第2話 過去がやってくる
こんな暑い日が、昔にもあった。
背丈はまだ、背伸びしても冷蔵庫の一番上に届かないくらいだったと思う。
予定時刻から大幅に後れを取った出発だった。日は傾き始めており、どこか遠くで鳴るベルが「カラスといっしょにかえりましょ」と俺たちを急かす。曲名は何だったか。
俺は先頭に立ち、どこともわからない目的地を目指して歩くのだ。
静かな森の中、生い茂る草に足を取られながら進んでいく。
遅れた仲間が駆け寄ってきて、俺の肩を叩く。
「よう飛沫! ひっさしぶりだねぇ!」
その一言で、下校途中の暑さにやられていた俺の頭は現実へ引き戻される。
数多の人が行き交う交差点、横断歩道上で聞き覚えのない声に話しかけられたのだ。
「悪い、誰だ」
「えーっ! 僕を忘れちまったのかよ飛沫! イズルだよ、
いや、だから誰? 俺との関係性を述べろよ。暑くて早く帰りたいから三十字くらいで。
「悪いがせめて上の名前を言ってくれないか……? 下の名前だけで思い出せる奴なんて俺の人生の中で限られて」
そこまで言って、気づく。
この珍しい名前で、その限られた人物たちに検索をかけると一致する奴がいたのだ。
「マジでわからないの? あさ……」
「お前、居鶴か!」
諦めたように口を開いたそいつの言葉を断ち切って、人混みの中に俺の声が響く。
「だからさっきからそう言ってるじゃん! とにかく思い出したか。な?
聞き覚えのない単語が出てきたと思ったけど、そういえばそんな苗字だったな、こいつ。
朝霧居鶴。この男、幼なじみにして奇人。そんな奴である。
「いや僕も、飛沫じゃないかと思ってから数分声をかけるのを躊躇ってたんだけどさ、観察して確信したんだ。あれは間違いない。あのとき僕たちをあそこに導いてくれた隊長の背中だってね!」
そこで初めて、まともにコイツの顔を見る。
たしかに、骨格ばかりは昔より多少たくましくなっているものの、その永久不治の癖っ毛が面影を残している。
小学校卒業と同時に隣町に越した俺は、小学校六年までソプラノが歌えた居鶴の変声期を経た後の声こそ聞いたことはなかったが、この饒舌さを見るだけで本人と認識するのは難いことではなかった。
そして今日は、この気温にもかかわらずワイシャツの上にパーカーを
しかし、居鶴は普通ここにいるはずのない奴なのである。なぜなら俺たちの地元はここから遥か遠く、電車を何本も乗り継いでいかなくてはならないような、それでも最寄りから何キロも歩かなくてはならないような、そんなところだったからだ。
それなのに、どうして。
「飛沫が引っ越してから僕たち、もうあんなバカなことはできなくなっちまったよ。探検隊も解散さ。やっぱり、すごかったんだよ、飛沫は」
タンケンタイ。探検隊ね……。
「ああそんなものもあったな」と流してやりたいところだったが、あの出来事ばかりは鮮明に記憶に刷り込まれていて、どうしたってそれを摘出したりはできそうになかった。再び回想にふけりそうになった俺を居鶴の声が現実に引き戻す。
「そうだ、飛沫」
「なんだ」
「あの森……。今度全部伐採されて、ショッピングモールの建設が始まるって噂だぜ」
「なっ」
あの森が?
