ゆめゆめ恋を怖れるなかれ

沙魚川 出海

【序 章】プリンセス・リリオット ♏

「悪夢だぜ」

 時計を見ると朝八時を回っていた。

 入学早々、遅刻決定である。

 ベッドの上であぐらを組みながら、眠気が吹き飛んだ頭でさてどうしたものかと思案する。

 六時頃結子ゆうこさんに起こしてもらったのに、そのあと二度寝しちゃったのがまずかったなあ。入学式の翌日って言ったら、まだ慣れないクラスメートと始業前の探り合い会話を楽しんだり、ホームルームで先生から大切な話をされたりするんじゃないのか? 十分すぎるほどの睡眠時間と引き換えに、失ったものはなかなか大きい気がする。

「ま、いっか」

 寝坊してしまったものは仕方ない。昔から早起きは大の苦手だし、遅刻なんて小・中学時代に百回は経験している。一時間目の授業にはどう足掻いても間に合わないし、二時間目から出席できればよしとしよう。

 ゆっくり登校の準備をして、のんびり家を出る。玄関の鍵を閉めるのも忘れない。春の陽気を肌で感じながら、アタシは鼻唄混じりに学校へ向かった。

 中学を卒業後、この街に引っ越してきて数週間。

 結子さんの勧めに従って選んだ進学先はそれなりに伝統のある私立高校で、学習コースによっていくつかのキャンパスに分かれている大きな学校である。アタシはこれまた結子さんの熱い説得を受け進学コースを選んだのだが、アタシの学力は決して高いわけではなく、できない人達の中ではできるほうだけれどできる人達の中ではできないほうというレベルに過ぎない。授業についていけるかいささか不安だ。しかも、いきなり遅刻で出遅れるというミスを犯してしまったわけだし。

 駅前を通り、サラリーマンやOLとすれ違い、雑踏から逃げるように歩くことおよそ三十分。私立柴白高校が見えてきた。

 結子さんはわざわざアタシのために、徒歩で通える距離のマンションに引っ越そうと言ってくれたのだ。結子さんのためにも、三年間真面目に勉学に励まなければならない。

 先生に見つからないよう正門を突破し昇降口へ。ローファーから室内用シューズに履き替えていると、

「うわっ、なんだこいつ」

「え、一年? ありえねー」

「へえ、随分気合い入ってるね。高校デビューってやつ?」

 三人の女子生徒に絡まれた。シューズのラインの色が青なので三年生だ。鞄を手にしているところを見るとアタシと同様に遅刻なのだろうけれど、三人揃って登校している点や女子生徒の外見の雰囲気から、果たして寝坊や体調不良での遅刻かどうかは疑わしいものである。遅刻が許される理由は、アタシのような健全で健康的な寝坊だけというものだ。

