194「人の道は険しく」
俺の絶対時間感覚によれば、アルトサイドへの突入からさらに八日と十時間四十三分を経過したところだった。
闇ばかりだった空間に、一つだけ大きな穴が開いているのを見つけた。穴の向こうは色付いており、どこかに繋がっているらしい。
おそらくはトレヴァークに戻されるのかラナソールに行けるのか――その二択だろう。
とにかくここではないどこかに行ける。わずかながら希望が繋がった。
よかった。このまま永遠に闇から抜け出せなかったらどうしようかと思っていたところだ。
でもこんなに時間がかかるのだったら、まだ生き残りを探して「人づて」で行った方が可能性があっただろうか。
……選ばなかった未来のことはわからないからな。考えるのはやめておこう。
いざ穴に飛び込もうとしたところで、ラミィさんが俺の肩からぴょんと飛び降りて、ザックスさんの肩へ戻っていった。
「今回は貴方に譲るわ。どうやら貴方にはやることがあるようだし」
「え。お二人は一緒に来てくれないんですか?」
アルトサイドでは明らかに退屈そうにしていたし、当然付いて来てくれると思っていたので、面食らってしまう。
二人とも困った顔で肩をすくめた。
「穴の中ではね。距離の概念が乱れていて、よく分からないのよ」
「一緒に飛び込んで万が一俺の能力が伝播してしまったら、期せずお前を殺してしまうことになる」
「……ああ。そうですよね……」
どこまでもザックスさんの能力が災いする。呪いみたいなものだよな……。
二人とも本当は抜け出したいのだけど、次の機会がいつになるかわからない。だから先に俺に譲ってくれようというありがたい話だった。
俺は深く頭を下げて礼を述べた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
心強い味方だった。二人には何度命を助けられたかわからない。厳しくも温かい言葉には救われた。
「今度会うときはもう少しマシな面になっていると良いわね」
「しっかりやれよ」
「はい!」
別れの挨拶を済ませた俺は、意を決して穴の中へ飛び込んでいった。
***
ユウが飛び込んで間もなく、空間の穴は閉じてしまった。
暗闇の世界から抜け出すためには、もう一度同じような穴を見つけなければならない。
一時を共に過ごした坊やを振り返って、ラミィは目を細めた。
「若いって良いわね。真っ直ぐで、無鉄砲で」
「あの坊やが特別純粋なんだろうけどな」
ザックスのしみじみとした感想に、ラミィも頷く。
あれほどに感情豊かで心優しく、素直で人懐こい超越者は、永い旅の中でもほとんど見たことがなかった。
十代半ばで時間が止まり、能力によって心の状態が保存されていることを差し引いても相当に変わっている。
容姿だけが愛くるしい幼女のまま、内心はすっかり擦れてしまった彼女とは違う。
悪夢に苦しめられて怯え涙を流していた彼を見て、小さな子供のようと評したが。いくらか立ち直った彼を見ても印象はさほど変わらなかった。
子供なのだ。純粋なのだ。根っこのところが。本質的なところが。良くも悪くも。
真に愛すべき子供の要素を大いに残したまま、知識と経験は大人になってしまったような、不思議な存在だと二人は感じていた。
普通ならば、良い年なら知識や立ち振る舞いで着飾るところ、彼はほとんど飾らない。守らない。
剥き出しの心のままですべての物事に触れ、受け止めようとする。だから心動きやすく、傷付きやすい。
そしてどんなに残酷な現実を前にしても、裏切られても、人と世界の素晴らしさを信じている。信じようとしている。
もはや無垢な赤子でも乙女でもないというのに。頑なな子供のように。
人も世界も、それらの可能性も見限って諦めてしまうほとんどすべての者とは違う。
誰よりも傷付きやすい道を、誰よりも困難な道を、さして強くもないのに――ぼろぼろに傷付いて泣いてしまうほど脆いのに、真っ直ぐに歩き続けようとしている。
一見どこにでもいそうな子供。なのにその中身は、生き様は、決して誰にも真似できるものではない。
それだけに眩しく。
「危なっかしいわね」
彼の純粋さひたむきさは希望でもあり、不安でもある。
純粋なだけに輝きは大きく――堕ちたときの闇もまた深い。
実際のところはわからないが、黒性気の純度に関して言えば、数少ない覚醒者の中でもトップクラスなのではないかと思われた。
それこそ、最強と目される『始まりのフェバル』と『黒の旅人』に並び立つほどの。
そして彼がそのままで光の道を歩くには、超越者どもが力の論理で支配するこの宇宙は――この世界は、あまりにも過酷だ。
彼があくまで小さな手を広げようとするなら。世界に挑もうとするなら。
世界は選択と決断を迫るだろう。
彼はフェバルにならなければならない。人のままではいられない。
「あの力に溺れてしまうのか。諸刃の武器として使いこなすのか。それとも」
「何にしても、なるだけ幸の多い道を歩いてくれると嬉しいもんだな」
「そうね」
彼に待つ前途多難を確信しながら、二人は行く末を想う。
そして二人はまた、マイペースな旅を始めるのだった。いつもいっしょに。
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