むべやまかぜを 風雲エターナルラブ編
黄支亮
第1話 序 オタクの神様
新橋の烏森口から徒歩五分。
廃校となった小学校のさらにその先に行った雑居ビルの地下に、イツキという居酒屋がある。カウンター席だけの小さな店の主人は独身美人。
『おかみさん』
というには若すぎるし、かといって『ママ』というにはすれていない。
客の多くもこの女主人をどう呼んだものか迷うのだろう。あるいは『店長さん』と言う者があって単に『おねえさん』と言うものもある。『あのー』であるとか『すんません』という呼びかけだけ話を済ませてしまう横着者もいれば、かしこまって『大井さん』と姓を呼ぶものもいる。
いずれにしたところで言えることは、小さな居酒屋は女主人がいるからこそなんとか利益を出してもっているということ。ほかの人間ではなかなかに続いていないのではないか。
「む。まだやってっか……」
地下の居酒屋に通じる地下への入り口。
ショートヘアの少女はぼそりと言った。
半そでの白のブラウスにルチルクオーツのチョーカー。ワインレッドのキュロットにバスケットシューズ。どことなく不遜な態度の少女は空を見上げる。七月の夜空。新橋のネオンの明かりにかき消されて夏の星は見て取ることができない。
「腹減ったな……」
小生意気な娘は頷くと地価に降りていく。ファストフードのハンバーガーでもなければ、コーヒーショップのサンドイッチでもない。少女の胃に一番なじむのは冴えない地下の居酒屋で出される残り物。そういう意味では『いかにもお安い女』。けれど、胃袋が安物でも志まで安いというわけではない。何といってもこの娘ときたら……。
「う……」
階段を下りきって、さらにその突き当たり。金曜午後十時半の雑居ビルで、明かりがついているのは最奥の居酒屋だけ。僅かにあいた扉の向こうからは明かりと一緒に、谷村有美の曲が聞こえてくる。曲だけではない。男の声――。
「まだ客がいやがんのか。早く帰れっつーの」
小娘は歯を剥いて怒った。
「……いやー、そこがオタクの浅はかなところなんだよ!」
調子の良い軽薄男の騒ぐ声。どうも粘っている客は一人のようである。少女は不機嫌な顔のまま居酒屋の扉を押した。カウンター席だけの小さな店。ちなみに本日のお勧めはスズキ、であるらしい。ホワイトボードにはそのようなことが書かれている。
「ういー」
不遜な娘は中年男のように呻き、カウンターの中にいた美人の主人が顔をあげた。
「ああ……来たわね」
色白の美人はちょっと複雑なニュアンスの笑みでもってその日最後のお客を迎えた。それは、親類だけに分かる微妙な表情。そしてカウンター席には……。
「オタクなんて向上心もなけりゃ、成長する意欲もない、ただ搾取されるだけの馬鹿なんだよねー」
年の頃は三十ぐらい、だろうか。髪の毛を撫で付けた背の高い男。白のインナーはわざとだろう、上から二つボタンを外している。胸元には金のネックレス。壁にかかっている男のスーツはイタリア製。金の時計はブルガリか。良い男、である。良い男、であるのだが、いかにもちゃらちゃらしている。カタギでは当然ありえない。ホスト崩れであるか。
「いや、だからね、弘子さん……」
ホスト崩れはどうもだいぶ酔っているようである。だが、カウンターの上にはビールと枝豆があるきり。あるいはどこかで飲んできたあとなのか。
「……腹減った」
少女はちゃらちゃらしたホストを無視して、カウンター奥に座った。
「あれ、弘子さん、この子は?」
女と見れば八十過ぎのババアにだって食いついてくる。不自然に肌を焼きすぎたホストに、不遜な娘は冷徹な視線を送る。
「丸山花世。ま、妹みたいなもんね」
「ふーん。花世ちゃんか……」
ホスト……よく見ると田舎者臭のする若い男のことを倣岸な娘は相手にしない。
「弘子さんとは似てないね」
余計なお世話だ馬鹿……とは少女は言わなかった。
「アネキ、腹減った……なんかくれ……」
少女のリクエストに店の主人はすぐに応じる。あまりもの麦飯に自然薯。それからアナゴの天ぷらの切れ端。自家製のキュウリの漬物にはとろろ昆布。野良猫のような小娘には十分な量のご馳走である。
「あー、こりゃいいね……うまい……」
丸山花世はホストが自分のことを見ていることを知っているが、気にしない。完全な黙殺である。
「ふーん。花世ちゃんは女子高生?」
「……」
返答はせずに憎悪交じりのひとにらみ。言いたいことがあるならば、食ってからにしろ。食ってからあとでも話を聞いてやるとは限らんが。だが、少女の嫌な視線にホストは特にこたえた様子も見せない。この痴れ者、どんな女も最後は自分の魅力に跪くと、そのように信じているフシがある。
「あのさー、女子高生だったら、分かるかもしれないんだけれど、ケータイ小説って、あれ、どーなの? 花世ちゃん、君もやっぱり読んでるの?」
男はいかにも馴れ馴れしい。そこが少女には鼻につく。
「ケータイ小説だよ……ほら、よく見かける……」
ケータイ小説。
そういう話題を持ってくるということは……この男も業界人なのか。
地下にある居酒屋。同時にそこは作家であるとか編集といった業界人の秘密のアジト。ホスト崩れのチンピラは続ける。
「いやさ、弘子さん、オレ、今、ケータイ小説についての新書書いてんだけれど、なんかすぐレイプとか、妊娠とか、ドラッグとか……あんなゴミみたいなの読んでる女子高生ってちょっと馬鹿なんじゃないかと思うわけよ」
