孤独のヒーロー・3
2022.5.26 23:42
今日は昔の恋バナをしてもいいかな。恋、と呼べるかわからないけれど。
三年前、僕は研究職として食品製造業の会社に就職した。人と接することよりも、検証データの分析や解析に割く時間のほうが多く、残業は多かったけど、心穏やかな日々だった。
ある時、僕はひとりの女性と出会った。
ファイリングのために研究室に来た派遣社員の女性だった。派手で目立つようなタイプではないけれど、黒いまっすぐな髪をした透明感のある人だった。
そう、君に似てるかもしれないね。
ある日の夜のことだ。僕は残業中、休憩をとろうと廊下に出た。すると彼女が薄暗い廊下の角で、隣の研究室の主任と話していた。階段の前のちょっと開けた場所だ。
「……こういうことは困ります」
相手の声は聞こえない、けれど彼女がすごく困惑していることは声音ですぐにわかった。あの主任はたしか既婚者だったはずだ。
「それは、私が派遣の立場だからそういうことをおっしゃってるんですよね。会社の女性だったら、うかつに手を出せないですもんね」
反対側の壁にある自販機の明かりで、彼女の眼のふちが光った。泣きそうになってるんだ。
僕はきゅっと胸が絞られるような気持ちになった。
彼女はひとりで戦っている。弱い立場で、なにも後ろ盾のない孤独な闘いをしているんだ。
そのときの僕は、まるで今までの自分じゃないみたいだった。ドカドカとわざと足音をたてて廊下を歩き、急いで彼女のところへ行った。
「なんですか? なにかありました?」
わざとらしく声を出すと、主任はさっと壁の方を向き僕の方へ背中を向けた。
彼女が驚いた顔で僕を見る。
「なんの話ですか? 彼女、困ってるじゃないですか」
僕が問い詰めようとすると、主任はあわてて階段を駆け下りていった。
追いかけようとすると、彼女が僕の袖をとって止めた。
「もういいです」
小さくうつむいて、精一杯の気丈さで言う。
「ありがとうございました」
女性に腕を握られたのは初めてだった。涙目で微笑みかけられたのも。
僕は真剣に彼女のことを案じている顔をした。でも相反するように心臓は高鳴って、肋骨の中ではちきれそうになっていた。
「彼女を守ってあげなくては」その日から僕はそう思った。
少なくとも、あの時、主任は僕の登場に怯えたのだから、僕さえ傍にいれば彼女につきまとうことはないだろう。
自分が男に生まれついたことに、初めて意味があったような気がした。
彼女は派遣社員だから、いつも定時ぴったりに退社していた。退社時刻に合わせて、僕は休憩に入り、会社の玄関で彼女を待つことにした。そして、ハンドバッグをさげた彼女が出てくると、一緒に駅まで歩いた。
会社の最寄り駅の改札まで送ると、会社まで走って戻って残業を続けた。大変だったけど、すごくやりがいがあった。商店街を走り抜けながら、大切な人を守った自分に満足していた。
数日後、いつもと同じように会社の玄関で彼女を待っていると、彼女がほかの人をともなって現れた。彼女の上司で、契約社員を取りまとめている女性社員と、このビルの警備員だ。
四十代の痩せた女性社員は、眉をひそめて僕に言った。
「あなた研究室の方ですよね。これ以上斉藤さんにつきまとうのやめてもらえませんか」
斉藤さん――こんな場面で初めて彼女の名前を知るなんて。
僕は驚愕のあまり、ただパクパク口を動かして彼女をみつめることしかできない。
斉藤さんは怯えた顔で、警備員の後ろに隠れた。
「ぼ、僕は、あの、彼女が心配だったので……」
しどろもどろになってそれだけ言った。
女性社員は子供を諭すような穏やかな口調で、しかしきっぱりと言った。
「ええ、でも、彼女に『送って』って頼まれたわけじゃないんですよね。会う約束をしてるわけでもないんですよね。ご自身の行動を客観的に考えてみてください。すごく一方的につきまとってるの、わかりませんか?」
「つきまとうって……そういうとなんだかすごく……僕が悪者みたいじゃないですか」
女性社員はあきれたように、大きなため息をついた。
「あなたは、斉藤さんが喜ぶと思ってやってたんですか?」
「え……それは、どういう……」
喜ぶ、とかじゃない。ただの使命感だった。
彼女の泣き顔をこれ以上見たくないから。僕なんかが、かっこいいヒーローになれるわけはないけれど、せめて彼女を悲しませるものから守ってあげたかった。
「やめましょうね。本人は嫌がってるんですから。こういうの、うちの社の信用問題になるんですよ」
冷たく言い渡された。
斉藤さんは、警備員と女性社員の隙間から覗くようにして、このやりとりの一部始終を見ていた。その顔は青ざめてひきつっていた。その表情を見たとたん、僕の行動がこんなにも彼女を追い詰めていたという事実に気が付いた。
体の中を衝撃が駆け抜けた。
僕は一体、なにをやっていたんだろう
社内に戻り、トイレの個室に飛び込んだ。髪をかきむしり、唸り声をあげて泣いた。
ダメな奴。空気の読めない痛い奴!
