∠ 59 錯覚
「王様は高い山の上で不死の薬を燃やしました。煙は空に昇っていき、いつまでも晴れることはありませんでした」
イルカは、富士山の由来となったという昔話を読み聞かせていた。行儀よく隣に座っていた少年は、青いパジャマを着た五、六歳くらいの入院患者だ。イルカが絵本をぱたんと閉じると、少年は浮かない顔をしていた。
「どうしておくすりもやしちゃったのかなあ」
イルカは自分の解釈を押しつけないように気をつけながら、懸命に少年の疑問に応える。
「王様は彼女と同じ時間を過ごしたかったんじゃないかな。君にも大切な人がいるよね」
「うん、パパだいすき」
「君のパパもきっとそう。お互いの気持ちが通じ合っているからこそ、すれ違いが起こる……」
イルカは声を詰まらせる。少年は怪訝そうに眉を潜め、イルカに寄り添った。
「ぼくおねえちゃんのことも好きだよ」
光太郎の付き添いで病院に来たのだが、見ず知らずの少年にすっかりなつかれてしまった。少年が持ってきた本が、かぐや姫だったのも偶然にしては出来すぎで、自分を重ねずにはいられない。
その後、少年の父親が迎えに来たが、イルカといるのを見つけると引きはがすように少年を抱き上げ、廊下の奥に消えた。退去の間際、イルカを見る目つきには恐怖がにじみ出ていた。
あっけに取られているうちに、光太郎が戻ってきた。手には包帯。イルカが何度治療を勧めても、首を振らなかったので無理に連れ来て正解だった。
「どうかしたか」
光太郎は、診察室から出るやイルカの心配をした。これではどちらが病人かわからない。イルカは残っていた目元の涙をふき取り、笑顔を作った。
「大したことありません。それより怪我の具合は」
「俺の方も似たようなものだ。帰るか」
ブレザーの上着を無精に着る姿は淡泊で、感情が読みとれない。
「他人ごとみたい。嫌になっちゃうなあ」
気を悪くしたイルカは、光太郎を置き去りにして歩きだした。
「おい、待てって」
光太郎に悪気はないのだが、どういう顔をしていいかわからなかった。空元気を振りまく愛嬌はない。イルカに対して感謝の念はあるものの、表現が致命的に欠けていた。いつものことである。
「口に出さなきゃわからないこともあるのよ」
言わずもがなのことを注意され、光太郎は振り返る。月のエージェント、ミカがいた。
「まだ何か用か」
「それはこっちの台詞なんだけど」
富嶽統一会が輝夜姫を狙ったのは、教祖の息子が小児ガンを患っていたためと思われる。月の民は不死という伝承があり、それに縋ったのだ。光太郎はそれを知り、教祖に釘を差しに来たとミカは推察した。
「そうか、脅迫状でも送ればよかったな」
「あんた、良い性格してるわね」
イルカとの約束がなければ、まだ戦いは続いていたかもしれない。だが、今の光太郎はイルカに連れてこられた友人に過ぎない。
「そうでもないと思うが。それより、例の件は」
「ああ、私の表のコネクションを使ったら一発だったわ。小児ガンの専門医のいる病院」
教祖の息子は、ミカの紹介状を持って別の病院に移る。これで富嶽統一会がイルカを狙う理由もなくなるだろう。
「人は追いつめられると視野が狭くなるものだな。物語に縋るくらいなら現実的な手段を探せばいい」
「教祖が言われちゃ世話ないわね。特に私たちみたいのに止めを刺されるっていうのは」
病は気からと言っていたのに、科学によって救われれば示しがつかない。
教祖に悟性があれば、場合によっては拠り所を失い、教祖を辞めざるを得なくなるだろう。が、光太郎には彼らがどうなろうがどうでもいい。所詮自分は影。幕引きは当事者に任せればいいのだ。
「今回は助かった。改めて礼を言う」
「可愛いとこあるじゃない。あんまり輝夜様に心配かけないでよ」
お節介なミカの気配が消えるのと入れ違いに、イルカが戻ってきた。走ってきたのか息が切れている。
「まだこんな所にいたんですか。これから宇美殿たちと打ち上げ会ですよ。小町殿と諸矢殿も合流するそうです。行きましょう」
イルカに手を引かれ、光太郎は気乗りしない様子で歩き出す。イルカといると、日の当たる場所に連れ出してもらえる気がする。だが、それは錯覚なのだ。自分は貴教たちとは違う。光太郎は自分を戒めるように口元を引き結んだ。
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