第36話 クリア後のおまけ

 紫苑はとあるベンチに座っていた。休日であるため遠くから子どもの歓声が聞こえるが、彼のいるところはちょうど人気の無い位置だった。そのため、そんな所で堂々とフルフェイスのヘルメットを両手で抱えていても、好奇の視線は寄ってこない。

 まるでボールでも扱うかのようにそのヘルメットを弄んでいると、やがて一人の少年が彼の前に立った。

 首の無い子どもだった。

 やたらつま先のツヤツヤした靴は若干地面から浮き上がり、幼くふっくらとしているが血の気の失せた指先が、糸が切れたかのようにだらんと垂れ下がっている。

 紫苑は彼の姿を見止めると、手にしていたヘルメットをまるでパスするかのように山なりに放り投げた。それが危ういながらも少年の胸元に収まると、彼は恐る恐るといった手付きでそのヘルメットを被る仕草をした。無いはずの頭部を包むように、ヘルメットは彼の首にぴたりと嵌る。


「口利ける?」

「うん」


 首は揺れるが、ヘルメットが落ちる様子はなかった。

 舞夜が被っていた女性用のヘルメットだが、まあ乗り物に乗せるわけでもないし些細なことは別にいいだろう。


「人の生首じゃないけど、これで勘弁しなよ? 高かったんだからさぁ」


 少年はペタペタと両手全体でヘルメットの表面に触れてから、やがて不恰好に頭を一度下げた。


「で。僕のゲームの操作、逃げ出したくなるくらい下手くそだった?」

「えっ、あっ…………ちょっと、苦手そうな感じ……」

「あっそ。あのゲームから離れた今、どんな気持ち?」

「……ボク、ずっと、ゲーム…したくて。折角予約して、パパと買いにいったから、ずっとゲームに引っ付いて……。でも、そうじゃなくて、パパと一緒に遊ぶの、が、一番の、楽しみで。久しぶり、に、遊べるって言ってて……。でも、ボク……」


