1「ユウ、異世界に降り立つ」
真っ暗な空間に、無数の白い粒子がほわほわと浮かんで、それぞれが淡い光を放っている。
そんな星の海のような場所をひたすら流されていた。
向かう先に対する不安に押しつぶされそうになりながらも、私はその光景に心を奪われていた。
とても綺麗だった。今まで見てきたどんなものよりも壮大だった。
いつか宇宙図鑑で見た天の河の写真。あれが本当にあんな河だとして、その中を流されているならこれに近いものだろうか。
流されていく途中、自分の中に何かが、莫大な質と量の何かが流れ込んでくるような不思議な感覚があった。
自分という存在がまるっきり違うものに作り替えられていくような、そんな感じがして。
ますます不安になった。
やがて目的地に近付いたのか、元の宇宙空間に出てきた。
目前には、一つの星の姿が見えている。
大きさのほどはよくわからないが、地球とそんなに変わっているようには思えなかった。
海も陸地もあり、さらに雲が見えていることから、大気もあるようだ。
ただし、地球とは大きく異なる点もあった。
それは、星全体の色が淡いエメラルドグリーンであるということだった。
***
気が付けば、私は再び肉体を伴って大地に降り立っていた。
どうやら着いたらしい。
辺りを見回すと、そこは一面に広がるのどかな平原だった。
どこを見ても、膝下の丈まである同じ草だけがびっしりと生えている。建物も、木も、生き物の姿も一切見当たらない。
不気味なほどに静かだ。
息を吸い込むと感じる、ほのかに甘い草の匂いが心地よい。
流されたときにおかしなことになっていないかと、すぐに身の回りを探ってみる。
どうやら身体も服も、すべてそのままみたいだ。
私はほっと胸をなで下ろす。
でも……。あいつに破かれたままの胸元もそのままだった。
桜色の乳首が風に触れてぴくりと震えたとき、奴の嫌な手の感触がフラッシュバックして、身ぶるいした。
自分でも驚いた。
情けないことに、身体が覚えてしまうほど心に傷を付けられてしまったらしい。
まだ、心臓がばくばくしている。
もし今度あいつと出会ったら、一体何をされてしまうのか。
考えるだけで身が竦む。怖くて仕方がない。
――やめよう。今はあいつのことなんか、考えたくない。
いやいやと首を振った。気持ちを切り替えるんだ。
改めて自分の胸を見下ろした。
小さ過ぎず大き過ぎないほどよいサイズで、お椀型に整った、マシュマロのように柔らかな膨らみ。
谷間はじっとりと汗ばんで、ほんの少し甘ったるい匂いを醸している。
俗に言うおっぱいが自分にしっかりと付いているのは、何だか妙な感じがする。
普通男がこういうものを見るとムラムラするものなのに、今の私には不思議と嫌らしい気持ちは一切湧いて来ない。
胸があるのは当たり前だと、どこかでそう思っている自分がいた。
でもこのままで平気かというと……。それはまた違う問題だ。
別に誰も見てはいないけど、胸を晒しているのは精神衛生上良くない気がする。
破れた服と胸のセットが、どうしても見るたびにあいつを思い出させてしまう。
それに何だろう。なんか恥ずかしい……。
そう言えば。
あいつがいたときは身体の自由が効かなかったけど、別に今なら好きに変身できるんじゃないか。
だったら、これ以上女でいることなんてないよな。
確か、変身はスイッチを切り替えるようにして瞬時にできるって、あいつは言っていたな。
結局思考があいつから逃れられていないことに苦笑いしつつ、目を閉じた。
変身、変身と意識すると、不思議なことに自分の精神世界のようなものがはっきりと認識できた。
なるほど。これは最近よく見ていた夢にちょっと似ていた。
女の身体と男の身体が、真っ黒な空間の中に存在している。
念じれば、ゲームで操作するキャラクターを選ぶような感覚で、動かす身体を選択できるようだ。
もちろん男になることにする。