丸山花世は複雑な顔をしている。時々いるのだ。他人に感情があるということも分からないし、相手に喜怒哀楽があるということも分からない人物。日の暮れかかった公園でガンダムのプラモデルを片手に延々と取り遊びをしている子供のような人間。ただういう手合い、自分の痛みにだけはひどく敏感。
――この野郎、どうにもならないクズだな。
相手に『女子高生?』と尋ねておきながら、近頃の女子高生を馬鹿呼ばわり。
「ああ、まあ、新書って言っても、きちんとした権威のあるところじゃないからさ。大きなところとか、学術書やってるところとかだと結構編集も厳しくてさ、いろいろとくだらねぇツッコミ入れてきたりするんだよ。たいして儲かってもいねーくせしやがって。けど、今、やってるところは編集も馬鹿で楽なとこなんだよ。テキトーにネットで調べたことを切り貼りして、キロバイトの目方さえあえばギャラだけはいくらでも引っ張ってこられる。楽な仕事だぜ。ま、そういうことができるのもオレが『香田哲』っていう看板背負ってるからだけど。名声ってやっぱり大事? 大事だよねー、名声は!」
ホスト崩れの酔いどれは業界人ぶって喚いた。香田哲。ゴロツキは、自分の名前に大変な自信と自負心をもっているようである。
「あぁ、あのさー、花世ちゃん、知ってる、オタクの教祖。オタクの教祖『香田哲』様!」
そして丸山花世はそこでついに激発した。
「知らねぇよッ!」
少女は箸を握った拳でカウンターを叩いて激昂する。
「知らねーッ! っつーか、人が飯食ってる時にちゃあちゃあぱあぱあうるせーんだよ! 酔ってりゃ何しても赦されっと思ったら大間違いぞ、てめーッ!」
まさに怒髪天衝く大激怒である。香田哲は少女の全力の猛反撃に一瞬沈黙する。案外、この男、心が弱い。
「あ、ああ、な、なんだ、なんだよ、急に……オ、オレは香田哲、オタクの神様、オタクの教祖香田哲なんだぞ!」
酔っ払いは怯んでぶつぶつと言い、そこで、丸山花世ははたと何かを思いついたようである。
「香田……香田哲?」
どこかで聞いたことがある名前。
「……香田、か」
妹分の様子を店の主は面白そうに眺めている。
「そういや、そういう奴のことを聞いたことあんな……香田。うん」
丸山花世の態度の変化にホスト野郎は反撃の糸口を見出したようである。虚名は虚名であるけれどパワーでもあるのだ。
「なんかオタクを集めて変なイベントやってる奴だよね。童貞教団とかいう奴」
少女の態度にホスト崩れは息を吹き返す。
「なんだ、なんだ、花世ちゃん、知ってるんじゃん、オレのこと! やっぱ、オレってユーメー人?」
童貞教団。若いオタクを集めて各地でイベントを開いているおかしな連中。アニメが好きエロゲーが好き、マンガが、ライトノベルが好き。そして何よりも本当は女が大好き! でも女は彼らのことが大嫌い。だから拗ける。拗けた人々が行きつく先。それが童貞教団。業界通の少女もそのような連中のことを知っている。だが……。
「……」
丸山花世は香田哲の顔をまじまじと見つめ……それから不思議そうに首をかしげる。
「……あんた、それ、ホントなの?」
「ホントって?」
出来損ないのホストは鸚鵡返しに訊ねた。
「だから……私、前に、香田哲の写真見たことあるよ。でも……あんたみたいな顔じゃなかった。もっと太ってて……うん。もっと、変な奴で、見るからにオタクだったよ」
興味がわけば誰にでも食い込んでいく。丸山花世はそういう人物。好き嫌いよりも好奇心のほうが優先されるのだ。
「うん。もっと……そう、普通のオタクだったな。童貞教団の教祖って奴は。少なくとも、あんたみたいな木更津のホストみたいな顔はしてなかった……」
丸山花世は胡散臭そうにホストを見やり、それから、店の主のほうを眺め、それからもう一度香田哲を見て、ずばりと言った。
「あんた、ホントに香田哲? あんたが香田哲なら、あの写真の奴は誰?」
「ああ……なんだ、デクのことか」
香田哲は軽蔑したようにして言った。吐く息がいかにも酒臭い。
「デク? デクって何よ?」
ホスト崩れの酔っ払いは薄く笑って続ける。
「木偶。あいつは、イベント用にオレが雇ってるんだよ。ただのアルバイト」
「……」
「オタクの教祖様が、オレみたいに良い男だったら、まとまる話もまとまらねーじゃんか、なあ!オタクっていう生き物はマジにひがみ根性の塊みたいな奴らだからさ。だから、オタク連中にシンパシーの沸きそうな面したあの馬鹿をスカウトして、イベントとか、サイン会の時だけあいつを前面に押し出してるわけよ……そら」
香田哲はそう言って、名刺を出してくる。
――ライター 大村雅資
「大村……雅資? これがあんたの本名?」
「ああ。で、香田哲はオレの芸名」
「……芸名ねえ」
丸山花世は汚物を見るように大村雅資を見つめている。
「木偶も案外あれで使えるんだよ。アニメのこととかエロゲの知識は十分あるし、自己顕示欲も強い。だから、イベントとかで主役にしてやると大喜びでさ。近頃じゃ、つまんねーギャグのネタ帳までつけやがって」
香田哲には自分の身代わりの伸長に良い感情を抱いていないようである。
「ま、勝手にやらせときゃいいんだよ。要所要所、押さえれば金は入ってくるわけだし。鵜飼の鵜みたいなもんだよ、あのデブは」
――この野郎、本気で屑だな。
丸山花世は思っている。こういう手合い、生かしておいて良いのだろうか?