 そんなことも分かんなくなってて。と俯く少年。


「それに気付けないからこそ死人だよ。我に返ってよかったじゃん。いや、ほんと」


 少年は頭を抑えたままかすかに頷く。


「ぼ、く、パパにあいたい」

「…………」


 紫苑は唇にばかり笑みを浮かべたまま、ほんの一時黙ってその子どもを見下ろしていた。やがてポケットから一枚の紙切れを取り出した。

 開けば父親の、息子を想った言葉がつらつらと書き写されている。


「ほら、手紙。君のパパが言ってたことを書いただけだけどさ」


 よく分かっていなさそうな顔。


「君のパパは向こうで待ってるよ」


 読んでやろうかという紫苑の申し出を断った。後で一緒に読むらしい。

 子どもは恐らく、彼の出来うる限りに丁寧かつ慎重な動作で、その手紙をズボンのポケットにしまった。


「ありがとうございました」

「どーいたしまして。じゃあね。――あ、待って。最後にちょっと振り返ってみてくれる?」


 少年は言われるがまま、振り返ってみせた。そこにはなんの変哲もない景色が広がっている。

 彼は若干きょとんとしながらも、紫苑が何を伝えようとしているのかと、そのまま視界を彷徨わせる。

 そんな素直な彼の、低い位置にある後頭部を追うように、紫苑はゆっくり手を伸ばす――。


「わっ」


 ぺしり、と軽くヘルメットをはたかれて、少年は声をあげた。

 慌てて振り返ると、紫苑は声を立てずに笑っていた。


「冗談だよ」

「えっ? えーっ」


 不満げに、というよりも困惑したように声をあげる少年をよそに、紫苑は相変わらず笑っている。

 そうして呆気に取られるのも束の間、


「……?」


 少年はふと、再び背後を振り返った。

 二度見たところで、やはりおかしな点は見当たらない。自分の気を惹いた『何か』が何かも、結局はよく分からなくて。

 彼はしばらくそのまま、何もない虚空を眺めていたが、やがておずおずと紫苑の顔を窺った。彼はもう笑ってはおらず、不思議と静かな表情をしていた。


「……君、父親は好きかい?」

「うん」

「そうか。なら早く会いにいかないとね」

「うん! ばいばい。あの、ありがとうございます」


 紫苑が片手をおざなりに振ってやると、少年はあっさりと消えてしまった。

 彼がどこへ行ったのか、紫苑は知らない。

 『向こう』なんて言ったが、あの世やそういった類のものがあるのかどうかなんて、紫苑が知るはずないのだ。

 天国も地獄も冥府も極楽も、あるいは常世も黄泉の国も、行ったこともなければ見たこともない。時おりおかしな世界がこの現実に紛れ込むこともあるが、あれだって何なのか分かったもんじゃない。そもそも紫苑は生者だ。死後の世界なんて知る必要もない。


 ただ一つ分かるのは、あの少年が、向かった先でも父親には会えていない、という事実だけだ。


「さて。よくもまあ人の頭ばっかり狙ってくれたよな?」


 紫苑は少年が消えたその背後、つまり彼自身から見て正面に話しかける。

 紫苑にはずっと見えていた。赤錆色の澱みがつくる、人型に見えなくもない四肢。その輪郭は曖昧に滲み、先ほどの少年とどことなく似た立ち姿で黙している。

 そこに、死んだ息子の安否を気遣っていた『父親』の面影は無い。


「あんたの子はもう居ないわけだけど……」


 親子で事故に遭い、それからもずっと我が子の傍にいた男。

 紫苑に頼み、言伝として手紙まで書かせてきた彼は、今ではすっかり化け物に落ちた。事故で首をなくした息子のためにと、ヒトの頭部を求めるだけの化け物に。


 こんな姿、息子には見せられない。思考は溶け、憎悪ばかりが溢れでる。彼への想いが、周りへの悪意に変わる。

 その前に――。


 他になんか言ってたっけか、と一瞬思うが、碌に覚えているはずもないのですぐに考えるのを止める。


 しかし皮肉なことだ。

 深層では父を求めていた息子は、意識を余所へと向けてしまい、その結果傍らに居続けた父親を認識できなくなり。息子を見守り続けた父親は、やがて付近の人間の首しか求められなくなる。そしてその醜悪な姿を息子には見せたくないと祈った結果、やっと真実の願いに気付いた息子は、背後の父の姿すら捉えられなくなってしまった。


