舞台の演者

 田舎の朝はとても静かだった。まともな道路も線路もないせいか、都会で響いていた自動車のエンジン音や喧騒な車輪の駆動音も全くしない。強いて言えば、裏の山の木々が風で揺れる音や、小鳥のさえずりがわずかに聞こえる程度だ。

 顔を洗いに一階に向かうと、階段を下り切る直前でおばあちゃんと顔を合わせることになった。どうやらぼくを起こしに来たようで、自分で起きてきたことに感心したのかニッコリと目を細めて朝食ができていることを告げてくれた。ぼくは少し戸惑いつつも応え、昨日初めて利用したばかりの浴室の手前にある洗面台で顔を洗った。ついそのまま浴室に入りそうになるが、昨夜のおばあちゃんとの約束を思い出し、すんでのところで足を止めた。


「ごちそうさま」

 朝食も和食だった。初めて見せる制服姿に、おばあちゃんはどこか嬉しそうだった。

「あの子に写真で見せてもらってはいたんですけどね、孫のこういう姿はやっぱり嬉しいものなんですよ」

 そんなことを言うのだった。言われたぼくとしては、こんなことでこんなに喜んでくれるなんて、と少し気が引けた。

「学校の位置はわかってますか?」

「うん。だいたいは」

 というのも、昨日村を歩いているときにそれらしき建物を見つけてあるのだった。確認すらしなかったのは、そもそも十人以上が収容できるような建物が一つしかなかったからだ。

「ところでおばあちゃん」

「なんですか?」

「この村、子どもっているの?」

 見渡す限りの農耕地と山々。建物がないわけではないし、電柱も立っているが、住宅地と言えるほど家々が密集しているようなところはなかった。しかも、唯一の外とのアクセス方法であるバスが、一日に片手で数えられる程度しかない閉鎖的な村に留まる子どもはいるのだろうか。そもそもこんな何もないところに引っ越してくる家族なんているのか。

 ぼくの問いにおばあちゃんは静かに答えた。

「そうですね。郁くんがいたところと比べると、いないみたいなものですけど――いないわけではないですね」

「そうなの?」

 正直驚いてはいない。まあ何十人もいるとは思っていないけれど、一人や二人ならいてもおかしくないだろうと思っていたし。それに、いるかいないかで質問したけれど、若い女性が一人いることは知っている。

「まあ、行ってみればわかることですけど、学年なんてあってないようなものですからね。同じ教室にまとめてみんないる感じらしいですよ」



 おばあちゃんの言う通りだった。

姶良あいらいくと言います。よろしくお願いします。」

「よろしくお願いしますわね」

 返ってきた返事は一つ。それも以前に聞いた声だ。

「久しぶりですね、墓内はかないさん。まさか墓内さんもこの学校にいるなんて」

「久しぶりってほどでもないと思うけれど。それといのりでいいわよ? だって同い年ですもの、ねえ姶良くん?」

 ぼくのことは名字で呼ぶんだね。まあいいけど。

 墓内はかないいのり。栗色の長い髪とすらりと伸びた長い足が印象的な、可愛いというより綺麗という表現が近い女の子だ。廊下側の席に座っている。同年代の中でも顔立ちが整っている方だ。もっとも、それ以上に目を引くところがあるんだけど。

「サングラス、かけたままなんだね」

「あら? 気になるかしら」

「いや、ぼくはそんなに気にしないけど」

 もうすぐ夏になるとはいえ、別に日差しが強いわけでも、陽が照っているわけでもない。にもかかわらず、祈さんはサングラスをかけているのだった。それも半端に脱色された黄色っぽいサングラスではなく、マフィアがつけているような真っ黒で透過ゼロなサングラス。以前に会った時も、まったく同じものをかけていた。ファッションなのだろうか。そのわりには服装は普通の白いセーラー服なんだけど。

「というわけで、世にも珍しいこんな辺鄙へんぴな田舎への転入生がきたわけだ。みんな仲良くしてやれ。といっても、お嬢以外だとお前だけだがな、おい峠」

 黒板の前でぼくの横に並んでいる先生が、教室にいる最後の一人に檄を飛ばす。いや、先生? なのか。なんか口に白い棒をくわえてるけど。それにどこか言葉遣いがヤンキーくさい。

 そして、峠とよばれた少年。見た目は普通に見える。少し髪が青みがかってるというか、紺色っぽい。祈さんの席から空席をまたいだ窓際の席に座っている。机に突っ伏しているが、身長はぼくよりやや高いくらいかな。こっちも制服を着ている。どっかで見たことがある気がするけど、まあよくあるタイプの制服だし、気のせいだろう。