「オタクから金むしるなんて簡単なことさ。いいかい、花世ちゃん、アホなオタクから金を巻き上げるにはどうしたらいいのか教えてあげるよ……」
オタクの教祖殿は酔っていることもあって舌が滑らかである。
「あいつらはさっきも言ったように、ひがみ根性の塊さ。で、何の才能もないくせにプライドだけは高い。努力はしない。けれど、結果だけは欲しがる。それが通らないとすねて喚く……」
丸山花世は嫌な顔をしている。
「女が好きで好きでしかたがないのに、手が出せない。性欲は人一倍。けれど女に声かけることはしねえ。良い服着て、グッズに金かけりゃ女なんかいくらでも向こうから寄ってくる。そんなこともわかんねーのさ」
そういうことを女である丸山花世であるとか店の主人の前で平気でするデリカシーのなさ。丸山花世は思っている。
――こいつは本日中に東京湾に沈めてやったほうが世のためだな……。
けれど。
丸山花世はこうも思っている。
――バラすのは、全てを吐かせてからだ。
どうせならば、そのオタクから金をむしる方法って奴をご教示いただこうではないか。シメてコンクリ詰めにするのはその後だ!
「そういう半端な奴らから金をむしるにはどうするか。それは簡単。『オレはおまえらと同じだ』ってことを言ってやればいいのさ」
「オレはおまえらと同じ?」
丸山花世の言葉に酔っ払いは気をよくしている。
「ああ、そうさ! オレはおまえらと一緒。おまえらと一緒で、女にもてない。女に相手にされない。悔しい! 悔しくて悔しくて仕方がない! 悪いのは女だ! 女なんだ! そうやってネットで、コラムで、著書の中で2ちゃんねる用語を駆使して何度も繰り返して主張する! ぷぎゃー!とか言ってな。何がぷぎゃー!だよな」
「……」
丸山花世はじっとりとした眼差しで大村を見やる。男はそこで不意に思い出したようにして言った。
「ああ、一応言っとくけど、オレは女にもてないなんてことはないからさ。あくまで、これは、キャラとしての香田哲の話?」
「どっちでもおんなじじゃねーの? あんたのことを本心から愛することができる奴なんてこの世にいないでしょうよ」
女子高生の言葉を大村は聞いていない。酒に酔っているからではない。そうではなくて、自分に酔っている。演技性の人格障害、とでも言うべきか。
「とにかく、オレはもてない。おまえらと一緒だ。オレはお前らと一緒で悲惨なんだ! そうやってアピールするわけよ。そうすれば連中は食いついてくる。馬鹿だから。ただし、ここで注意点!」
「……」
丸山花世は気の狂った三文役者のことを、汚物を見るような目で見ている。
「自分の悲惨さをアピールするときは、ネガティブなキーワードは使わない。オタクは心がガラスみたいにナイーブだからさ。『子供の頃いじめられました』とか『みんなに嫌われてました』みたいな表現はNGなのよ。『いじめられました』ってオレが著作の中で語っても、連中は共感しないわけよ。『香田哲はいじめられたかもしれないけど、俺のはいじめではなかった』とか、『香田哲は嫌われていたかもしれないけれどオレは違う』とか、あいつら、勝手に都合よく自分の過去とか記憶を書き換えやがるからさ」
「……」
丸山花世はアネキ分のほうを見やった。店の女主人は知らん顔で片づけを始めている。そろそろ店じまい、であろう。
「何度も言うけど、プライドばっかり高いからさ。オタクは。だから、『いじめられてました』とか『嫌われていた』みたいな、そいつに一ミリでも落ち度があったかもしれないみたいな表現は使わないのよ」
それにしても。オタクだっていろいろいるだろうに。女性に好かれるオタクだっているし、そうでない奴もいる。オタクをひとくくりにして馬鹿呼ばわりするのは、それはぞんざいに過ぎるのではないのか。丸山花世はそのようなことを思っている。
「いじめられていたけれど、認めたくない。認めない。まごうことなき百パーセントのいじめられっ子のダニ野郎だっていうのに。厄介なもんだぜ、プライドって奴は」
屑野郎はにやにや笑っている。
「ふーん。でもさ、あんた、『いじめられてた』って表現しないで、実態をどう表現すんのよ」
少女は尋ね、男はこたえる。
「つまり……『いじめられていた』だったら『迫害されていた』とか。『嫌われていた』だったら『周囲の無理解』。そうやって、自分に落ち度はまったくなく、全て、外、自分以外の誰かに原因があったって、そういう表現を使うんだよ。『自分は被害者。自分は悪くない』それどころかむしろ『自分は高貴で優秀な人間だ』ってな。『高貴ゆえに迫害される!』そうすれば、オタクは『ああ、香田さまは僕ちゃんとまったく同じ環境で育ったんだ、つらいのは僕ちゃんだけじゃなかったんだ! 僕ちゃんは高貴だから迫害されていたんだ!』ってそう思ってくれるわけよ。アホだよな。淋しいのはテメーだけなのに」
「……」
丸山花世は苦い顔をしている。
「で、そうやって、連中の痛みが分かる人物を演じられれば第一段階は大成功」
酔っ払いは高説を垂れ続ける。
「そうやって連中の心に入り込んだら今度は連中のやっていることを思いっきり称揚してやる。アニメを見るのはサイコー! エロゲー最高! おまえらのやってることサイコー!」
