怒りは宙を舞い
見えているにも関わらず近づいてこない目標に向かって、二人はもう一度歩を進めるのだった。
やっとの思いで別の国に到着した時には、もう陽は完全に沈み夜が訪れていた。
ようやく辿り着いたその国は、グランパニア領土『バンディッシュ』。
特に何かに秀でている国ではなく、一般的な生活を営むだけの、平凡で小さな国である。
夜になり、たくさんの居酒屋から騒ぎ声が漏れだしてくる。石造りの一軒家がいくつも立ち並び、明りが灯るほとんどの店が居酒屋である。
少し行ったところには宿屋も多く見受けられ、ここなら泊まるのに苦労はしないさそうだ。まずは、空いている宿を探すことにした。見た目が高級そうな宿は外して、いくつか候補を立て、結局街の入口に近い三階建ての宿に泊まることになった。
入るとすぐに受付で、ひとつの階に四つほど部屋があり、カツキたちは二階の右側奥の部屋に案内された。
中はベッドが二つ並んでおり、割と広い印象を受けた。何より、アカツキはベッドが初めてだったので、ベッドを見るやいなやその柔らかい天国へと飛び込んだ。
「こんなんではしゃぐとは、案外お子ちゃまやなぁ」
ヨイヤミがはやし立ててくるが、アカツキは完全無視を貫き通し、ゴロゴロと転がりながら、満足するまでベッドを堪能した。
アカツキが一通りベッドを堪能した後、どこかに食事に行こうということになり、近くのあまり騒がしくない居酒屋へと足を運んだ。中は丸テーブルがいくつも並んでおり、そこに何組かの客が酒を煽って談笑したり、下品に散らかしながら食事をしたりしていた。
そんな雰囲気に少し気後れしたものの、二人は案内されるがままに奥のテーブルへと座り、料理を注文した。
「あぁ、疲れたわ。一日中歩くのなんていつ振りやろ」
運び込まれた水をガッと一気に喉に流し込みながら、ヨイヤミ「ぷはあ」と親父臭く息を吐く。
「確かにな。最近はアルバーンでずっと、図書館に入り浸っていたし、戦ったあとは、ほとんど寝てたしで、俺たちあんまり動いてないもんな」
アカツキもここ最近は動くような生活をしてこなかったので、かなり足に疲労が溜まっていた。それでも、森という自然の中で育ったアカツキはヨイヤミに比べれば、それほど大したことはなかった。
そうこうしているうちに料理が届き、二人は「いただきます」と言うと、がっつくように食事を頬張った。疲れた身体に、暖かい料理が染み渡っていく。
二人が程よい疲労を感じながら、気分よく食事の四分の三程度が終わった頃、中央の方に座っていた、三人組の男が何やら揉めだした。
「おい、お前。何俺に水かけてくれてんだよ。どうしてくれんだ、服がびしょ濡れじゃねえか」
どうやら、ウエイトレスの女の子が運んでいた水をひっくり返し、三人組の男の一人に水をかけたようだ。女の子も「すいません、すいません」と必死に頭を下げていた。
だが、男はそれでも引き下がる気はないらしく、女の子を更に責め立てる。
「あん、こういう時は地面に這いつくばって許しを請うのが、筋ってもんだろ」
男の怒鳴り声に女の子は完全に萎縮してしまっており、怒鳴られた瞬間「はっ、はい」と言って、膝を付き頭を床に押し付けた。
男たちはニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら、さらに女の子の頭を足で踏みつける。
「奴隷の分際で、俺に何してくれてんだよ。身分をわきまえろよ、お前。この濡れた服どうすんだよ。弁償できんのか?できる訳ねえよな。買われている分際でよ」
男はグリグリと頭を踏みつけている足を笑いながらこねくり回す。
周りの男たちも同じように笑って、その行為を止めようなどとはしない。
他の客も、ヒソヒソと小声で話し合うだけで、止めようとする者など一人もいなかった。ただ一人を除いては……。
その光景を見ていたアカツキは耐え切れなくなり、席を立ち上がり、男たちの元へと向かった。途中、ヨイヤミに「おいっ、待て」と止められたが、最早歩みが止まることはなかった。
「おい、その足どけろよ」
男の前に立ったアカツキは、男を睨みつけ、威圧するように言い放つ。だが、男はそんなアカツキの言葉はどこ吹く風といった様子で、何の悪びれもなく口を開く。
