いつもの夢
いつもの夢
5歳ぐらいだろうか?
篠原健太は蟻の行列を笑顔で見ていた。
蟻達は死骸になった蝶の体の一部を軽々と運んでいる。
蝶を運んでいる蟻達は、もうすぐ巣に辿り着きそうだ。
健太は蟻達に向かい健気に「がんばれ」と声援を送る。
あと数㎝で巣に届きそうだ。
「ぐちゅ!!」
健太の耳に、その音が鳴り響いた。
完熟したトマトを握り潰したような、何とも嫌な音だ。
音が聞こえた瞬間、健太は目を閉じた。
そして、ぎゅうっと閉じていた瞳を恐る恐る開けて行く。
健太の前に麻生零士が立っていた。
零士は健太より三歳年上のお兄さんだ。
零士は健太に向かい、口を大きく開き、こう言った。
「ぐちゅ!!」
零士はそう言うと、踏み付けていた蟻達が運んでいた蝶をつまみ上げ、健太の方へと投げ付けた。
健太は顔を歪ませ蝶を避けた。
そして急いで零士の元から逃げ出した。
しかし零士は執拗に健太を追い続ける。
健太は呼吸を忘れる程、無我夢中で走った。
しかし、とうとう、零士の手が健太の肩を捕らえた。
健太は堪らずに振り返る。
零士の顔はにこやかに笑っていた。
そして笑いながら、右手に持っているハンマーを健太の頭目掛けて降り下ろした。
「ぐちゅ!!」
健太の頭の中で、この嫌な音が鳴り響いた。
篠原健太は汗だくで目を覚ました。
また例の夢を見てしまったようだ。
健太はベッドから降りると、洗面台に向かった。
洗面台に着いた健太は、蛇口を捻ると勢い良く顔を洗い始める。
そして鏡に写る自分の姿をまじまじと見つめた。
健太は五歳の頃に比べ、顔の堀が深くなった。
当たり前だ。
健太は来月の十三日で二十六歳になる。
顔を洗い終えた健太は、ベッドに腰掛け煙草をふかした。
悪夢にうなされたせいか、シーツは滅茶苦茶になっている。
そのぐちゃぐちゃのシーツの上に体を横たえ、煙を肺まで吸い込んだ。
体中に煙草が染み込んで行く。
それをゆっくりと吐き出す。
健太は薄れ行く煙を見つめ、昔住んでいた孤児院の事を思い出した。
健太はへその緒が付いたまま、ダンボールに捨てられていた。
親の顔さえ知らない。
そして市長に『篠原健太』という名前を付けられ、『太陽園』という孤児院に預けられる。
幼い頃の健太は暇さえあれば地面を観察していた。
特に蟻の行列を見るのが好きだった。
蟻達を見る健太の横にはいつも、麻生零士が居た。
健太は笑顔で蟻を見ていたが、零士は冷めた目付きをして蟻を見ていた。
健太には零士の笑顔を見た記憶がない。
健太以外の子供達とは一切遊ばず、いつも健太の側に黙っていた。
幼いながらに健太は零士に他の子とは違う違和感を感じていた。
しかしあの日までは、その違和感をまるで気にしていなかった。
「健太君!また、おねしょして悪い子ね!約束ノートに、もう、おねしょしないって書いたでしょ!」
「ごめんなざい」
健太は大粒の涙を流し泣いている。
「約束ノートに書いた約束破った子はどうなるんだっけ!?」
浅見洋子は、眉間に皺を寄せながら健太を叱っている。
「…洋子先生に打たれまず」
健太は震えながら、か細い声を出した。
「そうよ叩かれるのよ!約束破るような子は、先生にお仕置きされるのよ!」
洋子はそう言うと、健太の頬を平手で叩いた。
「バチン!」
子供の頬を叩く音にしては、やけに大きな音が部屋に木霊する。
それほどの力で健太の頬を叩いたのだ。
健太は床に倒れ、打たれた方の頬を押さえながら、大声で泣き出した。
部屋に居る孤児達は、遊ぶ手を止め、一斉に健太に視線を送る。
「泣くんじゃない!うるさいのよ!」
