第42話 共に生きるセカイ
扉を使いトレードタワーの牢獄から離脱した俺と羽込は、必然的に二人きりになった。
こうして話すのも、とても久しぶりな気がする。
「お前、どうして来たんだ。いや、違うな……。どうして、来なくなったんだよ」
あの日俺と口論して以来、羽込は一度も学校に来ていない。
だから正直、内心少し気まずかった。それを一番最初に早く取り除いておきたい。そのための問いだった。
唇を噛みながらも、羽込は答えない。
しばらく
「私は、お父さんが嫌い」
彼女が口を開いて放った言葉は、俺の質問とは全く乖離したものだった。
「去年亡くなったわ。死因は過労死だった。悪い仕事に全力を注いで死ぬなんて、娘としてどう思えばいいのかしらね」
羽込はその虚ろな目で、一体どこを見ているのか。いや、先の彼女自身の言葉が示していた。
誰に向かって話しているかなんて、多分、羽込自身も分かっていない。
俺は力なく紡がれたその問いから、あてのない矛先が空虚に穿たれるのを、行き場を失った矢尻が無情に放たれるのを、察した。
「あんなお父さん、大っ嫌い」
繰り返し言い放った言葉が内包している表面とは裏腹な感情は、見え見えだった。手に取るように分かる。
こいつはこんなに分かりやすいやつだっただろうか?
「それは違うぞ」
俺はこの世界、いや、あの世界に生まれついてそう長くはない。だけど分かる。それくらい簡単で、単純なことだった。
「好き嫌いなんて、理屈じゃない。最初にそれがあって、理由なんて後からついてくるものなんだよ。お前は心からお父さんを嫌いにはなれない。絶対に。お前が知らないだけで、嫌いになれない理由が、どこかに必ずあるんだよ」
こじつけた理由で、作り出した理由で、自分に暗示をかけるな。
「赤の他人の俺が保証しよう。お前のお父さんは絶対、お前が嫌うような人じゃない」
「……どうかしらね。あの日私が渡した小包の中身、見たでしょう? 私のお父さんは、あんなとんでもないものを取り扱うようなことをしていたのよ」
俺が羽込の家に行き、異世界から帰ってきた後に受け取った小さな小包。俺はそれを手にした日の夕暮れ時、自室でその封を開いた。
「ああ、見たさ。そしてすぐ分かったよ。あれは俺が持つべきものじゃない」
一目瞭然だ。
「どうして……」
どこまでも疑心暗鬼な羽込は地に小さく言葉を捨てる。
「……っ、どうしてなの!? 私はこんなにもあなたを助けようとしているのに。あなたの力を早く知りたかったのも、あなたを、世界を助けるために、何が出来るか知りたかったからだっていうのに!」
今まで平坦だった感情が一気に波立った瞬間だった。それでいい。感情に、直感に、素直になれよ。
「それなのにどうして……」
「それでもだ。あれは俺じゃなく、お前が持つべきものだ」
お前の選択は間違っている。苗加羽込はそんなに間違える人間じゃないはずだろう?