「……」
「ま、ただ、褒めてやってもなんだから、歴史的な背景とか文化な解説をつけて賞賛してやればさらにいいわけよ。連中、結局は権威主義者だからさ。自分よりも強いものと一体になりたいわけよ!で、『アニメは古くから日本に伝わる浮世絵の流れに乗ったきわめて文化的な価値の高いものである』とか『海外では日本のアニメは大人気だ』とか言って。だから、それを愛好しているおまえらこそはサイコーの日本人だとか。そうやって、奴らのプライドをくすぐってやる。そうすれば、連中、オレのことを大好きになってくれるわけ。で、どうでもいいゴミみたいなオレの本、いくらでも買ってくれる」
得意げな痴れ者に丸山花世は苦虫を噛み潰している。少女が拳を振り上げないのは、目の前にいる男が、自分が携わるものを『ゴミ』と認識しているらしいからである。
男は確かに知っているのだ。自分が作っているものがゴミであると。
オタクに対する背信。だが、作品の神様に対する背信ではない。そのような人間は……まあ、薄汚い相手であるが、時間にして五、六分ぐらいの執行猶予ぐらいはつけてやってもいいのではないか。と、大村は得意げに言った。
「な、馬鹿だと思うだろ、花世ちゃん、童貞オタクって?」
「……あんた、いつかオタクに刺されるよ」
丸山花世は呻き、大村雅資は汚い歯を見せて笑った。
「なんだよ、ネタだぜ? 2ちゃんねると一緒。ネタにマジに熱くなって、どうすんだよ」
「ネタ……ねえ」
丸山花世は苦い顔をしている。
何でもかんでもネタ。愚弄してもネタ。嘲笑してもネタ。虚偽でもネタ。
「でもさー、いろいろと事件とかも起こってるわけじゃんか、実際。殺したり、殺されたりって。ダンプで歩行者天国に突っ込んだり……」
ネタは……ネタで済まない。冗談だったら何もかもが許されないのと同じ。
「花世ちゃん、オレのこと心配してくれてんの? ありがたいねー! オレってやっぱりモテモテ?」
少女は何も言わない。馬鹿馬鹿しくなっているということもあるが、それよりもいろいろと考えることがあるのだ。
ネタ。全てはネタ。
語るほうも聞くほうもネタ。ネタネタネタ。でもそれは予防線。本当の気持をいつも隠している。突っ込まれることに怯え、揚げ足を取られることに恐怖する。そのための必死の予防線。それがネタというキーワードであるように丸山花世には思われる。掲示板ですら本当の気持ちを言うことはできない。いつも腕組みして、自分の本心は何重にもロックをかけておく。いつもいつも曲げる。他人に対しても、自分に対しても想いを曲げる。
そういう人間が……真実を語ることはあるのか。
少なくとも丸山花世の前にいる人間は今までの人生で一度も真実を語っていないのに違いない。
「それにさ、刺されるのは木偶、だろ? みんなあいつのことを本物の香田哲だと思ってるわけだし。そのためにあいつを雇ってんだけどさ。頃合来たら切り捨てて『はい、さよなら』さ。あいつも、ここのところ、自分ひとりでできるみてーなこと言ってるし、ちょっとシメてやんねーといけねーよな、あのデブ」
大村は顔を歪めた。育ちの悪さというものはやはり隠せないようである。
「結局はアホなんだよな。オタクって。ペンネーム使って、素性も分からない奴のことを『この人は真実を言ってる』とか簡単に信じていくらでも金を貢いでくれる。オレなら信じねーけどな。本名も経歴もはっきりしない奴の言うことなんか。ま、世の中、馬鹿が多いからうまく回ってんだけど。オレもあいつらのおかげで今や、立派な作家さまの仲間入りだしさ。次はアニメ化か? それとも映画化? ははは!」
「あのねー……」
丸山花世は珍しく頭を抱えている。作家などという肩書きはいい加減な人間が名乗って良いものではない。少女には少女の理屈がある。もちろんそのことを大村は知らない。
「作家なんて……ズルした人間がなれるようなもんじゃないんじゃないの?」
少女の侮蔑に、大村は冷笑する。
「それが、そうでもないんだなー。今の編集、手が縮んだ奴が多いからさ」
「……」
「あれ、花世ちゃんも、もしかしたら編集って物事分かった立派な人だと思ってる? だとしたらとんでもないことだぜ」
大村は丸山花世の素性を知らない。だから、上から目線での講義になる。
「作品の内容理解できてる編集なんてそう何人もいないさ。売れる作品なんて誰もわかってねーんだよ。誰も! どの原稿が売れるか、どの作品が当たるかなんか、誰もわかってねーのさ。っていうか、何が面白いのかも分かってねぇ」
「……」
「もちろん分かってる人間はいるぜ。そういうのは、オレが書いたライトノベルもどきとかがゴミだって見抜きやがる。でも、そうでない奴も結構いるのさ。人事異動でビジュアル雑誌から左遷されてきた奴とかさ。連中、保身しか考えてねーから。そういうときに役に立つのが虚名って奴なわけよ! オタクの神様、童貞教団教祖の香田哲さま! 編集としてもさ、能力はあるけど無名な奴よりも、能力はカスでも高名な人間を使いたがるのよ!」
「……」
おかしな奴だが……おかしな奴だが、香田哲は自分が『カス』だということは分かっているのか。それはそれで気の毒なこと。
――誰かこのあんちゃん、止めてやったほうがよくねーか?
