2「ユウ、アリスと友達になる」

 再び目が覚めたとき、視界には天井が映っていた。

 温かい。何だろう。


 ――布団。布団がかけられている。


 どうやら私は、ベッドに横たわっているみたいだった。


 助かったのか……。


 女の子に水をもらった記憶がかすかにあった。

 とりあえず体を起こそうとしてみる。

 腕にちゃんと力が入らない。それにひどく頭が痛い。

 どうにか布団をめくると、服が変わっていることに気がついた。

 それまで着ていた男物のジーンズと破れたシャツではなく、上下とも女物の白い寝間着になっている。

 誰かが着替えさせてくれたのだろうか。あの女の子かな。


 ……それにしても、私が女物を着ることになるなんて。


 今は女なんだから、着せられるのは当然と言えば当然なんだけど。何だか変な気分だよ。

 頑張って起き上がろうとしてみたけど、ふらついて上手く立てない。

 ずっと何も食べていないのだから無理はないかと思い、大人しくベッドに座っていることにした。

 ふかふかとした温かいベッド。この部屋。

 何より私を助けてくれた、あの茶色がかった赤髪の女の子の存在。

 そこから到達する自明の事実。

 実感するにつれて、じわじわと喜びが込み上げてくる。


 この星には、私と同じような人間がいるんだ! 