いつまでたっても、僕はさげすまれる存在だ。こんなことじゃ、神様にもすくいようがないじゃないか。
次の日から、僕をとりまく社内の空気が変わっていた。
僕が社内の女性とすれ違うと、いそいで数人集まって、背後でひそひそ噂話をしている。
「……ねえ、あの人でしょ」
「斉藤さん、気の毒だよね……」
針の筵とはこのことだろうか。
噂は勝手に独り歩きして、話に尾ひれがついていった。僕は昔から陰口をたたかれるのは平気だ。でも、ナイーブな彼女はどうだろう。斉藤さんは、つらい思いをしていないだろうか。
そう考えて、僕は急にすべての辻褄が合った気がした。
ああそうか。きっと、彼女も心無い噂に苦しんでいたんだ。
僕の好意を彼女が迷惑がっていたなんて、どうもおかしいと思っていたんだ。
斉藤さんは、僕よりも女性の社員たちと過ごす時間が多い。きっと、僕が毎日駅まで送っていくことを、勝手に噂されて心を痛めていたんだ。
ひょっとしたら、あのとき追い払った研究室の主任が、くやしまぎれに僕と斉藤さんの仲を社内で言いふらしたのかもしれない。
斉藤さんは派遣社員だから、今の仕事を続けるために、評判に傷をつけたくなかったのだろう。仕方なくなって、上司の女性社員の前で僕に「もうつきまとうな」と伝えるしかなかったんだ。
それがあのときの青ざめた顔の真相だったんだ。
世の中には、面白半分に人を傷つける酷い人たちがいる。
アイドルの恋愛とか、芸能人の不倫とか、拡散して叩いて、楽しんでる人たちがいる。そういう人たちは不確かな情報でさえ、面白ければ拡散してしまう。
嘆かわしくて、つらいことだ。
僕の好意はこうして「迷惑」にされてしまった。それもつらいけれど、一番心配なのは、僕がもう彼女を守ってあげられないということだった。
あのしつこそうな既婚者の主任の顔が思い浮かんだ。
これじゃ、奴の思うつぼじゃないか。斉藤さんはきっと心細い気持ちで毎日出勤していることだろう。
俄然怒りがこみあげてきた。
汚い連中から、なにがなんでも彼女守りたいと思った。
上半身をすっぽり覆うウインドブレーカー。黒いニット帽に、マスク。僕は変装して、こっそり彼女を護衛することにした。会社の近くで待ち伏せして、退勤する彼女の数メートル後をついていく。
休憩時間は自由に使っていいはずだ。僕は僕のやるべきことをやる。
二、三日後、僕は自分の研究室の室長に面談室に呼ばれ、解雇を言い渡された。
「被害者本人がご両親と一緒に来社して、警察に被害届を出すと言っている。私の立場では、もうこれ以上君を守ってやれないんだ」
どうやら僕の秘密の護衛も、ここまでのようだ。
うなだれ、黙って部屋を出ていこうとした僕に、室長は突然立ちあがって声を張りあげた。
「彼女のハンドバッグに勝手にリップクリーム型の盗聴器を入れただろう。休日に、彼女のマンションの向かいの建物の屋上で、お前の姿が目撃されてるんだ。近所のコンビニの防犯カメラにも映っていたそうだ。お前、盗聴なんかしてたのか?」
もうすぐ還暦の室長は、泣きそうな顔で叫んだ。
「本当にそんなことしたのか? 嘘だろう? お前、そんなことできる奴じゃないよな? どうなんだよ!」
僕は父親に似たその顔を見ながら、心の中で吐き捨てた。
できるんですよ。僕にだって。
彼女を守るためなら、なんだって。
これでも男なんだから。ただの意気地なしじゃないんですよ。
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