軽蔑から憐憫へ。丸山花世の心境も微妙に変化している。
「だってそうだろ? 香田哲には信者がついているわけでさ。パクり……ああ、普通はオマージュって言うんだけど、売れてる作品とかアニメのまんま引き写しでも、香田哲が書いたと言えば、信者はいくらでもお布施してくれるわけじゃん? 実際オレの本、書店で初速だけは速いからさ。入ったら信者がまとめ買い。ま、後続かないけど」
「……」
自慢しいなのか自虐的なのか。丸山花世は計算高いホストのことをじっと見ている。
「編集の奴らは『今、オタクの世界で大人気』とか『ネットの世界で話題沸騰』とかって弱いのよ。特に年齢の高い、ネットとかオタクのことがよく分かってない編集ほど『ネットの世界で大人気』って言葉に弱過ぎ。そういう奴らは、企画売るよりも、コケた時の言い訳をまず気に考えてんのよ。自分で新人拾ってきて新企画を任せるなんてことはしねーんだよ。そんなことをすれば企画がこけたとき、その編集が全責任を負って退職金に響くからさ」
得々と語るホスト崩れを見ながら丸山花世は思っている。
ネタ。保身。
2ちゃんねるの連中もホストも編集も、実は全てが根っこの部分でつながっている。
誰も彼もが自分のポジションを守るのに必死。ミスを許さぬスタイリスト。それはそれでいいが、物事を始めようとする時、たいていの場合、最初のチャレンジは失敗するのではないか? 失敗は当たり前。笑われるのも当たり前。でもそれだから誰も開拓をしようとしない、誰も一歩を踏み出さないというのは……それは停滞というのではないのか?
版元だけではない。この国の全て、いたるところで、一歩を踏み出すことがなくなっている。全員が、である。それでいいのか? 人として。人生は一度きりなのに。
「結局、連中が求めてるのは企画じゃない。逃げ口上さ。仮に香田哲の企画がコケたとしても『ネットの世界では大人気だということだったんですが、難しいですね』って取締役にも言い訳が出来るだろ? 言い訳、言い訳、言い訳! 全て言い訳! 編集長の椅子を守ることに必死! けれど、そういうところに、オレみたいな人間が付け入る隙があるってわけよ!」
大村はうれしそうに語った。
「テキトーにゴマすって、褒めちぎって、靴の底までなめてやる。そうすりゃ編集なんていくらでも丸め込めるってもんさ!」
ネタと予防線を張る男が、他人の言い訳を笑って食い物にする。否。相手の弱さが分かっているから食い物にできるのか。
「虚名っていうのは恐ろしいねー! ホント恐ろしい! いやー、ははは!」
大村は乾いた笑いを作った。丸山花世は笑っているホストをじっと見て、それからちょっと疲れたように言った。
「まあ、そりゃそれでいーけどさー、あんた、そんなの長く続かんでしょうが……」
虚名はパワー。けれど、丸山花世は知っている。虚名は実力の前には無意味。
「そんな、オタク食いものにして金集めて、脇の甘い編集だまくらかしたところで……ねえ、あんた……」
丸山花世は首の後ろを掻きながら続ける。
「だいたい、そうやって集めたオタクの人たち、これからどうすんのよ。あんたがアジって集めたわけでしょう? あんたを信じて集まってきた信者連にちっとは愛着とかってないの?」
「あるわけねぇじゃん、あんなキモイ連中」
ホストは嘲るように笑った。
「でもさー。そのキモイ連中があんたのカス作品、買ってるわけでしょ? そいつらのおかげであんた、威張ってられるわけじゃんか。連中がいて、今のあんたが成り立つ。オタクさまさまじゃないの?」
「けっ、何がオタクさまさまだよ。木偶もそうだけど、あいつらときたらロバみたいに頭が固いし、自分の理想から少しでも外れるとぶんとむくれやがるしさ。正直、扱い辛ぇんだよ。あんな連中と付き合わざるを得ないオレの身にもなってみろよ。だいたい、近寄ると臭ぇしよ!」
「あんたねー……」
丸山花世はすでに怒る元気もなくなっている。あまりにも相手がおかしいと怒る気力も失せるというもの。一方、香田哲こと大村雅資は両手を組んで思案顔である。
「そろそろ、進歩のねえオタク共も切り時だよな。あんな連中にいつまでも付き合ってたら、こっちの人生計画も狂っちまう」
「人生計画?」
「もっと上。もっと上だぜ。もっとビッグになるのさ。オタクから金を巻き上げるのはその第一歩さ」
「ふーん……」
丸山花世は同情するように相槌を打った。一方で、物見高い小娘は、香田哲の次の一手に関心がないわけではないのだ。
「で、どうすんのよ、ビッグになるって。第一歩はいいから、次の二歩目は? なんか、方策ってあんの?」
「……」
香田哲は石仏のようなおかしな表情になった。
「プロジェクトとか、なんか方針とか、そういうのってないの? ビッグになるんでしょ?」
「……」
「ないの?」
「いや、まあ……それは……そうだな……そうだ! ケータイ小説でも書くかな?」
「……」
いかにもテキトー。いかにも行き当たり場当たり。
「そうだ。そうするべ! あれ、書くの簡単だしさ! そう、そうだよ!」
ノリで生きている大村。まるで禽獣である。
「……あんた、そんなで、ホントにいいのかよ」
丸山花世は呟いた。
そんな思いつきで本当にいいのか?