 私は、独りじゃなかった。


 よかった……本当によかった……。


 心配だったんだ。誰もいなかったらどうしようって。いても、自分と全然違っていたらどうしようって。

 つい、じーんときてしまい、ぎゅっと目を瞑りながら喜びをしばらく噛み締めていた。

 このところ、何かと感傷的になっているような気がするなと思いながら。

 やがて少しは落ち着いてみると、気になる点が浮かんできた。

 どうしてあの女の子の言葉がわかったのだろう。しかも日本語に聞こえたのはどうしてだろう。

 意識が朦朧とはしていたけど、私が話した言葉も普通に通じていたらしいことは覚えている。


 ……まさか日本語を話すわけないだろうしね。勝手に翻訳されているのかな。


 能力を授かったときに、こんな便利能力に目覚めたのだろうか。

 一体どうなってるんだろうな。


 そのとき、奥のドアが開いた。

 やってきたのは、私を助けてくれた彼女だった。

 彼女は意識を取り戻した私を見るなり、本当に嬉しそうな顔をしてすっ飛んできた。


「よかった! 気がついたのね!」


 無事に目を覚ました私の顔を見つめ、それから全身をまじまじと見回してくる。

 何だか視線がくすぐったい。

 ひとしきり眺めると安心したのか、彼女はほっとしたように一つ大きな溜め息を吐いた。


「ああよかった。ほんとに心配したんだから」

「……やっぱり、君が助けてくれたんだ」

「うん。アルーンも一緒にね」

「アルーン?」

「あ、アルーンってうちで飼ってる鳥の名前よ。人が乗るくらい大きくてね。あなたのために全速力で急いでくれたの」


 そっか。そのアルーンが運んでくれたおかげで助かったわけか。


「後でお礼言っておこうかな」

「いいことね。賢い子だから、きっと喜んでくれるわ」


 彼女は明るく笑った。

 はつらつとしていて、素敵な笑顔をする人だなと思った。


「そうそう。服はぼろぼろだったから替えておいたわよ。前のは一応洗って置いてあるから安心して」


 やっぱり。彼女が着替えさせてくれたんだ。


 ……てことは、全部見られちゃったのかな。

 うん。そうなるよね……。


 ちょっと恥ずかしくなった。

 でも女同士でよかった。自分か相手か、どちらかでも男だったら死にたくなっていたかもしれない。

 異性だと彼女もやりにくかっただろうし、女のまま倒れていてよかったかもな。


 彼女はこちらの胸元に視線を落として、ちょっと困ったように微笑んだ。


「それはあたしの寝間着だけど、もし嫌だったらごめんね」

「嫌だなんて、そんなことないよ。それより、助けてくれて本当にありがとう。正直、もうダメかと思ってたんだ」

「ううん。どういたしまして」


 そこで彼女は、手を差し出してきた。

 握手かと思ったけど、違うみたいだ。

 右手の人差し指と中指、二本の指を揃えて伸ばし、他の指は曲げたままになっている。ちょうど閉じたチョキの形だ。


「あたしはアリス。アリス・ラックインよ。よかったらあなたの名前も教えてくれない?」


 名乗りを聞く限り、ここではどうやら名前はアメリカ式らしい。

 私も名乗ろうとしたところで、自分のユウという名前が、男女どちらでも問題なく使用できることに気付いた。

 何の偶然か。内心苦笑いしてしまう。

 名前まで両方の性を兼ねられることに、何だか皮肉めいたものすら感じる。


「私はユウ。ユウ・ホシミ」


 見よう見まねで、同じように右手の指を差し出してみた。

 握手ではないけど、もしかすると似たような習慣なのかもしれない、と何となく思ったからだ。

 すると正解だったようで、彼女は二本の指を私の指にぎゅっと絡めた。

 握手ならぬ握指あくしというやつだろうか。


「よろしくね」

「よろしく」


 アリスか。

 異世界で初めての知り合いがこんなに温かい人で、本当に嬉しいよ。


「ところで、ユウ。あなたが起きたら、聞きたいことがあったの」

「なに?」


 彼女の表情が、真剣なものに変わる。


「死の平原の真ん中にたった一人でいるなんて無茶なこと、どうしてしていたの?」

「そ、それは……」


 さて、なんて言おうか。

 どうしよう。困ったな。

 違う星からやって来て遭難してましたと言っても、絶対に頭がおかしいと思われるに違いない。

 というか、死の平原なんて物騒な名前が付いているんだ、あそこ。道理で何もないと思ったよ。

 何か上手い言い訳はないかと考えあぐねていると、彼女は顎に手を添えて、私の顔をまじまじと見つめながら続けた。


「その髪の色といい、あの変わった服といい。あなた、この辺の人じゃないでしょ」

「ま、まあ、そうだね……」


 うん。確かにこの辺の人じゃない。日本人だからね。


「やっぱり! それで、あんな……ひどい恰好でいたのはどうして? 服まで破られて……」


 憐みの目を向けてくる。ひどく心配してくれているみたいだ。


「もしかして。ねえ、何か恐ろしいことでもあったの? できれば事情を聞かせてくれない? 力には、なれないかもしれないけれど」


 恐ろしいこと。あったよ。とびきりのやつが。

 主にあいつとか、あいつとか、あいつとか……。