いやしかし、だからどうだというのだ。
小学校時代、多くの時間を過ごした場所が変わろうとしている。それはいまの俺にとって、それほど重要な案件だろうか。
俺は一瞬驚きの顔を見せてしまったが、思考をあちこち巡らせて
「ああ、だからどうした」
という返答に至った。
「どうしたって……、いいのかよ!? 泉も埋め立てられちまうんだぞ! 僕たちの思い出は? みんなで大切にするって言った秘密は!?」
「そんなもの、もうどこにもないだろう。みんなバラバラだ。それに、あの泉ひとつで俺らの関係が変わるとも思えない」
いい意味でも、そうじゃない意味でも。
「そうかも……、しれないけどさ。今でも僕には、やっぱりあれがただの泉には思えないんだよ」
俺はこいつによって途中で切られた回想に再び馳せる。
あの日。
俺たち四人が美しい泉に辿り着き、忘れられない出来事が起こったあの日。
俺が水にふれた刹那、泉の中心部から空に向かって細長い光が伸び、それがどんどん太くなり、円柱となり、空間となり……、俺たちに達した。
その途端、手に痛みともかゆみともとれない、今までで感じたことのない感覚が走り、紋章のようなものが甲に浮かび上がり、そして消えた。
「飛沫には、あれが普通の出来事に思えるのか?」
恐らく同じ光景を思い浮かべたであろう居鶴は俺にその一般性を問う。そんなこと誰だって分かる。答えは明確だ。
「それは……、そうだな。まあそんなこともあるだろう」
だが、こうなる。またひねくれた答えしかできない。そういう奴が、今の俺なのだ。
自己嫌悪の中で出した答えは、居鶴の声を荒らげさせるのに十分なものだった。
「飛沫!」
「なんだよ……。お前はいったい俺にどうして欲しいんだよ」
何もできない。何もしない。それ以外の選択肢が思い浮かばなかった。
居鶴は一つの思い出話をしようとして、この話題を持ちだしたのだろう。そう思っていた。
だからその返答は、俺の予想を覆すものとなった。
「行こう」
俺は戦慄した。
「行こうって、どこに?」
「あのときの四人を集めて、あの泉へ行くんだよ。そして、ある程度常識の身についた、大人になった僕たちで、あの超自然の現象の正体を確かめる」
ちょっと待て、何を言っているんだこいつは。こんな小学生みたいなこと言い出す奴が大人だって? だったらちょっと賢いお子様とか、みんな大人になっちゃうぜ? 料金設定がみんな「おとな」になってJRとかウハウハだよ。
「正気かよ。あの森まで何キロあると思ってるんだ? そんなことのために、何本も電車を乗り継げって? 馬鹿馬鹿しい。俺はパスだ。暑いから早く家に帰りたい。悪いけど先行くぜ」
そう、ここは首都東京のど真ん中。俺たちの故郷から本州の半分くらい離れた座標なのだ。そんなところから大した理由もなく故郷に帰れって?
本当に、馬鹿馬鹿しい。そもそも俺はあの町が好きではない。
居鶴に背を向ける。
しかし振り返って数秒間、俺は驚きのあまり時間の経過を忘れてしまった。
それがあまりにも突然だっだから。
その再会があまりにも突然だったから。
「あっ、しぶくん」
居鶴と違って大きな変化のないその声が、先ほどのようなタイムラグなしに俺の口から言葉を引きずり出した。
「お前……、
頭が思い出すより先に俺はその名を口にしていた。
昔とは打って変わって、とても大人びて落ち着いた雰囲気だが、分かった。
鼓動が高鳴る。こんな偶然があるのか?
耳の上の髪留めが、終わりを感じさせない夏の日差しを反射してきらきらと輝く。
「ウソだろ!? 真澄!? スッゲー、こんな偶然もあるんだな。な! 飛沫」
居鶴が俺の肩へ手を回す。
この少女、
「なんで、お前がここにいるんだ?」
「あっちはあまり高校がないから……。上京したの……」
昔と変わらない物怖じしたような口調で真澄は告げる。
聞いてみれば随分普通の、なんてことない理由だった。あちらには少数の高校こそあるが、お世辞にもできる奴が行く学校とはいえないものだった。……らしい。
だからまともな高校に通いたい人はどこか別の町に出て受験をするしかない。真澄もその一人だったのだ。
「ずっと声掛けようと思ってたんだよ……。でも人違いっていう可能性を最後まで捨てきれなくて……。今もずっと、いずくんっぽい人と話してるなーって見てたの。やっぱりそうだったんだね」
ずっと? 俺と居鶴が会ってから、まだそんなに経ってないはずだけど。
「ああ、気づかなくて悪かったな。それにしても……変わったな。いや、変わったか?」
たしかに容姿は優しいお姉さん系と形容するのが正しいくらい落ち着いたものになった。