「だって、あんた、さっき、『あんなゴミみたいなの』って言ってたじゃんよ。簡単に宗旨変えんなっつーの」
「いいんだよ! 大丈夫大丈夫! どうせレイプとかドラッグとか、妊娠とか、そういうの書いときゃいいんだからよ! ああ、そうだ! そうするべ! それだ、それ行こう!」
「大丈夫って、あのさー、あんたの何が大丈夫なのよ? ってか携帯の小説ってもうだいぶ前に下火で……」
「新書書くのにいろいろと資料、パクってるし……『タスケテー』とか『ボコッ!』とか『ヒー』とかそういうのを書き連ねればいいだけじゃん、結局は! 女子高生なんて馬鹿だから、それでいいんだよ。そうだ、知り合いにサイトをやってる奴もいるし……よっしゃ、それで行こう! で、女子高生、食いまくっちゃうぜー!」
ホストは一人で意気軒昂である。
「考えみりゃ、オレみたいなイケメンが小汚えオタク相手の商売すること自体がおかしいんだよな! やっぱ時代は女子高生だぜ! 圧倒的な女子高生の支持? で、大手版元で書籍化プラステレビドラマ化! ついでに映画化! 脚本兼監督兼プロデューサー? 億の金? 女優を愛人にしちゃったり? 来た来た来た! 来ましたよー! 時代! まさに時代だ!」
「どうでもいいけど、あんた、もう少し自分の足元見たほうが良いと思うよ」
目の前にいる女子高生にすら大いに軽蔑されるような男が、圧倒的な女子高生の支持を得られるとはとても思われないのだが。未来に希望を見出したホスト崩れはしかし、丸山花世の言葉をほとんど聞いていない。今、彼の頭の中にあるのは数十人の女子高生をはべらし、美人女優を愛人に囲う自分の姿。結局、オタクの教祖は非常に女好きであるのだ。と、いうかそれ以外のことはどうも頭にないのか。
「ああ、善は急げだ! とにかく企画書を作らないと!」
香田哲は大いに興奮し、かつ希望に燃えて叫んだ。こんなところで油を売っている場合ではない。
「花世ちゃん、君のおかげでオレの未来に光が差した! もしもよかったら、君には『香田哲に抱いてもらえるサービス券』を進呈しちゃうよ!」
「いらねーよ。そんなサービス券より、駅前で配ってるサラ金のちり紙のほうがよっぽどましだッ!」
生意気な小娘は吼えた。だが香田哲は聞いていない。
「来た来た来た! 時代だよ、時代! 行き詰っていたオタクの教祖香田哲は、今ここに脱皮を果たす! そして女子高生のカリスマ香田哲になるのだ! ああ、いや、香田哲は薄汚いイメージにまみれてるからな! そう、ここは本名大村雅資! 迷える少女達の保護者大村雅資、今、ここに見参!」
「てめー、馬鹿じゃねーの?」
相手が聞いていないことを丸山花世も分かっている。分かっているからこその罵声である。
「香田哲の名義はもういらねーやな。ああ、そうだ、どうせだから、木偶に売っちまうか。あいつにのれん代で300万。月賦で払わせるか……」
オタクの教祖は金勘定は得意のようである。
「よし! ケータイだ! ケータイ小説!」
希望に燃えたホスト崩れはそういうと立ち上がった。
「ああ、弘子さん、お会計! あと、今度温泉行きましょう!」
肌荒れの目立つホストの言葉に、店の女主人は笑っただけだった。
「支払いはカードで!」
大村は黒いカードをこれ見よがしに振り回した。いかにも田舎臭い行動が丸山花世の癇に障る。そして普通の人間と違って小娘は黙っているということがないのだ。
「おいー! 千五百円ちょっとの会計、現金で払ってけよーッ!」
少女の言葉は大村の耳には届いている。だが、耳からその先には伝わらない。気に入らないことは頭脳に入ってこない。大村という男の頭蓋骨は実に便利に作られている。
「じゃ! 花世ちゃんも、オレに抱かれたくなったらいつでも来てくれ! 待ってるぜ?」
大村はスーツを着ながらそう言い、少女は露骨に嫌な顔をして反撃する。
「待つな! てめーの相手すんなら豚相手のほうがましだっつーの!」
「ま、そのうち花世ちゃんも大人の男の良さが分かるってもんさ! ふひひひひ!」
チンピラホストは薄汚いウインクをひとつ残して店から出て行った。
まさに……小汚い台風一過、であった。
「なんだい、ありゃ。アネキ、塩、撒いとく?」
丸山花世は苦い顔のまま言った。
「業界人ってほんと、ろくなのいねーよな……」
「ま、そんなもんでしょう……」
女主人は笑っている。
「あんな馬鹿、出入り禁止にしよう! 千五百円しか使わねーなんて……何が教祖だ。ケチくせーッ!」
妹は憤激しているが、主人のほうは笑っている。
「ま……そう怒らない怒らない」