 あいつにされたことを思い出すだけで、身が震えるようだった。

 口にするのもおぞましくて、つい黙り込んでしまう。

 彼女が想定していることと、私が体験した事実はまず違うだろう。

 それでもきっと、苦虫を潰したような顔をしているに違いない私を見て、彼女は思うところがあったのか。

 これ以上の追及をやめてくれた。

 そして優しくも、こう言ってくれたのだった。


「そう……。どうしても思い出したくないことなのね。なら今は無理には聞かないわ。話したくなったら話してくれたらいいからね」


 私は彼女の気遣いに感謝した。


「ありがとう。ごめん。何も話せなくて」

「いいのよ。あたしが悪かったわ」


 気まずいと思ったのだろうか。彼女はすぐに話題を変えてきた。


「そうそう。ここはサークリスで、あたしの叔母の家よ。あたし、これから魔法学校に入学するんだけど、それまでの間お世話になっているの」

「そうなんだ」


 どうやらここはサークリスという場所らしい。

 でもそれよりも気になったのは、魔法学校という言葉だった。

 魔法。そんな言葉が当たり前に出てくる日が来るとは思わなかった。

 ただ、その言葉をファンタジー以外で聞いたのは、これが初めてではないことに思い当たる。

 エーナだ。

 確か彼女が、魔法がどうだとか言っていたような気がする。

 魔法、ね。

 そうか。わかったかもしれない。

 彼女がいきなり杖を振ってきたり、何か仕掛けてきてはぶつぶつ言っていた意味がわからなかったけど、少しわかった気がする。

 手前勝手なイメージだけど。魔法使いと言えば、やっぱり杖だ。

 あのとき彼女は、私を始末しようとしていた。

 もしかしたら、魔法を使おうとしていたのかもしれない。それも私を攻撃するやつを。

 ところが、何かの要因で魔法が発動しなかった。だから困惑していたのだろう。

 もし魔法が発動していたら、まず対処はできなかったと思う。あの時点で死んでいたに違いない。

 運がよかったのか、それとも。


『今ここで死ななければ、あなたはきっと生きてしまったことを後悔する』


 運が悪かったのか。

 今のところは、よくわからない。

 知らない星を旅することは、確かに過酷なことかもしれない。

 だけど、普通なら誰しもが経験し得ないことをできることが、決して悪いことばかりだとは思えない。

 あそこまで言う理由が、まだよくわからないのだ。

 あいつが言っていた、いずれわかることに何か関係があるのだろうか?


「ねえ。ユウ」


 アリスの声に、思考を呼び戻される。


「きちんと治療してもらったから、もう危険な状態は脱したと思うけれど。でもあなたはまだかなり弱ってるわ。よかったら、快復するまではここに泊っていかない?」

「そこまでしてもらっていいの?」

「いいの。あたしもその方が話し相手ができて嬉しいし、叔母もきっと快諾してくれるわ。あ、もちろん他に当てがないなら、だけど」


 もちろん、他に当てなんてない。

 右も左もわからず、体力までひどく落ちている今、この素敵な申し出を遠慮するという選択肢は自殺行為に他ならない。

 もしこの家に留まれるなら、その間の生活の心配をしなくていい。それに色々と話を聞いているだけで、この世界に関する情報を安全に得られるだろう。

 その上彼女も望んでいるというのだから、断る理由は何もなかった。


「じゃあ、重ねてお世話になるようで何だか悪いけど、お願いしてもいいかな」


 すると彼女は、心底嬉しそうな笑顔を見せた。

 底抜けに明るくて、眩しいくらい輝いているように見えた。


「ほんと!? やった! これで退屈しないわ! しばらくの間よろしくね!」

「うん。こちらこそよろしく」


 そうして私たちの間が温かい雰囲気に包まれた、そのとき。


 ぐううううううううう。


 特大の音がお腹から発生し、鳴り響いた。


 あっ。


 ずっと、物食べてなかったからだ……。


 私は羞恥心から顔を背け、俯いてしまった。

 気まずい沈黙が部屋を包む。

 それを破ったのは、こちらの失態をフォローするように、大袈裟に明るく振舞ってくれたアリスだった。


「そうだった! ユウが起きたっていうのにすっかり忘れてたわ! ごめんね。お腹すいたでしょう。叔母が作ったスープが残ってるの。今すぐ持ってくるから、待っててね!」

「う、うん……。ありがと……」


 うわー、恥ずかしい。

 きっと今私の顔、真っ赤になってるんだろうな……。


 しばらくすると、アリスが大急ぎで温めたスープを持ってきてくれた。

 スープは赤色で、見たことのない野菜が入っていた。

 それを見て、つい飛びつきたくなる気持ちにブレーキがかかる。

 どうしよう。大丈夫かな。

 もしかしたら、違う星の私には毒になるものが入っていたりしないかな。

 最初はびびってしまって、中々手を付けられなかったのだけど。


「どうしたの? 何か苦手なものでも入ってる?」

「い、いや。そういうわけじゃ」


 けどアリスに促されて、立ち昇る湯気の良い匂いと、極限までの空腹には勝てなかった。

 恐る恐る、一口飲んでみる。


 ……すごくおいしい!


