【第三章】アルバストル ♨

 水無瀬ヤウに襲われた翌朝、寝惚け眼を擦りながらあくびを噛み殺し、アタシは制服姿でバスに揺られていた。

 駅前のバスプールを出発したバスは、通勤ラッシュでごった返す国道をだらだら進み、だんだんと背が低くなってゆく建物の間を縫って目的地へ向かっていた。

「――で、なんであんたがいるんですかね」

 吊り革に掴まり、隣の人物を横目で睨む。

 緑色の髪をした少女は、アタシと目が合うと嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ユメちゃんが誘ったんじゃないですか。ヤウのこと駅前で待ち伏せしてたんでしょ?」

「してねえよ。誘ってもいねえ」

「え~? ヤウのことちらちら見てたじゃないですか~。あの目は職場で『どう? 今夜二人で食事でも』って上司がOLを誘う時に使う色目でしたよ」

「してねえよそんな目は! つーかそんな目できるかっ!」

「あっ、そっか。ユメちゃんなら食事じゃなくていきなりホテルに誘っちゃうもんね。きゃあ、さすが女帝ユメ様! なんていやらしい! 是非ヤウもホテルに連れてってください」

「この阿呆!」

 周りの乗客の迷惑にならないよう声を潜め、しかし精いっぱいの突っ込みを入れる。

「待ち伏せしてたのはそっちだろ! なんで駅前にいたんだよ!」

「たまたまですよ。ヤウ、学校に地下鉄で通ってるんだもん。で、さっき駅に着いたらユメちゃんがバス停にいるのを見つけたから」

「ほんとかよ。よくあの人混みの中からアタシを見つけられたな」

「えへへ。ユメちゃんの血の音はもう覚えましたからね。人混みの中でも簡単に見つけられますよ」

「……なんか嫌だな、それ」

 昨日、あのあと。

 アタシは落とした携帯電話を無事回収し、エオニアさんと連絡を取った。状況を説明すると、わざわざ車で迎えにきてくれた彼女に家まで送ってもらえた。

 アタシの『魅了』によってシルヴァヌスという男の洗脳から解放されたヤウは、アタシに謝罪したあとまた会うことを約束し、ひとまず帰宅した。エオニアさんも大丈夫だろうと言っていたし、その時のアタシはとにかく帰って休みたかった。

 結子さんは夜遅くに帰ってきたみたいだけれど、アタシは心身ともにくたびれていたので、シャワーだけ浴びて眠ってしまった。

 風呂場の鏡で確認した時には、ヤウに撃たれた傷はほとんど治りかけていた。自分の体に多少の空恐ろしさを感じつつも、非現実的なことが立て続けに起きたせいで、このままでは体より先に心がまいってしまう。

 そんなこんなで今朝。

 まさか、こんなに早くヤウと再会する機会が訪れるとは。

「ていうかヤウ、なんで私服なの?」

 ヤウは昨日とは別の意味で際どい格好をしていた。

 春に映える淡い色のトップスに、ドット柄の超ミニスカート。小さな水玉模様の黒いオーバーニーソックスにショートブーツという、如何にもガーリッシュな服装である。背負っているのも休日に遊園地へ出かけるような可愛らしいリュックサックだ。左目の下、雫型のフェイスペイントは今日も健在である。

「そんな短いスカートで、よく出歩けるね……」

「え、ユメちゃんまさか、ヤウに欲情してるんですか? 今スカートの中想像したでしょ~。だめですよ人前で……。――帰ったら、ね?」

「ねじゃねーよ! 殺されそうになった相手に誰が欲情するか!」

「わーん、そのことは昨日謝ったじゃないですかご主人様あ」

「その呼び方はやめろ! いいから質問! 質問に答えろ! なんで私服なの! はいどうぞ!」

 金髪と緑髪の女子高生がひそひそ騒いでいる、バスの車内。

 心を落ち着かせながら、アタシはヤウの惚けた顔を半眼で見やる。

「だってヤウの高校、私服なんだもん」

「え、マジで? ってことは――槻総つきそう? それとも角原かくはら?」

東女とうじょ

「嘘っ!?」

 アタシはまじまじとヤウの顔を見つめた。子供っぽい相貌に深緑の双眸。相変わらず左目の下には涙のペイント。今日は緑の髪をツインテールにしている。

 とてもではないが、県内偏差値ナンバーワンの公立校に通う生徒とは思えない、能天気な顔つきをしていた。

「うちの学校、校則もないに等しいし、美術科があるから変なセンスの生徒が多いの。ユメちゃんみたいな金髪もいっぱいいるし、赤とか緑もいますよ。だからヤウのこの髪も隠さずに済むんです。まあ、みんなはヤウの髪を地毛だとは思ってないでしょうけどね。中学までは一応黒に染めてたけど、やっぱり素の自分のままでいたいっていうか――ほら、世界遺産的な生き方ってやつですかね?」

「ああ……。わかる、その気持ち」

 身につまされた。

 能天気――というのは取り消そう。

 ヤウだって、悪魔の子であるがゆえの苦悩や苦痛を、今まで何度も感じてきたはずだ。奇妙な体質や奇抜な髪の色に悩ませられながら、それでも前向きに生きてきたのだろう。

 アタシのような金髪ならともかく、ヤウのそれは深い緑色だ。髪の色を気にするなと言うほうが無理だろう。

 アタシはヤウに初めて親近感が湧いた。

 それと同時に、親のことや子供時代のことなど、彼女に興味が湧いてきた。

「ねえ、ヤウのお母さんってどんな人?」

 ヤウは二年生なので年上だが、敬語を使う気には全くなれなかった。自分で言うのもなんだが、年上には一応敬意を表するアタシにしては異例の対応である。まあ、そもそもヤウのほうから呼び捨てとタメ口でお願いしますと懇願してきたのだが。

「ヤウのママは普通の人ですよ。会社に勤めてます。今年で四十路」

「お父さんは?」

「いません。ヤウが生まれてすぐ離婚しちゃったみたいです。たぶんヤウのせいで喧嘩したんですね。パパはママが誰かと浮気して、別の人の赤ちゃんを妊娠したと思ってるんですよ」

「あー……」

「ママはもちろん浮気なんかしてないけど、産まれた子がどちらにも似てなくて、その上髪と目が緑色だったら不気味だし、まあ揉める気持ちもわかりますね。でも結局ママはヤウをここまで育ててくれたから、すっごく感謝してるの。ママを孕ませたインキュバスが誰かは知らないけど、そんなのもうどうだっていいって感じです。ヤウがママのお腹から生まれて、ママに育てられたことだけは揺るぎない事実ですし」

 窓の外――流れてゆく景色を眺めながら、穏やかに微笑むヤウ。

 この人、こんな顔もできるんだ。

 このわずかな時間で、水無瀬ヤウは尊敬すべき人生の先輩なのだと感じ入った。

「ユメちゃんのご両親は?」

「アタシ? アタシはねえ、よくわかんないんだこれが。父親も母親も全然知らん。もしかしたら父親は最初からいないのかもね。母親は独身だったかもしれないし。物心つく前にね、路上で泣き喚いてるところを保護されたみたいなんだよ、アタシ。アタシを産んだ母親が、アタシを置き去りにしてどこかに逃げたって可能性も考えられる」

「調べないんですか? お父さんとお母さんのこと」

「いいんだよ。アタシをずっと育ててくれた人がいてさ、アタシはその人に感謝してるんだ。ヤウがヤウのお母さんに感謝してるように、アタシにとってはその人がお母さんなんだよ。だから両親のことを調べる気なんてこれっぽっちもないね」

「そっかあ、じゃあその人にたくさん親孝行しないといけませんね」

「うん――だから本当は、こうやって学校サボってる場合じゃないんだよ……」

 結子さんは、アタシが今日も真面目に登校したと思っている。無断で学校を欠席しているなんて露ほども考えていないだろう。

 しかし、いつどこで誰に襲われるかもわからないこんな状況で、暢気に学校へ通う気には到底なれなかった。

 どうにかして問題を片づけ、アタシの日常を取り戻さなければならない。

「ヤウは学校サボっていいの?」

「よくないですけど、あの男のマインドコントロールから抜け出したってことが知られたら、ヤウだって殺されちゃうかもしれません。ユメちゃんといたほうが怖くないし、もし誰かが襲ってきたら、ヤウが女王ユメ様を守るナイトになってあげるので安心してくださいね」