瞬間、全身に電流が走るような衝撃が突き抜ける。
気が付いたときには、もう俺の体は16年間使い慣れたものに戻っていた。
細身ではあるけれど、ほどほどに筋肉質の体。
膨らんでいた胸が引っ込んでいるし、股間に手をやってみると、あれも確かに付いている。
「あーあー」
声もちゃんと元に戻っている。元々高めではあるけど、一応男のものには聞こえる自分の声だ。
確かに一瞬だった。
あいつの【干渉】とかいう能力。あれさえなければ、変身は面倒なものではないようだ。
ああ。本当によかった。毎回あんなに悶えなければいけないのかと思った。
あの、まるで全身を犯されているかのような感覚は――。
うう。思い出したら余計に恥ずかしくなってきた。
いい加減気持ちを切り替えよう。それよりだ。
俺、本当に来ちゃったんだな。違う星に。
見上げれば、空は星の色と同じ、淡いエメラルドグリーンだった。
太陽によく似た恒星が、空を明るく照らしている。
……これから、何をしたらいいんだろうな。どうやって生きればいいんだろう。
それは本当なら、地球にいたときにも考えるべき命題だったのかもしれない。
ただ、日本の社会にはある程度レールというものがあった。それに乗っかっていれば、そこまで深刻に悩まなくても普通の人生を歩めた。
だからあまり深く考えてこなかった。考える必要がなかった。
俺にはその普通の人生で十分だったからだ。
でも、この上なく特異な運命に突然放り出されてしまったらしい俺には、もはや普通なんてものは望めない。火を見るより明らかだ。
はっきり言うと、そのことにはかなり絶望している。
今だって、できることなら普通に生きたいと強く願っている。
けれど、いつまでもないものねだりをしたり、現実逃避をするつもりはなかった。
そんなことをしたって、悔しいけど何にもならないのだから。
もう地球に別れは告げてきた。
強く生きるんだ。遠く離れたこの地で、また新しい人生を始めるつもりで。
そうと決まれば、こんな何もない場所で立ち止まっているわけにはいかない。生活の術を探らないと。
そのためにもまずは、人がいる場所を探したいところだ。
……といっても、今のところ人なんて影も見当たらないけど。
いや、待てよ。
暗黙の内に期待した仮定が正しいとは限らない。
ここは違う星なんだから、人間がいるとは限らないんじゃないか。
そもそも考えてみれば、知的生命体自体存在しているかも怪しい。もしいたとしても、人間とは似ても似つかぬものである可能性の方が高いんじゃないのか。
そうだよな。エーナやあいつが普通に人間っぽかったから、勝手に人がいると期待してしまっていた。実のところ、彼らが例外であるだけなのかもしれない。
そう言えば。これまで意識してなかったけど、俺が今普通に息ができて、こうして生きているというのも当たり前のことじゃないよね。
もしかして、大気組成まで地球と似ているのだろうか。
だとしたら、気になるのはこの空の色だ。
大気の色というのは、太陽の光が大気中の粒子によって散乱することで生じている。もし恒星の光も大気組成もほとんど同じなら、空の色もまたほぼ同じでなくてはならないような気がする。
でも現実に空の色は違っている。
素人だから予想が間違っているかもしれないけど、たぶん恒星の発する光の波長か大気組成、そのどちらか、あるいは両方が違うと考えるのが妥当だろうか。
……ダメだ。
あちこちに心配が飛んでしまって、考えがまとまらない。
とにかく、わからないことだらけだ。
情報だ。あらゆることに対する情報が必要だ。
知らなかったばかりに、一つの何気ない行動によってとんでもないことになってしまうかもしれない。
右も左もわからない状況だ。やらかしてしまう可能性は十分にある。
けど誰もいない今、情報は動かなければ手に入らないわけで。
結局頭を捻ったところで、とりあえず何かを見つけるまで歩くほかはないか。