 心配した私がバカだった。

 カボチャのスープのような優しい味がして、とても美味しかったんだ。

 感動すらしていた。五臓六腑に沁みわたるとは、まさにこのことだと思った。

 それからは、押し寄せる食欲に任せてがっついてしまった。

 正直、周りを気にする余裕もなくて。アリスは呆れ笑いをしている。


「こらこら。慌てなくてもちゃんとおかわりあるからね」

「うん。うん……!」

「ふふ。ほんと美味しそうに食べる子だこと」


 結局一気に飲み切ってしまい、さらにおかわりまで頂いてしまった。

 それにしても美味しかった。本当に美味しかった。

 飢えていなければ、これほど食に感謝したこともなかったかもしれない。


 食後も、アリスと色々な話をした。

 話してみると、どうも同い年らしいということがわかって大いに盛り上がった。

 彼女はとても快活で話が上手く、すぐに私と打ち解けた。身分も何もかも不明な私のことを、もう友達のように思って親しくしてくれた。

 異世界で初めて友達ができたことが、本当に嬉しかった。


 ところが、ちょっと困ったこともあった。

 彼女の前で変身するわけにはいかなかったので、私はずっと女のままだった。

 だから当然、彼女は私のことを完全に女だと思っていて。話題も女の子特有のそれが多くなる。

 だけど私は、本当のところ半分は男で、女としては数日前に生まれたばかりのようなものだ。

 残念なことに、その辺の話がよくわからなくて。

 時々愛想笑いや相槌を打ってどうにかやり過ごしたけど、ガールズトークをそつなくこなすのには、まだまだ経験値が足りないと痛感するのだった。


 やがて、アリスの叔母さんが帰宅してきた。

 叔母さんは、とても穏やかな雰囲気を持った優しい人だった。

 治療師を呼んでくれたのも、治療費を持ってくれたのも彼女らしい。

 私はもう一人の命の恩人に対し、深く礼を述べた。

 しばらく泊まる旨をアリスが伝えると、叔母さんは彼女の予想通りに快諾してくれた。

 本当にありがたい話だ。



 ***



 そして、夜も更けてきた頃。

 とんでもない事件が起きてしまった。


 なんと、お風呂に入ることになりました。


 うん。


 私だけならまだいいんだ。


 でも。


 アリスと一緒なんだ。


 ああ! ばかっ!

 泊まるって言った時点で、こうなる可能性を予測しておくべきだった!

 わかっていれば、断れない流れになる前に対処できたかもしれないのに!


 ……何となくだけど。

 この女の状態で女の裸を見たからって、何とも思わないだろうって気はする。

 実際胸を見たって平気だったし。うん。

 だから変なことになる心配はないと思うけど。でもなあ。

 なんか騙してるような気がして、申し訳なくて……。

 それで、さっきからあんまり目を合わせられないでいた。

 でも馴れ馴れしいアリスは、容赦なくスキンシップを図ってくるわけで。

 困った。ほんとどうしよう。


「スタイルいいのね。ユウは」

「そう、かな」


 確かに、夢の中で見た女の子はかなりスタイルが良かったかもしれない。

 今の私は、まさにその女の子の姿で彼女の前にいるのだから、そういった感想が出てきても不思議ではないのかも。


「それに、胸もあるしねえ~」


 アリスはいたずらっぽい笑みを浮かべると、胸の先をつんつんと突いてきた。


「ひゃっ!」


 くすぐったいような、気持ち良いような初めての感覚。

 思わず、自分でもあまりに情けない声が出てしまった。

 反射的に手でさっと胸を隠して、彼女からさらに顔を背けてしまう。

 我ながらあまりにも初々しい反応に、彼女は満足したようだった。


「へえ。ちょっと女らしくないと思ってたけど、あなたもそんなかわいい顔するのねえ」

「きゅ、急に触らないでくれよ! びっくりしたじゃないか!」


 心臓がどきどきしてる。女の身体ってこんなに敏感なのか。


「そーんな真っ赤な顔でそっぽ向いて言っても、迫力ないわよ~。ユ・ウ・ちゃん♪」

「はあ……」


 ダメだ。この人、私ですっかり楽しんでるよ。


 彼女の好奇心というか、流れは止まらなかった。

 さらに段階は進んで、胸をもみもみされてしまう。

 手が触れたとき、あいつにされたことが不意に脳裏を過ぎった。

 ぴくんと肩が跳ねて、うっかり身構えそうになる。

 いや落ち着け。相手は女の子だぞ。スキンシップのつもりでやっているんだから。

 つい身をよじってしまったのを、単にくすぐったがっていると思ったのか、彼女は気にせずいたずらを続けてきた。

 正直ほっとした。

 あいつとはまるで違って、優しい手つきだったから。

 ほら、なんだ。何も怖がることはないじゃないか。

 全然痛くないし、逆に気持ち良いというか、妙にそわそわする感じが……。


「ん……」


 今、不意に変な声が。

 まずい。別の意味で危なくなってきたぞ。

 あ、ちょっと。これは……やばい。やばいって。

 あの、アリス。アリスさん?