「アネキも人がいいのか人格者なのか……あんな奴、さっさと店からたたき出してやりゃ良かったのに」
「でも面白かったでしょ?」
「不愉快なだけじゃんか」
女主人はただ微笑むばかり。一方、丸山花世は嫌な顔ままである。
「近頃の若いのはどうにもならんよなー。楽して金儲けようとするから。ちゃんとまじめにやれっつーの。ねずみ講みたいなことばっかり考えやがって……」
「今の人、私より年上よ」
衝撃的な発言であった。
「え? あのチンピラ……アネキより年上なの?」
「そうよ。もう四十」
「えーッ? 今の偽オタク教祖、四十なの? 全然苦労が身になってねーじゃんかッ! あいつ今までいったい何やってんだよ!」
「結婚して、離婚して……子供もいて」
「子供までいんのかよ?」
丸山花世は目を剥いた。あんな父親、子供の立場から言わせてもらえれば死んでくれていたほうがよほどありがたい!
「岡島さんが言ってたけれど、二人もお子さんいるんですって」
「それで女子高生食いまくりとか言ってんのかよ! 頭悪ぃなー」
小娘は疲れ果てたようにため息をついた。
「なんか、ゲームとか雑誌とか……四十ぐらいの業界人ってホント、ロクなのいねーよなあ」
丸山花世は言いながら、四十男が残して行った食器の類をカウンターに戻して寄越す。ガチャガチャとビールのグラスが音を立てている。
「ひとかどの人物になってなきゃいけないのにね。でも、そういう人はごく僅か」
女主人は丸山花世ほど他人に厳しくないので穏やかに洗物をしている。
「何がケータイ小説だよ……」
「そうね」
女主人は言った。大人になりきれないままに早四十。不惑というにしてはあまりにも惑い過ぎる。オタクを侮り、オタクを食い物にしてなり上がりの道を探る。ビッグになると言っていたが、多分、その道を歩いていたのでは一生ビッグにはなれない。
埋もれ木が必死に狂い咲き。そのたどり着いた先がオタクの教祖。
信じるほうも信じさせるほうも……救われないし報われない。全ては落ち葉の下の話。
「でも、もしかしたらケータイ小説で、本当にビッグになるかもしれないわよ、大村さん」
「アネキ、思ってないこと言わないほうが良いよ。ほかの連中は騙せても、私は分かってっからさ。繰り返すけどもう下火じゃんか。ケータイ小説なんて」
丸山花世は言いながらきゅうりの漬物を口に放り込んだ。
「あれは無理だと思うよ。だいたい一番大事な作品作る能力がないわけじゃんか。引き出しも少なそうだし。絵が描けない絵描きと同じで、そんな奴、長く続かねーよ」
「……」
「だいたいさー……ケータイの小説見てた子って、お金がいらないから見てるんだよ。金出してまで見る価値ないっていうか」
本当であれば、それは大村が参考にするべき話。だが、肝心の大村はそこにはいないのだ。
「金がいらないから見てた。そんな程度のもんだって、みんな知ってる。大村が思うほどみんな馬鹿じゃない。っつーか、むしろあのチンピラが一番馬鹿なんだよ」
「……」
女主人は妹分の話を聞いている。それはしばしば起こることであるが、話している少女自身は自分の言葉の価値を知らないのだ。その価値を見出すのはいつも姉。
「ケータイ小説はタダだからみんなに支持されてた?」
女主人は合いの手を入れるようにして言った。丸山花世は応じる。
「うん……いや、それだけじゃない。大事なことは……そだね、そこに偉い編集とか立派な版元が介在してないってことかな?」
「どういう意味?」
女主人は大村と話しているときよりもずっと楽しそうである。
「みんなさ……ケータイ小説読んでる子たちは、自分が底辺にいて、そこから抜け出せないってこと、わかってんだよ。どんなにやってもうまくいかない。人生が明るく幸せに、セレブになんかなれないこと、知ってる。せいぜいキャバクラで働いて安い女になるしかないとかさ」
丸山花世はちょっと憂鬱な表情を作った。
「そういう子がさ……まあ、私も安い女だけど、大卒で年収一千万とか二千万とかもらってる大手の版元に勤めてる人とか、そういう連中が作ってる商品をどう思うかってことなんだよね」
「……」
「自分には縁の無い連中が、雲の高みから商品とか製品を撒くわけよ。てめーら、これでも食いやがれって……それって、与えられる側からすると哀しいことなんだよね」
丸山花世はおしゃべりを続ける。
「……私らは池の鯉なんかじゃない。上から目線の相手から娯楽を撒いていただく。そんな娯楽には誰も食いつかないと思うんよ」
「そうね」