***
そう考えて歩き続けて、どれくらい経っただろう。
草原はいつまでも果てることなく続いている。目印になるようなものなんて、何一つ見つかりやしない。
ギラギラと照りつける直射日光、もといあの太陽そっくりの恒星の光のせいで、汗はびっしょりだ。
ここには、何もないのか。
喉が渇いた。水が飲みたい。お腹もすいてきた。
だけどいくら求めても、食べ物もなければ、人一人どころか生き物の影すらどこにも見当たらなかった。
やがて日が落ちてきたので、歩き疲れた俺は、その場で倒れ込んで寝てしまった。
次の日からも、ひたすら歩き続けた。
でも結論から言うと、何もなかった。
***
日が昇って、落ちて。
飲まず食わずでそれを四回も繰り返した頃、とうとう体力の限界を迎えていた。
一度空腹に耐え切れず、そこら中に生えている草を摘み取ってちょっと食べてみたことがあった。
でも恐ろしくまずかった上に、腹を下して水分を失ってしまうだけの結果になってしまった。なのでそれ以降は口にしていない。
もう、動けないよ……。
とうとう倒れてしまった。身体に力が入らない。
こんなところで、俺は死ぬのだろうか。
わけがわからないまま、こんなところで。
浅はかだった。情報を得ようとか、それ以前の問題だ。
まず何よりも純粋に生き抜く力が必要だと、痛感する。
今回のように、人里の近くに降り立たなかった場合、強制的にサバイバルを余儀なくされる。
始めに降りた場所は草原だったけど、これでもまだ運が良い方かもしれない。
もし降り立った場所が砂漠や、樹海の奥だとしたなら。
それどころか、陸地ですらない海の上だったなら。
なすすべもなく死ぬしかないだろう。
そうだ。ここは平和な日本じゃないんだ。
異世界では何があるかわからない。
弱いままでは、生きていけない。
決意した。
もし生き延びられたのなら、強くなってやろうと。
こんな苦境であっても堂々と対処できるくらいに、強くなってやろうと。
でも――もうダメみたいだ。
目を閉じると、今までの人生で歩んできた光景が蘇る。
走馬灯というやつだろうか。
小さい頃の思い出。今はもういない、母さんと父さんの記憶。
あの頃は楽しかった。
レンクス。いつも遊んでくれた。また会いたかったな。
ヒカリ、ミライ。今どこで何をしているんだろう。元気にしてるかな。
不意に目頭が熱くなる。
みんな。みんな気が付けば、俺の側から消えてしまった。
どうして俺だけになっちゃったんだろう。
どうして俺の好きな人たちは、みんな揃っていなくなってしまうのだろう。
何も言わずに。
涙が溢れてきた。
いつからか、本当の家族も、親友と呼べる人も、もういなかった。
ずっと一人だった。寂しかったんだ。
だから俺は、誰かに嫌われることを恐れて。
いつも当たり触りなく、心に抱えたどうしようもない寂しさを誤魔化しながら生きてきた。
いつかはまた、普通の幸せを手に入れることを願って。毎日それなりに頑張ってきた。
不幸だとは思わなかった。思いたくなかった。
将来はきっと自分の力で。そう思えるだけで十分幸せだったんだ。
なのに。
こんなわけもわからない場所に飛ばされて、誰にも知られないうちに力尽きようとしている。
はは。結局は最後まで一人か。
お似合いだ。悲しいくらいに、お似合いだ。
ちくしょう。悔しいよ……。
なぜか、エーナとあいつの顔が浮かんだ。
あの二人は、既に長い旅をしてきている様子だった。
ならきっと、こんな状況でも対処できる力が存在するんだろう。
フェバルには、この世の条理を覆す力が宿る。
あいつはそう言っていた。
条理を覆せるなら、この状況をなんとかしたかった。
けど、俺にそんな力なんてないことは、自分が一番よくわかっている。
そうだったな。
あいつは、俺の力がふざけた能力だとも言っていたな。まるで役立たずみたいに。
ああ。確かにそうだ。ふざけた能力だよ!