「……んー、山猪やまいのとうげ。よろしく」

 わずかに目をあけた、のだろうか。それもわからないくらい目が細い。というか、聞こえていたのか。そんなでかいヘッドフォンつけてるのに。

「よ、よろしくね」

 ぼくはなんだこいつ、と思いつつ山猪峠に返した。

 というか、まともなやつがここにいない気がするんだけど大丈夫なのだろうか。

「よし、じゃあ姶良の席はお嬢の隣な」

「は、はあ」

 ここにいる生徒は三人だけ。そのうち二人はすでに席に座っている。わざわざ席の指定をする必要なんてない。でも、その理由をぼくは視覚的に理解していた。

「あの、のは」

 ぼくの座る予定の席、その祈りさんが座っている方と席も空席だった。つまり、今ぼくの目前には計四つの机が並んでいるのだった。廊下側から祈さん、ぼく、空席、山猪くんという並びだ。

 ぼくの机は明らかに新品に見える。他の机もきれいに見えるが、それに比べるとついさっき作られたといわれても納得するくらいピカピカだ。新品ということなら現在空席になっている机も同じだが、ぼくの机とは意味合いが少し違う気がする。なんというか、長い間店頭に飾られたままの展示品のような、そんな汚れ方をしている。

「ああ、それはな」

 と、先生の言葉が少し止まる。でも少ししてまた続けた。

「そこは風前かざまえあかりという生徒の席だ。今日は休みだがな」

 ということは、ぼくを含めて四人が全員なのか。風前という生徒がどういう生徒かは知らないけど、偶然にしても年が近いのが揃っているな。

「まあいずれお前も会う機会くらいあるだろう。名前くらいは覚えてやってくれ」



 先生の名前は青崎あおざきじゅんというらしい。全教科を教えることはできるらしいが……かなり若く見えるけど、教員免許は持っているのだろうか。

 それにしても、統一感がまったくない制服がこう並ぶのはものすごく違和感がある。寄せ集めというか、学校というよりは塾のような感覚だ。まあ、それは間違いではないだろう。こうして机を並べているが、隣でペンを走らせている少女とぼくが取り組んでいる内容は教科も難易度もまったく異なっているようだ。前の学校の教材、教室においてある教材、ネットに上がっている問題といったように、全員が同じものを解いているわけではなさそうだ。特に先生が前で講義を行うというそぶりはなく、あくまでわからないところを質問する形式のようだ。それに、ぼくの左手にいるやつにいたっては寝息を立てて机と一体化している。

「こらー、寝てるんじゃねえ峠」

 青崎先生は前もって用意していたと思われる肌色のBB弾を、教卓に足を組んで座ったまま親指で弾き飛ばして山猪くんに当てていた。寝ているやつも悪いが、教師としてそれはどうなんだろう。

「……潤ちゃん、痛いって。昨日アニメの一挙放送マラソンがあったんだよー」

「知るか。あと、あたしのことは青崎先生と呼べと常々言っているはずだが。あん?」

「潤ちゃんも見てみる? 今度、俺のアカウント貸してあげるからさ」

 怖いもの知らずとはこいつのことを言うのだろう。こめかみに青筋を立てている青崎先生をよそに、山猪くんはひょうひょうとした態度で悪びれもなく続ける。

「たまには俺の趣味の一部でも共有してくれよー。そうすりゃ俺がこう昼間に眠い理由ワケもちょっとはわかると思うんだよ」

「そうかそうか。そんなに眠いならあたしの鉄拳で永眠させてやろう」

 山猪くんには悪いが、全面的に青崎先生に賛同である。というか、先生の非という非がBB弾をぶつけるという、それも原因が山猪くんにある一点だけだ。止める理由がない。あるとすれば転校初日の、一時間も経たないうちに数少ないクラスメイトが去ってしまうという事態にぼく自身が直面することくらいだ。

「まあまあ、その辺にしておきなさいな。山猪くんがこうなのはいつものことでしょう?」

 青崎先生だけが一方的に不機嫌で嫌悪感を発している空気の中、祈さんが助け船を出した。助け船……なのか? いつもこうって、ある意味バカにしている気もするけれど。

「ですが、お嬢」

「潤、あなたはもっと余裕を持ちなさい。いつも言っているでしょう、損得勘定で判断していては大切なものを見失ってしまいますよ」

「お言葉ですが、お嬢。峠の趣味があたしにとって大切なものとなるとお思いで?」

 ここにきて、初めてぼくは手を止めた。横を見ると祈さんも可笑しそうに口元を抑え、目を細めていた。わかった。この二人は山猪くんをバカにしたいだけなんだ。きっとそうだ。