 あまりにも悲劇のとんとん拍子で、その擦れ違いっぷりはいっそ喜劇的だとすら思える。


「まだ理性残ってる?」


 まともに物を考えられる状態なら、大人しく逝ってくれるだろうし、こちらとしては非常に楽なのだけれど。

 紫苑がそんな邪に怠惰な気持ちで問うと、影はその手を震わせた。


「お、」

「お?」

「お、手数、おかけしました」


 影は窮屈そうに頭を下げた。さすが親子というべきか、そのどこか不恰好な様は、あの子どもに似ていなくもない。

 それほどまでに似てしまうほど、互いの距離が近かったのだろうか。あまり生活に余裕のない、父子家庭だったと聞いているが。


「別にいいよ」

「ご迷惑、おかけしました」

「気にしてない」

「申し訳ございません」


「――ずいぶん謝り慣れてるようだけど、それは仕事で?」

「申し訳ございません、申し訳ございません……」


 久しぶり・・・・に遊べる、という、少年の言葉を思い出す。

「……」

 紫苑はふと眉根を寄せたが、しかし無言のまま、低く下げられたままの哀れな頭へ、ゆっくりと手を伸ばした。




「ただいまあ」


 と一仕事終え、くたびれて帰ってきた彰冶を出迎えたのは、妹の、どこか距離を感じさせる視線だった。


「何事?」


 珍しい彼女の態度に、ぽかんと尋ね返す。

 舞夜は二揃いの箸を握り締めたまま、彰冶の様子を窺っていたが、やがてそっと口を開いた。


「……本物?」

「えっ、俺なんか変? え、どういう意味?」


 彰冶は自らの全身を慌ただしく確認した。体をひねり、舞夜からは見えていない背後までバタバタと。

 完全に兄だった。

 舞夜はほっと肩の力を抜いた。


「なんでもない。おかえりぃー」


 安心したように相好を崩した舞夜に、彰冶もよく似た笑顔を返した。



 今日は母親の帰りが遅いため、二人での食事だ。

 舞夜が整えた食卓で、あれこれ会話しながら食事をつつく。今日は刺身だ。醤油かポン酢かと悩む彰冶を横に、舞夜はテレビのチャンネルを変えた。まだ早い時間なのでニュース番組が多い、と無言のまま確認していると、


「おっ、テレビ何する? なんもやってへんやろ? 天気予報はまだか。たぶん明日は雨やし波浪注意報がさ……おっ、これ新しい醤油やん。やっぱ刺身には醤油にワサビがいいよなぁ? でもたまにはポン酢ってのもいいんちゃうかなー、その選択肢もありやなーってさ。今日バイト先でパートの人らと喋って思ったんが、まず――」

「お兄ちゃん今日もうるさいな。あと多分ポン酢ない」

「嘘やろ」


 大袈裟に驚倒した彰冶は、素早く席を立ち冷蔵庫に向かった。

 舞夜はふと息を吐いて、味噌汁を口に運んだ。テレビではニュースキャスターの女性が、表情を陰惨に落ち込ませている。深刻なニュースの目印のようなものだ。

 あのひき逃げから一月、事件の進展は、というテロップが映る。

 父親と息子、親子二人がひき逃げにあったらしい。父親が息子を抱き締め、庇った様子があるのだが、残念なことに二人とも死亡。通行人がそれを発見し、慌てて警察に通報した。

 テレビは場面を次々に変え、彼らのことを語る。

 母親を早くに亡くし、懸命に暮らす父子家庭の二人。真面目で明るい、挨拶もよくできると周りの評判もよかった二人。そんな、ささやかながらも幸せに暮らしてきた彼らに悲劇が――。

『普段は人通りも少ないという現場ですが、今でも二人のために花を供えにきた人が――』


「ん――」


 どうやら、隣の県のようだった。

 舞夜がじっとそれに見入っていると、どこか肩を落とした彰冶がのそのそと戻ってきた。


「ああ、それ。そのニュース、ブラック企業のやつやろ」


 どこが、と目を丸くした舞夜だが、すでに彰冶の言葉の意味が分かった。

 ニュースがその後すぐに、分かり易く詳細を伝えてくれたからだ。

――どうやら死亡した父親の勤め先は、あまりよい労働環境ではなかったらしい。少年はよく一人で寂しい思いをしていたとか、真夜どころか早朝に、疲弊しきった様子で帰ってくる父親の姿があったとか。パワハラの噂があったとか。

 テレビは続々と情報を並べ連ね、ろくでもない企業を糾弾している。


 なるほど、ころころと目的対象を変える報道が、未だ一月前の事故を取り上げる原因は、その悲劇性だけではなかったらしい。


「辛いなぁ。家族のために真面目に働いて、辛い思いしてさ……。あー就活いややなー。死ぬまでモラトリアムしたい」

「そーやねぇ」


 なんてだらだらと言い合いながら、舞夜はふと、こうやって喋る相手が、死んだ少年にはいなかったのか、と思った。

 夕食は家族で、あるいは家族のうちの誰かと、というのが多い柊家だが、それがなかったら。ずっと独りだったら。きっと寂しいに違いない。

 舞夜はどことなくしんみりとして、それから心の中で、父子二人に向けて合掌した。どうか安らかに眠ってほしい。


 なんて、一月前のことだから、もう遅いかもしれないけれど。

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