「え、アタシのことデスカ?」

 とぼけるアタシに、あんたしかいないだろとの突っ込みが入れられた。汚い言葉遣いだなあと思った。

「あんたさあ、一年でしょ?」

「はあ、そうですけど」

「名前は? 何コース?」

明日香あすかユメって言います。進学コースです」

 三人の中で一番背の高い女子がアタシに詰め寄ってきた。ばっちり化粧を決め、ブラウンに染められた髪は腰に届く長さだ。後ろでは二人がにやにやした顔をしている。

「ふうん。ユメちゃん、いい根性してるね。進学組のくせに、入学早々金髪なんて」

「はあ……」

「しかも何これ、毛先パーマかけてんの? 可愛い髪型ね。でもさあ、一年でこれはちょっとやりすぎなんじゃないかなあ。知らないよ? 応援団に目をつけられても」

 馴れ馴れしくアタシの――金色の髪に触れてきた先輩は、髪を一筋つまむと思いきり引っ張った。頭皮に鋭い痛みが走り、何本かの金色の髪の毛がはらはらと床に落ちた。

「あははっ、新しく生えてくる髪は黒に戻ってるよ~。よかったねユメちゃん」

麻衣まいちゃん優しいーっ!」

「明日までに染め直してこいよ、一年」

 立ち去ろうとする先輩の手首を――アタシは逃すまいと掴み、力を籠めて握り締めた。

「痛っ――な、何すんだよっ」

「――げだよ」

「はあ?」

「地毛だっつってんのよ先輩よォーッ!」

 肩の辺りで波打った金髪を掻き上げながら、アタシは魂の咆哮を名も知らぬ先輩に叩きつけた。

「生まれつき金髪なんだよ! あとこれはパーマじゃねえ、くせ毛だ!」

「なっ、なっ……」

 怯んだ先輩は口をぱくぱくさせ、わずかに後退った。アタシの手を振り払うことも忘れ、ただただ茫然としている。

「あ、ああっ!? 麻衣ちゃんに向かってその口の利き方はなんだあ! 先輩だぞあたしらはっ!」

「調子乗ってんじゃねえよ一年のくせにっ!」

「やかましい! 黙っとけ!」

 一喝して睨みつけると、それだけでほかの二人は押し黙る。

 アタシは目の前で身構える先輩――マイちゃんって呼ばれてたっけ――の瞳をじっと見つめる。茶髪のマイちゃん先輩の目は当然だが真っ黒だ。アタシとは違う。

「マイちゃん先輩、アタシの目を見てください」

「え……?」

「目の色ですよ。鳶色でしょ? アタシは日本人ですけど、この金色の髪も鳶色の瞳も、全て自前なんです。わかってくれますよね?」

 アタシの瞳を怯えるような目つきで見つめる先輩の顔つきが――徐々に穏やかになってゆく。頬はうっすらと紅潮していた。

「ええ……、勘違いしてしまってごめんなさい……」

 理解してもらえたようだ。

 それじゃあ失礼しますと言って手を放し、アタシは昇降口をあとにして教室へ向かった。背後ではマイちゃん先輩の「素敵……」という呟きと、「ちょっ、麻衣ちゃん!?」「い、一年っ! てめー覚えてろよ!」という叫びが聞こえた。



「明日香ユメってのはこのクラスかァーッ!?」

 昼休み。

 昼食を食べ終えて周りの席の女の子と雑談していると、教室に二人の女子生徒がやってきた。どうやらまたしても三年生のようだ。

 一人はベリーショートの髪に尖った顔つきの先輩で、もう一人は短い髪を頭の上で結んだ(ちょんまげみたいだった)、やけに鋭い目つきの先輩だった。

 下級生を威圧する態度とは裏腹に、二人ともスカートの丈はきっちり膝下で、着崩すことなく制服を着用していた。いや、むしろその長いスカート丈が下級生にとっては恐怖の象徴になるのかもしれない。

 閑談の時間が一瞬で凍りつき、皆が一様に黙り込んだ。

「あっ、お前だな! ちょっとこっち来い! 団長が呼んでんだよ!」

 教室を見渡していたちょんまげ先輩の視線がアタシを捉えた。

 まだクラスメートの名前を把握している人は少ないだろうし、アタシの名前を知っているのはちらちらと心配そうな表情でこちらを窺っている周りの女の子達だけだ。けれど目立つ金髪は隠しようがなく、あっさりと特定されてしまった。

「仕方ないな……」

 二時間目の授業になんとか間に合ったアタシは、何食わぬ顔でその後の授業を受けた。休み時間、アタシの外見に怯むことなく話しかけてくれた女の子達と、せっかく和やかな昼休憩を取っていたというのに……。

「あ、明日香さん。あの人達応援団だよ、まずいって」

 前の席の斎藤さいとうさん(一時間目に席替えを行い、学級委員やその他の係などを決めたと教えてくれたいい人)が小声で言った。

 不安にさせまいと、アタシは軽い口調で大丈夫だよと返す。先輩に呼び出されるのは怖くないが、クラスの空気を悪くされるとなると話は別だ。ここはアタシが出ていって早く問題を片づけなくてはならないだろう。

「援団舐めんじゃねえぞ一年ァ! 団長が呼んでるっつってんだろーが!」

「はいはーい。アタシです、明日香でーす」

 手を上げて教室を出ると、応援団の団長だというベリーショートの先輩が「ついてこい」と短く言った。やけに掠れた低い声で、カラオケで何時間歌い続けたらこういう声になれるのだろうと疑問に思った。男の子だったらとてつもないイケメンになっていそうな人だ。