「時に姶良くん。あなたはどうかしら?」

「え、あ、ぼく?」

「そうですわ。あなた以外に姶良という方はいらっしゃいますか?」

「いや、まあそうだけど。どうって何が?」

 急に話を振られて戸惑ってしまう。そういえば女子から声をかけられるというのも、あまり経験してこなかったことだ。

「わたくし、それに潤も、そういったサブカルチャーに対する見識が未熟でして。なんせこんな田舎ではまともにテレビも映らない始末」

 これは昨日おばあちゃんに聞いたことだ。どうやらこの村、国営放送を含めてチャンネルが最大で三つしかないらしい。

「姶良くんはついこの間まで都会に住んでいらっしゃったでしょう?」

「まあ、ここに比べれば」

 失言。祈さんは気にしてないみたいだけど。

「でも、ぼくも詳しいわけじゃないよ。マンガとかアニメとか、テレビで取り上げられたやつを読んだり観たりしてただけだし」

「あらそうなの?」

 祈さんは明らかに不思議そうな顔をする。いやいや、環境があったとしても染まるとは限らないでしょ。

「でしたら姶良くんは普段どういったことを?」

「普段?」

 ぼくが……あっちでやっていたこと。

 瞬間、記憶が逡巡する。

「姶良くん?」

「別に、普通だよ。祈さんには言ったでしょ、こっちに来た理由」

「それはまあ。というか、わたくしがお誘いしましたし」

「だったら、ね。ぼくのことはいいから」

 にこやかに、でもしっかりと距離を置く。仲良くなりたくないわけじゃない。でも、ぼくの傷には触れてほしくない。

 祈さんには、とても世話になった。彼女がいなければぼくはここにいないし、向こうでどうなっていたか分からない。

 だけど、それとこれとは話は別だ。

「そう? しかし、わたくしはあなたにとっても興味がありましてよ。また今度、お屋敷でお話を聞かせてくださいまし」

「え、えと……うん」

 祈さんはあっさりとぼくの話を切った。切っただけでなく、まるでそれが当たり前というような冷ややかな空気を漂わせ、淡々としている。こんな重い話、普通は引くか、申し訳なさそうな表情をすると思うんだけど、祈さんにはまったくそういった様子が見られない。

 達観しているわけでも、興味がないわけでも、大人びているわけでもない。と思う。祈さんは、言葉遣いや価値観こそ普通の女の子ではないけど、それ以外はいたって年相応の、等身大の女の子だ。でも、どこかその奥に底の見えない何かが――

「お、もうこんな時間か。今日の授業はここまで」

 ぼくの思考を遮るように、青崎先生がそう言った。え、でも……。

「あら、楽しい時間が過ぎるのは早いものね」

「ふー、今日も一日乗り切った」

 祈さんと山猪くんはそれぞれの反応を示し、帰り支度を始めた。

 あっけにとられながら、ぼくは青崎先生に尋ねる。

「えと、まだ昼前だと思うんですけど。もしかして終業式とかそういう?」

 時刻は昼の十二時を回るかどうか。外では元気に太陽が照り続けている。ぼくの聞き間違いでなければ先生は「今日の授業はここまで」と言っていたが、始業式などの特別な日でもない限り、ここで終わるというのは早すぎる。

「いんや。毎日この時間に終わりだよ。そもそも、ここは学校って体はとっているが、私塾みたいなものだ。当たり前だろう。こんな田舎で、この生徒数で、まともな学校なんてあるわけないだろ。だからわざわざ弁当持ってくるの面倒だし、あたしも君らもやる気出ないだろうから、昼前に終わることになってるんだよ」

「いいんですか、それ……」

「さあ? ま、高卒の資格が欲しければそういう試験を受ければいい。手伝いはしてやる。それに」

 青崎先生はくわえていた白い棒を口から取り出す。その先には紅色の球がついていた。そして、それをぼくに向けて指し示した。棒キャンディだったのか。

「そんなマトモなことしたかったら、こんなとこからとっとと出て行ったほうがいいと思うぞ。ここはそういうところだ。第一、お嬢が連れてきたってことは、お前も

「……」

 ぼくは、何も言えなかった。

「……話はこれで終わりだ。また明日な。お嬢、帰りましょう」

「あ、潤! 待ちなさいったら!」

 青崎先生は棒キャンディをくわえなおすと、そのまま教室から立ち去った。それを追いかけた祈さんの「もっと言葉を選びなさいよぅ」という声が廊下から聞こえた。

 そんな二人の足音が聞こえなくなるまでぼくは動けなかった。動くことが許されていないような気がした。見張られているわけでも、まして縛られているわけでもないのに。

 くそ……っ。わかってる、正しいのは青崎先生だ。わかってるけど……。

 吐き出すことができない思いを、机の下で握りしめる。その時、右肩に何かが乗せられた。振り向くと、猫背でカバンを背負った山猪くんが左手を乗せていた。

「え、と」

「昼飯、いこうぜ」

 眠たげな様子はなく、そう一言だけ呟くのだった。

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箱庭にも知る人 精華忍 @oshino_shinobu

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