「はいはい、期待してるよ」

 いつしか乗客も疎らなバスは、郊外の二車線道路を走っていた。

 停留所で降りると、麗らかな春の陽射しが降り注いでくる。田んぼや遠くにある小高い山を望みながら、アタシたちは――現王園サラの屋敷へ向かった。



 三角の屋根がついた木の門、いわゆる数寄屋門の前で呼び鈴を鳴らすと、ブラウスにカーディガンを羽織ったエオニアさんがぱたぱたと石畳を駈けてきた。

 カラカラと小気味好い音を立て、引き戸が開く。

「おはようございます、ユメ様。――と、水無瀬様もいらっしゃったんですね」

 アタシたちを快く招き入れ、エオニアさんは深々と頭を下げた。淡い琥珀色の瞳が揺れる知的な顔は、あまり寝ていないのか幾分疲れているように感じられた。

「おはようございます、エオニアさん。すみません、ヤウとばったり会っちゃったんで、連れてきちゃいました」

「エオニアさん、おはやうございまーす」

 門と玄関までの間には石畳が敷かれ、その両脇には庭というより庭園と呼んだほうが適切であろう、和の彩が広がっている。植え込みや木の位置一つを取っても完璧に計算され配置されているようで、まるで庭自体が芸術作品だ。素人ながらに感心してしまう。

 並の一軒家よりも大きなこの二階建ての屋敷が離れとは驚きだ。今アタシたちが入ってきたのは裏門で、母屋側にもっと立派な門があるらしい。

 離れの隣には、縦に細長い蔵がいくつか建っていて、その向こう側にある母屋を見ることはできなかった。

 裏手には高木の繁茂した林が広がり、葉っぱの隙間から小さな山がひっそりと姿を覗かせた。まさかあの山も現王園家の私有地なのだろうか。

「サラ様は今日のお昼過ぎにお戻りになるそうです」

 今、家にはエオニアさんしかいないようだった。サラが留守の時の屋敷の管理はエオニアさんに任されているらしい。

「昼過ぎかあ。ちょっと時間空いちゃいますね」

「ヤウ、王女様の顔知らないや~」

 通されたのは広々とした居間。現代和風といった感じで、アジアンな色調の和室である。畳に敷かれたマットや向かい合って置かれたソファー、羊皮紙のような色合いで安らぎを覚える壁紙――全てが高級そうだ。

 サラが本邸――父の家から戻ってくるまで、アタシとヤウは勉強でもしながら待つことにした。昼食はエオニアさんがつくってくれると言うので、好意に甘えさせてもらう。

 ――が、その前に。

「水無瀬様、お尋ねしたいことがあるのですが」

「そうだよヤウ、いい機会だしこの際知ってること全部話せよ」

 紅茶と茶菓子をテーブルの上に運んできてくれたエオニアさんが、向かい側に座る。アタシはヤウの隣で、既に茶菓子の包装を剥がしている彼女に話を促した。

「うん、いいですよ。でもその前にエオニアさん、ヤウのことはヤウって呼んでくださいって、昨日も言ったじゃないですか」

「あ、そういえばそうですね……。失礼しました、ヤウ様」

「んー、できればヤウちゃん――いや、エオニアさんに呼び捨てにしてもらうのもいいかも……。エオニアさん、一度ヤウのことヤウって呼び捨てにしてもらっていいですか?」

「え? ヤ、ヤウ……?」

「きゃー! エオニアさんがヤウのこと呼び捨てにー! ハアハア」

「いいからさっさと話せ!」

 一喝すると、ヤウははいっと返事をし姿勢を正した。舌足らずな声のトーンを少し下げ、訥々と語り始める。

「シルヴァヌスって男については、昨日も少し話したと思いますけど……」

「そう、そいつだよ。ヴェロスって悪魔と一緒に行動してるのか? 外見は?」

「うーん、ヤウはちょっとしかシルヴァヌスと会ってないからなんとも言えないんですけど……。怪しい奴はいっぱいいたし……。あそこにいた一人が人間に化けた悪魔だったのかなあ」

「どこで会ってたんだ、そのシルヴァヌスとは」

「えっとですね、そもそもヤウが最初に魅了されたのは、夜、近所のコンビニに出かけた時だったんです。いつの間にか背後に黒い神父服を着た西洋人が立ってて、気味が悪いと思った次の瞬間には、もう気を失っていました。その日から、学校に行ってる時とかママの前にいる時は普通でいられるんだけど、一人になるとシルヴァヌスのことしか頭に浮かばなくなっちゃって。今考えると吐き気がするくらい気持ち悪いんだけど、その男が頭の中でチルドレンを集めろ、チルドレンを連れてこいって叫んでるんですよ」

「それでアタシを襲ったのか……」

 申し訳なさそうな顔をするヤウに、アタシは気にするなとしか言えなかった。実際、アタシはもうヤウに殺されかけたことを気にしていないし、一晩ぐっすり眠ったおかげでアタシの精神状態は至って健康である。

「ユメちゃんの力はヤウを解放してくれました。洗脳されたまま倒されてたら、きっとヤウも自殺してたと思う。あの男の洗脳には、情報を漏らさないやうそういう命令が込められていたと思うし。あの蛇のおじさんみたいにね。ユメちゃんが『魅了』を上書きしてくれたから、ヤウは死なずに済んだんです」

「そうか、チルドレンを洗脳から解放するためには、魅了し直せばいいんだな……」

「うん、たぶんそれで助かると思います。そう考えるとユメちゃんのナイトメアはかなりすごい力ですよ。相手を切ったり刺したりするだけで、一瞬で魅了できちゃうんだから。チルドレン同士の戦いなんて、結局は魅了した者勝ちみたいなもんですし。えっと、なんて名前でしたっけ? リリ、リリム? リリン……?」

 プリンセス・リリオットです、とやけに力強くエオニアさんが言った。

「プリンセス・リリオットです」

「に、二回言った」

「そ、そう、そのリリオット。あれならシルヴァヌスにも勝てるかも。不意打ちでもなんでも、とにかく先に一発入れちゃえばいいんですから」

 拳を握るヤウに、エオニアさんが同調する。確かにその通りかもしれないが、どんな力を隠し持っているのかもわからない奴に、接近して一発入れろと簡単に言われても……。

「ヤウ様、そもそも貴女はどうやってユメ様の情報を得たのですか?」

「ユメちゃんを襲う前に、チルドレンを魅了してシルヴァヌスのところに連れていったことがあるんです。場所は海沿いの廃倉庫――あいつらの仲間はよくそこに集まってたみたい。十人くらいいたかなあ。あの蛇のおじさんの強さはシルヴァヌスも認めていたみたいで、『魅了』が完全には効いていなかったやうですね。半ば洗脳を無視して人を殺したりしてたから、あんまり当てにはしてなかったんじゃないかなあ」

「洗脳を無視――ちくしょう。あの野郎、それで女の人を殺して回ってたのか……」

「……ヤウが連れていった人も、無事だといいんですけど。――シルヴァヌスの近くにいたのは、確か〈フロイライン〉って呼ばれてる女達。そのうちの一人は蛇のおじさんが暴走しないやう監視してたみたいですよ。あまり目立ちすぎるやうなら消すつもりだったのかも」

「ということは、あの夜ユメ様とサラ様が蛇男フィズィと戦っていたのも、見られていた、と……?」

「たぶん。ヤウはそれで、蛇のおじさんより強いユメちゃんを、仲間にしたいから連れてこいってシルヴァヌスに命令されたんです。チルドレンの血の音は普通の人とは微妙に違うから、駅前で待ってれば見つかるかなあと思って。そしたら案の定」

 アタシは昨日、駅前でバスを降りた時のことを思い出した。

 雨なのに傘がなくて困ったなあなんて、のんびり腕を組んで考えていた――あの時からヤウに尾行されていたのか。

「そもそもシルヴァヌスは、チルドレンを集めて何をするつもりなんだ? ヤウが言ってた、新しい世界とか理想とかってのは」

「その辺のことはよく思い出せないんですよね……。ヤウもあんまり詳しくは聞かされてないし。新しい世界をつくって、王になるとかなんとか……。具体的にはよくわからないです」

 うーんと唸りながら必死に記憶を手繰るヤウ。

 しかし、やはり洗脳下に陥っていた時の記憶は曖昧な様子だった。

「王、か」

「やはり、王女サラ様と関係のあることでしょう。よからぬことを企んでいるに違いありません。シルヴァヌスはヴェロスに唆され、サラ様を狙っているのだと思いますが……。ヴェロスの企みはサラ様を利用することによって、エフィアルティス様が築いた体制を崩すことです。王になる、とはもしかしたら――」

「エオニアさんがいたシェディムの国を乗っ取る、とか?」

「ヴェロスならともかく、チルドレンとはいえ人間であるシルヴァヌスが、溟海に渡るなんて考えづらいですが……」

「じゃあやっぱり、人間を洗脳して世界を支配するとか、そういう幼稚な考えかなあ」

 質問なんですけど、とヤウが手を挙げた。

「そもそもー、どうやって溟海と人間界を行ったり来たりするんですか?」

「自由に行き来できるわけではありません。大昔、まだ世界が一つだった頃と違い、今や世界は別たれ大きな隔たりを持っています。織り重なっているのですから、隔たりというのもおかしな表現ですが……」

 アタシも、これだけ連続的非日常体験を経た今でも、いまいち溟海がなんなのか把握できていなかった。チルドレンやナイトメアは実際に目で見て体験したからなんとか理解しているけれど、目に見えない溟海の概念を掴むのは難しい。

