第2話

    狼と旅する男



 三人の娘を五人の護衛が囲む形で一行は歩き続けた。太陽が頭上に昇り、一行は大きな樹の下で休憩して、村から持ってきた干魚や果物を食べた。いずれ、持ってきた食糧がなくなれば、その土地その土地で食べられるものを調達しなくてはならない。場合によっては、飲まず食わずで何日か過ごすことにもなるだろう。

「この先も、美味しいものが、いっぱいあるといいな」

 ノンノは、しみじみとヤマブドウの実を噛みしめた。

「安心しろよ。虫ならどこにでもいるから」

 とっくに昼食を終えていたピリカが言った。

「よしてよ!」

 ノンノは、動物なら爬虫類でも友達でいられるが、虫だけは死ぬほど苦手だった。

 休憩のあと、午後は、休みなしで歩き続けた。村を出て以来、誰にも会わない。

「魔物もいないけど、人もいない」

 イクタラが、ぼやいた。これじゃ、修行にならない。

「おーい! 誰かいませんか~?」

 ノンノの声が、大草原の彼方に消えた。地平線まで続く緑の平原で、動くものといえば風にそよぐ草の葉だけ。やがて日が西に傾いても景色は変わらなかった。単調な景色と退屈な時間。痛み出した足が、いつしか彼女たちの魔物に対する恐怖心と警戒心を鈍磨させていった。

 それでも、周囲の景色は少しずつ変わっていった。踝のあたりだった草の丈が、膝のあたりになり、腰のあたりになり、いつしか緑の壁が一行の視界をさえぎるようになった。

「なんか出そうじゃない、ここ?」

 ノンノが、なんだかうれしそうに言った。

「やめてよ。そんなこと言うの」

 イクタラの声は微かに震えていた。

「ただの草むらだよ」

 ピリカは、もたげた怖気の頭を踏みつぶした。

「そろそろ、お日さまも沈むころだよね」

 イクタラの言うとおり、太陽は、西の空のはずれで血の色にまみれていた。

 不意に先頭を行く護衛の姿が消えた。横の草むらから真っ赤な大蛇のような影が飛び出して、彼をかっさらっていったのだ。

「気をつけろ!」

 しんがりにいたロコムが叫んで、三人の少女のそばに駆けてきた。他の三人も、少女たちのそばに飛んできて、周りを囲んで盾になった。武器を構えて、正体不明の敵の襲撃に備えている。少女たちは、男たちの背中に囲まれて、身を縮めていた。

 草むらのなかから何かが飛んできて、一行の前に落ちた。消えた護衛の体だった。頭が、握りつぶされた果実のように真っ赤に染まっていた。イクタラの悲鳴が草原を走り抜けていった。

 まるで、それを合図にしたかのように、奴らが姿を現した。二メートルはある巨体。真っ赤な体に連なる筋肉の山脈。太い腕。大蛇と見間違えたのは、彼らの腕だった。獰猛な唸り声と荒い息を吐き出す口には、二本の牙が見える。そして、頭には、二本の角。

「鬼!」

 イクタラは、思わず叫んだ。村の年寄りたちが、昔話に聞かせてくれた。地の果てには、恐ろしい鬼がいると。本当にいたんだ。

 鬼は、全部で三匹いた。その三匹が、タイミングを計ったかのように同時に飛びかかってきた。たちまち二人目がやられた。鋭い爪に首筋と喉笛を引き裂かれて、血を噴いて倒れた。

「逃げろ!」

 ロコムの声を待つまでもなく、少女たちは駆け出していた。彼女たちを追おうとする鬼たちの前にロコムとイトゥナプが立ちふさがった。怪力のイトゥナブは、突進する鬼の腕をつかむと、肩にのせて投げ飛ばした。鬼の巨体が地面に激突して、大地が揺れた。ロコムの槍は、違う鬼の肩口を突き刺した。だが、もう一匹の鬼は、まったく無傷で少女たちのあとを追っていった。ロコムとイトゥナプは、そのあとを追おうとした。だが、イトゥトプは、前のめりにその場に倒れていた。倒れた鬼が彼の足首を握っている。ロコムも、肩から血を流した鬼に背後から捕まえられた。

「くそ!」

 二人の口から漏れた言葉らしい言葉は、それが最後になった。

 三人の少女は走った。心臓が悲鳴を上げても走り続けた。膝が言うことをきかなくて何度も転んだが、それでも這うように立ち上がって走った。誰も、うしろを振り向かなかった。いや、振り向けなかった。それでも、巨大な何かが背後に迫っているのは分かっていた。分かっているのに、何もできなかった。頭の中に言葉はなかった。ただ、底知れない恐怖と、それを凌駕しつつある諦めがあるだけだった。