 本気出して弄らないで。おかしくなっちゃいそうだから!


「ちょっ……アリス、やめっ!」

「ほれほれ~、ユウはここが弱いのかしら?」

「あっ……ん……んんっ…………ばか、やめろって!」


 ほとんど涙声で訴えると、


「あはは。ちょっと刺激が強過ぎたかもね」


 やっとアリスは笑って手を緩めてくれた。


「はあ……ふう……。もう、ひどいよ」

「あっはっは。ごめんね。反応が可愛かったからつい」

「しょうがないなあ」


 結構いたずら好きな子みたいだな。アリスは。

 そんな彼女はまだ私の胸に未練があるみたい。視線がずっとそこに留まっている。


「でもいいわねえ。何を食べたらこんなに胸が大きくなるのかしら」

「さあ」


 知らないよ。女になったら、最初から膨らんでたわけで。

 すると彼女は突然、自身を指さした。

 どこか恨めし気な調子で声を上げる。


「ねえねえ。ほら、見てよ! あたしなんてさ、このちっぱいよ!」


 そう言われるとさすがに見ないわけにはいかなくて。

 ごめんなさいと心の中で謝りながら、覚悟を決めて彼女と向き合う。

 やっぱり思った通りだった。

 女の裸を見ても、男のときなら当然起こりそうな邪な気持ちは、特に何も湧いてこなかった。

 罪悪感は半端じゃないにしても、性的な意味では平常心で彼女のことを見られた。

 うん。確かに小ぶりな胸……というかぺったんこだけど。

 しなやかで健康的な体と合わせて、元気はつらつなアリスにはよく似合っていると思う。

 正直な感想を述べた。


「確かに小さめかもしれないけど、それはそれで素敵だと思うけどな」

「ふーん。余裕ある者の発言ね~。まったく、羨ましいわ」


 いや、余裕なんてないよ。

 確かに胸の余裕はあるかもしれないけど、罪悪感とか恥ずかしさとかで、もう死にそうだよ……。


 二人で浴槽に浸かる。

 いつまでも避けていると変だし、もう色々と諦めるしかなかった。

 なるべく自然体でいるように心がける。そんなことを考えて必死になっている時点で、平気じゃないことは明らかだけど。

 もじもじしてしまっている私が、アリスにはよほど可愛く映ったらしい。

 面白がってどんどん体を絡めてきたので、ますます心が乱れてしまった。


 好き放題心ゆくまで堪能された後、ようやくいたずらも落ち着いた。

 その後は湯が冷めるまでたっぷりお喋りをして。

 やがて話題は、私の今後のことになった。


「ユウはさ、治ったらどうするの?」

「さあ。どうするのかな」


 わからない。これからどんな風に生きていけばいいのだろう。


「どうするのかなって。あなた、自分のことでしょう」


 そうだよなあ。何とかしないとって思ってはいるんだけど。

 何もかもがあまりに今までと違い過ぎて、どこから手を付けたらいいのか。

 けど、そうだ。とりあえずできそうなことなら――。

 呆れたような顔を向けている彼女に、尋ねてみる。


「アリス。魔法って、誰でも使えるのかな」


 今回の遭難で、とにかく力を付けなければならないことを思い知った。

 とは言っても、この常人の身をいくら普通の方法で鍛えたところで、限界はすぐにやって来るだろう。

 でも、もしも色んな魔法が使えたなら。

 今回のようなピンチになったとき、きっと取れる選択肢は広がるはずだ。

 それに、何の力もないままでいたら――またあいつに――。

 身震いがした。

 いやいや。もう考えるな。あいつのことなんて。


「あなた、魔法学を習ったことないの?」

「実は、魔法についてはまったく知らないんだ」


 ずっと科学の世界にいたからね。