 連れていかれたのは屋上だった。

「屋上って入れるんですね。体育館裏かと予想してたんですけど」

「あ?」

 団長が目を細めてアタシを睨む。

 フェンス越しに街並みが遠くまで見渡せる。霞んだ山があって、その下に不揃いな高さのビルが並び、隙間を縫うように豆粒の車と人がどこかへと消えてゆく。校舎の窓から覗く廊下を誰かが歩いていて、校庭ではジャージ姿でサッカーをしている男子の姿があった。四階建て校舎の屋上だからそんなに高くはないけれど、いい眺めだ。頭上からは春の温かな陽光が降り注ぎ、青空がどこまでも広がっている。なんていい天気だ。こんなところで柄の悪い先輩達と遊んでいるのはもったいない時間の使い方である。

 睨まれているのを無視して空を見上げていると、そこに朝昇降口で会った女子生徒がやってきた。マイちゃん先輩以外の二人だ。

「あ、こいつだよ彩花あやかちゃん! あたしらに生意気な口利いたのは!」

「てめーのせいで麻衣ちゃんの様子がおかしくなっちゃったじゃねーか!」

 団長の名前はアヤカというのか。屋上に現れるなり口喧しく騒ぎ始めた二人を、アヤカ先輩がまあ落ち着けと宥める。ちゃらちゃらした格好の二人と、凛々しい出で立ちの団長が話している構図はなんだか不思議だった。

 先ほどまでは応援団の先輩達のほうが変わっているという印象を受けたけれど、今ではスカートを短く詰め太腿を晒している二人のほうが場違いな気がした。

 ちなみにアタシは新入生らしく制服をちゃんと着用している。ブレザーにはまだ皺一つないし、スカートは適度な長さでリボンタイも襟元でしっかり結ばれている。結子さんに買ってもらった大切な制服なのだ、着崩すなんてありえない。

「明日香ユメ。なんで呼び出されたかわかってんだろ?」

 アヤカ先輩の隣で腕を組み、ずっと何か言いたそうな顔をしていたちょんまげ先輩が口を開いた。

「はあ……。なんとなく、ですけど」

「いいか新入生! 我が校は百年近い歴史を持つ学び舎、そしてあたしたちは長年受け継がれてきた伝統ある柴高応援団! 応援団は学校の顔であり、校内だけでなく他校の生徒にも舐められないよう模範的生徒でなければならない! 調子に乗った新入生は厳しい洗礼を受けることになるが、それは校内の秩序や風紀を乱す者を放っておくわけにはいかないからだ!」

「風紀って言われても、アタシのこれは地毛でして。それに普通に髪を染めてる二、三年生を結構見かける気が――」

「んなこたあこの際どうだっていいんだよ! 一年のくせに先輩に対する舐めた態度が問題だって言ってんの! 今朝あんたがふざけた真似してくれたおかげで、麻衣がずっと放心状態なんだっつーの!」

 頭を激しく上下に揺らしながら、ちょんまげ先輩はアタシに人差し指を突きつけ捲し立てた。

「彩花も何か言ってやってよ」

 屋上に吹く風が、アヤカ先輩の長いスカートをなびかせる。

 平均より少し低い身長のアタシに比べて、アヤカ先輩は背が高くすらっとしている。百七十センチはありそうだ。この長身から放たれる威圧感に委縮しない新入生なんていないだろう。アタシ以外。

 しばらく無言だったアヤカ先輩が、不意に手を伸ばしてアタシの髪に触ってきた。まさかまた引っこ抜かれるのかと警戒していると、

「お前、髪切ってこい」

 と低い声で言われた。

「え、なんですか?」

「髪切れって言ったんだよ。地毛なんだろ、この金髪。髪の色にはあれこれ言わないでおいてやるから、その代わり短く切ってこい。わたしと同じくらい短くな。そしたら見逃してやる」

 身長差があるため、至近距離で見つめ合うとアタシが見上げる形になってしまう。アヤカ先輩の眼差しは冗談を言っている目ではなかった。アタシは目を逸らすことなく言い返す。

「嫌です」

「……へえ。なんで?」

「この髪はとても大切なものなので、そんな理由で切りたくないからです」

 髪を大事にしなさいと、幼い頃から結子さんに繰り返し教えられてきた。以前、緩くうねった髪が嫌で、ストレートパーマをかけてみたいと口にしたら大反対されたことがあったのだ。

