31「ヴェスペラント フウガ」

「あぁ……退屈だ。退屈過ぎて死ぬ……」


 まばらに無精ひげを生やした中年の男が、スキットルを片手に昼間から酒をあおっている。

 銀色のスキットルには、三日月と女神「ナーカム」の姿が描かれている。

 この世界における三日月は、それが満ち欠ける様より物事の盛衰を暗示するものであり、転じて勝負事や賭けを表す。

 女神「ナーカム」とは幸運の象徴である。二つ並べれば「賭けに幸運を!」となる。

 男はただのまじない事だと思いながらも、これが大のお気に入りであった。

 男の名はフウガ。

 気怠そうな目つきをしたこの男は、相当な訳ありである。

 器物損壊。強盗。傷害。罪を数え上げればきりがない。

 強姦だけは趣味ではないからと、一度も手を付けたことはないが。

 善悪という枠に囚われない自由で横暴勝手な振る舞いから、フロンタイム全域で指名手配されている男。その額は百万ジットにも上る。

 好き勝手やるにも、実力がなければこの世界では叶わない。

 彼の力は本物である。過去剣麗レオンに逮捕依頼が出されたものの、のらりくらりとかわして、現在に至るまで捕らえることができなかった男として有名である。

 いつしか付いた二つ名が『ヴェスペラント』(暴虐なる者の意)。

『ヴェスペラント』フウガ。

 彼はこの二つ名の方はどうでもいいと思っていたが、世間に一目置かれるのはまあ悪い気分ではなかった。

 手配のために住処を転々とする彼は、今は古ぼけた空き家を不法に占拠している。

 オンボロな木の椅子に座り、窓から明るい空を見上げているのだった。


「世界はもっと面白くあるべきだ。刺激と興奮に満ちたものでなけりゃあ」


 退屈だ、と彼は独り言を繰り返す。

 スキットルを口まで持っていって、もう一口含んだ。残りはもうほとんどない。


「本当は、そうなんじゃあないのか?」


 誰かに問いかけるように発された言葉が、風に乗って窓から裏通りに消えていく。

 しばらく男は黙った。何となく物思いにでも耽ってみたい気分だった。

 やがて男は首を振り、酒でのぼせた頭を叩き、独り言を再開する。


「まったくふざけてやがる。どいつもこいつも、ぬくぬくぬくぬくとぬるま湯に浸かったみてえに」


 最後の一口を流し込む。

 彼は空になったスキットルを乱暴に放り投げようとして――ふと思い直し、静かに木の丸テーブルに置いた。

 幸運の女神様を投げ捨てるような罰当たりは、いずれ手痛いしっぺ返しを食らうだろう。

 彼は立ち上がった。酔っ払いとは思えないほどにしっかりと両の足で立っていた。

 いつ追手が来るのかわからないため、酒は飲んでも飲まれることは決してなかった。


「この世界の真理に、見向きもしない」


 彼は、指先に魔力を込める。

 一角のS級冒険者をも遥かに超えるほどに強大な力が、ただ一点に集中されていた。

 望めば望むほどに、強く。昂る。

 そして彼は、指先から二発の赤い光線を同時に放った。

 狙いは浮遊城ラヴァークと、政府官邸である。

 規模こそ小さいが、膨大な魔力が集約されたその光線は。威力をそのままに範囲を広げれば、山をも容易く砕くほど甚大な破壊をもたらすだろう。

 しかしである。それほどの力を集めても――かき消えてしまう。

 浮遊城にもフェルノートにも、一切の影響はなかった。

 浮遊城を覆う白いバリアが。そして、魔力に反応して自動展開されるフェルノートの緑のバリアが。ぶつかる直前で彼の魔法を無に帰した。

 いかなる魔法も、この都市に破壊をもたらすことはできない。

 世界最高の賢者たちと、平和を望む住民の総意が集結して作り上げられた防御システム『ラナの護り手』。

 どんなに強大な一個人も、体制側には敵わないのだ。

 男は嘆息し、そろそろと身支度を始めた。

 気まぐれでぶっ放した魔法でも、足が付いて捜査の手が迫ってくる。

 この世界では、望めば誰もが強くなれる。自由になれる。

 強い者が得て。弱い者が失う。

 世界は単純なはずだった。

 弱肉強食というただ一つの理が支配できたはずのこの世界は。そうなっていたはずのこの世界は。

 気付けばフェルノートという「安全神話の都市」が錦の旗を振り。

 その庇護を贅沢に受けるレジンバークでは、「本物の冒険」も「本物の死闘」も知らない浮かれた馬鹿どもが冒険者ごっこに明け暮れる。

 本物の冒険が、たまにある不幸な事故死などで片付くものか。


「誰がこんなにぬるくしてくれた。この世界は、もっとよぉ……単純で、殺伐として、波乱に満ちて」


 そういうもんじゃないのか。

 誰も答えることのない問いは、再び繰り返される。

 リアルも、自由も「ここ」にはない。

 人々はただ腐ったまどろみの中で、誰もが与えられた自由と繁栄を享受しているに過ぎない。

 外れ者だけが損をする。

 そんなもの、何が面白いのか。下らねえ。


「あぁ……やりてえ。思いっ切り好きにやりてえ。足りねえんだよ……」


 そこで気が付くと、彼の意識は。飛んでいた。


「おい……。なんだあ、ありゃあ……」


 再び彼が意識を取り戻したとき――空では、とんでもない異変が起こっていた。

 街全体を包み込む『ラナの護り手』と――こんなことはしばらくなかったことだ!――そして、浮遊城から放たれる絶大な光線。

 あれは見たこともない――『ラナの裁き』ではないのか。

『裁き』は虚空に向かって放たれているように思われたが。

 急に進路を変えて、上空へ曲がっていった。まるで何かにぶつかったように。

 いやそうではない。

 彼は見逃さなかった。弾き飛ばされたのだ。


「へえ……なんだ。面白そうなもんがあるじゃねえの」


 彼の気怠い双眸は、空に浮かぶ二人の男を鋭く捉えていた。

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