「深淵に住まう者――昏い闇と眩い光を有する存在は、もう人間界にやってくることはできないと思います。天使や悪魔、女神や魔王、幻獣――わたくしも見たことはありませんが、〈高き者〉ほどこの世界とは異なる理に縛られるため、人間界には干渉できないのです。もしくは、人間を低俗なものと見なし、興味を持っていないのか……。その点、わたくしたちシェディムは溟海の浅瀬に住む者。言うなれば、人間に近しい魂を持つ悪魔なのかもしれません。彼岸と此岸の狭間に流る河を越え、わたくしは人間界へと渡ったのです」

 漠然としすぎて想像できなかったが、三途の川みたいなものだと思うことにした。そう捉えてもらって構いませんと頷くエオニアさんも、どう説明すればよいか困っているようだった。

「一度人間界に渡ってしまうと、戻るのは難しくなると教わっていました。郷に入っては郷に従え――とは少し違いますが、長居すればするほど、魂が人間界の色に染まっていくのです」

「え、エオニアさんは大丈夫なんですか?」

「わかりません。エフィアルティス様を追ってこの世界に来てから、戻ろうとしたことがありませんから。ですが無理に戻ろうとすれば、意識と肉体に歪みが生じ、死ぬかもしれませんね。まあ、そうなれば魂だけはあの世という溟海に昇るでしょうし、ある意味還ったことになりますが」

「ええええっ、それでいいんですか!?」

「構いません。覚悟は決めています。もう戻れなくても、わたくしは後悔など致しません。ただ一つの後悔は、エフィアルティス様を救えなかったことだけですから」

 エオニアさんにとって女王エフィアルティスは、それほどの存在なのか。自分の生涯を賭すほど、大切な……。

「ってことは、シルヴァヌスも溟海には行けないんじゃあ?」

 ヤウが首を捻る。

「奴が普通の人間なら不可能です。人間が溟海に――織り重なった世界の境界を越えるには、死んで意識だけの、魂だけの存在になるしかありません」

「なんか幽霊みたいですね。ヤウも死んだら幽霊になって、エオニアさんの国に行けるんですか?」

「死んでもなお自我を保っていられるかどうかは別問題です。ほとんどの魂は、死ねば無となって海に還るだけでしょう」

 しかし、とエオニアさんは一度話を切った。

「例えば普通の人間でなければ――可能かもしれません。神話の時代の英雄のような、大いなる闇か光――人間という枠から極端に逸脱した、桁外れの力を持った高き者であるならば、あるいは……」

「シルヴァヌスが――そうである、と……?」

「なんとも言えませんが、奴はチルドレン――普通の人間でないことだけは確かです。それにわたくしが知らないだけで、既に溟海に渡った人間もいるのかもしれませんし」

「ああ、例えば霊能力者とか超能力者とか――なんか電波を受信してそうな人って、もしかしたら溟海と行き来してるのかも!」

「そんなバカなと突っ込みたいところだけど、アタシたちも普通の人から見たら十分電波系だよな……」

 アタシはソファーに深々と体を沈める。

 外はいい天気なのに、状況は雲行きが怪しくなるばかりだ。

 緩みきった表情で茶菓子を口に運ぶヤウを見て、アタシは深く溜め息を吐いた。



 サラが母屋から戻ってきたのは、エオニアさんに昼食をご馳走になったあと、ヤウとだらだら寛いでいた午後一時過ぎだった。

 最初に玄関に現れたのは、シンプルなエプロン姿の淑やかな婦人だった。お手伝いさんらしきその人はエオニアさんに用件を伝えると、彼女を連れて外へ出ていった。

 アタシとヤウは顔を見合わせ、玄関の引き戸の陰からこっそりと庭のほうを窺う。

「あ、サラ――と、誰だあれ?」

「むむむ、あれが王女様ですか。なかなかの大和撫子。隣にいるのはお父さんかな?」

 塀沿いに蔵の向こうへ――母屋のほうへと続いている石畳の上に、サラとその男の人はいた。

 サラは綺麗なレースがあしらわれた白の長袖ワンピースを着ていて、いつもより大人びて見えた。黒い髪と白いワンピースが鮮やかなコントラストを成している。首に絆創膏を貼っているのは、あの蛇男に負わされた怪我がまだ癒えていないからか。いや、あんなに出血していたにもかかわらず絆創膏だけで済むのがおかしいのだが。

 俯いた美貌には――濃い影が落ちていた。

 なんだろう、寂しそうな悲しそうな、儚い表情だった。

 そして。

「あれが、サラの、お父さん……?」

 三十代後半くらいの、目の下の隈が目立つ冷淡な貌をした男だった。サラに負けず劣らず肌が白く、かっちりとしたスーツを着用している。立ち方からネクタイの結び方から無機質な眼差しから、数式が服を着て息をしているような印象を受けた。

 直感的に悟った。

 アタシはあの人と仲よくなれない。

 というか、あの人が誰かと親しげに話している姿を、全然想像できない。

 果たして日常生活で笑うことがあるのだろうかと、そんな思いが喚起されるほど冷たい人相をしている。決して不細工だとか醜男だとかいうわけではなく、整った顔立ちをした細身の男性なのだが、人を寄せつけないどころか自分以外の存在は人ですらないと認識していそうな、そんな鋭利な雰囲気を身に纏っていた。

「なんだか怖そうな人ですねえ」

「何話してんのかな……。――あ」

 無機質な瞳と目が合った。

 するとサラのお父さんは表情を変えることなく、ゆっくりこちらへ歩いてきた。アタシに気づいたサラはなぜか色を失い、慌てたようにこちらへ駈けてきた。

「あ、あのっ、おとう――」

「君が、明日香ユメさんか」

 玄関の前で、サラのお父さんが話しかけてきた。

 温度のない声だ。例えるなら、冷蔵庫を開けた時に中から溢れ出てくる冷気みたいなひんやりした声だ。

「はい、そうですが」

「サラから話は聞いているよ。これからも娘と仲よくしてやってほしい」

 わずかに口角を上げ、サラのお父さんは言った。たぶん笑顔なのだろう。濃い隈の目は全然笑っていないが。

 妙にそわそわしているサラの横を無言で通り過ぎ、それだけでサラのお父さんは去っていった。お手伝いさんも一礼してあとに続く。

 二人を見送ったエオニアさんは、気遣うような口調でサラを労わった。

「――サラ様、傷の具合はいかがですか?」

「……ええ、もう治りかけているわ。心配しないで」

 落ち着いたのか、サラはらしさを取り戻していた。しかし、その表情は依然として冴えない。

「こんにちは、はじめまして」

「あら、貴女……」

 場の空気を物ともしない快活さで、ヤウがサラに挨拶した。緑のツインテールが元気よく揺れている。

「水無瀬ヤウって言います。はじめまして、王女様。ヤウのことはヤウって呼んでくださいね~。ヤウはサラちゃんって呼ばせてもらいますっ」

「…………」

 サラは思いっきり顔をしかめたあと、「明日香さん、ちょっといいかしら」と手招きしながら離れていった。

 サラと会話を交わすのはあの夜以来だ。最後に聞いた言葉はなんだったか。あの時、力を制御できず悪魔の姿になりかけたアタシを見て、サラは何を思っただろうか。

 時間的にはあれから二日も経っていないのに、面と向かって話すのは随分久しぶりに感じられた。

 少しだけ体が強張った。

 悪魔とか王女とか何も知らない頃のまま、ただのクラスメートとしてサラと話をすることはもう無理なんだなあと、今さらながらに思った。

「何かしら、あの電波女は」

「……せめて電波少女にしてやってよ」

「髪の毛が緑色よ。初めて見たわ、あんな髪の女。あれってウィッグ? どうして顔にシールを貼っているの? グリーンモンスターなの?」

「それっぽい名前だけど、グリーンモンスターと呼ばれるものって生き物じゃないような……。ヤウのあれは地毛だよ。ヤウもアタシたちと同じチルドレンだから。あと、あのペイントはシールじゃないと思う……」

「そう……、それはよかったわ。すわ、ゴルゴムの仕業かと目を疑ったもの。よかった、ゴルゴムじゃなくて。日本の平和は守られているみたいね、ありがとう仮面ライダー」

「人の髪の毛を無理やり染める悪の組織なんて嫌だなあ……」

 玄関に目を遣ると、ヤウはエオニアさんと楽しそうに話している。エオニアさんはアタシたちに目配せし、ヤウを連れて先に屋敷の中へ戻っていった。

「よかった。いつものサラで」

 自分でもよくわからないけれど、アタシはサラと会えて、サラの声を聞けてとても安堵していた。

 サラはいつものサラだ。

 王女でもチルドレンでもない、ただの現王園サラだ。

 だからアタシも――ただの明日香ユメだ。

「首、もう大丈夫なの? サラが傷を負ったのは自分のせいだって、エオニアさんが落ち込んでたよ」

「ああ……。あの男、結構手強かったから。――傷はもう治ってるわ。実はこの絆創膏、傷が原因で貼っているんじゃないの」

「え、じゃあ何のために」

「あら明日香さん、知らないのかしら。首の絆創膏はキスマークを隠すために決まっているでしょう。あの夜、意識を失った私の首筋に、貴女が無理やり――なかなか消えなくて困っているのよ」