 その髪の色も綺麗なウェーブも、きっとお母さんが貴女に遺したものだから――結子さんはそう言って、慈しむようにアタシの髪を撫でた。以来、この髪は顔も知らない母とアタシを繋げるもののような気がして、妙な愛着が湧き始めていた。

「じゃあ特別に――わたしが切ってやるよ、その大切な髪」

「いっ……!」

 ぐいと乱暴に髪を引っ張られ、思わず声が漏れた。頭を引き寄せられ、文字通り目と鼻の先でアヤカ先輩が鋭くアタシを睨めつけている。

 ちらりと周囲に目を遣ると、ほかの三人は手を出す様子もなく黙って成り行きを見守っていた。助けに入ってくれそうにはない。アヤカ先輩も冷たい眼光で脅そうとしているだけだし、どうやら状況の進展は次のアタシの言動に委ねられているらしい。

 あーあ。

 仕方ないか。

 変な噂が立つから人前ではやりたくなかったけれど、この状況を打開するにはあれが一番手っ取り早い。それに――今後の高校生活をエンジョイするためにも、ここでアヤカ先輩を手懐けておくのは有効に違いない。髪を引っ張られてむかついたというのが本音だが。

「アヤカ先輩」

 アタシは髪を掴まれたまま、アヤカ先輩に。

 ――キスをした。

「ん――ッ!?」

 喉の奥でくぐもり声が鳴り、びくっと体が硬直したのが伝わってくる。

 重ねた唇を離すと、脱力したようにアヤカ先輩はへたり込んだ。呆気に取られ事態を飲み込めないでいる三人を無視し、アタシはアヤカ先輩の顔を覗き込む。

 男顔負けの硬派な団長は――今や瞳を潤ませ頬を紅く染めた、ただの乙女に変貌していた。

「アヤカ先輩。アタシ、この髪とても気に入ってるんです」

「う、うん……。とても、似合ってると思う……」

「ほんと? じゃあ切らなくていいですよねっ」

 虚ろな目で頷いてくれた先輩の手を取って、強引に握手する。

 ほかの三人に向けて、アタシは笑みを浮かべて言った。

「団長がいいって言ってくれたので、先輩達も文句ないですよね? それじゃ、アタシは教室に戻りまーす」

 固まったまま動かない四人を残し、アタシは気分よく屋上から立ち去った。



 ほどなくして――金髪の新入生が応援団の女団長・沢口さわぐち彩花を誑し込んだという噂が、学校中に広まった。


     ♏


 アタシの名前は明日香結女ゆめ

 私立柴白高校に通うごく普通の十五歳――なのだけれども、アタシには少し変わった力があった。

 他者を魅了する能力。

 アタシに魅了された者はアタシに好意的な感情を抱くようになり、能力の限界を超えない限りなんでも言うことを聞いてくれる。

 初めてこの力に気づいたのは小学生の頃だ。

 女の子同士でちゅーをするという意味不明な遊びが流行り、人気者だったアタシは我が意を得たりと次々に女の子にキスして回った。

 するとどうだろう、女の子達はアタシのお願いや意見に対し、決して首を横に振らなくなったのだ。

 もちろんそれは一時的なもので、時間と共に彼女達がアタシに送る熱い眼差しも落ち着いていったが、しかしいつの間にかアタシはクラスの――いや学校の女王として崇められるまでになってしまった。

 それらの奇妙なできごとがきっかけで、この力にはっきりと目覚めたのだ。

 思い返すと幼稚園に通っていた頃から不思議と人に好かれたり懐かれたりすることが多かったので、能力というより体質的なものもあるのかもしれない。

 一度自覚してしまえば、力を意のままに操れるようになるのに時間はかからなかった。

 能力を悪用すれば、人間として誤った道を生きることになる恐れもあっただろう。けれどアタシの育ての母――誰よりも大切で、この世界で一番尊敬している結子さんが正しく導いてくれたおかげで、そこそこ善良に生きている今のアタシが在るのだ。

 まあ、他人にちょっと好かれて、他人にちょっとお願いごとを聞いてもらえる、どうってことのない体質・能力だ。

 最後に付け加えるなら――アタシはこの力を、女の子相手にしか使ったことがないってことくらいかな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る