152「The Day Mitterflation 3」

 再びアルトサイドを抜けて、視界が開けると、病室のベッドの上だった。

 ハルは身を起こして、病室備え付けのテレビを食い入るように見つめているところだった。


「ハル。来たよ」

「やっと来てくれたんだね! ユウくん」


 よほど心細かったのだろう。ハルは泣きそうな顔で抱きついてきた。


「遅れてすまない。あっちでも色々あったからさ」

「もちろん知っているとも。終末教の件だね」

「そうだ。あれは向こうの君、レオンたちに任せるしかなかった」

「もう一人のボクなら、きっと上手くやってくれるよ。いいや、上手くやってみせる」


 ハルは意気込んでそう言った。それから、テレビをちらりと見て、視線を落とした。


「それに、事はトレヴァークの方が深刻みたいなんだ」

「ラナソールの攻撃はたぶん相乗効果を狙ったもので、あくまで本命はこっちだろうからな」


 ラナソールという世界にダメージを与えることを狙いとするなら、根元である現実に働きかけた方が被害は大きいだろう。楽しい夢がおぞましい悪夢に変わるだけで、あの世界の不安定な基盤はさらに揺らいでしまう。


「もう三つ目だよ。フォミードも……」

「あいつ、またやったのか……!」


 そう言ったとき、ハルの細い肩がびくんと震えた。恐る恐る、彼女は尋ねてくる。


「あいつって……もしかして、ヴィッターヴァイツという男かい? キミが話していた」

「ああ」


 俺は、苦い気分を隠さずに頷いた。

 その名を告げると、ハルの肩の震えが止まらなくなった。

 明らかに怖がっている。俺に抱きつく手の力が強くなった。


「大丈夫か?」

「ボク、怖いんだ。こんな恐ろしいことが、平気でできてしまう人がいるなんて」

「俺も……怖いよ。許せないと思う」


 ハルは俺の言葉をこくこくと聞いて、すっかり弱々しい声で続けた。


「それにね……怖いんだ。キミがそんな恐ろしい男のところに行ってしまうことが。キミが、またひどい目に遭ってしまうんじゃないかって」


 彼女の震える声に、次第に感情がこもっていく。

 そんなことを、思ってくれていたのか。

 君にとっては何より、俺がまた危ない目に遭うことが怖いと。


「キミが死にかけたとき、本当にどうしようって思ったんだ。目の前が真っ暗になりそうだった。もう、あんな思いは……ただ見ているだけなんて、いやだよ……」

「ハル……。そうか。君はそんなことを……」

「でもボクは、この現実のボクは、何にもしてあげられなくて……ただキミの隣に立つことさえ、できなくて……っ……!」


 俺の胸に顔を埋める。腕の中で、壊れてしまいそうなほど、小さく縮こまっていた。同時に、身を焦がすような悔しさが伝わってきて、心を打つ。


「怖いんだ。怖くて、震えて、どうしようもないんだ。動けないんだ。戦えなくて、なのに……どこか安心しているボクがいて。そんなボクが、悔しくて……!」


 溢れる激情のままに、彼女の手が、ぎゅっと服の背中を掴んだ。

 胸元から、ハルのすすり泣く声が聞こえてきた。懸命に堪えようとして、いやいやと首を振っている。


「ごめん。ごめんね。こんなときに。急がなくちゃ、いけないってわかってるのに……ごめんね」


 泣くつもりはなかったのに、困らせるつもりはなかったのに。ただ感極まって、涙が止まらなくなってしまったみたいだった。


 ああ――ここ最近、人を泣かせてばかりだな。


 責めることなんて、するつもりもないし、できるはずもないじゃないか。

 黙って受け止める。

 せめて少しでも心が安らげばと、肌を寄せて。ゆっくりと背中をさすった。


 そのうち、ぽつりぽつりと、ハルは悔しさを噛み締めるように言った。


「ボクは……弱いね。今だけでも、英雄になれたらよかったのに。キミの助けになれたら、よかったのにね……」

「ハル……」

「ボクじゃなかったら……。リルナさんだったら、キミと一緒に戦ってあげられたのかな?」

「ハル。そんなこと……!」


 それ以上、自分を責めるな。傷付けるな。

 言葉を紡ぐ代わりに、強く抱き締めた。心を繋げた。伝われと念じて。


 そんなこと、比べることじゃないんだ。君の気持ちは痛いほど伝わった。十分だよ。

 誰もが戦士である必要はない。やれることをやればいい。祈ってくれるだけでもいいんだ。

 君のような人が、無力に怯えなくて済むように。悲しまなくて済むように。そう願って、俺は戦いに行くのだから。


「ありがとう。ごめんね。ユウくん」


 彼女は、最後にもう一度だけ謝って。もう自分を責めたりはしなかった。




「シズハちゃんとは……既に連絡を取ってあるよ。ユウくんを見つけたら、至急エインアークス本部まで来いと言うようにって」

「シルバリオからも連絡は来ていた。早速向かうよ。でもその前に……いや、やめておこう」

「どうしたんだい? ユウくん」

「君を少しでも安全なところに匿おうかと思ったけど……やっぱりここで待っていてくれ。下手なことをするより、きっと一番リスクが低い」


 いざという時のために、各地の『アセッド』の地下は頑丈なシェルターにしてある。そこにハルやリクなど、一般人の身を隠しておけば、何もないよりは気休めになるだろうかと考えた。

 だけど……ヴィッターヴァイツの圧倒的な暴力を前に、それが一体何になるというのか。

 奴は狡猾な男だ。レジンバークの店を直接訪ねてきたことから、トレヴァーク側の『アセッド』のことも調べが付いている可能性が高い。

 下手に匿って、俺にとって大事な人物であると知れたら。かえって狙い撃ちにされてもおかしくはない。

 あいつは、そういうことを平気でする奴だ。

 だからここは、あえて特別に隠さないことが、おそらく最善手だろう。何も講じないこともまた不安でならないけど、そう判断した。


「そっか。ボクの安全を考えて……」

「何もしてやれなくてごめんな。良い方法があればよかったんだけど」

「ううん。ボク、戦うことはできないけど……待ってるからね。悪い奴をやっつけて、ちゃんと帰ってきてね。絶対だよ。約束だからね?」

「……ああ。きっと帰ってくるよ。また一緒にドライブとかしよう」

「うん。楽しみにしてるからね」


 速度制限ギリギリまでバイクを飛ばして、急いで本部まで向かった。

 道中、奴の気の高まりがないか、最大限警戒しながら。



 ***



 ユウが向かう背中を窓辺から見届けて、ハルは強く無事を祈った。

 やがて姿が見えなくなってから、小さく溜息を吐く。


「……運命の神様も、ひどいいたずらをするものだね。よりによって、こんな日でなくたっていいじゃないか」


 彼女は、悲しげに目を伏せた。


「結局、渡しそびれちゃったなあ」


 懐から取り出した小さな包みを握り締めて、彼女は再度嘆息した。

 中身は手作りのクッキーだ。この日のためにと、こっそり料理本を紐解いて、一カ月も前から何度も練習して作った、最高の出来のものだった。

 ユウの誕生日プレゼントとして、手渡すはずのものだった。

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