「あぁ、なんだお前。俺が奴隷相手に何しようと勝手だろ。お前にとやかく言われる筋合いはねえよ」
更に足に力を入れながら、笑ってそう答える男に、アカツキの我慢の限界が訪れる。
アカツキは拳を握り締め、思いっきり男の頬めがけて、殴りつけた。男は勢いで数メートルほど吹き飛んだ。あまりの衝撃に唖然としながら頬を抑えて立ち上がると、アカツキに怯え交じりの声で訴えかける。
「な、何しやがる、てめえ。悪いのは、コイツだろうが。俺が殴られなくちゃいけねえ理由がどこにある」
男は逆ギレするように怒鳴り始める。だが、その声には何処か怯えが混じっており、言葉の端々が震えている。そんな男に、アカツキは相手の勢いに負けない声量で怒鳴り返す。
「確かに、この子はお前に水を掛けたかもしれない。でも、ちゃんと謝ってたじゃねえか。それぐらいのこと許してやれよ。大人のくせに。乾くまでの辛抱だろうが」
だが、そんな言葉で納得するのなら、そもそもこんな言い争いにはなっていない。
「こいつが俺に何されようが、文句は言えねえんだよ。それが、身分ってもんだ。まさかお前、よそ者か。この辺じゃ見ねえ顔だからな。どうせ、身分制度もない国でぬくぬく育った、おぼっちゃんだろ」
アカツキが、そこでもう一度男に向かって歩を進めようとしたそのとき、思わぬところから静止が入った。
「お止めください。これは、私が悪いんです」
ウエイトレスの女の子が膝を付きながら、アカツキのズボンの裾を握り、アカツキに静止を促したのだ。そんな彼女に驚いて、アカツキは彼女を見据えたまま動けなくなる。
そして、アカツキの動きが止まったのを確認した彼女は、もう一度男の方を向き頭を床に押し付けた。
「この度は、誠に申し訳ありません。私の不注意で、お客様の大切なお洋服を汚してしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
彼女は自ら、額を床に付け、深々と謝罪をする。まるでそうすることが当たり前であるかのように。
そんな当たり前を知らないアカツキは、ただ呆然とその様子を見るしかなかった。その光景に何一つ納得はできていなかったが、それでもそれを許容しなければならないことだけは、肌で感じ取った。
「興が冷めた、行くぞ」
男たちは唾を吐き捨てながら店を出て行く。男たちが店を出ていったのを見て、ようやく店の店主が顔を出す。
「あんた、何考えてるんだい。これでお客様が減ったら只じゃおかないよ。わかったらさっさと早く働きな」
店の店主は彼女の身を案じようともせずに、仕事に戻るように急かす。そんな光景がアカツキには信じられなかったが、周りの人間たちも、まるで何もなかったかのように、食事や談笑を再開する。
そんな異常な光景にアカツキは困惑していた。間違っているのは自分ではないと、そう断言できる自信があるにも関わらず、心の何処かで自分が間違っているのではないかと、思わざるを得ない。
「なんなんだよ、これ……。なんで、誰も……」
彼女はようやく立ち上がる。彼女もまた、何もなかったかのように、客や店主の態度に何の不満も無いように、平然とした顔でアカツキに向き合う。そんな彼女の姿があまりにも哀しくて、アカツキは顔を歪めて、悲痛な表情を浮かべる。
「私は、奴隷でございます。このお店の店主に買われている身でございます。だから、お客様に何を言われ、何をされようと文句は言えません。それが、奴隷という存在なのです」
アカツキが納得していないのを察した彼女は、アカツキに現実を突きつける。『奴隷』という存在をはっきりと認識していないアカツキには、そんなことを平然と口にする彼女に、ただ絶句してしまう。
そして彼女もまたアカツキに向けて一礼し、店の奥へと戻っていく。アカツキだけが、時の狭間に取り残されたかのように、動けないままでいた。
そんなアカツキの肩をぽんっと叩きながら「行くぞ」と声を掛けたヨイヤミは、アカツキの腕を無理矢理に引っ張りその店を後にした。
二人が座っていた席には、お金と四分の一程度残った料理の皿だけが残されていた。
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