田六は「へえ」と右目を光らせる。


「《D・Fドラクル・ファミリア》の下っ端どもか。そうと知ったら、黙って返すわけにはいかねえなあ」


 言いながら、獣田六は大きな右手の平を悪漢どものほうに突きつけた。


「通行料として、財布の中身を置いていきやがれ。小銭とカード類は勘弁してやるからよ」


「ふざけんな!」


 金属的な声で罵声を放つや、スキンヘッドの男がブラックジャックで襲いかかる。

 が、獣田六はフルスイングでふるわれたその凶器をスウェーバックであっさりと回避すると、代わりに強烈な膝蹴りをスキンヘッドのみぞおちにめり込ませた。


 スキンヘッドはうめき声をあげてへたり込み、その背後から大男が「手前!」と鉄パイプを振り下ろす。

 獣田六をも上回る大男である。その一撃をくらったら、骨折どころか生命をも落としかねないだろう。


 しかし獣田六は顔色のひとつも変えずに、長い右足を振りかざした。

 頑丈そうなジャングルブーツに包まれた足の裏が、鉄パイプを遠くへと弾き返してしまう。

 素手となった大男は、わめきながら獣田六につかみかかろうとした。

 その丸太のように太い腕を両手でひっつかみ、獣田六はぐりんと体勢を入れ替える。


 柔道で言う一本背負いのような格好である。

 が、ここは道幅のせまい路地裏であった。

 大男はまずコンクリの壁に背中を叩きつけられてから、そのまま地面に墜落することになった。


「くそッ!」と叫んだ最後の一人が、獣田六ではなく少女のほうに腕をのばしてくる。

 足のすくんでいた少女は逃げることもかなわず、鼻ピアスの男に羽交い絞めにされてしまった。


「せ、《赤竜会》の飼い犬め! 俺たちにこんな真似をして、ただで済むとでも───」


「中立区域で刃物を振り回してる馬鹿どもを痛めつけて、誰に文句を言われる筋合いもねえなあ」


 にやにやと笑いながら、獣田六は少女たちのほうに向きなおる。

 たちまち男は「動くな!」とわめき、少女の頬にミリタリーナイフの切っ先を押し当ててきた。


「う、動くとこいつがどうなっても知らねえぞ!?」


「馬鹿かお前? 顔を傷つけたら売り物にならねえだろ。何のためにその女を追い回してたんだよ」


「う、うるせえ! とにかくこっちに近づくんじゃねえ!」


「……近づかなきゃいいんだな?」


 獣田六は、フライトジャケットの内側に手を差し入れる。

 そこから抜き放たれたのは、ククリナイフではなく四十四口径の巨大な自動拳銃、デザートイーグルであった。


「な……こ、こんな場所でチャカをぶっぱなすつもりか!?」


「こんな場所で刃物を振り回してるやつに言われたかねえな」


「ふざけんな! 中立区域でそんなもんを使ったら───!」


「うるせえよ」と、獣田六は何のためらいもなくトリガーを引いた。

「あふん」という奇っ怪なうめき声を残して、鼻ピアスの男は後方にぶっ倒れる。

 その際に少女の頬が無傷で済んだのは、純然たる幸運の産物であっただろう。少女はへたり込みそうになるのを懸命にこらえながら、涼しい顔で立ちつくしている獣田六の姿を見つめ返した。


「う、う、う、撃った! あなた、撃ちましたね!?」


「うるせえなあ。こいつは玩具オモチャだよ」


 獣田六は、左手の指先で黒光りする銃身をぴんと弾く。


「特別なリキッドを使ってアホみてえに威力を高めてるけど、こりゃガス式のエアガンだ。当たり所が悪くても、せいぜい頭蓋骨にヒビが入るぐらいだよ」


「ず、ずがいこつにひびですか……」


 呆然とつぶやきつつ、少女は足もとの男に視線を落とした。

 確かにその額には、赤くてぽつんとした血豆のような痕が残されているばかりだ。が、脳震盪でも起こしたのか、完全に意識を失ってしまっている。


「何だこいつら、シケてんなあ。しょせんは使い走りの下っ端チームか」


 振り返ると、獣田六は大男のもとに屈み込んで、その財布を物色していた。どうやら本当に通行料とやらを徴収するらしい。

 続いてスキンヘッドの尻ポケットからも長財布を強奪し、紙幣を抜き取ってから地面に放り捨てる。


「あ、お前も有り金を置いていけよ?」


「わ、わたしもですか!?」


「当たり前だろ。迷惑料だ」


 身を起こした獣田六が、少女の眼前にずいっと立ちはだかる。


「それで無事に帰れるなら安いもんだろ。痴漢呼ばわりされたくねえから、自分で出せよ」


 痴漢よりも恐喝のほうが刑事責任は重いのではないだろうか。

 そんなことを頭の片隅で考えつつ、少女はのろのろとした仕草でブレザーの内ポケットから財布を取り出した。


「あの……だけどわたし、二千円しか持ち合わせはないのですが……」


「二千円!? ずいぶんシケたお嬢様だな!」


「で、でも、口座にはもう二千円ばかり入っています!」


「カード類は残してやるって言っただろ。ったく、それで勘弁してやるよ」


 少女の差し出した二枚の紙幣が、力強い指先に奪われていく。

 それをジャケットのポケットにねじ込んでから、獣田六は鼻ピアスのもとにも屈み込んだ。


「お、こいつはまあまあ持ってるな。よしよし、帰りに酒でも買って帰るか」


「…………」


「それじゃあな。商品価値が残ってる内に、とっとと帰りな。日が沈んだら、今度こそ助からねえぞ?」


 獣田六は身を起こし、うーんと大きくのびをした。

 満腹になった肉食獣のような仕草である。

 そのまま無言で背を向ける獣田六に、少女は「待ってください!」と呼びかけた。


「あ、あなたが獣田六さんなのですね!? わたしは、あなたを捜していたのです!」


「ああん?」と獣田六は仏頂面で振り返る。

 その野獣めいた迫力に生唾を呑み下しつつ、少女は必死に言いつのった。


「あなたがこの歓楽街で始末屋というお仕事を営んでおられる獣田六さん、通称ロックさんなのでしょう? わたしはあなたと会うためにこの街まで出向いてきたのです。どうか話だけでも聞いてやってください!」


「丘の上のお嬢様が、歓楽街の始末屋に依頼かよ。まったく世も末だなあ、おい?」


 獣田六は口もとをねじ曲げて笑った。

 それはむしろ見る者を不安な心地にさせてやまない、凶悪なる笑みであった。


 ともあれ、少女と獣田六は、そのようにして無事に邂逅を果たすことがかなったのだった。

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