「いらない。あんな形見」
「それならどうして、俺に渡す前に一度封を開いたんだ?」
羽込は後ずさる。
俺は見てしまっていた。その躊躇の表れを。見てしまったからには、突きつけるしかない。羽込自身の根っこにある、心の挙動の表れを。
「どうしてお前は俺と知り合うより前にあれを注文したんだ。どうして一度あの封を開いて、中を見ようとしたんだ。どうしてあの時計を一度、自分で使おうとしたんだ」
その中身は、時計だった。
曰く、『世界を計る時計』。
外見は少し高そうな腕時計。だが一目で普通じゃないと分かる腕時計。その針はどの世界でも正確に時を刻む。そのリズムは何をもってしても狂わせることはできないとされる、絶対的な測定器……らしい。
羽込の父は依頼主からの感謝の品として、それを受け取っていたようだった。
だがその小包の封には少し手を付けたあとがあり、時計のベルトも少し短めに調整されていた。女性の細めの手首にフィットするくらいに。
「お前だって、心の何処かでお父さんを信じたかったんだろ? お父さんは悪い人じゃないっていう証明を、今でも欲しがってるんだろ? だから今、ここにいて、お父さんと同じ配達業をやってるんだろ!」
羽込は身をたじろがせる。額に滲む汗。どうやら感情に頭が追いついていない様子だ。
「あれをあなたがつけていれば、あなたは何も変わらない。二度と世界が狂うこともない」
羽込の言うとおりだ。それが時計の力だった。事実、俺がそれを腕につけたとき、俺は一切の外的要因による変化を受けなくなった。狂わされることがなくなった。それがおそらく、どんな科学の型であっても。
一体どこの世界の技術なのだろう。確立された自分になったことが図らずとも感覚的に分かったのだ。あの時計には、着けた者を完全に統制するような力がある。
それが何を意味するのか、あの時の俺は知らなかったが、羽込はどうやら俺と世界のつながりを知っていたらしい。
「そんなことはどうだっていいんだよ。お前はもっと根っこのところを考えるべき、知るべきなんだよ」
「飛沫くんに何が分かるのよ! お父さんが死んでから、私は流されるようにこの仕事をやっている。それは、実娘としての償い。こんな仕事、お父さんがやっていたことなんて……本当は……したくなんて……」
そして羽込は、目線を少し下に下げる。その先には、一般に流通しているのとは違う、羽込のリーダーがあった。
「こんなもの、すぐに渡してしまえばよかったんだわ」
「……違う」
「違わない! 私がこれを引き渡すのを躊躇ったから……。あのときこのリーダーを美滝さんに渡していれば、こんなにも世界が狂うことだってなかった! 絶対に無理な額を提示して、諦めさせようとした! ホント馬鹿よ……。お父さんから貰ったものなんて……大事なものでも何でもなかったのに!」
「違う!」
自分の腕に装着されているリーダーを眺めながら自分を卑下する羽込に俺は無性に腹が立ち、怒鳴りつけた。
「じゃあ……じゃあ何が違うっていうの? あなたは、何か知っているっていうの?」
何も言い返せない。
羽込はそう予想したはずだ。
俺はその問いかけに、身を固まらせることはなかった。邪魔にならないようにと選んだポーチの中から、俺はそれを取り出した。
「これだ」
それは、一枚の紙。
「これが小包に一緒に入っていた」
葛藤していた羽込はおそらく小包の内側にテープで貼り付けられたこれに気づかなかったのだろうが、俺はこの一枚の重要さを知っている。
今の羽込を変え得る一枚だと、知っている。
「これ……は?」
そこには、こう書かれていた――
「お久しぶりです。今回の一件と日頃の感謝を込めて、この時計を送ります。ご存知のことかと思いますが、これは『世界を計る時計』。実はかなり希少なものですが、私はこれと比較にならないくらい大切なものをあなたのおかげで失わずにすみました。本当に、どうお礼を言えばいいものか。
あなたはいつも娘さんのことを話していましたね。病気を治すんだと、躍起になって、いつも体を張って無茶ばかりして。あなたが有能なのは知っていますが、私たちはあなたに頼りすぎている側面もあります。たまには家に帰ってあげてくださいね。
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羽込の下瞼に、小さな水滴が乗っている。
それが、ほろりと溢れ落ちた。
彼女は多分、思い出したのだ。
いつだって、周りの人の目も憚らず駆け寄って娘を抱き上げた父の姿を。
「お父っ……さん……」
「こんなものだけじゃ、お前の親父さんの真意はわからない。分からないけど、でも、分かるだろ? 男手一人で娘を育てるような人が、どういう思いで世界を生き抜いたか」
嗚咽混じりのその涙が答えだった。羽込はすべてを知った。
「お前の父がそれをやっていたのはな、お前のためだったんだよ。お前のお父さんはお前のことが、間違いなく、大好きだったんだよ!」