「キスなんてしてねえよ! 誰がするか!」

「説得力がないのよ、このスケコマシが。無理やり唇を奪ったくせに」

「うっ、ぐぬぬ……」

 反論の余地がないため、歯軋りするしかない。

 だが、これがいつものサラだ。紛う方なき現王園サラだ。

 土で汚れないようワンピースを押さえながら、サラはその場にしゃがんだ。

 花を指先でつつきながら、明日香さんとアタシの名前を呼ぶ。

 長い黒髪がはらりと風になびき、白いうなじが覗いた。

「……もう、エオニアから話は聞いているのよね。あの水無瀬さんっていう子――チルドレンがここにいるということは、もう、既に貴女は」

「全部――ってわけじゃないんだろうけど、だいたいは聞いたよ。あんたのこととか、いろいろ」

「そう」

 アタシも隣にしゃがみ込んだ。髪に隠れてサラの顔は見えなかった。

「エオニアに何を言われたのか知らないけれど、心配は無用だわ。これは私の問題。私がやらなければならないことなの」

「……ねえ、サラのお父さんとお母さんって、今の状況知ってるの?」

「え? え、ええ……」

「サラが悪魔の子供で、殺されそうになってるってことも? 知ってて助けてくれないのか?」

「…………」

「さっきサラのお父さん見た時もなんか違和感があってさ……。なんていうか、娘が困ってるのに、きょう」

「お父さんのことは」

 貴女には関係ないでしょう――と。

 サラは険しい口調でアタシの言葉を遮った。

「そっ――」

「お母さんだって――本当のお母さんじゃないもの、巻き込めないわ」

 そんなふうに――関係ないでしょうなんて言われてしまったら、何も言い返せなくなってしまう。

 父親に関する話を振ってほしくないという意思表示だってことはわかるけれど、アタシだってもう無関係ではない。他人の家庭環境に首を突っ込む気はないが、それでもやっぱり、サラが心配なのだ。

「でも、親なら助けてくれるんじゃないの? 知ってて何もしてくれないなら、それってあれじゃん、ネグレリアじゃん!」

「……ネグレクトって言いたいの? 私のお父さんを寄生虫と一緒にしないでくれるかしら」

「じゃあそれじゃん、ネグレクトじゃん!」

「うるさいわね。ネグレクトの意味わかってるの? 私はもう子供じゃないし、一人で解決できるわ。そのための力もあるんだから」

「力~? 蛇男に殺されそうになってたくせに」

「あれはエオニアが……!」

「ああっ、エオニアさんのせいにするわけ!? あんなに優しくてサラのこと想ってるのに! アタシだったらエオニアさんをちゃんと守って、あんな奴簡単に倒せたね! 実際アタシ、ヤウに襲われても一人で勝てたし! 五秒で倒したし!」

「貴女がエオニアの何を知ってるのよ! 私はエオニアと子供の頃から一緒にいるのよ!」

「知らねえよバカ! 一人じゃどっちにしろ戦うのは無理だろって言ってんの!」

「む、無理なんかじゃ……ッ!」

「だから!」

 アタシは彼女の両肩をがしっと掴んだ。肉がほとんどついていない細身。以前おんぶした時にも軽いなあと思ったけれど、ちゃんとご飯を食べているのか心配になる頼りなさだ。

 その弱々しい体躯が、びくっと震えたのがわかった。

「アタシを頼れって言ってんの! 頼れよ、アタシを!」

 真正面からサラを見つめる。

 逃げるように目を逸らしたサラは、けれど手を払い除けようとはしなかった。

「……私を魅了して、言うことを聞かせようとしても無駄よ」

「しないよそんなこと。友達が困ってたら、助けるのが当たり前なんだよ。前も言ったろ、困った時はお互い様ってさ」

「…………」

 サラは俯いたまま、口を閉じてしまった。

 その後小声で何か呟いたけれど、なんて言ったのか聞き取れなかった。

「そういえば、アタシの『魅了』――なんであんたに効かなかったんだ。ヤウには効いたのになあ」

 話題を変えようと、努めて明るい声でアタシは言った。

 立ち上がったサラが口を開く。

「貴女に魅力が足りないからじゃないの?」

 いつもの静謐な――そして、芯の通った声。

 その口元が少しだけ綻んだのを、アタシは見逃さなかった。

「明日香さん。悪いけれど、私は貴女を頼らないわ。でも、そうね――」

 彼女は意地悪い笑みを浮かべた。

 そんな顔もできるんだと、一瞬見入ってしまう。

「貴女が私を頼ってくれるなら、仕方ないから私も貴女を頼ってあげる」

「なんだよ、それ」

 アタシも自然と笑みが零れた。

「まあ、強い貴女には私の力なんて必要ないでしょうけれど。どうせ私は蛇の男にも負けたし。弱いし。頼りないし」

 アタシの言葉を地味に気にしていたらしい。

 夢魔の王女だろうとなんだろうと、現王園サラは一人の女の子だ。

 目の前で困っている女の子を放っておける奴は人間じゃない、悪魔だぜ。

 アタシは悪魔の子らしいが、魂まで悪魔に染まった覚えはない。

 だから、助ける。 

「わかった、頼らせてもらうぜ、サラ。その代わりサラが困った時は、ちゃんとアタシを頼ってよ。絶対助けてやるからさ」

「ええ、そうさせてもらうわ。でも、私を助けた見返りにエロいことを期待しているんだったら、諦めてちょうだい」

「この阿呆!」



 アタシとサラとヤウとエオニアさん――三人のチルドレンと一人(?)のシェディムは、今後のことを話し合った。

 シルヴァヌスを倒すまでアタシとサラは学校には行かず、なるべく行動を共にしようと決めた。家に帰る時もエオニアさんに車で送ってもらい、次の朝になったらバスでまたサラの家に行く。ヤウは明日から学校へ行くと腹を固めたようで、危険だと止めてもへらへらしていた。

 サラはヤウが苦手らしく、ヤウに絡まれると冷や汗をかきながら「明日香さん、なんとかして」的な視線をアタシに向けていた。まさかこんな形で頼られることになるとは思わなかった。

 下の名前で呼んでほしいという、ヤウの舌足らずな甘え声を頑なに拒否し、サラは徹底して「水無瀬さん」と呼んでいた。

「水無瀬さんの話を聞く限り、やはりシルヴァヌスは夜に行動しているようね」

 居間でワイドショーを見ながら、アタシたちは緊張感なく駄弁っていた。エオニアさんは屋敷の掃除や庭の手入れなどの家事をこなしている。

「確かに、シルヴァヌスに会ったのは暗くなってからでしたね。これからは夜道に気をつけないとだめですよ、お二人とも」

「そうだな。でも、逆に言えば昼は安全ってことじゃん」

「シルヴァヌス自身は夜にしか動けなくても、奴の手下はそうとも限らないわ。夜しか行動を起こさない理由があるのか、奴のナイトメアと関係があるのか……」

「ナイトメアと関係? どういうことだ?」

「ヤウのルサルカも、雨の日だと超パワーアップするんですよ。水がいっぱいあればそれだけ有利になりますし、何より精神的に乗れるんです。シルヴァヌスもそういう能力かもしれないですね。夜だとパワーアップするとか、もしくは明るいところだとパワーダウンするとか。だから夜しか動きたくないのかも」

 なるほど、自分ルールみたいなものか。

 だとしたら、夜に奴と出遭うわけにはいかない。

「次に奴の手下がアタシたちを襲ってきたら、そいつを魅了してシルヴァヌスのことを洗い浚い吐かせてやる」

 意気込みを語りつつ――アタシはトイレを借りようとサラに断りを入れた。するとサラはなぜか動揺し、アタシに顔を近づけ耳元で囁いた。

「ちょっと待って。貴女、私と水無瀬さんを二人きりにする気?」

「え、いいじゃん別に」

「よくない。だいたいトイレに何の用なのよ。……はっ! まさか貴女、私の……ッ!?」

「待て待て待て待て! 何を想像してんだ!? トイレでやることなんて一つしかねーだろうが! いいからそこで待ってろ!」

 部屋を出るまで、サラは未練がましくアタシについてこようとした。

「うちのトイレ、音姫がついていないの。私がついていって音姫の代わりになってあげるわ」

「ついてくんな!」

 そんなにヤウが苦手なのか。

 サラを振りきって居間を脱出し、トイレに向かう。場所はもう知っているので大丈夫だ。床が軋む音に屋敷の歴史を感じながら、長い廊下を進む――と。

「ん?」

 人の気配がした。

 入ったことのない部屋――開けたことのない扉だったが、中に誰かいる気がした。そしてアタシを呼ぶ声がしたようなしていないような――何か、妙な感覚に陥った。

「エオニアさん? いるんですか?」

 扉をノックしても、反応はなかった。

 一瞬思案したあと、見られてまずいものもないだろうと、ドアノブを回す。

 中は脱衣室だった。アタシの家みたいに洗濯機が一緒に置いてある狭いスペースではなく、鏡や籠、タオルやドライヤーなどの入浴関連のものしか置かれていない、銭湯の脱衣場のような広々としたつくりだった。