「版元の人の側ももそれなりにいろいろと難しいこととかあんのよ。別に金持ってりゃ幸せってわけじゃないし。それは私も知ってる。いろいろとこの店に来る人見てっからさ。けれど、やっぱりケータイ小説読んでる子とかからすると特権階級なんだよね、大手の編集とかって。で、ケータイの小説を読んでる子とそういう彼女たちが『お偉い』と思っている編集とかテレビとかの業界人との接点って働いている風俗の店しかない。風俗のお客が撒いてくれる作品、そんなもの、読みたいと思う子、いるかね?」
「そうね」
「娯楽ってさ……結局卑賤の仕事だと思うんだよね。そうでないと楽しめない。芸能とか美術って、それに携わる人は、一段低い人でないと成り立たないんだと思う。差別の良し悪しとかの話は今は抜きだよ。歌舞伎でも能でも、携わっていた人たちはいつだって身分の低い人。お金持ちの余技は、嫉妬心を刺激するだけでつまらないから。アニメの人たちの労働条件が過酷だとかみんな言うけど……だったら、アニメーターが一億の収入あったら、みんな、そんな作品見るのかな。多分、こんなにはみんなに見られないと思う……自分たちよりも低い立場にある人間が作ったものしか愛せない。ユーザーとかプレイヤー、読者って偽善なんだよ。っていうか、人間みんなそんなもんか」
「……」
「変な話……本当に娯楽を提供しているのは、大手の編集の人たちが『安い』って笑っている女の子たちなんだよ。ケータイ小説読んでる子たちが娯楽を提供する側で、実際風俗とかでそうしている。編集の人やゲームの人たちって、本質的には『娯楽サービスを受ける側』なんだよ。何かが、だから、何かが狂ってるんだ。でも、何が狂ってるのか、私にはよく分からない」
丸山花世は意識をしないで話をしている。意識をしないで真実を語る。だから、まわりから浮く。もっとも本人はそのことで気落ちすることもない。
「で、結局大手の版元は『売れてるから』っていうことで胡散臭い業界ゴロからケータイ小説の権利を吹っかけられるってことだよね。『ネットで評判だから』ってそれだけの理由でどうでもいいたいして売れない作品に大枚をはたく。高値掴みだよね。大学出のリーマンは大村の上を行く海千山千には勝てないよ」
大村はサラリーマン編集の弱さを見抜いていた。あの程度の人物でもできることなのだから、老獪な業界ゴロには脇の甘い会社は草刈場でしかないだろう。それが良いことなのか悪いことなのかは、丸山花世には分からないが。
「同人のエロゲーもそう。女がケータイなら男はエロ同人。作っている人は何の保証も無い、学歴も血統の裏打ちも無い。そういう何にも持ってない人間が作っているものしかユーザーって信じられない。っていうか、それは、大手の版元とかテレビ局の人間がこれまであんまりにも思いあがって好き勝手をやってきたからなのかな。どっちが先かよく分からないけど……」
「花世。そこまで分かっているならば、質問。これから……これからはどうなるのかしら?」
店の主は楽しそうに訊ねる。
質問をしていて楽しい相手というものがあるのだ。同じような感覚を持ち、同じよう知識と思考。ただ若干自分とは違う考え方の持ち主。従姉妹、もといまた従姉妹同士はなんとやら……。
「これから……これからの情勢を見抜くことができれば、大村さんじゃないけど大儲けできるんじゃないかしら?」
「金には別に興味ないよ。追えば逃げるのが金だって、アネキよく言うじゃん」
「そうね」
「うん。でも……そうだね」
丸山花世は思いをめぐらせる。そして言う。
「大手って呼ばれるところ、東大卒とか、正社員が幅を利かせる会社はどこもダメだと思うなー。出版にせよ、テレビ、ゲーム。ユーザーとかより目線が下じゃないとやっぱりダメなんだと思う。手厚い福利厚生とか。そういうところは多分、その時点でもう共感してもらえないんじゃないかなー。お客はどいつもこいつもみんな気が立ってっからさ……いっそ、小説もゲームもみんな、刑務所の中で囚人に作らせたらどうかな。結構、客つくと思うよ。脱獄のゲームとか……」
丸山花世はつまらなそうに言い、そして、そこで女主人は最後のグラスを洗い終えた。無駄話はおしまい。
そこからが大井弘子の本題。
「花世、暇なようだったら仕事、一緒にやってみる?」
女主人タオルで手を拭きながら妹に言った。唐突な、とても突然な誘い。
けれど小娘は慌てない。もう長い付き合いであるので、アネキ分がどういう人物かは分かっている。
「……どういう仕事?」
「ちょっと話が長くなるから。場所を変えましょうか」
女主人は言った。
毎度のことなのだが厄介で騒々しい仕事が始まろうとしている――。
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