第一章

第1話「召喚」

 暗闇の中をゆっくりと落ちていく。

 いや、本当にゆっくりなのかは判然としない。この暗闇には自分だけで、周りには何もない――見えないのだから。

 ならば、そもそも落ちているのかどうかすら確かではないのだろう。だが、落ちている。少なくともそう感じる。


(一体いつまで、どこまで落ちるんだろう)


 もう体感で数分は落ち続けているような気がする。最初こそ焦りもしたが、あまりにもゆったりとした時間に危機感も薄れつつある。

 現実味がない。けれど夢とは思えない。意識ははっきりとして、頬をつねれば痛みもある。


(寝て起きたらこうだものな。まだ夢の中だっていうなら話は早いんだけど。どうもそういうわけでもないようだし)


 寝ていた状態からいきなりこうなので、現在の恰好はパジャマのままだ。この暗闇の中は暑くも寒くもないので平気だが、プライベートな空間以外でパジャマで居るのは少し違和感があって非常にもどかしい。この意味不明な状況に比べれば些細なことなのだけれども。


 ぶっちゃけそろそろ飽きてきたので何か今後の展開があるならばさっさとしていただきたい。

 いや、まさか永遠にこのままという訳では……ないと思いたいが。そこに考えが及べば、ぞっと血の気も引いて行く。呑気に構えていたが割とマジにマズイ状況なのでは?


(仮にそうだとしてもどうしようもありませんがね!)


 胡坐をかきながら、うーんと唸ってみるものの。出来ることなど何もないので、結局芽生えた危機感もあっという間に揮発して無くなってしまった。


 だが得てして展開というものは、そういった油断をついて訪れるものである。


 最初は、何かが光った、というものだった。自分が正しく落ちていたとするならば、下方から光が押し寄せたのだ。

 光に呑まれ、何かを思うより先に、衝撃がきた。物理的な、肉体的な、それは痛みだった。分かりやすく言い換えるならば、背中から地面に激突した。


「――ッ」


 ぎゃあ、なり、ぐえー、なりと分かりやすい悲鳴を上げる余裕もなかった。痛い、ひたすらに痛い。呼吸も困難でのたうち回ることしか出来ない。

 さらに急に明るい場所に放り出されて目が慣れない為、状況確認すら困難を極めた。うーうー唸りながら瞼を擦る。それで早く目が慣れるわけではないだろうが、何となく。


「おいおいおい、何だこれは! 話が違うぞ召喚士ネモ!」


 声が頭上から降ってくる。口調は乱暴だが、可愛らしい女の子の声だ。ダンダンと地面を叩く音も聞こえる。足で踏み鳴らしているのだろうか。


「違う、とは?」


「オーダーはちょうつよそうなモンスター、だったろうが! これがちょうつよそうに見えるか? ただの人間じゃないか! 失敗だ!」


「召喚自体は成功している。それにオーダーは正確には『超強いけどあんまり怖くなさそうな話の通じるやつ』だったはず。確かに強そうではない、けれど怖くもないし人間なら話も通じる可能性が高い。それに強さもまだ未知数。失敗と決めつけるのは早計」


 もう一人、別の声も聞こえた。先ほどから声を荒げている方と比べると淡泊な印象を受けるものの、やはり可愛らしい女の子の声。

 そろそろ目も慣れてきたので、声の主たちを確認すべく顔を上げる。地面に倒れたままだったので最初に見えたのは足だった。


(生足!)


 すべすべのすらっとした生足が二人分計四本並び立っている。ふくらはぎ、膝とそのまま視線を上げれば瑞々しい太ももに連なっておりそのさらに上には魅惑の何とかがある筈だが残念なことに――当たり前だが――スカートに遮られて見えぬ。くちおしや。