 ただ、ノンノだけは他の二人と違っていた。彼女の頭の中には言葉だけがあった。「大丈夫、大丈夫」「誰かが援けにきてくれる」そんな言葉が呪文のように頭の中を埋め尽くしていた。何か根拠があるわけではなかった。それが幼い頃からの、恐ろしいことに出会った時の癖だった。

 背後に迫っていた鬼は、恐るべき跳躍力で三人の頭上を飛び越えた。行く手をはばまれた三人は、もう引き返す体力も、横へ逃れる気力も失っていた。

「とうとう捕まえたぞ」

 鬼の口から言葉が吐き出された。三人は、鬼が喋れることを初めて知ったが、もはや運命の大勢になんの影響もなかった。ただただ身を寄せ合って、絶望に呑み込まれようとしていた。

 イクタラは、その時、ノンノが何かつぶやいているのを聞いた。

「大丈夫、大丈夫、誰かが来る、誰かが来る」

「大丈夫なわけないでしょ」

 いらついたピリカが吐き捨てた。でも、彼女だって、もっと違う誰かにそう言ってほしかったのだ。

「誰か助けてよ!」

 それは、ここにはいるはずのない誰かへの怒りであり、無力な自分自身への怒りでもあった。

 そのときだ。低い唸り声が、横から割り込んできたのは。それは、見上げるような鬼の口から出たものではなかった。もっと低い位置、地面に近いところから聞こえていた。鬼も、その唸り声に気をとられていた。

 そこには一匹の獣がいた。姿勢を低くして、今にも鬼に飛びかからんばかりにしている。夕闇のなかにハッキリと浮き上がる白い毛並。剥き出された牙。一直線に鬼の顔に向けられる獰猛な目。それは、白い狼だった。

「なんだ、おまえは?」

 鬼の言葉に狼は牙で答えた。鬼の喉下めがけて飛びかかったのだ。

 鬼は、丸太のような腕で、その攻撃を払いのけた。弾き返された白狼は、地面に着地するや、大地を蹴って、今度は足首に襲いかかった。これも、鬼は、蹴り飛ばして防いだ。すると今度は、脇腹めがけて襲いかかった。だが、鬼の反射神経は、これも岩のような拳で迎撃した。顎を横から殴りつけられた白狼は、地面に叩きつけられた。ノンノの口から悲鳴が上がった。

 白狼は、三人の前に倒れて動かない。鬼は、三人と一匹を無慈悲に見下ろしながら、ゆっくりと前に出た。

「そいつから先に引き裂いてやろう。おまえらは、そのあとのお楽しみだ」

 何か助かる方法は、ないの? 何か? イクタラは、悲鳴のように考え続けた。だが、すべては恐怖と絶望の荒波の下で、何も見えてこない。鬼は、臭い息が顔の産毛をそよがすほどに近くにいた。イクタラは、思わず目をつぶった。助けて、お母さん! 他の二人も、同じように目をつぶって誰かの名を呼んだ。

「おい!」

 その声で三人が目を開けると、鬼のすぐ横に一人の男が立っていた。夕闇に紛れて顔はよく見えないが、若い男だった。手には、長い槍を持ち、その先が青く妖しく光っている。

「そいつに手を出すな」

 男の声にはおびえのかけらもなかった。まるで近所の悪ガキを相手にしているようだ。この男は人間なのだろうか? 誰もが思った。

「おまえも、この女たちの仲間か?」

「違う」 

「なら、邪魔するな」

「だから、そいつに手を出すな」

 男の視線は、ノンノが抱きかかえている狼に注がれていた。

「この狼は、おまえのものか?」

「そうじゃないが、長い付き合いだ」

「こいつは、俺に咬みつこうとしたんだ。許せるか」

「咬みつかれるようなことをしたおまえが悪い」

「なんだと!」

 瞬間的にキレた鬼は、男に襲いかかろうとした。だが、槍を顔に突きつけられて、思いとどまった。槍先の青く鈍い光に、鬼の細胞がおびえていた。野生の本能からの警戒信号だった。