「あれ、誰もいないな……」

 となると風呂場だろうか。アタシは曇った半透明の引き戸に目を向けた。お風呂掃除でもしているのかなという思いと、この際誰もいなくてもいいからどんなお風呂なのか覗いてみたいという思いが、同時に湧いてきた。

 よし、見せてもらおうっと。

 カラカラと引き戸を開ける。

「おお……」

 広い。

 率直な感想と感動。

 本当に銭湯みたいだ。いや銭湯は言いすぎだが、昔結子さんと言ったそれに雰囲気が近かった。

 縦と横の線が走る、光沢のあるタイル張りの床に、淡い色の壁が空間に安らぎを与えている。風呂蓋のしてある浴槽は大理石だろうか、アタシの家の倍はある大きさだ。三、四人同時に入っても、ゆったり体を洗えそうである。

 靴下を履いたまま、誘われるように浴室の中へ足を踏み入れる。

 その瞬間。

 ガチャンと勢いよく、引き戸が閉まった。

「えっ!?」

 驚いて振り返ると、手を触れてもいないのに完全に閉まっていた。しかも、開かない。力を籠めて押しても引っ張っても叩いても、びくともしなかった。

「なっ、なんだあ!? どうなってんだ!?」

 離れゆく現実感。

 這いよる悪夢感。

 浴室内に充満し始めた嫌な気配に焦燥しながら――アタシは見た。

 風呂蓋が。

 内側から開けられる光景を。

「なあっ、何ィーッ!?」

 そいつは。

 その女は。

 立ち上る湯気と共に、浴槽の――湯船の中から現れやがったのだ。

 しかも――一糸纏わぬ姿で!(風呂なのだから当然と言えば当然なのだが!)

「ウフフ。はじめましてぇ、明日香ユメさん」

 蓋を開け、湯船に浸かりながら立つ女。ボリュームのある派手な髪型に、人を舐めたような垂れ目。胸元でたわわに実った二つの球体を惜しげもなく披露し、堂々たる様で腰に手を当てている。

 たぶん二十歳くらいの、キャバ嬢みたいな女だった。

「だ、誰だ! いつからそこに――なんでサラんちの風呂に入ってんだ!?」

「いい湯加減だったわぁん」

 女は湯船から出ると、木製の風呂椅子に足を組んで腰かけた。アタシは戸を背にしながら、女と向かい合う。

 なんなんだ、この女は。

 敵か。

 敵じゃない――わけないよな。

 アタシは今――この浴室に閉じ込められているのだ!

「そう焦っちゃだめよん。湯船にはゆっくり浸からなきゃ――って、あらぁ?」

「先手必勝! 誰だか知らないけど、くらえリリオットォーッ!」

 有無を言わせず、アタシは右手に発現させた蠍の剣で襲いかかった。

 チルドレン同士の戦いは、先に魅了した者勝ち。

 この女が誰なのかは、とにかく一発入れたあとに考えればいいことだ。

 アタシはまっすぐ女に向かい、剣を振り下ろした――

 はずだった。

「――――ッ!?」

 切っ先が相手に触れる前に、いきなり視界がぐるりと回ったかと思うと、アタシはなぜか湯船に突っ込んでいた。熱い湯が全身を包み、制服も下着も靴下も一瞬のうちに風呂に浸かる。二日連続で服ごと濡れるはめになるとは、水に祟られているのかアタシは。

「ウフフ、無駄よん。既にこの浴室はあたしの支配下、あたしの自由自在。貴女はあたしを攻撃できないの」

「な、なんだと……!?」

 お湯を跳ね上げすかさず立ち上がる。

 何をされた。

 なぜアタシは風呂に入っているのだ。

「自己紹介がまだだったわねん。あたしは秋保あきうケイユウ――ケイって呼んでねん。シルヴァヌス様に仕えるチルドレン・オブ・ザ・デヴィルよん」

「や、やっぱりか……! 今アタシに何を……」

「言ったでしょう? この浴室はあたしの支配下だってねん」

 キャバ嬢っぽい垂れ目の巨乳女――ケイは間延びした話し方で言う。人を小ばかにしたような、無性に腹が立つ喋り方だ。

「あたしのナイトメア――〈アルバストル〉はお風呂場を支配する力! 今この浴室は、全てあたしの思いのままなのよん!」

「風呂場を、思いのままに……!?」

「このお風呂場に入った瞬間から、貴女はアルバストルに魅了攻撃を受けているの。貴女は絶対にあたしを攻撃できないし、ここから逃げることもできない。外から開けない限り、もうその戸は開かないわぁ」

 確かにケイの言う通り、戸は鋼鉄の意志を持ったかのように頑として動かない。中からは開けられないのだ。

「大声を出してお友達を呼んでも無駄よん。今ここは隔絶空間になっていて、外に音は伝わらないし、時間の流れも緩やかになるのん。勝負は貴女がここに入った時点で既に決したってわけねん。ウフフ、あたしは浴場の女王――バスルームでは無敵なのよん!」

 な――

 なんて変なナイトメアだ……! 

 だが能力が限定的であればあるほど、特定の状況下においては強いのだ。こいつの力は、風呂場でのみ圧倒的なポテンシャルを発揮するタイプ!

「ねえ、ユメさん。いい湯加減でしょう? 貴女も火照ってきたでしょうしぃ、服なんて脱いで裸になりましょうよぅ」

「…………ッ」

 アタシは言葉を返せなかった。

 服を脱ぐとか裸になるとか、それ以前にもっと重大な変化がこの浴室で起きていると悟ったからだ。

 この風呂場――

「サウナになってやがる……ッ!」

 体が熱い。

 湯船に浸かっているからではなく、この空間の温度そのものが凄まじい勢いで上昇しているのだ。

 堪らず風呂から上がる。平然としているケイに対し、アタシの肌からはじわじわと汗が吹き出していた。

 このままではまずい。いずれ脱水で倒れて意識を失ってしまう。しかも、何やら嗅いだことのない甘美な匂いまでする。脳が蕩けて、意識を侵食されそうな甘く妖しい香りだ。浴室という空間全体を利用しての魅了攻撃と、いったいどうやって戦えばいいのだ。助けを呼ぼうにも声は届かないらしいし、その上時間の流れが緩やかと言っていたが――それはつまり最悪の場合、アタシが一時間サウナ攻撃に耐えたとしても、サラたちにとっては一分とか二分程度にしか感じないということなのか。せめて十分あれば、トイレから戻ってこないアタシの様子を見に誰かが来てくれるかもしれないけれど、そのためには何分ここで粘ればいいのか。

「悪夢だぜ……ッ!」

 熱い。息苦しい。喉が渇く。早くも頭がぼうっとしてきた。気を抜けば一気に魅了されかねない。耐えろ。耐えるんだアタシ。

「リ、リリオットで……、自分を、魅了すれば……」

 そうすれば、体が限界を迎えるまでは苦痛を感じずに済むかもしれない。

 右手を動かすだけでも億劫だったけれど、なんとか精神を集中しナイトメアを――

「あらぁ、だめよんそんなことしちゃぁ」

「う……ッ!」

 壁にかかっていたタオルが生き物のような動きを見せ、右手に巻きついた。さらに左手と一纏めにされ、背中で縛り上げられる。

 浴室にあるものを自在に操れるのか。まさに浴場の女王。風呂場を支配する女王だ。

 リリオットを発現させようと試みるも、うまくいかない。手を封じられていては――こんな姿勢では、今のアタシはちゃんと力を行使できないのだ。バッティングフォームを変えたら急にヒットが出なくなってしまったみたいな、体や心の些細な移ろいで、悪夢の現実化に大きな影響が出てしまうらしい。

 アタシの力が、こんなにも脆いものだったとは。

 万事休すにもほどがある。

「ウフフ。よく見るとユメさん、なかなか可愛いわねん」

 熱気の中、ケイが嗜虐的な笑みを浮かべた。手にしているのは――折り畳み式の剃刀。ケイが左手の小指を振る動作をすると、切れ味鋭そうな刃が高速でアタシに襲いかかってきた。

 万全の状態なら躱せたが、今のアタシには為す術がなかった。

 水を吸って重くなった制服の上着とスカートを、剃刀の刃はアタシを傷つけることなく、器用にバラバラに切り裂いた。ただの剃刀にできる芸当ではない。ナイトメアで強化されているのだろう。

「お風呂に服を着て入る人はいないわぁ~。さあ、ユメさんも気持ちよくなりましょう」

 制服だった布の欠片が、びちゃびちゃと濡れた床に落ちてゆく。ブラウスにリボンタイ、下着に靴下という情けない姿にされてしまった。

「柔らかくウェーブした金髪、綺麗な鳶色の瞳。まだ小さな胸に、木目細かな若々しい肌……。あぁん、ユメさんって素敵だわぁ!」

 ぼうっとした頭で――アタシはスイッチを押した。

 アタシの中にある、追い焚きのスイッチを。

 沸々と煮え滾る熱湯の如き怒りが、微温湯に沈みかけたアタシの心にもう一度火を灯した。

 制服。

 バラバラになった制服。

 この女、よくも――

「よくも結子さんに買ってもらった制服をォーッ! このカマドウマ女がァーッ!」

「……え? カマドウマ? なんでカマドウマ?」

「うるせえ! のぼせてんのか! Gはゴキブリ、Kはカマドウマだって相場が決まってんだよ!」

「ケ、ケイ――って、あたし? いやぁん、せめてキリギリスとかコオロギにしてぇ」

「カマドウマは便所コオロギだろうが!」

 頭にきた。

 この女、絶対ぶっ飛ばしてやる!