「おいこいつ視線が気持ち悪いぞ。蹴り飛ばしていいか?」


「正確なスペックが不明なうちに下手に刺激するのは危険」


「そうか? 見たとこ中肉中背の、一般的な人間の少年だぞ。いや待て、そもそも召喚獣なら主には絶対服従ではないのか?」


「そのはず。でも召喚者は私。つまり閣下は対象外」


「なんだとぉ!?」


 慌てた様子で少し後退する閣下と呼ばれた少女。引いてくれたおかげで全身を視界に入れやすくなった。

 元気よく揺れるツインテールが印象的な、金髪の少女だ。小柄で可愛らしい容姿に大きな黒いリボンが良く似合っている。瞳は黄金色で、猫を思わせた。

 それから胸は小柄な体にしては豊かであった。


「命令。私の許可なく閣下に危害を加えてはならない」


「まるでいつか許可を出すみたいに聞こえるぞ!」


「……気のせい」


「なんだその間はぁ!?」


 屈みこんで、命令とやらを言ってきた少女はネモと呼ばれていたか。身長は閣下なる少女よりもさらに小さく、ともすれば小学生くらいに見える。髪はやや黒に近い灰色で、前髪が長く片目が隠れて見えない不思議な髪型をしていた。胸は豊かではなかった。平らだった。


 二人の少女の観察を済ませたところで周りも軽く見回す。どうやら屋内のようで、広さは大体八畳くらいだろうか。壁には怪しげな仮面やらタペストリーやらが掛けられ、窓は黒いカーテンで隠されていて外の様子は窺えない。天井には蛍光灯――とは違う、不思議な光が灯っている。

 そんな光はあれど穴など存在しない天井を見ながら思う。さて、俺はどこから落ちてきたのだろうか。それとも、あの感覚はやはり勘違いか、夢か。


 きょろきょろと見回す行為が不審だったのか、二人の少女がこちらをじいっと見つめているのに気づいて、少しだけ体が強張る。


「あー……あのーすいません」


 何となく正座しつつ、そろそろ何か喋った方が良いかと思い声を出したが、そもそも異国感溢れるこの少女たちに日本語が通じるのかという疑問を抱くと同時に彼女たちの言葉が理解できていることに遅まきながら気がついた。


「喋ったぞ!?」


「人間は喋るもの。驚くことじゃない」


「えっと、俺の言葉、分かりますよね?」


 向こうのペースに任せていたらいつまでも話が進まない気がする。取りあえず現状を把握しなければならない。


「問題ない。召喚魔法には意思疎通を可能にする為の翻訳機能が備わっている。ゆえに今のあなたは意識せずともこちらの言葉を話すことが出来る」


 さて、この子は何を言ってらっしゃるのだろう。召喚魔法? 翻訳機能? あまりつまらない大人のようなことは言いたくないが、ゲームのやりすぎとかそういうのだろうか。

 突っ込みたくなる衝動を堪えつつ、話が逸れないよう聞きたいことを聞くことにした。


「そ、そうなんですかぁ。それじゃ、ですね。ええと取り敢えず……ここってどこですか?」


「我が城だ!」


「……正確には冒険者養成学校敷地内にある部室棟の一角。学園征服部の部室内」


「つまり我が城だ!」


 なるほど分からない。


「俺をここに連れてきたのは……君たち?」


「『連れてきた』っていうか、『呼び出した』かな~」


「私の召喚魔法で……ぐいっと」


(ぐいっとかぁ……)


 どうにも要領を得ない。或いは、受け止めきれない。何だか頭が痛くなってきたので深く考えるのをやめて質問を続ける。


「ここ、日本ですよね? どこら辺なのかなぁ、県とか」


 とにかく現在位置さえ分かれば。何でこんな所にいきなり移動したのかとか、その方法とか、そういった細かいところは後で考えれば良いことだ。

 だが期待に反して彼女たちの反応は芳しくないものだった。


「ニホン~? 聞いたことないなぁ。召喚士ネモ! お前知ってるか?」


「知らない。そもそも私の召喚術は異世界にゲートを開く術。知らなくて当然」


「い、異世界っすか」


「へぇ~そうなんだぁ~」


「……閣下には事前に説明したハズ」


 半眼で閣下を睨む召喚士ネモ。それを受けて閣下はへたくそな口笛を鳴らしながら明後日の方に視線を逸らした。


「えっとそれじゃあ……俺、元居たとこに帰りたいんですけど、どう行けば帰れますかね?」


 こうなったらある程度話を合わせるしかない。とにかく帰ることさえ出来るなら、何かの間違い、一時の夢ということにして全てを水に流せる。今のところ、背中をしたたかに打っただけだし。


「無理」


 にべもなく言われた。だがそれだけで諦めるわけにはいかない。


「む、無理とは?」


「元居た世界に返す方法はない。だから無理」


「なぜですか?」


「石を当てて木の実を落とすことは出来る。でも落ちた木の実を木に戻すことは出来ない」


(分かるような……分からないような……)