「私は……私っ……!」
お前は分かっていなかったんだ。知らなかったんだ。頼ることや委ねること、そのほかたくさんの当たり前のことを。
「一人が寂しいなら、一緒にいてやるよ! こんなとんでもない世界でも、なんてこと無い普通の世界でも、一緒に生きてやるよ! だからさ、なんといいうか……人ってのはお前が思っているより、知らないところで寄り添っているものなんだよ!」
どうだ。参ったか。
俺は初めて、彼女に勝った気がした。
気づかないところで。いや、気づかれないように。
その人は自分の娘を想い続けた。
ここで彼女に知られたのは、赤の他人である俺なんかに真実をバラされたのは、亡くなった彼の本意ではないかもしれない。それでも俺は、伝えなくてはいけないと思った。
彼の努力が完全に、異世界の彼方に消えてしまう前に。
羽込が小刻みに震える。俺は息を呑んだ。
「ふっ、ふふふっ」
「な、なんだよ」
羽込は、小さく、しかし朗らかに声を上げる。
「今、一緒に生きるって言ったからね?」
「あ、ああ……」
その清々しい、屈託のない笑顔に気圧される。
「私も誓うわ。これからは、間違えない。あなたが一緒に生きてくれると言った世界で、生きていく。間違えたっていいのは分かる。でもこんな簡単な事に気付かずに卑屈になるような間違え方だけは、絶対にしない」
人間は、間違えたっていい。そうせずに生きていくことなど、出来ないだろう。それでもそれをしたくないと、そうしまいと強く生きることに羽込は今、旗を立てたのだ。
「実を言うとね、あなたと初めて一緒に異世界に行ったとき、久しぶりに楽しいと感じたの。どうしようもないと思っていた世界が少し明るく見えた。
私は、楽しく生きていきたい。お父さんがそう願ってくれたのなら、幸せにだってなりたい。だからそういう面で言うならば私がこれから生きていく世界に――」
彼女の涙に濡れた笑顔がよりいっそう大きいものになったこの瞬間、悟った。俺はもう、後戻りできないのだと。
「あなたがいるなら、安心ね」
ぐっと息を呑む。自然と頬が熱くなる。
その言葉は、異世界に行くとき羽込が俺にかけてくれた言葉と似たものだった。
私がいる、あなたがいる。俺がいる、お前がいる。
そうやって安心させ合わないと、弱い人間は前に進む推力を喪失してしまうのかもしれない。だから波を立て合いながらも、一緒に生きるのだ。
俺の様子を見て、羽込はさらに愉快そうに笑う。
「飛沫くんって、やっぱりとっても面白いわ」
いつの間にか逆転された立場に、少し悔しい気持ちが生まれる。
羽込はしっかり、俺と目を合わせた。
「生まれつき、体が弱かった。いいえ、心がずっと荒んでいるような、そんな病だったわ」
羽込は後悔の記憶を晒すつもりだ。俺はをれを受け止めてやろうと身構える。そしてその病に、俺は覚えがあった。
「活気がなかった。おてんばとは真逆な、卑屈な印象を与える子供だった。そんな私に、父はたくさんのおもちゃを買い与えたわ。人形やアクセサリーに興味を示さないとわかると、今度はカードゲームやミニカー。最初はそれらにも全く興味が湧かなかった」
父親が、娘を元気づけようとあれやこれや試す情景は想像に難くない。なんせ俺の姉がついこの前までそれだったのだ。多分、言わないだけで母さんも。
「でもある時を期に、それらがとても魅力的に感じるようになった。特に男の子向けの玩具は私を惹きつけた。輝いて見えた。おもちゃは、物静かな私を夢中にさせる唯一のものになった。そして私は徐々に、人とのかかわりかたを知るようになったわ。周りの子たちにかなり遅れをとってしまったけれどね」
出会ったときに言っていた社会的立ち位置が回復した例とは、そのことだったのか。
「思えばお父さんは、私に何度もリーダーを使わせた。その頃は何をしているのかよくわからなかったけれど、もしそれが病気の治療だったのだとすれば、その効果が出てきていたのかもしれない」
いわゆる治療データ。美滝が俺に使おうとしていたのと同じようなものだろうか。
「でも、私がいわゆる普通の子として出来上がるきっかけとなったのは、ある人たちとの出会いだった。その直後から、私は周囲の人たちと話すのを躊躇わなくなった。面倒に思わなくなった。私は生まれながらの倦怠を、脱した」
「……そうか」
俺は短く相槌を打つ。こういうのは余計な感想を述べるものではないと思ったからだ。
「それでも結局、今の今まで、私は知ったつもりでいただけだったみたいね。あなたはいつだって、知らない世界を見せてくれる。私はそれがたまらなく楽しいわ」
「それは、お互い様だな」
そして羽込はふっと小さく笑い、思い出したように口を開く。
「あと、さっき何でもするって」
「言ってねーよ!」
やっぱり彼女には、まだまだ敵いそうにない。
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