「ぬおりゃあーッ!」

 後ろ手に拘束されたまま、アタシはケイに向かって突進する――が、もう一枚のタオルが今度は足に絡みつき、まさにすってんころりと尻餅をついてしまった。さらに、飛んできた木の桶が頭に直撃し激痛が走った。縛られているため手で頭を押さえられず、蹲って呻くことしかできない。汗なのか涙なのかわからない雫が、目に沁みた。

「ち、ちくしょう……ッ!」

「ウフフ。我慢しすぎるのもよくないわぁ。それ以上長風呂したら、死んじゃうわよん。早く諦めて、あたしに身を委ねたほうが気持ちよくなれるのにぃ」

「はっ……! あんたの言いなりになるくらいなら、蒸し風呂で蒸し殺されるほうを選ぶぜ……ッ」

 浴室の温度は、四十度とか五十度とか、もはやそんなレベルではない高温に達している。涼しげに微笑むケイの傍ら、アタシは終わりのない焦熱地獄に呑まれていた。玉の汗がぽたぽたと床に垂れ、息をするのも一苦労だ。びしゃびしゃの全身に反し、口の中は乾いて気持ち悪い。纏わりつく高温多湿の蒸気が、形のない透明な悪魔に見えてきた。

 歯を食いしばって立ち上がるも、直後、目の前が真っ暗になり平衡感覚が消失した。立ち眩みがして足が縺れ、そのまま吸い込まれるように湯船に転落してしまった。

「ごほっ……」

「あらあら、大丈夫かしらぁ?」

 手が使えないため溺れそうになり、慌ててしまう。風呂場で亡くなる人は多いらしいが、なるほど、確かに風呂場は危険がいっぱいだなと、茹った頭で納得がいった。

 呼吸を整えるよりも先に、アタシは浴槽の底を蹴ってのろのろと移動する。

「ユメさん、降参してくれれば冷たいアイスでもジュースでも、なんでもご馳走してあげるわよん。だから意地を張らないで楽に――ん?」

 ケイが異変に気づいた。

 この浴室――隔絶空間とやらに生じた、ちょっとした変化に。

「お湯が……」

 浴槽に張られた湯が――少しずつ減ってゆく。

 アタシが、拘束された手で浴槽の栓を抜いたのだ。お湯が排水口から流れ出るごとに、水位がどんどん下がってゆく。

 だが、これだけでは確実性が足りない。

 悪夢から覚めるためには、まだ現実が足りない――ッ!

「お湯を抜いてどうするのかしらぁ?」

「いいことを教えてやるぜ……。実はアタシ、ナイトメアで小さくなれるんだ。小さくなって、この排水口から外に脱出できるんだよ」

「ええっ? 嘘でしょぉ?」

「ああ、嘘だよ。いや、半分は本当かもなあ。確かに、アタシ自身がこんな小さな穴を通るなんてのは不可能だ。でも」

 アタシはにやりと笑った。

 ババ抜きで手札からジョーカーが引かれた時の気分だった。

「アタシの分身は――通れるんだぜーッ!」

 浴室の引き戸が――がらりと開いた。

 突入してきたのは、緑髪の少女。

「ユメちゃん!」

「待ってたぜヤウ!」 

 瞬間、浴室に立ち込めていた蒸気か瘴気か――邪悪な気配が霧散し、空間が揺らいだ。ナイトメアが解除されたのだ。

「なっ、どうして……ッ!?」

「やややっ!? すっぽんぽんのお姉さんがっ!?」

「ヤウ、そいつは敵だ! やっちまえ!」

 目を丸くするケイに、ヤウがミニスカートの中から取り出した小型の水鉄砲を突きつける。

 ――勝った。

 えらい目に遭ったが、これで一安心だ。

 アタシは胸を撫で下ろし、ヤウに忠告する。

「気をつけろよ。こいつのナイトメアは風呂場を支配する能力で――」

「ユ! ユメちゃんがエロい格好にっ!? ぐはっ」

 ヤウは鼻息荒く、べろべろと舐めるような目でアタシを見つめていた。変態のそれだった。

 だが、彼女はアタシを助けにきてくれた救世主!

 些事にはこだわらない!

「くっ! ユメちゃんをこんな目に遭わせるなんて、貴女っ、チルドレンですねっ! 逃がしませんやう~」

 そして、アタシの救世主ヤウは。

 右手で、水鉄砲を構えながら。

 左手で、引き戸をカラカラと閉めた。

「…………えっ?」

「さあユメちゃん、今助けますよー! くらえ、ルサルカッ!」

 放たれた水の弾丸は、不自然な軌道を描いて逸れ、天井に当たった。

 今度はヤウが目を丸くする番だった。

 何発撃っても、水は曲がったり弱まったりしてケイに届かず、全て無力化されていた。

「当たりませんっ! これはいったい!?」

 ケイはたじろぎながら、アタシを凝視している。

 アタシの――血だらけの手首を。

「そ、その手首……ッ! 剃刀っ、剃刀で自分の手首をっ!?」

 その通りである。

 アタシは先ほど制服を切り裂かれた時、床に落ちた剃刀を密かに拾い、右手に隠し持っていたのだ。そして浴槽の栓を抜いたあと、左手首を切った。縛られている上にリストカットなんて初めての経験だったので力加減が難しかったが、無事大量出血に成功し、アタシの分身とも言うべき血液は排水口へと吸い込まれていった。

 血液が隔絶空間の外に流れ出てくれれば、その音をヤウが聴き取ってくれる可能性があった。ヤウのナイトメアがあったからこそ――アタシの血の音をヤウが覚えていてくれたからこそ、実行できた作戦である。

 しかし。

 本来なら、颯爽と駈けつけたヤウがルサルカをぶっ放して、はい終了――となるはずだったのに。

 この電波女、恭しくも開け放った戸をわざわざ閉め直しやがった!

「うやうやしい!」

「やうやうしい?」

「夜雨夜雨しい! 確かに! 実に夜雨夜雨しいぜちくしょう!」

「えへへ。ヤウはやうやうしいのですよ。そしてユメちゃんはゆめゆめしいのです」

「知るか! どうすんだよこの状況をよォ! ――あ、頭がくらくらしてきた……」

「ああっ、大変ですっ! ユメちゃんが失血死してしまいますー!」

 水鉄砲を撃ち尽くしたヤウは、ひとまずアタシの拘束を解いてくれた。手の自由を取り戻し、手首を確認すると――ざっくりと傷ができていた。ちょっとやりすぎたか。今も緋い血は溢れてくるけれど、傷口は塞がりかけているし、手で止血してこれ以上の出血を抑えれば、まあ大丈夫だろう――と、投げやりに考える。じくじくとした痛みはあるが、このくらいなら無視できる。

 一度ナイトメアが解除されたからか、浴室の温度は一気に下がっていた。しかしこのままでは、また蒸し風呂攻撃をくらってしまう。

「こ、このお風呂場なんだか暑いです! サウナみたいです! ユメちゃん、このままじゃヤウたち干からびちゃいますよ! 嫌です嫌ですヤウは干からびて死ぬくらいだったら氷漬けになって綺麗なまま死にたいですーッ!」

「だあーッ、もうお前は黙ってろよっ! これ以上温度が上がる前に、アタシがけりをつけてやるっ! ――リリオットッ!」

 蠍の剣で、一刺しできればアタシの勝ちなのだ。

 それなのに――その一撃が遠い。

 どんなに攻撃を繰り出しても、ケイが左手の小指を振るだけで、まるで浴室そのものが意志を持ちケイを守ろうとしているかのように、アタシの動きを妨害してくる。タオルは硬化して鈍器になり、桶は唸りを上げて飛び回り、剃刀は尋常でない切れ味を生み出し壁や床に突き刺さった。さらには、攻撃が当たる直前、アタシが自ら攻撃を緩め、彼女に『避けさせる』ことまであった。ケイを攻撃してはならないという命令――『魅了』が、アタシの意識を蝕みつつあるのだ。