「食べちゃったらなくなるもんな!」


「……はぁ」


 凄い溜息をつくネモ。閣下は少し残念な子なのかもしれない。

 ともあれどうやら帰れないという設定らしい。もちろんそんな言葉だけで納得など出来るはずもない。別に拘束されているわけでもないし、少女たちに武装している様子も見えないので俺は恐れず立ち上がる。


「じゃあ、自力で帰ります」


 そうして扉まで歩こうとしたところで、ネモがその場から動くことなく視線だけでこちらを追ってぼそりと呟いた。


「水の日はスライム」


(……?)


 何を言わんとしているのかさっぱりだったので、構わず扉の取っ手に手をかけ「ごぽり」。


「うご? ……うご! ごぼぼっ!?」


 突然冷たい『何か』に体を包まれて身動きが取れなくなる。まるで水中に居るかのように呼吸が出来ない。半透明の『何か』はいくら足掻いてもまとわりついてきて、引き剥がすことが出来なかった。

 焦りから足がもたつき、転んで本日二度目の背中を強打。まさに泣きっ面に蜂だ。なんて日だ!


「ごぼっ…… ぼ」


 だんだん意識が遠のいてくる。これは、死んでしまうのでは? そう思い始めた辺りで、ぱちん、という音と共に全く夢か幻だったかのように半透明の『何か』は消えてなくなってしまった。

 咳き込みながら視線を上げれば、ネモがまるで魔法使いのように、指を振りながら空中に光の線を描いている様子が見えた。


「なん……なんだよ」


「設置型召喚術。この部室内には外敵の侵入、あるいは脱出を阻む多種多様な罠が仕掛けてある。その扉にも、登録された者以外が触れれば自動発動する召喚陣が設置してあった。ちなみに今日は水の日なのでスライムが飛び出す。火の日はサラマンダーだからそれよりはマシ」


「秘密のアジトだからな~、罠くらいないとな~。あ、地下もあるんだぞ! 後で見せてやろう!」


 違う。俺が聞きたかったのはそういうのじゃない。こっちは死にかけたっていうのに、どうにも空気が緩すぎるんじゃないだろうか。

 しかし閣下の太陽のような輝く笑顔を見ていると、まるでこちらがおかしいような気にさえなってきて、怒りも萎えた。


「少しは信じる気になった?」


 目を細めて、ネモが密やかに笑う。……なるほど、分かっててやったのか。良い性格をしている。

 異世界、召喚術。今しがたの経験で、それら荒唐無稽としか思えない話もにわかに現実味を帯びてくる。だが、だが。だとすると、だとするならば。ネモの言った、「帰れない」という話も本当なのか?


 ぞっとして、それこそ意識を失いそうになる。


「まあ落ち着け。うん、なんだ、大丈夫だ。……悪いようにはしないから、さ」


 にかっと笑いながら、閣下はハンカチを取り出して濡れた俺の顔を拭いてくれた。すると不思議と、重くなっていた心が少し楽になった気がした。


「……はい」


「よしっ、落ち着いたところで自己紹介といこうじゃないか! 私は学園征服部『デスネコ団』総統、エルルだ! そんでこっちのは……」


「召喚士ネモ。アナタのご主人様」


 ご主人様。素敵な響きだが、同時に不穏でもある。


「ちょ、ちょっと待て召喚士ネモ! 召喚に使った触媒は私が用意したものだぞ! 所有権は私と幹部達で平等に受け持つと決めてあったじゃないか!」


「……チッ」


「舌打ちされたぁ!?」


「……あー、えっと。俺は………………あれ?」


 自分の名前を言おうと口を開いたのに、言葉が出てこない。十数年連れ添った自分の名前が。


「うん? 何だお前、名前がないのか?」


「召喚時のショックによる記憶喪失かもしれない。人間の召喚は初めてだったこともある。多少の不具合は仕方ない」


(仕方ないで済ましていい話じゃない!)


「しょうがないなぁ。よし、思い出すまでは便宜的にお前の呼称を『戦闘員』とする!」


「よろしく、戦闘員」


「えぇー……」


「よ・ろ・し・く」


「よ、よろしくおねがいしま、す」



 そうして今日から俺は、学園征服部『デスネコ団』戦闘員になったのだった。

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