「いいだろう。こんな獣に用はない。こいつを連れて、さっさと行け」

 鬼は、自分のおびえを気取られまいとするように男から視線をそらした。

「いくぞ」

 男は狼に声を掛けた。

「あんた、このまま行っちゃう気なの?」

 咬みつくようにピリカが叫んだ。

「薄情者!」

 すがるような眼差しを向けながらイクタラも叫んだ。

 狼も男の命令に逆らっていた。いまだに鬼に向かって牙を剥き出している。

「のけ!」

 業を煮やした鬼が狼を蹴り飛ばした。鬼の目の前には、三人の娘たちだけが残された。

「さあ、どいつからいたぶってやろうか?」舌なめずりをしながら、真っ赤な眼で三人をなめ回した。「おまえだ!」

 鬼の手が迫ったのはイクタラだった。イクタラには時間が止まったように思えた。大きくなってくる鬼の手も、鬼の口から垂れるよだれも、ハエがとまりそうなくらいゆっくり見えた。逃げようと思えば、楽々と逃げ出せそうだった。なのに、体は、指ひとつ、髪の毛一本、動かない。ああ、私は、死ぬんだ、とイクタラは思った。

「グアッ!」

 苦しそうな鬼のうめき声が聞こえた。それをきっかけに再び時間が元の速さで動き出した。鬼の脇腹に槍が突き刺さっていた。いや、それどころか、刺さった箇所にぽっかり円い穴が開いていて、その中を青い光が満たしていた。

「だましたな……」

 鬼の恨めしそうな視線が男の顔に注がれていた。

「気が変わった。やはり、おまえは気に入らない」

 そう言うと、男は、鬼の腹にできた空洞から槍を引き抜いた。鬼は、地響きをたてて倒れた。

「お礼……言った方がいいんだよね?」

 口が利けるようになると、イクタラが、誰にともなくそう言った。

「なんで、その槍、最初から使わないのよ」

 恨めしそうな目でピリカが声を張り上げた。

「ノンノは信じてたよ。動物好きなひとに悪いひとはいないもん」

 そう言ったが、ノンノの顔は涙でグシャグシャだった。

 男は何も言わなかった。三人は男が何か言うのを待っていた。

「じゃあ」

 待たせたあげく男の口から出たのは、それだけだった。

「それだけ!」

 三人の口が同時に動いた。

「ああ」

 男としては、それを最後の言葉にしたいところだったのだろう。だが、そうはならなかった。別の鬼が二匹、姿を現したからだ。

 腹に穴をうがたれて息絶えている仲間と、槍を手にした男。事情を知るには十分だった。二匹は、猛然と男に襲いかかった。男は、鬼の攻撃をすれすれのところで巧みにかわした。相手が手強いのを感じ取った二匹は、はさみ撃ちにするべく、男の左右に別れた。男を中心に二匹が衛星のように回っている。目と目で合図をかわした二匹は、同時に男に向かって突進した。男は槍を持ち変えた。石突を右手に持って、草を薙ぐように大きく振り回した。槍先の石が光って青い円を描いた。その円が一匹の鬼の脛を斬りはらった。脛の肉をもっていかれた鬼は、激痛にうずくまった。だが、もう一匹は、跳びすさって危うく難を逃れていた。同じ手は二度と通用しない。鬼は、槍の先に注意しながら、もう一度、突進した。男は、そいつに背を向けて走り出した。逃げた、と鬼は思ったが、そうではなかった。男は、膝をついているもう一匹に向かって走っていたのだ。そして、その鬼を踏み台にして宙に舞った。舞い降りる場所は、駆け込んでくる鬼の真上だ。薄暮を切り裂いて青い流星が落下した。流星は、男を見上げていた鬼の額に突き刺さった。その瞬間、鬼の頭が消し飛んだ。それを目撃したもう一匹の喉から、女の悲鳴のような声が漏れた。男は、それ以上、なにも言わせなかった。返す槍先が、そいつの喉に穴を開けていたからだ。

「これで終わりか?」 三人の少女は、最初、男が何を言っているのか解らなかった。「もう鬼はいないのか?」

「鬼は、全部で三匹……だったよね?」

 イクタラが、自信なさそうに他の二人の方を見た。壮絶すぎる体験のせいで、自分の記憶が信用できない。

「ロコムさんたちは、どうしたんだろう?」

 はぐれた二人の護衛のことが気になって、ノンノが言った。

「この二匹がやってきたってことは、たぶん……」

 ピリカが、目を落とした。

「そんなことないよ。どっかに隠れて……」

 ノンノは無理やり笑顔を作ろうとしていた。。

「ピリカの言うとおりだよ」

 イクタラには分かっていた。彼らの霊が目の前に立っているのが見えるからだ。ロコムとイトゥナプ、それに他の三人の護衛も、槍を持った男に必死で頭を下げていた。お礼、そして、イクタラたちのことを頼んでいる。でも、男には、彼らが見えないし、声も聞こえない。