「ウフフ。突然の闖入者にはびっくりしたけれどぉ、当てが外れて残念だったわねん」

 悪魔が手招きしている。焦熱地獄がすぐそこまで迫っている。

 焦りが精神を揺るがし、集中力を乱す。アタシのナイトメアから、徐々に煌めきが失われつつあった。

「く……ッ、ねえ、ちょっとヤウ! シルヴァヌスの元手下として、なんでもいいからこいつの弱点とか知らないのかよ! 仲間だったんだろ!」

「知りませんやう~。この人とは初対面ですし……。こんなチートみたいなナイトメアだって知ってたら、助けにきてません!」

「ひでえ! 助けにはきてくれよ! アタシたちの絆はどこにいったんだよ!」

「そんなものは最初から存在しません! ヤウを無理やり奴隷にしやうとしたくせに! ご主人様だなんて、高校生にもなって恥ずかしくないんですかっ!」

「それはてめえが勝手に言い始めたことだろがァ!」

 もう限界だ。

 暑さと熱さに耐えられず、アタシは靴下を脱ぎ捨てた。ヤウに至っては下着姿になっていて、スカートの下に隠れていた玩具のレッグホルスターがあらわになっている。

 体が熱い。喉が渇いた。暑すぎて苛々する。苛々しすぎて不快だ。不快すぎて死にそうだ。

 もう駄目だ。

 でも最後に――最後に縋りたいものがある。

 自分達だけではどうすることもできない状況。

 自分達だけではどうにもならないような苦況。

 こんな時に、為すべき事は。

 こんな時に、頼るべき者は。

 圧倒的不利な戦況でこそ、頼れるものが――

「まだ、あったよな――アタシには」

 覚めない悪夢を打ち砕き、現実へと至る道を照らす――希望が。

 アタシは、彼女の名を呼んだ。

 そして。

「――楽しそうなことをしているわね、貴女達」

 引き戸を開け放った現王園サラは、静かに口を開いた。

「二人して戻ってこないと思ったら、人の家のお風呂で、随分とまあ好き勝手やってくれちゃって。これはあれかしら、裸になってその類のパーティーでも開いているのかしら。二人とも中途半端な格好なんてしていないで、もう全部脱いでしまえばいいじゃない」

「サラ……ッ!」

「サラちゃん!」

 サラとケイの視線がぶつかり合う。

 ヤウと同じ過ちを犯す前に、アタシは声を張り上げた。

「気をつけろサラ! ここは魅了空間みたいなもので、その戸を閉めたらこいつは無敵になる!」

 ケイがウフフと、人を小ばかにしたような声で笑う。

 標的である王女が、自らの領域に近づいてきたのだ。これはケイにとっても最大の好機に違いない。

「王女様のほうから来てくれるなんてぇ、都合がいいわねん。でも、さすがに三対一はちょっと厳しいわぁ」

 サラが戸を開けている限り、奴はナイトメアを使えないはずだ。ヤウの時と同様、浴室の温度は急激に下がり、今ならアタシのリリオットも通じるはず――なのだが、消耗しすぎたため体に力が入らない。

 サラはアタシの体たらくを一瞥し、溜め息を吐いた。

「気をつけろ……? 冗談はよしこさんね、明日香さん」

「え、冗談……?」

 そして次の瞬間、サラはとち狂った行動を起こしやがった。

 カラカラ。

「――って、だからなんで閉めるんだよォーッ!?」

「やれやれね、この金髪鶏女は。さっき言ったことをもう忘れたのかしら。気をつけろじゃなくて、ほかに言うべきことがあるでしょうに。そもそも貴女、トイレに行ったんじゃなかったの? それとも、いつもお風呂場で用を足しているの?」

「んなわけあるか!」

 ヤウもケイも、ぽかんとしている。

 状況は――依然として危機。

 けれどサラがやってきたおかげで、心に余裕が生まれた。

 サラの言葉を思い出す。

 さっき言ったこと。

 ほかに言うべきこと。

 アタシをじっと見つめるサラが――待っている言葉。

「……サラッ! あんたを頼る! 助けてくれ!」

「合点承知之助」

 首から提げていた小瓶の蓋を開けると、中から光を帯びた白い粒子が飛び出してきた。光の粒子――輝く骨灰は骸骨の形を成し、ケイの前に立ちはだかる。

「無駄よん。あたしはバスルームの支配者、浴場の女王――この浴室の中で、あたしに魅了されない者はいないわぁ。たとえ王女様であろうともねん」

「魅了……?」

 サラのナイトメア――白骨屍体の〈弥子さん〉は、ゆっくりとケイに近づいて。

 余裕の笑みを浮かべる浴室の女王を。

 あっさりと、羽交い締めにした。

「え!? なっ――なんでぇ!?」

「貴女、その程度の魅力で私を魅了しようですって? 驕りが過ぎるんじゃないかしら」

 愕然とするケイに、サラは当然のように言う。

 アタシとヤウが手も足も出なかった魅了攻撃を、どうやったのか即座に看破したサラは、例えるなら丸めた新聞紙で飛び回るGを――いやKを一発KOするかの如く、最終回に代打で登場して初球をホームランにするかの如く、いとも簡単にケイを拘束してしまった。

 いったいこれはどういうことだ。

「ううっ、理由はわからないけれど、貴女にあたしのアルバストルは通用しないようねん……! さすがは王女様、只者ではないわぁ……! ウフフ、ここはやっぱり一旦退いたほうがよさそうねぇん」

 弥子さんに拘束されているにもかかわらず、不敵に笑うケイ。その表情にはまだ余裕があり、この状況を打開する切り札を隠し持っている顔だった。

「何かするつもりです!」

「サラ、そいつ逃げる気だぞ!」

「ウフフフフ。あたしがどうやってこの家の浴室に侵入したか――まだ説明していなかったわよねん。あたしのアルバストルにはもう一つ能力があるのよん。それは――お風呂場からお風呂場へと、瞬間移動できる能力!」

 ケイは声高らかに言い放った。

「浴室とは風水においても重要な場所! 浴室が汚れていると陰の気が溜まったり、邪悪な気によって幸運が去っていったりするのよん! あたしはその気の流れを読み取って、浴室から浴室へと自在にテレポートできちゃうのねぇん!」

「テレポート……!? 風呂の中から現れたのは、どこか違う風呂場から瞬間移動してきたってことか!」

「それでは皆さん、さよならですわぁ。今夜からお風呂に入る時は、十分気をつけてくださいねぇ~。ラバスタラバスタ・アルバストルッ!」

 左手の小指を立て、そう叫ぶケイ。アタシは手を拱いて、ただ見ていることしかできなかった。

 なんてこった。

 今夜からは、おちおち入浴することも許されないのか。想像しただけで目の前が暗くなり、肩に重いものがのしかかってくるような鬱屈した気持ちになった。

 逃げ果せると確信しているケイはほくそ笑み、アタシとヤウは厄介な敵を逃がしてしまったと唇を噛んだ。アタシたちは、ケイも含め全員がその瞬間の訪れを予想していた。ただし――

 サラを除いて。

 ケイはこの場から消えることなく、まだ弥子さんに捕まったままだった。

「気は済んだかしら、裸の女王様」

「あれっ!?」

 サラの自若とした態度に、ケイが素っ頓狂な声を上げた。

 得意気に能力を説明し逃げる気満々だったケイは、しかし逃げるどころか相変わらず弥子さんに拘束されていた。その表情は愕然としている。

「そっ、そんな――なぜ、どうしてテレポートできないのん!?」

「無駄よ。弥子さんが貴女の『骨』を掴んでいるわ。もう逃げられない」

「骨……ッ!? いったい、あたしに何をしたのん!?」

 狼狽えるケイ。アタシとヤウは何がなんだかわからず、ただの傍観者と化していた。

 サラがこともなげに言う。

「私のナイトメアは骨に干渉する力。魅了でも洗脳でもなく、相手の骨を――魂を制圧するの」

「せ、制圧……?」

「貴女の骨格は今、弥子さんを通して私と繋がっている。貴女は私の操り人形――意のままに操れるということよ。例えばこんなふうに」

 サラの周囲でぼんやりと淡い光が浮かび、それに共鳴したように弥子さんが光を散らした。羽交い締めを解きながら弥子さんは、ケイの首に指を突き立てる。すると骨の指は、何の抵抗も感じさせずするりとケイの皮膚の下に潜り込んだ。

「ひっ、ひいっ!」

 恐怖に青褪めるケイ。

 骨を支配されたということは、身動きが取れないということ。全身が硬直したように固まったままのケイの首筋に、弥子さんの右手の指が五本、容易く這入ってゆく。死神の鎌で首を刈り取られるような戦慄――ケイは顔面蒼白で竦み上がっていた。