洋子はそう言いながら、倒れている健太の腹を蹴飛ばした。
「うぅ!」
健太は腹を抱え、その小さな体を丸める。
「泣くんじゃない!泣くんじゃない!約束破ったあんたが悪いんでしょ!」
洋子は丸まる健太を蹴り付けた。
ドスドスと音が部屋に鳴り響く。
我を忘れ蹴り続ける洋子は、急に蹴るのを止めた。
洋子の視線の先には、小刻みに震える健太の体があった。
しかしそれは震えではなく痙攣している様子だ。
健太は薄れ行く意識の中、気を失った。
気絶している健太に気付いた洋子は動揺した。
今までも孤児達を殴る蹴るをしていたが、気を失う事は今まで一度もなかったのだ。
「…健太君?」
洋子は健太の体を揺さぶった。
数分程揺さぶり続けると、健太の口から小さいながらも声が漏れた。
「…うぅ」
洋子は健太の声を聞き、安堵する。
もしこのまま健太が気絶したままなら、救急車を呼ばなければならないだろう。
そうすれば、なぜ健太が気絶したのか理由を聞かれてしまう。
洋子が嘘を付いたとしても、至る所にある体の痣を見られれば、虐待しているのがばれてしまうだろう。
そうすれば洋子は職を失うどころか、警察に捕まってしまう。
洋子は健太が目覚めた事にほっとして、溜め息を付く。
「健太君!早く起きなさい!」
洋子は健太の両肩を掴み、強引に体を起こした。
「…ん」
健太は体を起こされ、閉じていた両目を
開いた。
全身の痛みに泣き叫びそうになったが、健太の視線の先に居る洋子を気にして、健太は歯を食いしばる。
食いしばらなければ声が出てきてしまうのだろう。
また泣き声を上げれば、洋子に叱られてしまう。
健太は幼いながらにそれを理解している。
「…今の事、誰にも言っちゃだめだからね!分かった?!」
洋子は眉を寄せた。
「…はい」
健太は震えながら頷いた。
「後で、誰にも言わないって約束ノートに書いときなさい!分かった!?」
「はい」
健太は洋子から視線を外し、俯きながら答えた。
洋子は健太の答えを聞き、周りにいる子供達を睨み付ける。
「あなた達も言っちゃだめだからね!分かった!?」
「…はい」
子供達は怯えた様子で呟いた。
子供達の返事を聞き、洋子は部屋から足早に出て行く。
部屋に残された子供達の周りは、静寂に包まれる。
健太はその中、自分の体を抱え、震えながら涙を堪えた。
「…健太君大丈夫?」
震える健太の前に、零士が跪き囁いた。
「…痛いよ…でも泣いたらまた、叩かれちゃう…」
健太は、滅多に喋らない零士が声を掛けてきて驚いている様子だ。
「…今日で叩かれるの最後だから」
「えっ?なんで?」
「…約束ノートに書いたから」
零士はそう言い、手に持っている自分の約束ノートを健太に渡す。
健太は不思議に思いながら、零士の約束ノートを広げた。
約束ノートには様々な事が書いてある。
『たべものをのこしません』
『ようこせんせいのいうことはまもります』
そして最後の文を見て、健太は問い掛けた。
「なんて書いてあるの?」
ノートには漢字で書いてあった為、健太には読めなかった。
「…洋子先生を殺す」
零士は俯きながら呟いた。
その顔は笑みがこぼれている。
「…ころす?…ころすって何?」
幼い健太は、殺すという行為の意味を知らなかった。
「…夜になればわかるよ…健太君手伝ってね」
零士の笑顔を見て、健太はドキドキした。
きっと楽しい事だ。
健太はそう思った。
「うん!僕もやる!」
体の痛みを忘れ、健太は元気に答えた。
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