204「アルの手札」
ウィルから分離し、アルトサイドに逃れてきた『始まりのフェバル』アルは、『黒の旅人』の追跡から逃れるべく「存在を薄めて」移動を続けていた。そのためナイトメアに認識されて襲われることもなかった。ただ時折よろけていることが、いかに彼の受けた傷が大きいかを物語っている。
『黒の旅人』という外敵とウィルという内敵によって二対一となれば、さしものアルと言えど状況はかなり不利だった。その不利を最大限に活かされた恰好だ。
これほどの傷を受けては、彼は高いプライドを屈してまで判断せざるを得なかった。回復を待たずして『黒の旅人』と再戦すれば滅ぼされるかもしれないと。
「くっ……残滓に過ぎないとは言え、この僕にこれほどのダメージを与えるとは……」
『黒の旅人』もまた残滓に過ぎない以上、やられた言い訳にならないことは本人が一番よくわかっていた。
前回も今回もオリジナル同士が相討ちになったのは最も苦々しい記憶の一つだ。
よくもここまで成長してくれたものだと苦々しい顔で毒吐く。
最初――あのときに打った手は悪くないはずだった。星海 ユウは取るに足らない存在になり下がったと安心していた。
だが『黒の旅人』の執念は凄まじかった。何度殺しても、何度潰しても必ず蘇り、さらに力を高め続け――永劫の果てに、とうとう己に並び立つほどのレベルに達してしまった。
やはり星海 ユウこそが最大の宿敵だと再確認する。
「ユウめ」
アルはぎりぎりと奥歯を噛み鳴らした。かつて満ち溢れていたはずの「最強のフェバル」としての自身と余裕はもはやユウに対してはない。
ただ代償は大きかったが、『黒の旅人』のオリジナルはもういない。一方で自身のオリジナルは「外」に追放されただけだ。いずれ宇宙に帰還するだろう。
ゆえに今回こそ。
この宇宙のユウさえどうにかしてしまえば、すべては終わりだと言うのに。
これまでのどのユウよりも圧倒的に弱いはずのあいつを、なぜ仕留め切れないのか。
最後の詰めが決まらないことに暗澹たる思いがあった。
ウィルのものだった記憶を振り返って舌打ちする。ウィルの内に潜んでいたことから、彼の記憶はアルも共有していた。
星海 ユナ、ウィル、レンクス・スタンフィールド、リルナ――そして、あの女。
護られているというのか。
今までこんなことはなかった。【運命】が常にあいつを孤独にしてきた。
だが……今回は何もかもが違う。
最も弱いユウは最も人に愛され、行く先々で繋がりを深めている。これからも人や世界と結びつきを深めていくだろう。
有象無象の繋がりなど本来まったくの脅威にはならないが、ことユウに関しては違う。
厄介なのだ。
『黒の旅人』は最後まで繋がりが持てなかった。そうなるよう仕向けてきた。だからいくら力を高めてもアルたちには絶対に勝てなかった。本人もそのことをよくわかっていたはずだ。だから託したのだろうが……。
今のユウは取るに足らない存在に過ぎない。『黒の旅人』が自分を消滅させてまで託したほどの価値があったとは思えない。
今のユウが紛い物の黒の力や白の力を使おうが大したことはない。
神にも近い精神性と身体能力がなければ、白の力はただ理性を失い、制御が不可能になるだけの代物だ。アルには届かない。
そしてアル自身や『黒の旅人』がそうであるように、極めて冷徹な殺意を持てる者でなければ黒の力も十分な力を発揮できない。
ゆえにアルは確信している。
奴には黒も白も使いこなせない。奴は弱過ぎる。奴は人に近過ぎる。
だが取るに足らない存在だったのは最初の頃の『黒の旅人』も同じだった。奴の最も厄介な点は成長性にこそある。
いつか『白の旅人』のように――最も厄介だったあのユウのように、繋がりを何らかの力に変えることがあれば。
アルは現状を正確に評価しつつも、確信にも近い嫌な予感を抱いていた。
今回のユウをこのまま野放しにしておくわけにはいかない。下手をすれば『黒の旅人』に続く厄介な敵に成長する可能性がある。
「それにしてもあの女……成長してますますあのときのユウに瓜二つだ」
アルは忌々しいと顔をしかめた。
やはり【運命】の拘束力が弱まっていることが原因で、本来のあり方に回帰しているのか?
