∠ 58 寂しい大人

イルカと通話を終えた光太郎は、目の前の引き戸に手をかける。迷いはあったものの、直前の電話に勇気づけられた。


「いらっしゃい……」


人当たりの良い笑みで迎えてくれた貴教の顔が、みるみる強ばる。彼にとって光太郎の来訪は、喜ばしいことではなかった。


「ここはガキの来る場所じゃないぞ」


貴教に冷たく拒絶されても光太郎はめげずに店に入り、戸を閉める。営業時間内に訪れたのは初めてだ。昼間に入るのとそう違いはないが、敵の土俵という自覚を改めて持った。


「ガキを働かせてるじゃないか。それはいいのか」


負けじと言い返すと、貴教は不機嫌な顔をした。


「何度も言うが、無理強いしたわけじゃない。イルカだって同意してる」


「スマホに追跡アプリを入れるのもか」


光太郎の指摘に、貴教は目を見開いた。


「何の話をしてる? お前、最近おかしいぞ」


「あんたがイルカに買い与えたスマホに位置情報を追跡するアプリがインストールされていた。他のアプリに紛れていたが、俺の目は誤魔化せない」


そのアプリが利用され、マラソン大会で事件が起こったとまでは言わなかった。できれば貴教の口から真実を聞きたい。


「初期設定でそうなってただけじゃないの。俺もそういうの詳しくなくて店舗に任せてたから」


この期に及んでまだシラを切るなら、光太郎にも考えがある。持ってきた書類をテーブルに叩きつけるように置いた。


「何だ、それは」


「とある街金の顧客名簿だ。ここにあんたの名前がある」


「それが? 店やってるんだ、金くらい借りるだろ」


「ここの顧客にはある特徴がある。富嶽統一会という宗教団体の信者が大半をしめている」


貴教はおもむろに一升瓶を持ち出し、テーブルについた。


「座れよ。呑もうぜ」


「何か言うことはないのか」


貴教は疑惑を否定せず、コップに酒を注いでいる。光太郎は感情に任せてテーブルを叩いた。大儀そうに酒を口に含む貴教は、しなびた声で再度着席を促した。


「座れって。長くなるからよ」


貴教が教祖と出会ったのは、ある人物の紹介だった。店を継いだばかりで不安の多かった時期と重なったため、色々相談に乗ってもらった。はじめはそれだけだった。


店は少しずつ軌道に乗り初めていたが、突然銀行が融資を打ち切ると通告してきた。店を改装したばかりで資金は心許ない。銀行からは事業計画に不備があるとしか説明はされず、埒があかない。このままでは担保としていた土地まで取られてしまう。窮地を救ったのは教祖だった。


教祖は、様々な事業を行っており、金融もその一つだった。しかも知り合いのよしみということで、銀行より低い金利で資金を借りることができた。そればかりでなく、信者が客として店を利用するようになり、収益も安定した。


初めは何か裏があると思ったが、他に当てもなく頼るしかなかった。貴教は入信を求められることもなかったし、信者たちも、単なるサラリーマンや主婦と変わりないように見えた。そう、何もかも上手くいっていた。あの時までは。


「風の噂で聞いたのですが、あなたの知り合いに輝夜姫がいるそうですね?」


教祖が何気ない様子で切り出した時、貴教は気味悪く思った。イルカの話を彼の前でした覚えはなかったし、断定的な言い方にも違和感を持った。


貴教は確かにそういう子が昔、出入りしていたが、今は疎遠になっていると答えた。


教祖は一度は納得したように見えたが、店に来るたびにイルカの話を聞きたがった。あまりにしつこいと、答える気も失せるのだが、相手は人の情報を聞き出す専門家である。貴教はひとたまりもなく踊らされた。


「怖かったんだ。気づけばうちの利益はあそこの信者が六割を占めてる。金だって借りてる。でもまさか、イルカを浚おうとするなんて」


貴教は光太郎の前で頭を抱えた。教祖の行っている事業の大半はグレーだったが、これまで犯罪に至ったケースはない。そこまでイルカに執着する理由を貴教は知らなかった。


「それだけか」


「ああ、僕が知ってるのはそれだけさ」


光太郎はまだ疑っているのか、貴教から目を離さない。貴教は逃げるように杯を重ねる。


「お前はいつも怖い目で僕を見る。そんなに許せないか、僕のこと」


「ああ。許せない」


光太郎に対してよりも、イルカを裏切ったことが許せない。一人で来たのもイルカを傷つけないためだ。


「いいんだ、許さなくて。俺がイルカと恋人ごっこしたのも負い目があったからだ。あの子は俺が何もできなくても責めないんだ。なんて強いんだろう。自分が嫌になる」


「あんたは寂しい大人だ」


「そうだよ! 俺は心のどこかでイルカがひどい目に合うのを望んでたのかも。あの子に代わってお前が俺を罰してくれ」


光太郎はテーブルの下で一度拳を固めた。だが、もはやこの手は凶器ではないと彼女は言ってくれた。肩の力を抜く。


「そんなあんたでも、俺とイルカは大事な兄貴だと思ってるよ」


それを聞いた貴教は泣きわめき、髪をかきむしった。もう光太郎にできることは何もない。席を立った。


「最後に一つ聞かせてくれ。あんたに教祖を紹介したのは誰だ」


すすり泣きながら、貴教はある人物の名を上げた。

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