しかし、右側で束ねた髪は不揃いでどこか遊ばせているような、幼い印象を感じさせる。それでいて下ろしている左半分は落ち着いた、大人びた印象を感じさせるから不思議なものだ。
それでもしゃべり方だけはしっかり幼さを残してるし、とりあえず中身は大きく変わってはいないんだなと安心する。
言うなれば半分大人、半分子供。そのように表現するのが適切な少女が、今の真澄だった。
「久しぶりに二人と話せて嬉しい……。でもわたし、少し怒ってるの」
ムスッとした顔をする。うん、可愛いな。いいじゃないか成長版真澄。
「しぶくんが何も言わず引っ越したこと、許してない。連絡先くらい残してくれても良かったの。怒ってるからね。行っちゃうよ」
どうやら俺の過去について腹を立てているらしい。ぷいっと振り向くと俺たちから離れるようにして歩き始めた。
その姿を見ながら、彼女の言う「引っ越し」の頃を思い出そうとする。しかし、それはできなかった。
あのとき俺は、そんなことに頭が回る精神状態ではなかったのだ。
記憶は確かではないが、仲間内では気丈に振舞っていたと思う。それは俺に向けられているものではなかったが、度重なる両親の怒号を聞いて完全に参ってしまっていたのだ。
引っ越しの理由は、両親の離婚だった。それ以来俺は、母方の「清水」の姓を名乗っている。もともと下の名前で呼び合っていたこいつらはそれほど気にすることでもないが。とにかくあれは不可抗力というか、俺の意図でどうこうできる問題ではなかった。
だが真澄が怒る理由も分かる。非は俺にある。言い訳の一つも出てこない俺はただ立ち尽くす。黙るしか、なかった。
スタスタと、いや、全く足早な印象は受けなかった。むしろゆっくりに感じるほどだったが、真澄は去っていこうとした。
「待って真澄!」
そこで声を上げたのは居鶴だった。
真澄は一瞬嬉しそうな顔をしたように見える。が、居鶴の顔を確認するや否や、不機嫌そうな顔に戻った。
「僕たちさ、あの泉に行こうって話をしてたんだ。もう聞いてるかもしれないけど、あそこ、もうすぐ無くなっちゃうんだよ。だからさ、最後に、昔みたいにさ、くだらない道具揃えてさ。な? いいだろ? ほら、飛沫も行くって言ってるしさ」
「んなっ」
随分勝手なことを言ってくれるな、おい。こういうところも居鶴は昔から変わっていない。
「……いい」
「え? 聞こえないよ」
「しぶくんが行くって言うなら、行ってもいい。わたしも暇で暇で暇過ぎて死んじゃいそうだったからちょうどいいの。でも……、行くからにはあのときと同じ状況じゃなきゃ意味が無いと思う。だから……、しぶくんが行くなら行くの。一緒に行きたいわけじゃ、ない」
「へぇー。だってさ、飛沫」
妹系お姉さん同級生にそんなことを言われ、柄にもなく心が弾んでしまった俺はとっさに言葉を紡ぐ。
「そ、そうだな。実は俺も実家にラジカセを置いてきてしまっているから取りに行かなくてはいけないんだ。そのついでとして……、行ってやってもいい」
駄目だこりゃ。
「ははは。相変わらず、本気なのかわからないくらい下手な嘘をつくねぇ。それとも、嘘を見破って欲しいゆえのことかな? ラジカセなんていまどきの高校生が必要とするアイテムじゃないよ」
「ふん」
鼻息を付く。正直なところ、咄嗟の事だったので実家にある俺のアイテムなんて、小さいころ基地へ持って行っていたラジカセくらいしか思いつかなかったのだ。
こいつらと会っての数分間で、この数年間忘れていたものが湧き出してくる。
これが同窓会でよくあるらしいフラッシュバックなのだろうか。
「よし、詳しい日程は、後日連絡を取り合って決めよう」
それじゃあ、といった様子で居鶴が仕切る。どうやらこの旅行計画は立案者である居鶴中心で進行していくことが自動的に決定したようだ。
「じゃあわたし、そろそろ帰るね。連絡先を教えるから。いずくん、ケータイ出して。しぶくんはいずくんに転送でもしてもらえばいいの」
真澄がこっちを向く。意地でも俺と接触したくないようだ。まあ、でもなんだ。ご褒美です。
「頑なだねえ。真澄ってこんなにツン……、いや、なんでもない」
真澄が瞬時に睨みを効かせたので居鶴は出かかっていた爆弾を飲み込む。
満足気に連絡先を渡すと、真澄は去っていった。
その後すぐに俺に真澄の連絡先を転送すると、居鶴も帰路についた。
まあ連絡なんてとらなくても、この町に越しているのなら、近いうちに会うかもしれないな。
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