半ばやけくそになって、能力を発動させた。
髪がふわりと伸びて、膨らんだ胸が地面に押しつぶされる感触がした。
改めて涙の似つかわしい格好になって、さめざめと悲嘆に暮れる。
こんな風に女に変身できたところで、一体何になるというんだ。
男であろうと女であろうと、所詮はただの人の身であることに変わりはない。どっちつかずの、面白人間になっただけじゃないか。
異世界で生きていくには、所詮私は、弱過ぎたんだ……。
だが、絶望したそのとき。
不思議なことに、ほんのわずかだけど、身体に力が戻っていることに気付いた。
なぜだろうと考えて、思い当たる。
そうか。極限の状況下では、女性の方が体力が保つとテレビかなんかで聞いたことがある。もしかしたらそれかもしれない。
能力を発動させたのは、考えあってのことじゃない。
やけになってやっただけの、本当にただの偶然だった。
ただ、この素敵な偶然に感謝した。初めてこの能力に感謝した。
まだ、生きられるみたいだ。
そのことが、生を諦めかけていた心に再び希望を取り戻させた。
こうなったら、最後まで足掻いてやる。まだくたばってたまるもんか!
私はさらに生き伸びた。
もう一度日が沈み昇ってくるまで、よく生き抜いた。
そうして女になることで稼いだ時間が、生死を分けることになるのだった。
***
愛鳥のアルーンに乗って、サークリスへ向かっている途中だった。
サークリス魔法学校。
そこでの新生活が楽しみで仕方がなかったあたしは、ラシール大平原の上空を、目的地に向けてひたすら飛ばしていた。
それにしてもここって、ほんと何もないよね。さすが死の平原というだけのことあるわ。
普通の生き物が暮らせない、もちろん人間にも使えない、魔力汚染まみれの土地。
何でも遥か昔、ここには魔法大国があって。
超大規模の魔法実験に失敗してこうなってしまったんだとか。
キッサという、薬にもならない雑草だけがなぜかこの環境に適応し、一面に生えている妙な場所。
それがラシール大平原。つまらない場所よね。
そんなことを思いながら、何気なしに下を眺めていたとき。
信じられないものを見つけてしまったの。
あたしは目を疑った。
うそでしょ!? こんな場所の真ん中で人が倒れているなんて!
「アルーン、あの人の近くへ降りて! 急いで!」
大慌てで降りて、駆け足で近寄ってみる。
仰向けで倒れていたのは、可愛らしい少女だった。あたしと同じくらいの年に見えるわ。
珍しい黒髪、それに……見たことない服ね。まるで男物みたい。
そして、胸元が破り取られた跡がある。一体何があったというのかしら。
頬を軽く叩きながら、声をかける。
「大丈夫!? しっかりして!」
すると、かすかに反応があった。
よかった。生きてる。
でも、すごく弱ってるみたい。
「み……みず……を……」
「水ね! わかったわ!」
たまたま持っていた予備の水筒を急いで取り出し、ふたを開けて差し出す。
まさか使うことになるとは思わなかったけれど、持ってきていてよかった。
「身体が弱ってるから、急いで飲んじゃだめ! ゆっくり飲んで!」
彼女はあたしの忠告をちゃんと聞いて、震える手でゆっくりと水を飲んだ。
水筒を空にするまでよく飲んだ彼女は、安心したのかしら。気を失ってしまったみたい。
「放ってはおけないわ。連れていこう。アルーン、ちょっと重くなるけど大丈夫?」
アルーンは任せておけ、と言わんばかりに鳴いてくれた。
頼りになるわ。ありがとね。
こうしてあたしは、謎の少女を共に乗せて、全速力でサークリスへと向かったのだった。
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