 私が魔法を一切知らないということに、アリスはかなり驚いたようだった。


「それは珍しいわね。魔法は、あたしみたいに魔力のある者にしか使えないわよ」

「その魔力というのは、私にもあるのか?」


 彼女は少し得意な顔で、親切に教えてくれた。


「知りたいなら、役所にある測定機を使えば、魔力がどのくらいあるのか測定できるわよ」

「ふうん。そんなのがあるのか」

「うん。魔力というのはね、魔素を取り入れる能力のことだから、体質によって結構個人差があるの。もし魔力があまり少ないと、残念ながら魔法は使えないんだけど。ユウはどうでしょうね」

「そっか。なるほど。それで、魔素ってなに?」

「もちろん、空気中の七割を占めるあの魔素のことよ。って、さすがにこれは常識だと思うんだけど。ユウってほんとに何も知らないのねえ」


 彼女はやや目を細めて、怪訝な視線を向けてくる。あまりにものを知らないのを不思議に思っているのだろうか。

 と、とりあえず苦笑いして誤魔化しておこう。ちゃんと誤魔化せてるかな? あはは。


 それにしても――魔素。空気中の七割を占める、か。


 この星では、地球上の窒素の代わりを占める位置に魔素が存在しているらしい。

 とすると、あのエメラルドグリーンの空は、世界中に溢れる魔素によるものなのかもしれないな。

 魔法のことは少しだけわかった。どうやって勉強しているのかも気になるところだ。

 ここも素直にアリスに聞いてみるのがいいかな。


「アリスは、サークリス魔法学校というところに通うんだよね。どんな場所なんだ?」

「この町で一番大きな魔法学校よ。剣術学校が隣にあるんだけど、そこと合同で町によって運営されているの。入学するとクラスに分かれて、四年間魔法について学ぶのよ。校風も良いらしいし、今から楽しみなんだ」

「へえ。いいなあ。私もちゃんと高校生活したかったな……」


 なにせ、入学してから一年も経っていないうちに異世界に飛ばされてしまったわけで。


「なに? コウコウって」

「いや、何でもないんだ」


 はは。そっか。高校って呼び方をする学校はないんだね……。


「学校かあ。ちゃんとした場所で魔法を学べるなら、それが一番いいんだけどなあ」

「もしかして、あなたも魔法使いになりたいの?」

「うん。もし私に魔力があったらだけどね。でもお金も家もないから、独学でやろうかなって思ってるけど」


 それを聞いた彼女の顔が、ぱっと明るくなった。


「それなら大丈夫よ! サークリスは別名『剣と魔法の町』というくらい、剣術と魔法に力を入れているの」

「剣と魔法の町?」


 何だか妙に直球でファンタジックな響きだな。


「そう! 剣術と魔法の勉学に対する強い奨励政策をしていてね。援助も厚いのよ!」

「へ、へえ。そうなんだ」


 なんか急にすごい身を乗り出すね、君……。


「そうなの。魔力さえあれば、望めば魔法学校には簡単に編入できるし、お金のない人には奨学金制度があるわ。三食付きの寮だってあるから、住む場所の心配だってしなくてもいい。あたしも寮に入るつもりなの!」


 興奮気味の顔でまくし立てた彼女は、やや息が上がっている。

 彼女の剣幕に押されつつも、話を聞いて、私もじわじわと希望が込み上がってくるのを抑えられなかった。


「編入が簡単。それに奨学金制度に、三食付きの寮だって!?」


 渡りに船とはこのことだ。それならしばらくは生活の心配をする必要もないし、思う存分魔法の勉強ができる。

 しかも、安全に。

 殺人未遂、レイプ野郎、遭難。

 どん底の不幸続きだった私にも、ようやく運が向いてきたのかもしれない!