「体が勝手に……ッ!? いやあっ、やめてぇ!」

 ケイの肢体が、まさに操り人形的な不自然な動きを見せた。右腕を高々と上げ、その手首は直角に曲がっている。左腕は肘を内側に曲げ水平にし、同時に右脚を左膝につけるよう折って、左脚一本で立っていた。

「ああっ!? こ、この人――」

 ヤウが人差し指を突きつけ叫んだ。

 アタシもまさかとは思ったが――これは、どう見てもあれ以外の何ものでもなかった。

「ぜっ、全裸でシェーを決めてますっ! シェーッ! 恥ずかしい! 女性が裸でこんなポーズをっ!」

「いやあ~ッ!」

 ケイの悲鳴が浴室内に反響する。しかし自分ではどうすることもできず、うら若き乙女は裸でシェーのポーズを取り続けていた。

 弥子さんの顎の骨が、カタカタと音を立てた。笑ったのかもしれなかった。

「だめね、全然なってない。そんなキレの悪いシェーなんて、誰も見たくないわ」

「あたしだって見せたくないよぉ~!」

「黙らっしゃい」

 背後からケイを操る弥子さんが体を揺らすと、それに合わせてケイもポーズを変えた。弥子さんはノリノリだった。

「今度はYMCA! ヤウ、不憫すぎて見てられませんっ!」

「あ、ああ――こいつはとんでもねえ悪夢だぜ……」

 ごくりと唾を飲み込む。もし自分の身に同じことが起きたらと思うと、想像するだけでも恐ろしい。

 ドン引きしているアタシたちに構わず、サラは次々に恥ずかしいポーズをケイに命じていた。

「ほらほら、もっと足を開くのよ。今の時代、少しくらい過激でないと売れないんだから。そのせいで炎上しても、結果的に話題になればこっちのものなのよ」

「こ、こんな恥ずかしい格好、無理ぃ~! やめてぇ~!」

「いまいちね……。もっとこう、人体の構造を無視するような、骨格を超越したポージングが必要だわ」

「いたっ、いたたたたっ! 骨がっ、無理ですってぇ!」

「うるさいわね、痛みは波紋で和らげるのよ!」

 サラがケイを操っているからか、気づくと浴室から異常は去っていた。ケイのナイトメアが封じられているからだろうけれど、逆にそのせいで、眼前で繰り広げられる光景の惨さが際立ってしまっていた。

 もはや成り行きを見守るしかないと静観していたアタシに、サラが呆れたように言った。

「何をやっているのかしら、明日香さん」

「えっ、な、なんでしょうか」

「なんでしょうかじゃないでしょう。私は『魅了』が使えないの。貴女が早くリリオットを使わないと、私のカルシウムが不足しちゃうわ。さっさと終わらせてくれないかしら」

 遊んでいるかに思われたサラは、額に汗を浮かべていた。どうやら弥子さんは、サラの体力やカルシウムを消費して活動しているらしい。ケイを操って恥ずかしいポーズを取らせていたのも、集中力を乱しナイトメアを解除させるためだったのかもしれない。かなり好意的に考えて、だが。実際は、たぶん、本気で遊んでいたと思う。

 少し休んで回復したアタシは、意識を集中して右手に蠍の剣を発現させた。

「え、えーっと――じゃあ、プリンセス・リリオット、いきまーす」

 泣きながらコマネチを繰り返しているケイに深い憐れみを感じながら、アタシは彼女を針裂いた。脳裏を過ったのは彼女に対する同情と、早く服を着てトイレに行きたいなあということだった。


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 彼女の名前は秋保京邑けいゆう

 ボリュームのある派手な髪型に、人を舐めたような垂れ目。二十一歳の大学生で、明るい昼間よりも夜の繁華街が似合う、艶っぽいというか婀娜っぽいチルドレン・オブ・ザ・デヴィルである。

 ナイトメアは〈アルバストル〉――浴場への情欲を力に変え、バスルームを支配する悪夢の現実化。

 浴室や風呂場といった概念を持つ部屋に働きかけ、隔絶空間を生み出す異能である。本人が浴室だと強く認識すれば力を使えるが、例えばただ浴槽を設置しただけの部屋で力を使用することはできない。普遍的な場所・空間としての、浴室である必要があるわけだ。

 一キロ程度の距離なら、浴室から浴室へと瞬間移動が可能で、その能力を利用して屋敷の浴室に侵入したようだ。ただしテレポートは多大な体力・精神力を消耗するため、何度も連続使用できるものではないという。

 彼女の実家は銭湯を経営しているらしい。子供の頃、近所の友達と一緒に広いお風呂でふざけていたところ、滑って床に頭を打ちつけ、意識を失った。幸い軽い脳震盪で済んだが、その頃から不思議な力に目覚めたという。残念ながら頭のネジも外れてしまったようだが。

 ケイさんのナイトメアは、浴室というかなり限定された状況でのみ効力を発揮するタイプで、それ以外ではほとんと意味を成さない。アタシやヤウのように常時『魅了』を使えるというわけではないようだ。

 子供の頃、好きな子を強引にお風呂に誘い、あんなことやこんなことをしたのはいい思い出だとかなんとか……。

「うわぁ~ん、もうお嫁にいけない~!」

「な、泣くなよ……。アタシたちしか見てないんだから、気にすることないって」

「そうね。もし行き遅れても、明日香さんがもらってくれるから安心しなさい」

「おい、勝手に決めるな。やらせたのはサラなんだから、サラが責任取れよ」

「お断りします。人前であんな恥知らずな行為に及ぶ女性とは、一緒になれません」

「お前がやらせたんだろ!」

「うわぁ~ん!」

 居間でソファーに座りながら、しくしくと涙を流すケイさん。エオニアさんを除けばこの中で最年長なのに、恥じらうこともなく子供みたいに泣き続けている。

「わたくしの知らない間に、そんなことがあったなんて……。お力になれず、申し訳ございません」

「エオニアさんは悪くないですやう。悪いのはシルヴァヌスと、あっさりやられたユメちゃんです。まったく、ヤウに勝った時のかっこよさはどこへやら、情けないったらありゃしません」

「なんだと~? 結果的にはヤウだって全然役に立たなかったじゃねえか。わざわざ戸を閉めなきゃ、それで終わりだったのによー」

「むむむ、せっかく助けにいってあげたのに、その言い種はないんじゃないですか~。開けたら閉める、点けたら消す、撃たれる前に撃ち返すがヤウの信条なんですー」

 睨み合うアタシたちを、まあまあとエオニアさんが宥めた。

 今アタシは、またしてもエオニアさんの服を借りていた。切り裂かれた制服はもう使いものにならないので処分し(結子さんになんて説明すればいいんだ……)、ブラウスと下着、靴下は乾燥中である。ちなみに、裸でテレポートしてきたケイさんも、エオニアさんから貸してもらった服を着ている。

「――さて、秋保さん。貴女が持っている情報を、全て話してもらいたいのだけれど。貴女が私の家にやってきたということは、シルヴァヌスも私の家を知っているということね?」

 サラに説明を促され、ケイさんは涙を拭う。

「うん、知っていると思う……」

「何かシルヴァヌスについて知っていることは? 奴の能力とか、狙いとか。手下のことでもいいわ」

「うーん……。洗脳されてた時の記憶はあんまりなくてぇ……。あ、でも一度廃倉庫に行った時、シルヴァヌスが誰かとこそこそ話しているのを聞いたわぁ。フロイラインっていう、シルヴァヌスの親衛隊みたいな連中が近くにいたから、あんまり近寄れなくてほんのちょっとしか聞いてないんだけど……」

「どんな話だったの?」

「チルドレンをどうやって始末するか、どこまで利用するか、とか、そんな話だった」

 アタシたちは顔を見合わせた。全員が同じ疑問符を浮かべ、再びケイさんに視線を戻す。

「話が見えてこないな。チルドレンを始末するってのは、サラのことか? アタシのことか? でもアタシなんて、昨日初めて自分がチルドレンだと自覚したんだぞ。利用するってのはなんだ? ヤウとかケイさんみたいな、洗脳されてる人達のことか?」

「さあ……? あたしには何のことだかさっぱりよぅ」

 エオニアさんがケイさんに、ヴェロスの姿を見たかと問うた。ケイさんは首を横に振る。ヴェロスがどんな外見なのか、ヒントさえも掴めないままだ。

「ヴェロスがどんな奴かわからない以上、警戒すべきなのはシルヴァヌスってことか。神父服を着た西洋人なんだよな」

 ヤウが頷く。

 いつどこで誰に襲われるかわからない非日常が、果たして無事に終わりを迎える日は訪れるのか。

 一抹の不安どころではない、百抹の不安が胸に渦巻いている。

 一日も早く日常を取り戻さなければならないが、とりあえず今日は、ゆっくりお風呂に浸かって、何も考えずさっさと眠ってしまいたかった。

 針に刺されたようなちくりとした痛みが、左手首からなかなか消えなかった。

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