「あの~」

 イクタラは、男の背中に声をかけた。三人よりは年上に見えるが、どのくらい上なのか分からない。子供ではないけれど、年寄でもない。おそらく独りで歩いてきた道のりが、男を年齢以上の大人にしているのだろう。

「私たち、巫女になるために修行の旅をしているんです。でも、一緒に来てくれた男のひとが、みんな殺されてしまって。だから……」

 ピリカにもノンノにも、イクタラが何を言おうとしているのか分かった。

「だから……だから……私たちと一緒に旅をしてくれませんか?」

男の背中は何も言わなかった。

「お願いします。頼れるのは、あなただけなんです」

 ピリカは、何も言わなかった。男に頼るのには抵抗があった。それも、どこの馬の骨か分からないこんな男と。

「俺は……人間とは関わらないことにしている」

 男の背中が夕闇に遠く見えた。

「なに言ってるの? イクタラが、こんなに頼んでるんだよ!」

 やっぱり、こいつは薄情者だ。冷酷なただの殺し屋だ。ピリカは、手元に石があったら投げつけてやりたかった。

「女の子をこんなところに残して、本当に行けちゃうの? 行かないよね?」

 今にも崩れそうな笑顔でノンノが訴えた。

 彼女らの悲痛な叫びは、男の黒い背中に吸い込まれて消えた。

「いくぞ」

 男は、白狼にそう言うと、振り向きもせずに歩き出した。だが、すぐに立ち止まった。狼がついてこないことに気づいたからだ。狼は少女たちの足元に座っていた。ノンノが頬ずりをしていた。

「こいつも、あんたに愛想が尽きたとさ」

 ピリカが睨んでいた。イクタラも睨んでいた。

「一緒に行こう、って。それが、あなたのためでもある、って、この子も言ってるよ」

 ノンノが、狼の気持ちを代弁して、そう言った。

「そいつが、そう言ってるというのか?」

 男はショックを受けているようだった。ノンノの言葉にというより、狼が自分についてこないことに。

「言っとくけど、この子は、動物の言葉が分かるんだからね。信じた方がいいよ」

 ピリカが教えてやった。彼女自身も、その能力を完全に信じているわけではないのだが。

「俺は人里には近づかないことにしている」

「なんで?」

 イクタラの問いに対する答えは、なかった。

「じゃ、こうしない?」

 イクタラは、捕まえにくい男の目を必死に追いかけながら続けた。

「人里の近くには来なくていい。そうじゃないこういう場所だけ一緒にいてくれれば。それに、私たち、どこへ行くっていう当てがあるわけじゃないの。ただ、外の世界を一年間あるいて、いろんなひとの教えを受けるのが目的なの。だから、あなたに行かなきゃいけない場所があるなら、私たちの方が、あなたについていく。どう? あなたは、これからどこへ行くの?」

「そんなところはない」

「だったら、一緒に行けばいいじゃん。ひとりより大勢の方が楽しいよ。ね?」

 ノンノが白狼に同意を求めた。狼は男の目を真っ直ぐに見据えていた。

「私たちが無事に村に戻れたら、ちゃんとお礼もする」

 イクタラは口説き続けた。

「そんなものはいらない」

「もう、どう言えばいいの!」押しても引いてもウンと言わない男の態度に、ピリカがキレた。「いいよ、こんな奴に頭を下げなくたって。こんな奴、信用できないよ。どっかの村で嫌われて追い出されたクズ野郎に決まってる」

 ピリカは、男に背を向けた。ノンノも、名残惜しそうに狼のそばから立ち上がった。

イクタラだけが、まだ諦め切れずにいた。

「行かないとは言ってない」男の声が小さかったこともあって、三人とも、何を言ったのか、最初、分からなかった。「一緒に行かないとは言ってない」

「そうなの?」

 ピリカの怒りの袋から急に空気が漏れた。

「本当に?」

 イクタラも半信半疑だった。

「ああ」

「よかったね。一緒に行けるって!」

 ノンノは、狼をきつく抱き締めた。その顔を狼の舌がペロペロなめた。

「でも、何らかの形でちゃんとお礼はする」イクタラは、念のために、はっきりさせておきたかった。「その代わり、私たちに何かあったら、助けてください」

「ああ」

「約束だよ」

「わかった」

 その言葉を聞いて、イクタラは緊張とともに力が抜けた。危うく倒れそうになったイクタラをピリカが支えた。

「私、こういうの慣れてないから」

 こんな状況に慣れてるひとなんていないでしょ。ピリカは思った。

「偉そうなこと言うの、疲れる。今度から、こういうのはピリカがやってね」

 私って偉そうなのか、とピリカは思った。

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