 もう答えは決まっていた。


「アリス。決めたよ。私も入ることにするよ! 魔法学校に!」

「ほんと!? まさかユウが一緒に入ってくれるなんて! あたし、とても嬉しいわ!」


 お湯が飛び跳ねるほどの勢いで、アリスにがばっと抱きつかれた。

 身体が密着して、ぎゅっと胸同士が押しつぶされる。

 驚いて離れようとしたけど、締め付ける力が強くて離れられない。

 何より、彼女がいつになく深刻な顔になっているのを見て、されるがまま身を任せることにした。


「実は心配だったのよ……。放っておいたら、あなたは今度こそどこかでのたれ死んでしまうんじゃないかって。この辺のこと、なんにも知らなそうだし」

「アリス……。そっか。心配してくれてたんだね……。ありがとう」


 人に思い切り抱き締められるのなんて、随分久しぶりのような気がする。

 私も手を回して、抱き返す。

 裸同士なことも、このときばかりはちっとも気にならなかった。

 首筋にもたれかかると、彼女の赤茶髪が軽く頬をくすぐる。

 やわらかくて。あったかくて。

 人の温かみに触れたとき、やっぱり自分はとても不安で、心細かったんだと痛感する。

 受け入れてくれる人が側にいるだけで、こんなに安心できるものなんだって。

 気が緩んだら、不意に頬を伝うものが出てきた。


 ――ああ。まただよ。


 こんな簡単に泣いてしまうなんて。どうかしてる。


 恥ずかしくてそっと顔を背けようとしたけれど、彼女にはすぐに気付かれてしまった。


「あら、ユウ。泣いてるの?」

「……泣いてない」

「うふふ。強がらなくてもいいよ。泣いてるでしょ?」

「……っ……泣いてない!」


 元は男の矜持として見せた最後の強がり。

 でもアリスには、まったく通用しないようだった。


「あ……」


 そっと頭を撫でられる。肩まで流れる黒髪の表面を、優しくなぞるように。

 今は女だからかな。

 自分というものが余計に、ひどく小さく頼りない存在に思えて。

 そんな私を温かく包み込んでくれる彼女が、さらに大きく頼もしく思えて。

 だからもう、強がることもできなくて。


「別に泣いたっていいじゃない。一人で怖かったよね。心細かったんだよね」

「……うん」

「大丈夫だよ。もう大丈夫。あたしがいるからね」

「うん……。ありがと」


 結局は、落ち着くまで素直に甘えさせてもらうことになった。

 アリスも変に茶化したりしないで、じっと抱き締めていてくれた。


 うう。図らずも弱みを見せてしまったな……。


 でもおかげでアリスとの距離はかなり近付いた気がする。

 向こうも同じように感じてくれたみたいで。

 色々と一安心したらしいアリスは、屈託のない笑顔を見せてくれた。


「でも安心したわ。もしあなたが入れたらだけど、そのときは女の子同士、一緒に頑張りましょ!」

「うん。そうだね――ん?」


 女の子同士……? 何かやらかしてしまったような……。


 あっ。ああっ!


 そこで私は、ものすごい下手を打ってしまったことに気付いた。


 しまった! この話の流れだと、ずっと女子として学校に通わないといけないんじゃ……!

 どうしよう!? そんなに長い間女のままでいるなんて、考えてなかったよ!

 くっ。やっぱりやめるって言って、男子として魔法学校に入ることもできそうだけど……。

 それではアリスを悲しませてしまう。

 せっかくこんなに喜んでくれてるのに、そんなことはしたくない。

 でも、でも……。ううう。

 しかも寮って、よく考えたら……。


「あのさ。寮なんだけど……」

「安心して。もちろん女子寮だから!」


 さくっと止めを刺された!

 やっぱり。やっぱり女子寮なのか……。

 ああ。罪が、重い。心が、重い。


「これからもよろしくね! ユウ」

「はは、は……」

「どうしたの?」

「何でもない。何でもないんだ……」


 もし学校に入れたら、そこではちゃんと女として過ごそう。

 それなら何も問題はない。ないはずだ。


 だって私は! この身体の私は、紛れもなく女なんだから!


 そのか弱い女の身体を確かめるように、両手で自らをぎゅっと抱きしめながら、私はそう決意した。

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