もっとも分け身に過ぎない以上は脅威足り得ないはずだが。
ユウが
だから消しておきたかったが……忌々しいことに生きている。またも彼の手をすり抜けてしまったらしい。
さすがに今から消しに向かえば『黒の旅人』に妨害されるだろう。彼女の殺害は失敗した。
「やはりユウを――奴を完全に亡き者にするためには、毒をもって毒を制すしかないのか……」
今回、アルは禁じ手を使っていた。オリジナルが動けない以上は使わざるを得なかったのだ。
本来真っ先に始末すべき『異常生命体』を利用する。
アル自身の残滓が今存在していること――この状況も、言ってしまえば『異常生命体』という存在を利用することで成立しているのだ。
『黒の旅人』に妨害を受け続けたために用意できた手札は限られるが、どれも成功すれば一発で勝負を決めてしまうほど強力な切り札である。
第一に、彼のオリジナルが完全復活さえすれば――『黒の旅人』なき今、この宇宙に敵はいない。ユウを含めた全員を黒の力で始末してくれよう。
そして、仮に復活が成らなかったとしても。
「I-3318……順調に育っているようだな」
遥か遠く――一つの『異常生命体』の確かな息吹を感じ取り、アルは満足に頷いた。
彼をもってしてもあれには手を焼いた。
ユウを殺すために生み出した存在。
最大の敵を始末するためにはやむを得ないとはいえ、あれも極めて危険な毒だ。
初期形態こそ大したことはないが……ユウの成長性に対抗するために異常な成長力を持たせた。
あれはユウをトリガーに活動を開始し、すべてを侵して際限なく成長を続けるだろう。
もしユウを始末してなお増長するなら――そのときは自らの手で潰してしまえばいい。
「くっく」
皮肉なことだが、今回のユウでなければ――自分と同じ黒の力を持つ『黒の旅人』なら簡単にあれを始末できるだろうなと思い至ってアルは嗤う。だが繋がりを力の源とする今回のユウにとってはこの上ない天敵となるに違いないのだ。
――あれは繋がりを喰らうがゆえに。
「まあいい。まずは第一プランだ」
自分にも牙を剥きかねない猛毒などできれば使わないに越したことはない。
宇宙に穴が開いた。すなわち「外」からの帰還が可能ということ。
アルのオリジナルが帰還するためにはしばらく穴を維持し続ける必要がある。あまり時間をかければ宇宙が裂けてしまう恐れがあるためそれは絶対に避けねばならないが、今しばらくの時間稼ぎは必要だ。
「アルトサイド……トレインが【創造】した世界の掃き溜めか」
夢と希望に満ち溢れた
不健全で歪んだ醜い世界。
「まったく馬鹿な真似をしてくれたものだ。我が主でさえ完璧な世界など創れないというのに」
アルは自分で言ったその言葉が悲しくなり、しばし目を伏せた。それから湧き上がってくるのは、不遜な行為に及んだ者への侮蔑と怒り。
「一万年。たった一万年だ。それでお前はどうなった? 世界はどうだ?」
返答はない。あるはずもない。
「無様だな。もはや喋ることも考えることもできない。とっくに破綻した世界を維持するだけの舞台装置と化したお前には、よりにもよってこの僕に利用されていたという真実もわからない」
こうなることはわかっていた。愚かなあいつならば間違いなくそうするだろうと。『事態』はここまでアルの想定通りに進んでいる。
だがアルは一つも愉快には思わない。愚か者への怒りが勝るのだ。
「少しばかり力のあるだけの人間が創造主になろうなどと。思い上がるからこうなるのだ」
吐き捨てたアルは、虚空に向かって光なき瞳をぶつけた。
我が主とは違う。我が主は完全無欠の神ではないが、遥かに賢明に宇宙を維持してきた。
これまでも。そしてこれからも。
それはさておき。
実に一万年分の悪夢のエネルギーに満ちているのだ。寄せ集めれば時間稼ぎくらいにはなるだろう。強力な悪夢が現界しさらなる悪夢を呼べば、宇宙の穴がより確実に維持できる期待もある。そう考えてアルは闇へ手をかざす。
「我が呼び声に応えよ闇」
《創造》
彼の【神の手】をもってすれば、下位存在たるほぼすべてのフェバルの能力を発動することなど容易い。
闇の集積が始まった。アルトサイドを覆う闇の全体が薄まるほどの恐ろしい密度が一点に集中していく。
集まった闇はおぞましく波打ちながら、次第にシャープな人型へと整形されていった。
顔に表情はない。闇をそのまま映したようなのっぺらぼうだった。
「ギ……ギ、ギ……」
gggggaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh!
完成された一体は、まともな声にならない、金切り声にも近い絶叫を上げた。
二つの世界に積み重ねられた悪夢の集合体。生きとし生ける者すべての闇の総実。
【創造】主さえも超越したパワーを持つに至った究極の闇に、その想像以上の出来栄えに、《創造》主は目を細める。
そして《創造》主は《命名》する。その名は人の認識を超えて確定するのだ。
「お前に名を与えよう――『ナイトメア=エルゼム』よ。衝動のままに成すがいい」
アルは再び「存在を薄めて」闇に溶けた。
『黒の旅人』は間もなく気付くだろうが、後の祭りだ。
アルのしたことは元より存在する闇に器を与えたに過ぎない。
あらゆるものを殺すオリジナルだったならば話は別だろうが……今の力の落ちた『黒の旅人』では無理だ。
闇に闇は殺せない。世界に悪夢が満ちる限り、何度でも原初の姿へ回帰するのみ。
ここに、最凶にして不死のナイトメアが始動した――。
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